【5話】 魔法の力と3億と約束
パンの袋をお腹の辺りに抱えて、私は靴屋を目指していた。掃除してすっかり綺麗になった店先を見て、パン屋のお爺さんは「またおいで」と笑ってくれたし、早速行きつけのお店が出来たことがとても嬉しかった。今度は是非お金を払いたいと、そう思っていた。
パン屋から来た道を戻ったけれど、思ったより長い間考え事をしながら歩いていたようだった。線路を跨いだなんて気付いてもいなかったし、よく見ると踏み切りの無い危なっかしい作りだった。今度来る時は考え事せずに歩かないと、その内死ぬかもしれない。
戻っている途中で、そういえば噴水広場を目指していたんだと思い出す。ファーデの街は噴水広場から放射状に伸びた幾つかの大通りによって、円形に造られた背麗な街だ。中心に向かって歩いていたと思ったら、どうやら逆だったようだ。
「中心に向かって歩けばいいのね.」
当然の事だ。口に出して言うのも馬鹿馬鹿しい。私は先の商店通りに戻ると中心を目指して歩き出した。その途中で靴屋に寄ればいい。
話しに聞くと、今日は噴水広場でバザーをやっているらしいのだ。バザーでは何から何まで、街の人が不用品を持ち寄って安値で売り買いしているマーケットだとパン屋のおじいさんが言っていた。見て回るだけでも楽しい筈だ。
時間的にはお昼を回ったところだった。漠然とした記憶を頼りにキョロキョロとあちこち探しながら靴屋を目指していたが、どうやらその必要は無かったみたいだ。
「おーい! エリシアちゃんとこの新入りちゃーん!」
すぐ脇から聞こえたぐらいの大きな声が耳に届く。私が呼ばれているんだと気付いて辺りを振り返ったが、あの緑のオーバーオールはどこにも居ない。
「こっちこっちー!」
それでもこの声はあの靴屋のおっちゃんの声だ。もう一度辺りを見回すと、視界の端で手を振っている人が見えた。だがそれは数十メートル先でのことだ。まさかあの距離でこの声量なのか。よく見ると街行く人がクスクス笑っている。
私は今までで一番速く走ったろう速さで、おっちゃんの所まで急いだ。
「あの…恥ずかしいんですけど…!」
私がそう言うとおっちゃんはガハハと笑って謝り、強めに私の背中を何度か叩いた。恐らく加減を知らない。でも何故だかとても嬉しそうだ。店の奥で靴を作っているのは職人さんだろうか。私を見つけると手を振ってくれた。
「いやー待ってたぜ! さあ! 好きな靴選びな!」
おっちゃんはそう言うと私の腕を掴んで店の中へと連れ込んだ。それがまぁとんでもないパワーで引っ張られたもので、私の体は一瞬浮いてそのまま反転し、こけたままズルズルとお尻を擦る。何が起きたか分からない私は混乱したままおっちゃんを見上げたが、おっちゃんもまた私が何故転んでいるか分からずに、腕を掴んだまま頭に?を沢山浮かべている。
分かった。この人はほぼエリシアのそれだ。
「こらこらアンタ! 女の子をそんな風に乱暴に扱っちゃダメでしょ!」
目を丸くして混乱し合っている私達のところに、奥から中年の女性が出てきて制してくれた。正直展開が早くてついていけない。
その女性は私を起こしてくれると、お尻まで払ってくれた。
「あっ! だ、大丈夫ですよ!!」
「いやいや、ごめんねウチの馬鹿が。エリシアちゃんに命助けられたもんで、新しい子には靴をプレゼントするんだって張り切っちゃって」
女性はどうやらおっちゃんの奥さんのようだった。なるほど、エリシアに救われたからあんなにフレンドリーなのかとちょっと納得した。
おっちゃんは「そうなんだよ俺はエリシアちゃんに…」と熱弁し始めてしまったので、私は奥さんに連れられて店の奥へと入っていく。ああなると周りが見えず、ずっと喋り続けているらしいのでほっておけとの事だった。おっちゃん割と癖が強い。
