【プロローグ】 孤児、悪魔に買われる
私は生まれた時から【施設】と呼ばれるボロボロの建物で、私と同じ何も持ってない子供たちと暮らしてきた。親も無ければ金も無い。一人で生きる術も知らない。1日の食事は到底足りるものではなく、外にも出して貰えず、お風呂は週1回、寝るときは直に床に転がった。毎日誰かの泣き声が聞こえ、喧嘩は絶えず、皆一様に自らを捨てた家族を恨み続けていた。
そこは身寄りの無い子供たちが引き取られ、育てられる施設だった。
逃げ出す事は許されず、まるで隔離施設のようで、明日を生きるのも苦しく厳しい毎日だったが、施設の子供たちにとって唯一の希望は15歳の誕生日だった。
「15歳になったら、あなたたちは外の世界で自由に暮らすのよ」
先生と呼ばれている施設の初老の女性は、いつもそう言って外の世界の素晴らしさを語ってくれた。美味しい食事、温かいお風呂、ふかふかの布団。施設の幼い子供たちにとって、見たことのない外の世界はまるで御伽噺で、しかしそれが現実として自らに与えられる可能性があると思うとそれらの世界への希望は膨れ上がるばかりだった。
流石に年齢が上がるにつれて「また言ってる」と思う子達も少なくなかったが、それでも皆が誰も体験した事のない外の世界に思いを馳せていたのは間違いなかった。
ただ、今この時間を15歳まで耐えれば、夢のような暮らしが舞い込んでくると信じていた。
「お誕生日おめでとう、ディア。さあ、今日から外で生きていくのよ」
そしてそれは今日の私に訪れる今まで生きてきた中で最高の幸福でもあった。
見上げれば穴の開いた天井、見渡せば外を見る窓も無い薄暗い部屋、床はむき出しのコンクリートだった施設にはもう戻らない。15歳になった私はこの施設で誰よりも自由で、誰よりも幸福であった。
「先生、ありがとうございました」
「どういたしまして」
後ろ髪を引かれる思いもない。涙も出ない。どんな負の感情も外の世界へ出て行く嬉しさに敵わなかった。寧ろ清清しささえ感じていて、一歩外に出ればまさかこんなもどうしようもないところに15年も居たのかと思えるかと思うと、一刻も早く出て行きたかった。
毎日下を向いてトボトボ歩いた施設の廊下も、今日は前を向いて歩くとそう決めていた。
「じゃあ行きましょうディア、外でお迎えが待っていますよ」
そう、この【迎え】というのが私たちを幸福へ導いてくれる人間なのだと先生に聞かされていた。優しい家庭に引き取られて、私たちは幸せに暮らしていくのだと。でも上手くやれるだろうか、恥ずかしがってしまうかもしれないし、何か怒られるようなミスをしてしまわないだろうか。楽しみとともに不安も募る。
色々な感情が湧き上がってきて少々複雑だったが、考えている内に施設の出入りロに着いてしまった。
「あれ、ここは…」
そこは確かに出入り口だ。でもいつも通り南京錠がついていて、いつも通り打ち付けられたベニヤ板が外の光を完全に絶っていた。到底外に出られるような雰囲気ではなかった。
「ああ、ディア。今日はそこからは出ないのですよ。そこは閉じてしまっていますからね」
先を行く先生は立ち止まった私に優しく微笑みかけた。ああそうか、あれだけ板が打ってあったら今更開けられないのか。と、そう思って先生と出入り口を通り過ぎた。
いつだって先生の言う事は正しいと、そう教えられていた。どうして15歳にならないと出られないのか、どうして貰われて行くまでこんなに過酷な暮らしを強いられるのか、どうして私たちを助けてくれる人は居ないのか、もしかしてこれは不幸なのではないのか。どうしてどうしてと、疑問は掃いて捨てるほどあっただろう。でもどうしてと聞いた子は居なかった。荒々しく打ち付けられたと板で封じられた不気味な出入り口も、そういうものなのだと呑み込んでいた。
