香りに惑う
あの男とは違う匂いだ、と、初めて抱かれた夫の腕の中で、聡子は思った。
◇
聡子は恋を知らない乙女だった。恋を知らぬまま、十六の春、父の決めた相手との結婚が決まった。一回り年上の真面目そうな男だったが、聡子が数回顔を合わせただけの相手に抱く印象はそれだけだった。
「おめでとう、聡子さん。素敵なお相手が決まって、羨ましいわ」
「本当に、私も早くいい方が見つかるといいのだけれど」
同級の少女たちは口々に祝いの言葉を聡子にかけたが、彼女はちっとも嬉しくなかった。相手は家柄も申し分ない。見目が悪いわけでもない。物心ついた頃には、結婚相手は父親が選ぶもので、自分の好いた相手と結ばれることは無いのだと、分かっていた。不満があるわけではない。ただ、祝いの言葉を貰うたびに、式の準備で花嫁衣裳を合わせるたびに、この先も自分は恋を知らぬままなのだろうかという思いが、ふと首をもたげるのだった。
結婚式をひと月後に控えた頃、聡子は両親に連れられて夜会へ出掛けた。婚約者もそこにはいた。父が知人たちに婚約者と聡子を紹介する。誰も彼も似たようなうわべだけの祝福の言葉。聡子は半歩後ろで何も言わず、ただ愛想笑いを浮かべていた。
品のいい調度品が置かれた大広間に、豪奢なシャンデリア。煌びやかに着飾った紳士淑女たち。華やかな空気の中、聡子の気持ちは晴れなかった。
「おや、彼はどこへ?」
一通り挨拶回りを済ませて落ち着いた頃、父が婚約者の姿が見えないことに気が付いた。
「探して参ります」
「あなたが行く必要は無いわ」
捜索を買って出た聡子を、母が止める。
「いいえ、少し外の空気も吸いたいのです」
聡子は母の制止を振り切って広間を出ると、ほっと一息ついた。彼女は生来、人の多い賑やかな場所は得意でない。ようやく人心地ついた気分だったが、探してくると言って出てきた以上は、彼を探さないわけにはいかない。
当てもなく人気の無い廊下を歩く聡子の耳に、聞き覚えのある誰かの話し声が届いた。
「ここへ来られては困る」
他人に見つかるのを恐れているような低い声音を頼りに曲がり角の奥を覗くと、声の主はやはり聡子の婚約者だった。そして婚約者の傍には、聡子の知らない女がいる。
「だって、どうしても会いたかったの。嫌なのよ、あなたが結婚するなんて! ねえ、やっぱりやめにしましょうよ。そうよ、あたしが出ていけば結婚なんて無しになるでしょう?」
「駄目だ。分かってくれ。結婚はもう決まったことなんだ」
「いやよ、いや!」
涙を浮かべ婚約者に縋る女の肩を抱いて、彼はなんとか宥めようとしている。その様子から、二人の関係は一目瞭然だった。
「誰と結婚しようと、私の心にあるのはお前だけだ」
婚約者がそう言って女に口づける。
悲しみを感じるほど好意を抱いてはいない。裏切られた、と嘆くほど心を通わせてもいない。ただ、なぜ、どうして、という疑問が聡子の頭の中を巡って、途方に暮れた彼女は、その場を足早に立ち去った。
婚約者の密会の場から逃げ出した聡子は、広間に戻る気にはなれず、庭へ出た。建物の中から漏れ聞こえる音楽と紳士淑女の話し声が、つい先刻までその中に自分も身を置いていたはずなのに、聡子には別の世界のように思えた。
結婚は家同士のこと。父親が決めること。誰もが好き合って結ばれるものではない。それでも夫婦になりお互いを知っていけば、いつかは想い合えるようになるかもしれないと、淡い期待を抱いていた。
雪の季節の名残を思わせる冷たい風が、聡子の体を震わせた。あるいは、それは寒さのせいではなかったかもしれない。
「こんな所でどうしました、お嬢さん。夜はまだ冷えますよ」