てっきり店に並んでいる靴をプレゼントしてくれるのかと思ったら、奥ではまず足のサイズを測られた。なんとオーダーメイドで作ってくれるというのだから太っ腹だ…。 私は流されるまま靴を作ってもらう事になった。こればかりは、エリシアに感謝しなければならない。
「んー、22 センチっすね」
サイズを測ってくれたのは、緩いパーマの当たった長髪を後ろで束ね、無精ひげを生やした面長の兄さんだった。息子とかそういうのではなく、安い賃金で雇われたしがない靴職人だと言っていた。隣で奥さんが「別に安かないでしょ」と一言挟んでが和む。
どこへ行っても優しくして貰えることが心から嬉しかった。外の世界はこう優しさに満ち満ちているんだなと実感した。そういう意味では、エリシアはやはり地も涙も無い悪魔かもしれない。この調子なら、私一人でも生きていけるかもしれない。
「よーし、とりあえず全部測り終えたっす。出来上がるまでちょっと掛かるんで、ブラついてきてくれると嬉いっすね」
職人のお兄さんはそう言うと作業を始めた。目付きが職人のそれになり、一気に雰囲気が変わる。心なしかカッコいい気もする。
「あ、そうだ。アンタ名前は?」
見とれていた私に奥さんが声をかけた。そうか、靴を取り置くのに名前があった方が良いし、今後お世話になるなら尚の事だ。施設では名前なんて識別記号みたいなものだったから、求められるのがちょっと嬉しかった。
「ディアです。ディア・ローライト」
「ディアね、覚えたわ! 私はアン。因みに旦那はアキムで、こっちがジェイ」
靴の材料を切り出しながらジェイは無言で左手を上げる。一気に3人も知り合いが増えた。顔がほころぶ。
奥さんは夕方には出来上がるからと言うので、私はお礼を言って靴屋を後にした。出掛けにおっちゃんとすれ違ったが、まだずっと喋っていたし私の事なんか見えてもいないようで少し怖かった。でも話の熱の入り様から、心底エリシアを尊敬してるんだなとも思った。人によって彼女の見え方は様々だ。
お昼前に食べたクロワッサンのお陰で、お腹はまだまだ満たされている。商店通りのお昼の賑わいも、色々と漂ってくる美味しそうな匂いも、今の幸せな私には景色の一部だ。何てことは無い。このまま噴水広場までは真っ直ぐだ。
---×---
歩く荷物がいる。だがその足取りに軽快さは無かった。
「まさかジイさんの店先が濡れてるだなんて思ってなかった..」
エリシアはそういうと濡れた荷物の底を何度か持ち直す。濡れている分、沢山の荷のは重みで手から滑り落ちそうになるのだ。どうりでいやに店先が綺麗だと思った。陳列窓を水拭きしてあったんだ。ディアがしたのかテツ爺がしたのか、見ていなかつたけどこの際そんな事はどうでもいい。恐ろしく持ちにくい。
アミューはそれを見てハァ…と溜息をついた。
「一度家に帰ろう」
その言葉とエリシアが領くとはほぼ同時だった。エリシアだってこんなグジョグジョする物を持って歩きたくない。新品の服やタオルも、家に帰ってまず泥を落とすところから始めねばならない。今朝方の洗濯物は回り終わっただろうか。
そんな事を考えながら、家の方向への路地へ入る。ほかの路地より少し道が曲がっている分、日光が届きにくく湿っぽい。隣家の壁が近く、道幅も狭いせいで圧迫感もある。荷物の底だって余計に濡れてる気がしてくる。
「エリシア…」
「ん、どうした?」
苔の匂いというか、土の匂いというか、いつもこの道は懐かしい匂いがする。湿っぽいからって嫌いじゃない。嫌いだったら通らなくていいし、ほかの路地なんて沢山ある。この懐かしさが二人ともお気に入りなのだ。そんな道だからか人通りなんて殆ど無くて、人とすれ違った事なんて数えるくらいしかない。
