【3話】 新しい暮らしの負債
ファーデの朝は息を呑むほどに美しい。朝日に照らされた白壁の家々は、柱の茶色や街路樹の緑に引き立てられ一層眩く見える。もう少しすれば人が出てきて店が開き、活気に溢れた町並みが見られるが、この朝一番の静かな時間が好きになりそうだった。
そんな清清しい朝、目覚めはあまり良くは無かった。結局帰ってきて疲れて寝てしまったが、起きれば起きたで昨日の事を忘れる事なんて不可能だった。やりたい事も無くなってしまい、施設に居たころより満たされない感情に襲われていた。
二人はまだ眠っているようで、私はとりあえず1階に降りる事にした。あのまま布団にもう一度潜り込めばそのまま考え込み、絶望に落ちてしまいそうで嫌だった。エリシアとアミューではない、誰かに話を聞いて欲しかった。その一心で家の扉に手をかけたが、よく考えれば身だしなみはおろか、風呂にも入っていないし歯も磨いていない。服だって、土で薄汚れたワンピース1枚だ。そんな格好でファーデの街へ繰り
出したくない。
ドアノブにかけた手を離し、とりあえず洗面所を探した。すぐ見つけられたが、当たり前のように歯ブラシは2本だった。風呂に入ろうにもタオルはどれを使えばいいか分からない。
「適当に使っちゃえばいいか…」
一番手前に掛かっていたタオルを手にとって、お風呂場の戸をあけた。施設のカピ臭いお風呂しか知らなかった分、白を基調にした清潔感のあるお風呂はちょっと興奮した。しかしよく考えればお湯を張るのは忘れていたのだ。足も伸ばせそうなこの広い湯船に浸かるのは今度の楽しみに取っておこう。
シャワーからは温かいお湯が出てきた。以前は週に一回の楽しみだったが、毎日でも入っていいなんて少しだけ幸せを感じた。何気ない事に喜べる気持ちがまだあった事に自分でも驚いた。もしかしたら温かさで少しリラックスできたのかもしれない。
そうだ。施設からせっかく出てきたのだ。まだ諦められないとも感じてきた。
「あ…鏡…」
お風呂の椅子に座った時だった。目の前には私の腰くらいまでが映る鏡が付いていた。鏡なんて随分見ていなかったから、久々に見る自分の姿が何だか照れくさかった。
茶色の髪はもみ上げだけは胸の辺りまであるが、後ろの髪は肩の長さで揃えてあった。いつも先生に任せていたから、まさかこうなっているとは思ってなかった。顔とはもう長い付き合いだ。自分が美人だとか、可愛いだとかは分からないけれど嫌いじゃない、発育は良いとか悪いとか気にしていない。恐らくあまりよくはない。
以前見た時がいつか覚えていない分、鏡の前に立って前から後ろからちょこちょこ見てみたが、特別変わった事は身長くらいかなといった感じだった。私はアミューよりちょっと高いくらいだ。何センチだろう…。
自分の体の変化に嬉しい気持ちになったところで、体も頭も洗って外に出た。爽やかな石鹸の香りも、甘いシャンプーの香りも施設のものとは比べ物にならないくらい良い香りがして、何だかそれだけでちょっと可愛くなった気分だった。勝手に使ったタオルは、とりあえず乾くように元の場所へかけておいた。
「服あるかな…」
残念だが自前の着る服は無い。白いワンピースもこうなれば見ようによっては死装束だ。洗濯籠であろう、昨日来たエリシアの服が突っ込んであった場所に置いてきた。今だって着てるのはアミューに借りた下着とパジャマだ。
脱衣所を出て居間に戻った。よく考えれば昨日は二人とも二階に上がって着替えをしていた。恐らく着替えは二階にあるのだろう。起こさないように階段を上る。
ゆっくり上ろうとすれば上ろうとするほど、階段はキィキィと鳴った。静まった空気の中で、その音が嫌に耳に付く。万が一どちらか一人でも起きたら、お前一人でどこに行くのかと咎められるかもしれない。確かにここから逃げ出したいのは山々だが、何も言わず出て行ってもエリシアに連れ戻されると薄々気づいていた。
「ん? あれ…、服…?」
私が階段を上りきった時だった。目に飛び込んできたのは、廊下に綺麗にたたまれて置いてある洋服だった。見たまま、畳んで置いてあるのでその光景はとても異様だ。先程までは無かったはずだから、誰かが態々置いたのだ。これももしかしたらアミューが貸してくれたのかもしれない。