これが普通ではないと教えてくれる人が居なかった。15歳まで子供の暮らしとはこういうものだと教わっていたし、この環境から逃げ出してしまうよりも、15歳まで我慢した方が賢明だと思っていた。
「先生、今日私を迎えに来ている人って…」
「気になりますかディア。ふふ…それはそうでしょうね」
私の問いかけに、先生は振り向きもせず前をスタスタ歩いていく。
「ディアはいい子だから、沢山の人が家族に迎えたいと手を上げてくださったの、ここから卒業する子達は、皆優しい家族に迎えてもらうのよ」
「え、私はどうしたら…」
もしかして私を捨てた父母が…なんて思っていた自分もいる。でもどうやらそうではないようで、どうしたらいいのか戸惑ってしまった。何人も私を家族の一員にしたいと思ってくれているという事なのかと、そう思うと目頭がちょっと熱くなった。そんな感情を読み取ったのか、先生はクスクスと笑い「おめでとう、いい子にしてたご褒美ですよ」とまた優しい笑顔を向ける。
「今日はあなたの人生が変わる日なの。いい人に迎えられると良いわね」
「はい…!」
何だか体が暖かくなった気がして、でもくすぐったい気もして、先生には私がどこか困ったように笑って見えたかもしれない。確かに嬉しくてたまらないんだけど、途端に寂しくもなって来た。そんな流れる感情をさえぎるようにして、ふと聞きなれない声が少し奥の扉から聞こえ漏れてきた。
あの先にいる。迫る現実に、鼓動が早くなる。
「さあ、行きますよディア」
先生が扉に手をかける。一段と鼓動が早くなる。心臓が爆発しそうなくらい。
手汗だって出てきた。緊張で涙が出そうだ。声も裏返るかもしれない。喉も渇いた。うあっ、髪形変じゃないかな…! 昨日はお風呂に入って、今日は特別な服だって真っ白なワンピースを着せて貰ったけど、似合ってるかな?
考える間もなく右から左に突き抜けていった感情に、今にも泣きそうで吐きそうで、緊張で眩暈だってしてきたのに、躊躇無くその扉は開かれた。
「始めまして! ディア・ローライトです!」
どうしようもない感情が先走ってしまい、私は開かれた扉の先を見る前に名前を叫んでお辞儀した。せっかく昨日の夜考えた初めての自己紹介なんて全部どこかへ飛んでしまって、そのまま恐る恐る顔を上げるしかなかった。
でもそこは思っていたほど優しさに溢れては居なかった。
「アッハッハ! 礼儀正しくて結構! お前このババァに騙されたクチだな?」
私の耳に飛び込んできた第一声は人を馬鹿にしたような大笑いと、恐ろしく乱暴な口調だった もっと温かい言葉で迎えられると思っていた分、私は緊張と恐怖でガチガチに固まって動けないでいる。思い描いていた景色と、その風景は違いすぎた。
そこはただただ施設の外だった。見渡す限りフェンスと有刺鉄線、そして奇妙な出で立ちをした【迎え】がたったの二人。さながら刑務所から出所したような気分だ。手を上げてくれたという事にまで見た沢山の家族はどこにも居ない。
呆気にとられていた私を他所に、先生は迎えの二人と話を進める。
「騙しただなんて人聞きが悪いですねエリシア。確かに自由と幸せへの扉は開かれた筈です」
「こりゃ傑作だ! 自由と幸せだとさ! 聞いたかよアミュー!」
そこにいたのは、束ねた赤い髪に特徴的なギザギザの歯、黒い眼帯に軍服という出で立ちの女性。もう一人は肩につく位の色素の薄い紫の髪、対照的な農い赤フチメガネ、サイズの合っていない大き目の軍服、生気の感じられない半開きの目が印象的な女の子。
どちらも先生のことを知っているような口ぶりだった。はっきり分かる事は、自由も幸せも今ここには無いという事だけ。そして恐らくこれからも。
「先生、私は自由になれたのでは.」
「ええ、もう自由ですよ」