「ディア…試すの…?」
だからこそ、これから噴水広場でディアと合流し、そこで予定通りに事が行われるのがアミューには気がかりであった。聞く時は今しかない。人も無く、暗く狭く、落ち着ける環境のこの道でしか聞けない。もしその答えがどうだとしても、ここなら冷静でいられる気がしていた。
「お前までそんな事言うのか? アタシの 【千里眼】、アミューの【縮地】、テツ爺の【反発】。これが合わさってこそどんな仕事も 1000%完遂出来る部隊になるんじゃんか。隠居したジイさんの代わりが必須なんだ。ディアには絶対試す」
そういうとエリシアはアミューを追い抜いて先に先に行ってしまう。心なしかムッとしているようだった。テツ爺にも辞めろと促され、アミューにもやんわり反対されているのだ。面白くないのだろう。どんどん先に行ってしまうエリシアの、その後ろを少しうつむいて歩く。
またこの気持ちだ。もう数えるのもやめたから、何度目か分からない。このもやもやした気持ちで、この道を歩くのは嫌いだ。
「アミュー、お前先に行ってろ」
ハッと顔を上げると荷物を脇に置いて、路地の出口でエリシアが仁王立ちしていた。私から何かを感じ取ったのだろうか。それとも一人になりたいのだろうか。そこには、了承して頭を返す以外の選択肢が用意されていなかった。何でも見通す赤い瞳に見つめられると、もうはなせない。
アミューは黙って来た道を帰る。これまでだって、幾度と無くこの感情に襲われてきた。もう慣れたつもりだ。今からディアの身に起こる事が、例え成功しても体が持つか分からない。そうやって何人も何人も、目の前で絶えてきた。
「……」
アミューは元来た道を歩き続ける。せめてもの可能性は拾わねばならぬ。
---×---
バザーとはこんなにも楽しいものなのか。私はあちこち見て回りながら、自分がお金を持っていないことが少しだけ悔しくなった。可愛い雑貨から強そうな武器、まだまだ使えそうな家庭用品や、よく分からないけど購買意欲を掻き立てる骨董品など目移りするばかりだ。
そりゃエリシアのところで働けば幾分かのお金は手に入るだろうけど、それでもやり方もやり口も気に食わなかった。どうせ稼ぐなら皆の感謝や笑顔が見たい。自分の思う通りの仕事がしたい。
今日は気付いたのだ。私だって一人で生きていける。世の中は優しさで溢れている。
「ん…? 何だろうアレ…」
少し気持ちよく歩いていた私の目に飛び込んできたのは、茶褐色のボロボロのテントだった。バザーは区画整理されており、各々持ち場の区画の中でテントを張ったり屋台を出したりしている。だがそれだけは明らかに区画ではないところにポツンと建っていた。明らかに浮いた存在なのに、誰一人見向きもしない。
もしかしたら飛び地の区画で、せっかく出しているのに汚いから誰も近寄らないのかもしれない。そう思うと何だか不問に思えてきて、私の中の生意気な優しさが急に張り出してきた。今思えば、なんて浅ましかったのかと思う。
「ごめんくださーい」
テントをくぐるとそこは思ったより広い空間だった。人が3人くらい入れるだろうか。L字のデスクが一つだけ置いてあり、四つ角が交わるところから吊るされたランプが明るく照らしていた。そんな中に黒いフードを被った私と同い年くらいの少女が一人座っている。胸辺りまでの銀髪を、低い位置で左右二つに結んだ可愛らしい女の子だ。
「お、いらっしゃ…え? あれ? あなたがエリシアの新しい子?」
フードの少女は首をかしげると不思議そうにそう言った。まるで私が来る事が分かっていたかのような口ぶりだ。予想外の言葉に、私も「あ、え、そうです…かね」と間抜けな返しをしてしまう。
