第九十九話 ここから先は私の出番よ。
コンコン、と扉を叩くが応答がない。その直後、
「もういい!私、帰るわ!」
そんな叫び声と同時に扉がバーン!と開け放たれた。
扉をノックした人物は扉が開くより前に、不穏な気配を察知したのかぶつからないようサッと横に移動した。
そのままバタバタと走り去る令嬢の後ろ姿をセイアスは見つめた。
随分と扇情的なドレスだ。
確かああいった足にスリットが入った大胆なドレスが一部の女達の間で流行していると聞いたことがある。
顔は見えなかったがあの黒髪に見覚えのある後姿…。
もしかして、セリーナ嬢?
セイアスはその後姿を見ながらも本来の目的を思い出し、扉をノックした。
「何だ?忘れ物か?」
そう言って、出てきたアルバートだったが目の前にいるのがセイアスだと知ると、目を見開いた。
「え…、セイアス?」
「取り込み中だったか?」
「いや。別に。」
「さっきのご令嬢はセリーナ嬢だろう?
追わなくていいのか?」
「ああ。いいんだ。
何か知らないが突然やってきて、怒って帰っていった。
あいつは、本当、何を考えているのか分からん女だ。
まあ、今度詫びの手紙でも書いて送っておけば機嫌を直すだろう。」
「突然、怒った?一体何故…?」
「さあ。随分寒そうな格好をしていたから風邪を引くぞといったら突然怒りだした。」
「…。それは…、」
「何か心当たりが?」
「…薄々、疑問に思っていたがアルバート。
お前、もしかしてセリーナ嬢の気持ちに気付いていないのか?」
「気持ち?何が?」
「…。成程な。」
「何だよ?何か心当たりでもあるのか?」
「心当たりというか…、多分、セリーナ嬢はお前に褒められたくてあんな格好をしただろうに、そんな事を言われて怒ったのではないか?」
「は?それだけで?」
「あの格好から察するに…、」
セイアスは不意に真剣な表情でアルバートをじっと見つめた。
「アルバート。お前、もしかして、女の脚に興奮する性癖でもあるのか?」
「はあ!?いきなり、何だ!?
そもそも、俺にそんな特殊な性癖はないぞ!」
「人は誰しも身体の部位の何処かしらに興奮するものだとサミュエルが言っていた。」
「何が悲しくて、好きでもない女の身体なんぞに興奮しなきゃならないんだ!」
「…好きな女なら、話は別なのか?」
「は?さ、さあな…。
それより、何でお前ここに来たんだよ?」
「ああ。そうだった。アルバート。
あるご令嬢からお前宛にと手紙を預かったんだ。」
そう言って、セイアスはアルバートに手紙を渡した。
「手紙?誰からだ?」
「ロンディ家のご令嬢だ。
確か、ゾフィー嬢と名乗っていたな。」
「ゾフィー嬢?」
アルバートは手紙を受け取りながら、何であの女が俺に?
そう思いながら、手紙の封を開けた。
バン!と勢いよく扉を開けてセリーナが現れた。
「お帰りなさいませ。お嬢様。」
ハンナは笑顔でセリーナを出迎えた。
セリーナは無言で長椅子のクッションを掴むと、
「あの…、鈍感男!」
バシッ!と床に放り投げた。
「何なのよ!?どうして、あの男はいつもいつも…!どうして、あたしのこの姿を見ても動揺しないのにあの子にはあんなに…!」
セリーナは苛立ち紛れにギリ、と爪を噛んだ。
あの時もそうだった。あの時も彼は…、
「ハンナ!葡萄酒を持ってきて!」
セリーナが叫んだ途端、カタン、と机の上に何かが置かれる。ハンナはグラスを差し出した。
「どうぞ、お嬢様。ですが、飲み過ぎないで下さいね?」
既に用意していたらしい優秀な侍女はそう言って、セリーナに酒を勧めた。
セリーナはグラスを引っ掴むと、それを一気に煽った。
ああ。イライラする。酒を飲んでも苛立ちは止まらない。
二杯、三杯と立て続けに飲むセリーナをハンナは窘めた。
「お嬢様。そんなに一度に飲み過ぎては身体に悪いですわ。少し自重を…、」
「うるさいわね!私に指図しないで!
酒でも飲まないとやってられないのよ!」
「お嬢様…。」
ハンナがセリーナを心配そうに見つめていると、不意に扉が叩かれた。
「失礼します。セリーナお嬢様。あの、奥様がお話しがあると。」
セリーナはぴたり、と手を止めた。
「お嬢様…。」
「行くわ。ハンナ。あなたはここで待ってなさい。
私一人で行く。」
そう言って、セリーナはついてこようとするハンナを制し、長椅子から立ち上がると、部屋を出た。
「待っていたわ。セリーナ。」
オレリーナはしどけない格好で寝台に腰掛けていた。母の首筋には鬱血跡が幾つも散っていた。
何をしていたかは明白だ。
セリーナは思わず目を逸らす。
煙管を咥え、母は嫣然と微笑んだ。
母からはいつもの甘い匂いが漂った。
「それで?」
何を、とは明確な事は言わない。
だが、セリーナは分かっていた。
母が何を知りたいのかを。
セリーナはグッ、と唇を噛み締め、
「…ごめんなさい。お母様。今回も…、失敗です。」
セリーナは項垂れて母に話した。
「彼は…、全然見向きもしなかった!
