第二百話 な、何でここにいるの!
一人になったのを見計らい、リエルは秘薬を口にした。ゴクリ、と薬を飲み込んだ。
特に身体に異変はない。しかし、それから暫くして…、効果は現れた。
「リーゼ。準備はでき…、き、きゃあああ!?ど、どうしたの!その顔は!?」
リエルの肌には無数の発疹が浮かび上がった。全身の皮膚が赤くなり、まるで皮膚病を患ったかのような見目に変わっていた。
早速、この事はマダムに報告され、リエルは客を取るのは無理だと判断された。そのまますぐに医者が呼ばれた。
リエルは個室に連れていかれ、そこで医者が来るまでで待つように言われた。じっと座って大人しく待っていると、
「リーゼ。先生が来られたよ。」
リエルは立ち上がり、頭を下げた。
「は、はじめまして!リーゼと言います。今日はわざわざ‥、」
そう言って、顔を上げた。
そこに立っていた長身の男を目にした瞬間、ピキリ、と固まった。途中まで言いかけてた言葉が止まった。
男は涼やかな目元を細めて、にこりと微笑んだ。
「はじめまして。君が今から診てほしいという患者ですね?こちらこそ、どうぞよろしく。」
「‥‥。」
「おや?どうかしましたか?気分でも悪いのでしょうか?」
「きっと、先生の顔に見とれてるのさ。さっきも他の若い子達からきゃあきゃあ言われてたからねえ。
ほら!リーゼ!いつまでも見惚れてないでしっかり挨拶しな!」
「し、失礼しました!き、今日はわざわざ来て下さって、ありがとうございます。よ、よろしくお願いします。」
ダラダラと背中に冷や汗をかいた。
な、何で‥、何でここにいるの‥!
ま、まさかもうバレたの‥!?
長い黒髪を一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけた影のある美青年‥。彼は、リエルのよく知っている人物だった。変装をしているが間違いない。
そこにいるのは紛れもなく、リエルの執事、リヒターだった。
にこりと微笑むリヒターは確かにとても美しい。
でも、リエルには分かる。彼がとても怒っているという事に。だって、目が笑っていないのだ。
背後にはゴゴゴ、と黒い炎が見えるかのような錯覚がする。
「にしても、本当にあんた、いい男だねえ。いつも来るあのヤブ医者はパッとしない男だから余計にそう思うよ。そういえば、いつものあのヤブ医者はどうしたんだい?」
「ありがとうございます。
先生は別の診察が入ってしまったので私が代わりに。まだまだ未熟者ですので、お役に立てるかは分かりませんが‥、」
「そうなのかい。あんたみたいな色男が相手ならいつでも大歓迎だよ!」
二人の会話が全く耳に入らない。
まずい。まずい。どうしよう!リエルの思考は今、その思いだけで埋め尽くされている。
「では、早速、診てみましょうか。マダム。申し訳ないけど、彼女と二人っきりにさせて頂いても?」
そう言って、マダムも下がらせてしまい、部屋には二人っきりになった。
「さて‥、どういうことか説明して頂けますよね?お嬢様。」
「り、リヒター‥。こ、これはその‥、」
室内の空気が一気に下がった気がする。リエルは顔色を青褪めて、口元が引き攣った。
黒い笑みを浮かべ、背後に不穏な空気を発するという高度な芸を発揮するリヒターを前にリエルは全てを白状した。
「全く…。毎回毎回どうして、あなたはいつもお一人で勝手にそんな無茶ばかりなさるのですか。呆れてものも言えません。」
はあ、と溜息を吐き、リヒターは額を抑えた。
「えっと…、この事…、ルイは…、」
「とっくにご存知ですよ。自分も潜入すると言い出し、クレメンス様が止めている頃でしょう。」
やっぱり、もうルイには知られているのか。
リエルはがっくしと肩を落とした。
ハッとリエルは大事な事を思い出した。
「そ、そういえば、ロジェは?ロジェはどうなったの?あの、今回の事は私が独断でした事なの。
ロジェは私が無理矢理脅しただけだから…、」
「旦那様に知られた時点でロジェも同罪です。彼は旦那様の尋問とその後に数時間の説教をされました。大丈夫です。クビにはならずに減給と旦那様の仕事を少しばかり手伝う事になっただけですので。」
それ全然大丈夫じゃない!
ロジェ。巻き込んで本当にごめん!
戻ったら、ルイを説得して取り消してもらうから!