「うーん、どうしよう。話しは聞いてるの? 全然見込み無いけど大丈夫? 私、エリシアには、ゴリラみたいなマッチョ連れてこないと厳しいって言ったはずなんだけど…」
少女が頭から頬、肩、脇、胸、腹、尻、太ももと順に触りながら降りていく。何をされているのか分からなかったが、エリシアという言葉が出た時点でここにいてはいけないと強く感じていた。あとゴリラかマッチョが必要なら、私では間違いなく役不足だ。
うーんと唸りながら少女が私に背を向けてデスクに戻る瞬間、私は二歩三歩と距離を取り、テントを持って外に出る。つもりだった。
「…? 無い…!? 何で…! 何で出入り口が…!?」
そこには私が入ってきたテントの出入り口が無く、ツルツルとした1枚の布で仕切られていた。地面との間にも隙間は無く、出られそうな場所が無い。
「あ、ディアちゃん。そもそもここは貴女にしか見えてないよ? こんな汚いボロボロのテントに、自分から何で入ってきたのか…。私にはそっちの方が大いに疑問なんだけど…」
フードの少女は私の行動に慌てるでもなく、何冊かの本を棚から出すとまた不思議そうに言った。確かにそうだ。外の誰も寄り付かないような所、何かあってもおかしくない。私にしか見えていない事を知らなかったとしても、せめて警戒すべきだと少女は言っているのだろう。優しくされ過ぎて、人を疑う心が麻痺していたかもしれない。
「だって…誰にも相手にされないお店は可愛そうだなって…」
私が申し訳無さそうにそう言うと、少女は目をぱちくりさせて固まった。しかし糸が切れたのか吹き出すと、そのまま妻い勢いで笑い出した。
「アッハッハッハ!! ディアちゃん嘘でしょ!! そっかそっか、まあ見えてなかったんだけど!! いやあ、それはありがとう!! でも残念だなあ、その優しさを上手く使う能力貰った方がいいと思うけどなあ!」
能力とは何のことだろう…。そんな事はお構いなく、少女はヒィヒィ言いながら本のページを接り、特定のページを開いて置いていく。そのページは淡く青い光を放っている。
私以外見えていないテントや、不思議な本、黒のフード。まるで魔女のような装いの少女だが、人柄から何となく悪い人ではない気がしてきた。私の悪い癖だ。エリシアとつるんでいる以上、そんなわけ無いのに。
「あの…もしかして、もしかすると…? 魔女だったりして…?」
「勘がいいね。そうだよ」
少女は一切否定せずそう答えた。私は半ば冗談のつもりだっただけに、アハハ。と作り笑いで返すのが精一杯だった。間違いなくおかしなことをされるのだと感じた。全ての記憶を消されて奴隷としてエリシアに働かされるかもしれない。体中を改造されて兵器にされるのかもしれない。魔法で変な能力を植えつけられて、悪事に手を染めさせられるかもしれない。
エリシアのことだ。何をするか分からない。
幾らでも出てくる後ろ向きな考えに鼓動が早くなる。せっかく一人で生きていける気がしたのに、また絶望に叩き込まれてはお終いだ。かと言ってここに出口は無い。どうすればいいかも分からない。
フードの魔女は「もうちょっとだと思うから」と私に微笑みかけた。何の笑いなのか。何がもうちょっとなのか。私の何が分かるのか。何も分からない。
「お願い! 私をここから出して! やっと自由になったの! 私一人で生きていけるの!」
気が付けば私は魔女の胸倉を掴み、そう言い放っていた。魔女もビックリしたのか、「うわっ、ちょっと!」と慌てている。せっかく貰ったパンの袋も放り出してしまい、口が開いたのか幾つか地面に転がった。
「ディアちゃんストップストップ! お痛が過ぎると私も怒るよ!」
魔女の声は私に届いていたが、それよりも体が反応してしまって半ばパニックだった。何で私ばかりこんな目にあわないといけないのか。胸倉を掴む手に更に力が入る。