その口調はあまりに機械的で、私は震える体で先生の方を振り返った。だがそこに私の知っている先生は居らず、裂けんばかりに口角を吊り上げ、ニタニタ笑う女が一人立っているだけだった。本当に騙されたのだと、確信できた。
「ディアだっけか」
声の方へ更に振り返る。もうここに私の味方は誰一人居ない。何とかして逃げ出さないといけないと、体中が訴えていた。そんな時だった。
「アタシはエリシアだ! エリシア・フィルフォード! よろしく!」
「へっ!?」
赤い髪の女性はそういうと私の手をとり、両手で包み込んで握手をしてきた。そこには敵意も悪意も感じられず、不思議とこの人について行けばいいんだと思えるような感覚を覚えた。全然信用していなかったけれど、本当に私を【迎え】に来たかのような雰囲気だった。先生に不信感を覚えた私の隙を上手く突かれたのかも知れないと後々思ったけれど、この時の気持ちは間違いではなかった。
だがその融和的なムードに心の準備が出来ていなかった私は、手を引っ込めると二歩三歩と距離をとってしまった。まだまだしっかりとした気持ちの整理が出来ない。
「い、一体誰なんですか…! 私はついて行くとは決めてません…!」
「えー! せっかく気に入ったのにそれは困るな…。 アミュー、悪いけどもう決めたから払っておいてくれ」
私がそう言うと、エリシアは隣に居たアミューという女の子に何か指示を出した。アミューは私には目もくれず、すぐ横を抜けると先生の目の前で足を止める。
「これ、お金」
「ありがとうアミュー、これでディアのような馬鹿な家畜共の餌が買えますよ。交渉成立です。それはもう好きにしてください」
そういうと先生は施設の中へ消えていった。その様子をジーっと見ていたが、ああそうかと理解した。知りたくも無い事を全て理解してしまった。この施設が何なのか、【迎え】が何のことなのか、自分が何のために生かされていたのか、全部、全部。
それを知った瞬間、激しい憎悪が沸いてきた。食いしばった歯は砕けそうで、息がどんどん荒くなるのが分かってきて、握り締めた拳は行き場無く震えていた。
「まあディア、そういう事だ。これでお前は晴れて自由…とはいかないが、私たちと…」
「全部知ってて…!! 全部知ってて!! おか…おかねで…うあ…!!」
エリシアの口調は握手の時と何も変わっていなかった。楽観的というか空気が読めないというか、私の中の一番深いところであらゆる憎悪が過巻いているのが分かっていても、躊躇無く踏み込んでくるような人間だった。
心は怒りに打ち震えていたが、何か一言でも話すと涙が止まらなくなる気がしていた。己の無力さと、15 年間なんだったのかという絶望感で、案の定私はその場に伏して大声を上げて泣き続けた。ディアは傍に立って私を見下ろしていたし、アミューはその辺をウロウロ歩き回っていた。
そのままずっとずっと。幾ら泣いたか、泣きつかれて何も考えられなくなった頃にはもう日が傾きかけていた。二人は何も言わず、その場で私を待っていた。
「満足したか?」
力なく立ち上がった私への一言目はそれだった。もっと他にあるだろうと思ったが、慰めて欲しいわけではなかったので丁度良かった。死ねといわれたら死ぬくらい、何もかも空っぽだった。でもそれと同時に、本当に私を迎えに来たんだなと、そう思った。
伏していた時に着いた手のひらや膝の土を掃っていると、エリシアはそれを手伝ってくれた。そこまで過保護でなくても良いのに。
つまるところ私は二人に買われたのだ、実感は無かったが、もしかしたらこれは教われたのかもしれない。自由ではないけれど、幸せなのかもしれない。
「私は…」
聞きたいことが山ほどあった。自分の中で何となくそうだと思った事を、確実にする為に知っている事は教えて欲しかった。そういう気持ちで口を開くと、エリシアはそれに被せるように話し出した。