西洋風の広い庭園には先客がいたようだ。暗がりから声をかけてきたのは、聡子より五つか六つほど年上らしい若い男だった。仄かな明かりの下、整った顔に微笑みを浮かべる青年は夜会の出席者だろう。だが上着のボタンを外しタイを弛めた姿は、良家の子息には似つかわしくない、自由な雰囲気を纏っていた。
「少し気分が悪くなって」
「それは大変だ。中で休んだほうがいい」
「いえ、外の空気が吸いたいので」
今は誰かと話をする気分ではなかった。聡子はつい、と青年から顔を背けた。
「ああ、俺もああいう場は苦手だ。知り合いに連れてこられたんですが、やっぱり息が詰まるな。そうだ、ここにいるなら、これを着ているといいですよ」
聡子の肩を、ふわりと温もりが覆う。青年が上着を掛けたのだ。
「でも、あなたが寒いでしょう」
「俺みたいな下賤の者には窮屈なんですよ。どうぞお気になさらず。といっても、俺のじゃなく借り物なんですけどね」
聡子は謝辞を述べ、冗談交じりに笑う青年の厚意を受け取った。どちらかと言えば人見知りな聡子とは違い、青年は社交的な性格らしい。青年の口ぶりからすると彼は平民のようだが、そういった社交的な振る舞いからどこかに伝手があってここにいるのかもしれない。遠慮無く、かといって踏み込み過ぎない適度な距離の取り方を心得ていて、それが聡子の警戒心をわずかに緩めた。
青年の上着に袖を通すと、肩に掛けた時よりいっそう温もりを感じた。細身に見えた青年の上着は聡子が思うよりも大きく、長い袖が彼女の指先まで隠れそうだった。
「少し歩きましょうか」
青年が聡子を促し、明りの少ない庭園を、二人は歩き出した。綺麗に刈り込まれた植木は、夜闇の中でシルエットだけになっている。
聡子が足元の段差に躓かぬよう、青年が手を差し伸べる。いかにも女慣れしたような彼に、聡子は思い切って尋ねてみることにした。
「男の人は、想う相手がいるのに、他の女性と結婚することができますか?」
青年は突然の質問に面食らった様子で一瞬黙った後、答えた。
「できるかできないかで言ったら、できるでしょう。するかしないかは人による、という答えでいいかな? でもどうしてそんなことを?」
「……私、来月結婚するんです」
「なるほど」
一言で彼は全て理解したらしい。ゆっくり歩きながら言葉を続けた。
「じゃあお嬢さんはどうしたいんです? 結婚をやめる?」
「それは、できません」
聡子は頭を振った。
「婚約者に未練が?」
「いいえ。……私はまだ、誰かを恋い慕ったことはありません」
「ふうん、それなら今、全部投げ出して、どこか遠くへ逃げたっていい。何もできないことじゃない」
青年が冗談とも本気ともつかないことを言う。
「そんな、そんなこととても」
そんなことをしたら父が許さない。母が悲しむ。できるわけがない。
「それじゃあそのまま、自分を好いてもいない相手と添うしかない。まあそんなの世の中には掃いて捨てるほどあるんだから、大したことじゃないさ」
青年の言う通りだ。聡子だけではない。よくあることなのだ。自分が耐えればいいだけだ。聡子はきゅっと唇を噛んで俯いた。
「ああごめん。そんな顔をさせるつもりじゃなかった。そうだな、それなら、相手の男をお嬢さんに惚れさせてしまえばいい」
青年は立ち止まって高い背を少し屈め、聡子の顔を覗き込んで微笑んだ。
「どうやって?」
冷たい風が一陣吹いた。聡子が夜風に乱された髪を整えると、微かに甘い匂いがした。借りた上着の袖口に付いた香水の匂いのようだった。甘さの強い女の香水とは違う、すっきりした香りだ。
「『秘密』を作ることだ」
「秘密?」
甘い匂いが、聡子を惑わす。
「そう。ただの秘密じゃない。絶対に誰にも言わない、墓まで持っていく秘密。そういう秘密が女を魅力的にするんだ。ま、女に限ったことじゃないけどね」