しかし、私は背後から突然襟首を掴まれ、いとも簡単に引き離された。それは懐かしい感覚であると共に、そう気付いてしまった時にはもう後ろは振り向けなかった。尻餅をついて、そのままうな垂れて地面を見たまま私は動けない。
「ひい一怖いなあもう。エリシアさあ、遅くない? 私ちょっと危なかったよ?」
魔女はそう言うと私を挟んで話を始めた。嫌だ。動きたくない。見上げたくも、立ち上がりたくも無い。このまま外へ出して、お前みたいなのはどこへでも行ってしまえと蹴り飛ばして欲しい。
しかし私の願いは届かない。
「いやあ、悪いクシャナ。まさかディアが先に来てると思ってなかった」
エリシアの言葉はどこか弾んでいて、まるでこれから起こる事を楽しみにしているようだった。私は腹立たしくて、でも恐ろしくて顔は上げられなかったが、口だけは何も考えずとも動いていった。
「嫌だ…。 私は一人で生きていける…。 エリシアには感謝してるけど、お金なんかなくても今日1日私は幸せだった…! 皆親切にしてくれたし、今度は私が…」
今日の事が頭を駆け巡る。短い時間だったのに、こんなにも温かい気持ちでいっぱいになった。汚い事をしなくても幸せに生きていけると確信していた。だが、そんな心はいとも容易くへし折られる。
「パン屋のジジイには大金を掴ませて、好きなだけパンを持って行って良いようにしてある。貰って当然だ。靴屋には借りがある。ディアが来たら目いっぱい優しくしろと伝えてある。当たり前だ」
私の言葉を遮って淡々とした口調で紡がれたエリシアのそれは、私にとっては衝撃的過ぎて、テントの中はシンと静かになった。つまりあの優しさは、全部エリシアが買っていたということなのか。
「ケーキ屋にも行くといい。あそこはアタシの出資だからお前も好きなだけ食え。武器屋や防具屋に行けばメチャクチャちやほやして貰えるぞ。まるで勇者様だ。前払いで金をある程度渡してある。そこで揃えると良い。あっちもそっちもこっちも。皆アタシたちがファーデの為に働く人間になる事を心待ちにしてるだろうさ。だから幾らでも、優しくしてくれるだろうよ」
そう言うとエリシアは私の腕を掴んで引き上げた。「立て」と言われて力なく足を地面につけたが、爆発しそうな気持ちを我慢するのに限界は近かった。足は震えて力が入らない。
「ディア、お前一人で生きていけるんだっけか。立派だな。じゃあ今すぐ服代を返せ。出来なけりゃ脱げ。外に放り出してやる。靴屋にも靴代を払っておけよ。パン代はアタシに返せ。出来なきゃあるもの売って金にしろ。目か? 耳か?」
「ちょっとエリシア…。ディアちゃんも知らなかったんだからその辺にしてあげな…?」
クシャナと呼ばれたフードの魔女は、私を庇ってエリシアを制してくれた。でもエリシアはクシャナの助け舟を一蹴すると、膝から崩れてしまった私を再度引き上げる。
私は涙と鼻水でグズグズの声で「働いて地道に返す」と声を絞った。するとエリシアは分かってるじゃないかと空気も読まずワハハと笑う。
「いいかディア、良く覚えとけ。お前の意思がどうあれ、お前はアタシが買ったんだ。そうである以上お前の全てはアタシが決めるし、お前に拒否権なんか無い。例えこれを苦に死んだとしても、体はアタシの物だ。死体はアタシが好きに使う。どうしても一人で自由に勝手に生きていきたいなら、アタシからお前自身を買え。今すぐ[3億G】用意できるなら、新たな門出の準備もしてやる」
そう言うとエリシアは私の背中を思いっきり叩いた。あまりの痛みに背筋が伸びる。体が仰け反る。勢いそのまま私はクシャナの前までヨタヨタ歩き、胸に顔を埋める形で飛び込んだ。そしてそのまま私はエリシアに向き直り、睨みつけた。