駄目なんです!
どれだけ、胸や脚を強調したドレスを着ても、大胆にアプローチしても、他の男達と親しくしても…、彼は私を見てくれない!」
そんなセリーナに母はただ静かに頷いた。
「そう…。」
「お母様!私…、もう分からない!
一体、どうすればいいの!?
やれることは全てやった!それなのに…!」
「全部?…何を言っているの?
あなたはまだまだやれるわ。セリーナ。」
「え…?」
母の言葉にセリーナは怪訝な表情を浮かべた。
母はフフッと微笑み、
「まさか…、あんな子供騙しな手があなたの精一杯なの?違うでしょ。
本番はこれからよ。セリーナ。」
「本番はって…、それはどういう…、」
オレリーナはスッとセリーナの顎に手を掛けた。
「あなたは生温いのよ。セリーナ。
だから、いつも中途半端で終わってしまう。
こういう男女の色恋はあなたと彼同士が育むもの。
…でもね。必ずしもそうとは限らないのよ。
使えるものは何だって使う。
愛する人を手に入れる為にね。
…昔の私のように。」
母はウフフ、と笑った。
美しいがその笑みに薄ら寒いものをセリーナは感じた。
「エドもそうだったわ。
私がどれだけアプローチしても靡いてくれなくて…、彼の友人を通じて近づいたりもした。
でも、それでも駄目だったわ。
だから…、私は最後にお父様にお願いしたのよ。
彼と結婚したいって。
あの時程、侯爵家に生まれて良かったと思った時はなかったわ。
…分かる?セリーナ。
あなたはまだ使えるものを使っていないだけなのよ。
ここから先は…、私の出番よ。」
「お母様…。一体、何を…、」
オレリーナはするり、とセリーナの頬を撫で上げると、
「セリーナ…。心配いらないわ…。
私に任せておけば何もかもうまくいく。」
セリーナはごくり、と唾を呑み込んだ。
パタン、と本を閉じるとリエルはフウ、と溜息を吐いた。
ゾフィーは時間を頂戴、と言い、すぐに慌ただしく出て行ってしまった。
リエルは自室のベッドに腰掛けた。
「私も…、ちゃんと自分の気持ちに向き合わないと…、」
このままじゃ駄目だ。いつまでも逃げてばかりでは前に進めない。
本当は分かっていた。このままではいけないって。
でも…、どうしても踏み出せなかった。
怖くて、勇気が出せなくて…、それは今でも同じだ。知るのが怖い。
彼の本心を知りたいという一方で知りたくないという相反した感情が渦巻いている。
分からないのだ。自分がどうしたいのか。
そして、彼がどう思っているのか。全部が…。
私を助けてくれたり、庇ってくれるのに対して少しだけ期待してしまう。
もしかしたら、彼も自分と同じ気持ちを抱いてくれているのではないかと…。
でも、そんな事は有り得ない。
だって、彼はお姉様が好きなのだから。
だからこそ、分からないのだ。
姉を好きなのにどうして、自分によくしてくれるのか。
いずれは姉と一緒になるのだから妹である私のことを気にかけてくれているだけ?
それともただ単に幼馴染としてなのか。
彼なりに二年前の事件を負い目に思い、片目を失った自分に同情しているだけなのか。
リエルはそっと左眼の眼帯に手を触れる。
だって、私は知っている。彼は優しいのだ。
でも、その優しさが今は辛い。
だって、勘違いしそうになるから。
その度にリエルは自己嫌悪に襲われる。
『お前みたいな醜い娘、誰が好きになるものですか。』
思い出すのは高らかに嘲笑う母の言葉だ。
自分は何て身の程知らずなのか。
醜い自分が誰かに…、異性に愛される訳がないのに。
アルバートのような美しい男性がリエルのような女を好きになる訳がないのに…。
『お前という娘は中身までも醜いのね。浅ましくて、欲深くて…、救いようがない。』
母の言葉が強く突き刺さる。
その通りだ。自分は容姿ばかりか中身までもが意地汚い。
彼の優しさにつけこんで都合のいい願望を押し付けるのはあまりにも身勝手だ。
リエルはギュッと手を強く握り絞めた。
思い出すのは、あの日の出来事…。姉とアルバートの関係を思い知らされた時の事だ。