気づかれてる事を確信してその服を取り、抱え込んで急いで階段を下りた。なるべく音を鳴らさないように、でも急いでという両立は中々難しい。ギィギィとまぁまぁ大きな音が鳴る。それでも二階からは物音一つしなかった。私は下ってきた階段を見上げて、何となくお辞儀をしておいた。
暖炉の前のソファに座ると、早速畳んであった服を持ち上げて目の前で開いてみる。
「あ、可愛いこれ…」
このちょっと緩い感じ、エリシアのチョイスでは無さそうだ。やっぱりアミューあろう。白のインナー。灰黒ボーダー柄の大きめニットに同系色のショートパンツ。黒のニーソックス。秋口に暑すぎず寒すぎずといった具合だ。
借り物の服とはいえ、可愛い服を着られるのは嬉しくて仕方なかった。これで街に繰り出して、最初に行くところは決めていた。あの靴屋さんだ。と言うのもあの人くらいしか知らなかったし、何だか良い人そうな気がしていた分、今度はちゃんと話したいと思っていた。
服を着替えて靴下に足を入れようとした時、クシャっと何か紙が潰れるような音がした。それは靴下の中に気付かせるかのように入っていて、取らなければはくのに困るようになっていた。徐に取り出したその紙はどうやら領収書の複製のようだった。
【領収書 ディア・ローライト様 9800G を洋服代として上記正に領収いたしました】
確認して目が点になった。それは確かに私の名前で払われていた。つまりこの服は正真正銘私のもので間違いないのだが、無一文の私が立て替えて払ったことになっているのだ。なるほど、この調子だと歯ブラシもタオルも、恐らく領収書を渡されるに違いない。エリシアはそういう人間だ。
知らない間に、借金が増えて逃げられなくなっていくかもしれない。エリシアはそういう人間だ。
「ちゃっかりしすぎてる。」
私は靴下をはくと、嫌みったらしく複製された領収書をポケットにしまった。玄関まで来て靴を履こうとして気が付いたが、新しい服と相変わらずの磨り減った靴はバランスが悪い。でもこれ以外に持っていなかったので、仕方なく履いて出る。
しかしまたドアノブに手をかけたところで、私は慌てて靴を脱いで洗面台へと戻った。前髪が伸び放題だったのを何とかしようと思って忘れていた。目に掛かる範囲だけ、雑に置かれていたヘアピンで留めて洗面所を後にする。
また靴を履いて、またドアノブに手をかけて、今度こそ家の外へと繰り出した。外は人影が少しずつ増えてきていて、お店も開きだしたころだった。
今度は堂々と街の通りを歩けるぞと、自分に言い聞かせた。
---×---
「エリシア…。ディア…出てったよ…?」
「どうせ散歩だろ。好きにさせてやれよ」
3つあるベッドの右端。アミューは目から上だけ布団から出して、天井を見ながらそう呟いた。左端で寝ているディアは布団をめいっぱい被り、微動だにせずめんどくさそうに返す。昨日働いた分、朝くらい寝ていたい。
時計の音だけがコチコチと聞こえていた。そのまま沈黙の時間が続く。家は通りから一歩中に入った路地にある為、お隣さんや近隣の住人の挨拶がまばらに聞こえる以外は静かな朝だ。
アミューはそのまま天井を眺めていたが、突然ガバッと起き上がると部屋を出る。それを気だるそうに布団の隙間から確認したエリシアもまた、起き上がって部屋を出て行った。すぐ隣のクローゼットがある部屋で、二人は軍服に着替えていた。
「何だよアミュー。暫くは仕事なんかせずとも暮らしてられるぞ?」
エリシアは部屋の隅に無造作に置かれた昨日のカバンを指差す。呆れたような顔で「そういうのじゃ無いから…」と先に着替え終わったアミューは下に降りてしまった。
「何だよ仕事じゃないのに着替えたのか。相変わらず訳わかんない奴だな」
そう言うとエリシアは着かけの軍服を脱いで放り投げた。パジャマを着直そうかと思ったがそれも面倒になり、結局下着のまま1階へと降りていった。階段の途中から、既に紅茶のいい香りがする。それと同時にお腹が空いてきた。よく考えれば昨日の一件の後、ディアとアミューが揃って先に寝てしまったので、エリシアも何も食べずに寝たのだった。
「アミュー、飯。朝飯作って」
「今パン…焼いてる…」