リエルはロジェに心の中で謝った。
「り、リヒター。あのね、私…、」
「旦那様も心配しています。本来なら、今すぐあなたを連れて帰るべきなのですが…、どうせ、お嬢様は聞かないのでしょう?」
リエルは思わずリヒターを見上げた。
リヒターは眼鏡を押し上げ、諦めたように溜息を吐くと、
「どうせ、連れ帰った所でまた、同じような事を仕出かすことでしょうし、それだったらお嬢様の気が済むまで付き合いますよ。旦那様には私が上手く言っておきましょう。」
「リヒター…!ありがとう!」
リエルはぱあ、と顔を輝かせて心から感謝をした。リヒターはリエルの顔を見下ろし、痛ましそうに眉を顰めた。
「お嬢様の覚悟は見れば分かります。…友人の為にここまでする人は中々いません。薬の作用とはいえ、自分の顔と身体に傷をつけるなど…。ご友人が大切なのは分かりますがお嬢様はもう少し、自分を大事にしてください。」
スッと頬に手を伸ばそうとするリヒターだが、触れる前にそっとその手を下ろした。
一瞬、切ない表情を浮かべるリヒターにリエルは首を傾げた。
「リヒター?」
「これ以上は、アルバートに怒られそうですので止めておきます。では、お嬢様。今後の事についてですが…、」
いつものすました表情のリヒターに戻り、これからの事について話しだしたため、リエルもすぐに意識がそちらに向いた。
「熱はないし、咳もない。これといった症状もないようですし…、視覚や聴覚に異変も見られませんでした。反応も正常。一通り、診ましたがどこも異常は見られません。
皮膚病の可能性もありますが感染力はなさそうですね。
もしかしたら、この発疹は一時的な環境の変化によるものかもしれません。出された食事に何か拒絶反応でもあった可能性も…。とりあえずは経過観察が必要かと。原因が分からないから薬も処方できませんし。」
リヒターの尤もらしい説明をマダムはあっさりと頷いた。
「そうかい。じゃあ、それまではずっとこのままだってことなのかい。…ハア、参ったね。」
「お力になれず、申し訳ありません。マダム。ですが、こういうのは経過観察が必要でして。
変に治療してそれで悪くなっても困りますし…。」
「いやいや!あんたを責めているんじゃないよ!むしろ、よくやってくれているよ。」
リヒターの申し訳なさそうな表情にマダムが慌てて気にしないでくれと言っている。
いつも上から目線のマダムがリヒターに対しては優しい。さすが、美形は得である。
「とりあえず、他の娼婦に病気を移す心配はなさそうです。
感染力のある病気や伝染病だったら隔離をしたりと色々と対応が必要ですがその心配はないかと思います。」
マダムはハーと溜息を吐き、額に手をやった。
「仕方ないねえ。こうなったら、暫く客を取るのは諦めた方がよさそうだ。
全く!何て面倒事を引き起こすんだろうねえ!
この子は!折角、これから客をとらせようって時に…!」
「す、すみません。マダム。あ、あの…、あたし…、治るのでしょうか?」
居心地悪そうに縮こまりながらリエルはおずおずと不安そうにリヒターに訊ねた。
「絶対とは言い切れませんが…、とにかく、ちゃんと安静にして、しっかりと食事を摂る事です。」
リヒターにそう言われ、リエルははい…、と力なく頷いた。
良かった。隔離とかされて、部屋に閉じ込められたりされたら、ゾフィーの行方を探すこともできない。
リエルは健康状態は問題がないということで下働きの仕事をするようにとマダムにきつく言いつけられた。
「やあ。アルバート。」
アルバートは背後から掛けられた声に振り返った。そこには、いつものようにヘラヘラと陽気な笑みを浮かべた黄薔薇騎士の姿があった。
「聞いたよ。アルバート。君、最近、娼館に足繁く通っているって噂じゃないか。いやー。意外だなあ。君はリエル嬢にしか興味ないって思っていたからさあ。やっぱり、君も健全な男だったんだね。」
「変な誤解すんな。俺は女を買いに娼館に行った訳じゃない。お前と一緒にすんな。」
サミュエルの言葉にアルバートは不愉快そうにサミュエルを睨みつけた。そんなアルバートにサミュエルは気にした風もなく、軽く笑い、
「ほんの冗談さ。そんなに怒らないでくれよ。折角、君にいい情報を持ってきてあげたのだから。」
「いい情報?」
「ああ。聞く価値はあると思うよ。君が娼館に通っているのは…、赤髪の娼婦がお目当てなのだろう?
実は、ある娼館に心当たりがあってね。あまり、表には知られていないだろうから、君も知らないだろうかと思って。」
「何…?サミュエル。お前、何か知っているのか?」
アルバートの言葉にサミュエルはにっこりと微笑んだ。
「黒百合の館。ここに最近、赤髪の娼婦が売られたらしい。どうだい?行ってみる価値はあると思うけど。」
サミュエルの言葉にアルバートは黒百合の館…?と呟いた。
「リーゼ。ほら!早くしな!」
「あ、はーい!」
リエルは掃除に洗濯、料理や娼婦達の世話等に明け暮れていた。
あれから、リエルは原因不明の皮膚病に罹った為、客をとらされることなく、娼婦としての仕事も強要されずにやり過ごすことができた。
代わりに下働きの仕事をさせられ、店の雑務を手伝うようになった。
元貴族の娘であるリエルを気に入らない娼婦から嫌がらせをされたり、嫌味を言われたりしたが気にせず仕事をこなした。忙しいが時間の合間にリエルはゾフィーの姿を捜し続けた。
ここに来てから、色んな娼婦と顔なじみになったがゾフィーらしき女性はいない。
やっぱり、ゾフィーはあの真紅の間にいるのだろうか…。
「リーゼ。ちょっと着替えを手伝って。」
「はーい!」
リーゼは娼婦の一人に何気なく聞いてみた。
「そういえば、ここの黒百合の館って色んな髪色の人がいるんですね。」
「ん?そうだね。金髪やら黒髪やら色んな毛並みの女を揃えとけば、お客さんの要望に応えられるだろ?」
「成程。そういえば、ここには赤髪の女の人はいないんですか?」
「赤毛の女は珍しいからね。あ、でも…、ほんのちょっと前に入った新入りが…、」
そこまで言いかけて女はハッと口を噤んだ。
「何?」
「な、何でもないよ!こ、ここはもういいから、早く行きな!」
そう言われ、リエルは追い出されるようにして部屋から閉め出された。
さっきの娼婦、ゾフィーのことを何か知っているみたいな様子だった。何かを隠しているような感じだ。
ゾフィーがこの店にいることは間違いない。きっと、どこかに…、
「リーゼ!」
ビクッとリエルは飛び上がった。何食わぬ顔で振り返ると、
「ここにいたんだね!今日は客が多いんだから、手伝って頂戴!」
「ええ!?」
そう言われ、リエルは手を引っ張られて連れていかれた。