「あなたは秘密が多そうだわ」
「それは、俺が魅力的だってことかな」
「自信家ね」
飄々とした男の調子につられて、聡子の表情も和らいだ。いつの間にかずいぶん砕けた話し方になっていたが、聡子はそれを不快には思わなかった。
「聡子さま。どこにいらっしゃいます? 聡子さま」
聡子を探す声が聞こえた。戻らなくてはならない。両親と、あの婚約者のところへ。ままならぬ現実を思い出し、聡子の気持ちは鉛のように重くなった。
と、不意に青年が聡子の手を取った。
「頭を低くして、こっち」
「え?」
聡子は一瞬躊躇ったが、次第に近付いてくる彼女を呼ぶ声に追い立てられるように、青年と共に裏口を抜け、外へと駆けていった。
夜の街を二人で走り抜ける。何事かと怪訝そうな目を向ける通行人たちを横目に、細い路地へと逃げ込んだ。
「どうして、こんなことを?」
弾む息を整えながら、聡子は青年に尋ねた。心臓はまだ早鐘を打っている。
「女には優しくしろって言われてるからね。戻りたくなさそうな顔だった」
「そんなこと、誰に言われたの?」
「最初の女、だったかな」
「まあ」
聡子はこれまでの自分では考えられないような行動をしていることに、不思議と愉快な気分だった。もっとも、それはただ捨て鉢になっているだけなのかもしれないが。
「逃げ出すなんて、簡単だろう?」
青年は聡子にいたずらっぽく笑いかけ、繋いだままだった手を引いて抱き寄せた。上着の袖口に香っていた匂いが強くなる。女を誑かす香りだ。
「今夜は、俺に惚れてみなよ。それだって、簡単なことだよ」
耳元で甘い声が囁く。こんな男は信用ならない。頭では分かっていても、その甘い匂いに惹かれていく聡子があった。心のどこかで求めていたのだ。籠の中から連れ出してくれる誰かを。
青年が唇を寄せるのを、聡子は目を閉じ受け入れた。
そしてその夜、聡子は『秘密』を作った。
◇
結婚式は滞りなく終わった。
あれから婚約者の恋人が現れることはなく(陰では会っていたのだろうが)、婚約者自身が打ち明けることもなく、婚約者は聡子の『夫』になった。
結局聡子は、自ら籠の鳥に戻った。
あの日、次の朝に帰った聡子に、父も母も何も言わなかった。父が内心怒り狂っていたのは聡子にも分かったが、父は何も無かったことにしたのだ。結婚が反故になるのは、体面を気にする父にとっては絶対に避けねばならぬことだった。
「疲れましたか」
寝室に入り、夫が聡子に尋ねた。聡子を気にかけているのではなく、ただ沈黙を嫌っただけだろう。表情は式の間からずっと硬いままだ。
「ええ、少し」
聡子も同じように無表情で答えた。夫が聡子の体に腕を回す。飾り気のない匂い。彼とは違う匂いだ。女を惑わす甘い匂いもさせないで、そのくせ平気で想い人とは別の相手を抱く。「真面目そう」などと評した過去の自分を、聡子は内心嗤った。
ほんのひと月前の、一夜のあの香りが、ひどく懐かしい。あの声が、あの腕が、指が、唇が――。
「何を考えているんです?」
夫が黙って胸に抱かれる聡子の顔を窺う。彼が聡子に興味を持つのは初めてのようだと、聡子は思った。
「何も、考えていませんわ」
目を逸らす聡子を力強く抱き締め、夫は彼女に口づけた。少し荒っぽい唇も、あの青年とは違う。彼はもっと、柔らかく、撫でるような、そういう口づけだった。
「君はそんな顔をする人だっただろうか。……不思議だ。君をもっと、知りたくなった。」
夫の声には、それまで一度も聡子に向けられたことのない熱が籠っていた。あの青年の言う通りになったのだ。
しかし、夫に求められながら、聡子が思い出すのはあの青年だった。あの夜の、あの香りだった。
十六の春、聡子はもう、恋を知らぬ乙女ではない。