「いいかディア。お前もここの施設にいるやつも、あのババァが言うところの家畜だ。お前は生まれてすぐ親を殺されて、何もかも奪われてここで売り物として飼われてたんだ。お前である必要なんか無いんだけれど、丁度良かったんだろうな。丁度その辺にお前がいたんだよ」
ディアは土で汚れた私の白いワンピースを、「あちゃー洗わないと落ちねえな」なんて言いながら掃い続けている。私からすれば土汚れなんてどうでもいいし、そんなこと挟みながらするような軽々しい話ではないのに。恐らくこのどんな空気も読まず、誰の懐心も土足で踏み込むマイペースな雰囲気はエリシアの素なんだろう。
尚もエリシアは話を続ける。
「そうそう、ババァは 15歳になった子供を金持ちに売りつけて、自分はその金で豪勢に暮らしてるよ。知っている範囲でなら売られた子は性奴隷、人体実験、快楽殺人みたいな悪用から、軍属で戦場に投入されたり、ちゃんと幸せに暮らしてる奴までマチマチってところかな。15歳ってのはまぁ何だ、特に意味は無いらしいけれど、心も体もそこそこに育ってるから色々使いやすいんだろうな。まあ買ったアタシが言うのもなんだが、やり方は気に食わないし好きじゃないよ」
そこまで聞いて、今後は私がエリシアの手を撮った。突然の事にエリシアはポカンとして私の顔を見上げる。その面には「土を掃うのそんなに嫌だった…?」と書いてあるかのようだった。そうじゃない。
でも聞いておかねばならないことがあった。聞かないと信用できない事でもあった。
「待って! じゃあ私をどうするの…!?」
当然の質問だと思う。今そんな話を聞かされて、連れて帰ってボコボコにしますと言われた日には今ここで逃げなければいけない。でも薄っすらと、私は酷い扱いを受けないと思ったりもしていた。
「え、ああ、別に獲って食いはしないけど、金儲けの手伝いをして貰おうかなって」
「か…金?」
エリシアはポカンとした顔のまま答えた。「何だそんな事を聞くのか」といった顔をするせいで、まるで聞いた私がおかしいかのような気持ちになる。対する私も意味が分からず飲み込めず、間抜けな顔で返すしか出来なかった。
そんな私を見越してか、エリシアは思い出したかのように言った。
「あ、いい忘れてたな。私たち傭兵なんだよ。金を貰えれば何でもするタイプの傭兵。人助けもするし、悪い奴にも加担する。今はアミューとアタシしか居なかったから、どうしても人手が欲しくてね!」
「うん。私も嬉しい。」
いつの間にか私の時に居たアミューは照れくさそうにそう言う。エリシアは満足そうに私の手を握って、「一緒に頑張ろうなディア!」なんてまるで歓迎ムードだ。
ところで私はその異様な話に付いていけず、それどころか丸め込まれようとしている。15年間悪党の下で畜生同然の生活を強いられ、お次は傭兵集団に売り飛ばされて使われるのだ。自分でも何を言っているのか分からない。
「まあ、今は全然分からないだろうから、とりあえずウチに来い。話はそれからしようぜ」
エリシアはそう言うと私の手を引いて施設を抜けようとする。何が何だか分からないままアレやコレやと言われた私は放心状態でその場を動けないで居たが、力強く握られた手に引っ張られつまずきながらも駆け出した。アミューもそれに追随する。
「悪いようにはしない。」
私と併走するアミューはそう言ってニヤッと笑った。拒否する間もない。
施設の敷地を出ると眼下に町並みが見えた。施設が小高い丘にあることさえ知らなかったが、その初めてみる景色は目新しくて新鮮で、ちょっとだけワクワクした。
夢にまで見た施設からの開放は、色々ありすぎて疲れたけれど何だかやっぱり清清しいものだった。