エリシアの言っている事はメチャクチャだが、理解できる事に腹が立った。恩を返すと言うなら、施設から出してくれたエリシアにも返すべきだ。街の皆が偽りの優しさを私に振りまいていたかと思うと、心の底からショックだったし悔しかった。全部エリシアのお陰で良い思いをした事も悔しかった。
私は本当に皆が優しくしてくれる世界なのだと信じていたのに。
「何だ、不満そうだな。でもお前は頭が良い。きちんと理解しているはずだ。だが思い上がりが甚だしい。何で街ぐるみでお前に優しくしてくれるか分かってないだろう?」
そう言うとエリシアは私のところまで近寄ってきて、顔を近づけて囁いた。
「アタシは別に金で人の心を買ってる訳じゃない。これは信頼関係だ。欲しい物があればお金を払うし、お金を払えば欲しい物が買える。当然の事だな? 毎回何かをタダで貰ってばかりの人間、今後誰が優しくしようと思うんだ。お前は世間知らずが崇って、この世界は口を開けていれば何でも貰える優しさと助け合いの世界だとでも思ってるんだろ? 自分が施設出の、可哀想で可哀想で仕方ない人間だと心のどこかでずっと思ってるんだろ? お前が与えられた優しさは、偶然なんかじゃなくて、アタシとアミューが築き上げた信頼の上になりたってるんだよ。そんなにタダで飯が出て風呂も寝床もあるような生活がしたけりゃ施設に帰んな」
エリシアの顔がどんどん恐ろしい笑みへと変わっていく。私はもう足に力が入らないし、この際どうなってもいい気持ちの方が強くなっていた。今までの私ならこの瞬間、何もかも否定されたと思うだろう。だがエリシアの言う全ては真実なのだ。
街の皆は私の境遇なんか知らないのだ。エリシアがあちこちに良くしてくれと頼めるだけの信頼があって、初めて私は一人で良い思いが出来たのだ。
「今だって、【見ず知らずの自分の為に優しくしてくれた人たち】の優しさが自分にとって気持ちよかったから、何て素敵な世界なんだってずっと思ってたみたいだな。じゃあそれがアタシ達の信頼の上にある優しさなら何だ? パンの味や靴の感触が変わるのか? 貰った優しさに、人の温もりが感じられなくなるのか? お前こそ自分さえよければそれで良い悪党じゃねえか!」
エリシアが口を開くたびに、発せられる言葉が頭の中でガンガン響くのを感じた。私はというと口は半開きになってるし、エリシアの姿なんてもう溢れる涙で歪んで殆ど見えなかった。皆が優しくしてくれた時間が一気に駆け巡って、己の浅はかさに情けなくて申し訳ない気持ちになっていく。
その状況を見てか、クシャナは私を胸に埋めて抱きしめた。突然の事で驚いたけれど、包まれる安心感で私はそのまま声を堪えきれず泣き出してしまった。恐らく涙も鼻水も凄かったろうが、クシャナはただただ抱きしめてくれた。
「エリシア、アンタの言う事は正しいよ。今までのアンタのファーデへの貢献からすれば、一声で皆動いてくれるだろうし。私もその一人だからさ」
私を抱きしめたまま、クシャナはエリシアを諭すように話し始めた。
「でもディアちゃんがやりたくないって言うなら、今回のこれ、お勧め出来ないなあ。説明もしてあげてないでしょ? ね、説明してあげなよ。じゃないと不信感だけ募らせて、ディアちゃんもう壊れちゃうよ」
クシャナの言葉に、エリシアは腕を組んでうーんと唸る。あれだけ難しい事をスラスラ私に言ったのに、その説明はどうやら出来ないくらい難しいようだ。額に汗が滲んで、眉間にしわが寄って、唸る声が大きくなる。こんな時でもエリシアはエリシアなのだ。
そんな時、テント布に亀裂が入り誰かが入ってきた。
「間に合ったか!?」
「多分…」
聞き覚えのある声だ。パッと振り向きたいのは山々だが、目も鼻も恐らく赤いしグズグズだ。かといってクシャナの服で拭うわけにもいかない。