1階に降りると微かに石鹸のにおいがした。フラフラっと脱衣所に向かうと、ディアの白いワンピースが目に入る。エリシアはそれらの洗濯物をまとめて洗濯機に投げ込んだ。洗剤を取ろうと手を伸ばした時、ふと自分のタオルが目に入った。サッと手を伸ばして感触を確かめると、それも洗濯機へ投げ入れる。
「そうか、ディアにタオル買わないと。歯ブラシとかその辺もいるな…」
洗濯機を回したエリシアはそう呟いて脱衣所から出てくる。居間ではアミューが食卓の椅子に座り、パンにバターを塗っていた。丁度窓から入った朝日がパンを黄金色に照らしていたが、アミューが眩しそうにしていたので閉めてやる。
いつも買いに行くパン屋の食パンだ。店主のオヤジはちょっと職人気質で癖のある人だが腕は一流だ。一度食べればその店以外で買う気がなくなるくらいなのだ。しかも親父にパンの美味しさを伝えると、ちょっとサービスしてくれたりする。悪い人じゃない。せっかくだから後でディアにも食べて貰おう。
エリシアはアミューからパンを受け取ると、いただきますもそこそこにかぶりつく。勿論幸せなのだが、目の前で自分パンにバターを塗るアミューと、本当はディアとも朝食を囲みたいと思っていた。朝からどこに行ったかしらないけれど、服も無くなっていたし、靴も見当たらないし、大方街の散策にでも出たのだろうとそれでも能天気に構えていた。
相変わらず己が幸せにニコニコするエリシアを見て、アミューは小さく溜息をついた。
「ん? どうしたアミュー。幸せが逃げるぞ?」
「ええ…そう…。 逃げてないと…いいね…」
アミューはもう一度溜息をつくと小さくパンを齧った。エリシアはその様子を見て何のこっちゃといった顔をする。二人の時は普段から黙々と食事をしているが、今日はその沈黙が嫌に気になった。
「え、もしかしてディアが逃げ出すと思ってる?」
「エリシアは…思わないの…?」
「思わない」
会話は僅か十秒で終了した。エリシアの即答に、アミューはパンを置いて困惑した顔をする。何故そう思うのかアミューには理解できなかったし、昨日のディアの塩辛した様子はただ事ではなかった。今日普通に帰ってきたなら、それはそれでディアも狂っていると思う。それくらいアミューは心配だった。
パンを食べ終えたエリシアはハムに卵と一つずつ平らげていく。アミューはそれぞれ少しずつ食べ進めていた。全て食べ終わったエリシアは、ご馳走様と手を合わせた。
「まあ、ほら。ディアは賢いよ。今日普通に帰ってくると思う。逃げても私達に敵わないと悟ってる筈だ。だから多分、街で何かしら私達の情報でも得てくるんじゃないかな。常に二手三手先を考えて行動するタイプだよ。」
食後の紅茶を飲みながら、エリシアは得意気に話し出した。
「もうディアを私達と一緒に働かせる算段は整ってる。後はディアが分かったって言うだけだ。だからこそ極度に絶望させた上で、微かな希望を持たせる必要がある。自由から縁遠かった施設暮らし。ビタ一文持たない自分が世に出て自由を得ても、自由どころか縛られてばかりで何も出来ない無力感。でもお金があれば、全て成し遂げられるという絶対普遍的な真実。私達との仕事は、自由への貯金さアミュー」
「……。 エリシアのそれ…いつ聞いても…サイテー…」
アミューは表情を変えず、食べ終わった自分のお皿を持って流しへと下がった。「私のもー」というエリシアの声に眉間にしわを寄せながら戻ってきて、お皿を持ってまた流しへ戻る。
蛇口を回し、水を出して食べ終わった食器を浸していく。先に浸けておけば、後で洗う時に楽になる。
「自由…ね…。 私は一生…縁遠い話…」
アミューはティーカップひたひたに水が溜まったのを確認して水を止める。足りない食材が無いか確認して、居間へと戻った。そこには下着姿だったはずのエリシアがすっかり軍服に身を包み、いつでも出かけられる様子で椅子に座っていた。
「別にディアが気になるわけじゃない。タオルとか歯ブラシとか、要る物があるんだ」
エリシアはそういうと、銃口が覗くあのでかいカバンを背負って玄関へと向かって行く。エリシアの後を追いかけるように、アミューも玄関の方へと歩いていく。
「おや、お姫様。今日はどちらへ?」
意地悪そうに聞くエリシアに、アミューはむっとした顔で答える。
「私も…食料を買いに行く…」
町並みに似合わない目立つ服を着た二人が、同じ方向へ歩き出した。