「あれ、アミュー。テツ爺連れてきたのか。ややこしくすんなよ?」
チッと舌打ちをするエリシアの目線の先には、パンをくれたお爺さんとアミューが並んで立っていた。一気にテントが狭くなるかと思いきや、人数に合わせて中の大きさは変わるようだった。
テツ爺もアミューも、腕を組むエリシア、号泣する私、困った顔で私を抱きしめるクシャナ、とまあまあ色々あったのだなと察したようで、困惑した様子で切りだす言葉を失っているようだ。私の鳴咽だけが聞こえる。
そんな空間を、腕組みしていたエリシアが突然「あ~~~もう!!」と頭を掻いて乱した。
「分かった分かった! 説明するよ! 一回しか言わねえぞ!」
エリシアはそう言うと、クシャナから私を引き離して自分の目の前に座らせた。今この状況で面と向き合って声を聞くと涙が溢れそうになるが、エリシアに怒った様子は無かったので下唇を噛んでぐっと堪えた。
「いいか? そこにいるクシャナは魔女で、金さえ積めば魔法を使って人間に便利な力を与えてくれる。アタシは一定距離なら障害物を挟んでも見通せる【千里眼】って力を持ってる。だから銃にスコープなんて要らないし、あの日施設でも大人子供の判別が暗闇でも出来た。そういう力を今日ディアにも与えて貰って、今後の仕事をやりやすくしようって話だったんだ」
早口にペラペラペラと喋られたせいで、私は「あ、うん」と勢いのままに首を縦に振ってしまった。でも聞けば悪い話ではないような気がしてきた。記憶を消されたり、体を改造されたり、自我を失うような話では無さそうだ。若干自分の想像の範疇だったのが幸いした。
この話が本当か気になって、クシャナの方をチラッと見たがうんうんと額いていたので間違いではないのだろう。エリシアの後ろにいる二人は難しい顔をしているので、恐らく引っかかる部分があるのだろう。温度差にモヤモヤする。
「で、だ。お前には 【反発】って力をつけて貰う。文字通りだ。相手の攻撃を跳ね返したり、触れたものを弾け飛ばして相手にぶつけたり出来る。凄いだろ? 防御の要だ」
どんどん焼舌になるエリシア。時折フフンと笑い、どうだと言ったばかりの顔で見てくる。私としてはどうだと言われても、今まで普通の人間として生きてきたので、話が飛躍しすぎててこれこそまるで御伽噺だ。
「まあ、私たち魔女がお金さえ貰えばどんな人間にも能力を付与したもんで、能力の強弱はあれど、そこら中そういう人だらけだと思うけどねえー」
クシャナは付け加えるようにそう言った。そうなのか、知らなかった。でも、これからエリシアの元で働くとして、生身の自分では到底太刀打ちできない人間も出てくるかもしれない。エリシアとアミューが居ても、死ぬ可能性も恐らく0ではないだろう。別に二人を信用していない訳ではないけれど、己の身は己で守れと言う事でここに呼ばれたのだろうと感じ取った。
「私…」
「待ちなさい」
自分の中では、これはよく考えればとても実のあることなのではないかと思い始めた。何も無い自分が突然お話の主人公になるような気分もしていた。その分別に悩むことなくやりますと言い掛けたのだが、私に割って入ったのはパン屋のおじいさんだった。
「ホラ見ろアミュー。お前のせいでややこしくなるぞ。ディアなんかもう乗り気だってのに」
「黙れエリシア。ワシは反対じゃ」
そういうとお爺さんは、向き合ったエリシアと私の右横にあぐらを掻いて座る。何だか不思議な空間だ。旅行の夜みたいだ…。
「ディア、ワシはパン屋のジジイである前に、エリシアと一緒に仕事をしていたんじや。名前はテツという」
「……え゛?」
正直その場でこけそうになった。エリシアの知り合いなのは感じ取っていたけれど、一緒に仕事をしていたまであるとは思っていなかった。おじいさんは黙っていてすまないと言ったけれど、私は肯定とも否定ともつかない会釈でやり過ごした。
「その時使っていた力が 【反発】 じゃ。エリシアは弾けと簡単に言うが、この能力は適当に触れたものを弾くなんて便利な力ではない。精神を集中させる事で体に物体を反発させる膜を張る事が出来る力じゃ」
そう言うとテツ念は右手を私に差し出した。なんてことは無い普通の手に見える。特別色が付いていたり、オーラめいた物が見えるわけでもない。人の手だ。
「この能力は目に見えない。故に発動しているかどうかは自分にも分からない。集中して、神経を研ぎ澄ませ、あとは感覚で使うしかない危険な力なのじゃ。今この手に触れればあらゆる物を弾くかもしれない。弾かないかもしれない。自分が食らえば死ぬ可能性がある状況でも、そんな一か八かの気持ちで使うんじゃ。100%弾くのなら無敵じゃが、博打が強すぎる。ディア以前に既にエリシアはこの能力をつけた人間を6人、力の制御が出来ずに殺しておる」
ゾッとした。エリシアの話だけ聞いていれば、あの場でお願いしますと言っていただろう。まぐれで成功したとしても、いつかは簡単に死んでいたかもしれない。
エリシアの方を見るとハァと溜息をついていた。いや、あの溜息は私が拒否する事を憂いたものではない。「そんな事言っても私はやらせるってのに」と言う具合の溜息だ。嫌だ。嫌だ…。 嫌だけれど…覚悟を決めないといけない。
あれだけエリシアにコテンパンに言われて改めて考えて、曖昧だけれど今、心に決めたのだ。エリシアに恩を返す為に 【3億G】 払って私を買い戻して、そこからは自分の思う生き方をするんだと。恐らくそれが、エリシアが仕方なく思ってくれる一番の道なのだと。
「私、やります…!」
「何じゃと!?」
「アッハッハ!! そうこなくっちゃなディア!!」
テツ爺が目を丸くして驚く隣で、エリシアが腹を抱えて笑う。初めて会った時と同じような大笑いだ。思えばあの時は馬鹿にされていると思ったが、案外何でもお見通しで、やはりついて行けば間違いはないのかもしれない。
私の後ろで聞いていたクシャナが話の中に割って入る。
「はいはい、じゃあここからは私の番だね! ディアちゃん何か質問ある? ほかに聞きたいこととか無い?」
気を利かせてくれたのだろう。私を不安にさせない為か口調は弾むようだが、どことなく辞めといた方がいいと思うけどなあといった顔だ。それでも私はやる気でいたし、質問も何も無かったが、先に言っておこうと思う事がある。
「エリシア」
「ん? 何だ?」
私が真面目な顔で呼んだからなのか、少し驚いたような様子でエリシアは応えた。どうしても、約束して欲しい事があるのだ。
「私本当は凄く怖い…。やりたくないし…逃げ出したい。でも施設から出してくれたのはエリシアだから、改めて感謝しなきゃいけないと思った。だから私、エリシアと一緒に仕事する。何でも言う事聞く。でも、生意気だけど私も私の意志があるから、もし私が 【3億G】をエリシアに返せたら、その時は辞めさせてほしい」
精一杯言葉を選んだ。エリシアはそれを聞いて黙ってしまった。ほかの誰も言葉を発さない。エリシアの返答を、皆が見守っているようだった。
「……【3億G】だぞ。キッチリ払えよ。私の給与分配は少ないから覚悟しろ」
エリシアは私の目を見てそう言った。私は目を輝かせて首を縦に振る。見守っていたアミューは難しい顔をしているし、テツ命は頭を抱えているけれど、私は何となく出来るような気がしていた。絶対【3億G】返して、自分を買い戻すんだと心に決めていた。
テントの中は途端に慌しくなって、クシャナがノリノリで私に魔法をかけ始める。もう戻れない。私の闘いが始まるのだった。