風の旋律
舞台は現代日本、高校から大学生くらいの少年が主人公。
家族を何者かに殺された主人公が、孤独に耐え、犯人に迫った顛末の物語。
風の強い夜だった。外で木々がざわめている。
山小屋の中のランプが、血の気の失せた青白い顔を照らし出す。
ピンとした空気があたりを支配していた。
「そう…」
身じろぎせずに佳那子は呟いた。
「あなたが推測したとおりよ」
ダイニングテーブルの上に置かれた手は、堅く握りしめられ、白くなっていた。
樹は唇をかみしめた。
湧き上がる激しい怒りに拳を握りしめて耐え、樹は口を開いた。
「警察へ行って、話してくださいますね」
佳奈子は震えながら、頷いた。
樹は瞠目した。
これで、終わるのだ。
両親の無実の疑いを晴らすことができる。
…菜摘も少しは浮かばれるだろう…。
外で一段と強く風が鳴った。
山小屋ががたがたと音を立て、暖炉の薪が高い音を立ててはぜる。
まぶたを閉じた樹の脳裏に、片時も忘れることなどできない、あの場面が鮮烈に甦った――。
******
「ブレーキが利かないんだ!」
父親のせっぱ詰まった叫び声が脳裏に響く。
「どうして!?」
母親の叫び声が交錯する。
一瞬頭が真っ白になりかけた樹だったが、とっさにシートベルトをはずし、後部座席から身を乗り出した。
すでにサイドブレーキは引いてあった。
だが、車は一向にスピードを緩める気配がない。
それなら…!
「父さん! 車体を壁に押し当てるんだ!」
摩擦でスピードが少しは緩むはず。そう声を荒げた樹に、父親は頷いた。
「ああ…! わかった…!」
すぐに車がギイギイと嫌な音を立て始めた。
頼む、止まってくれ…!
だが、スピードはほとんど落ちなかった。
急な山道の下り坂。なまじ路面が整備されている分だけスピードが増していく。
整備された国道とはいえ、街灯のない夜の山道だった。
ライトの先に何があるか、まるで見えないことが、恐怖をさらに高めた。
隣に座った妹の菜摘は、ぎゅうっと兄の服を握り締めていた。
前部の座席を掴んだ樹の両手からも、とめどなく汗が噴出していた。
ちくしょう、どこかに車止めの土砂でもあれば…。
樹は必死で目を凝らした。
唐突に、それは起こった。
あるはずものが目前で消えていた。
道が…ない!
道路が不意にとぎれ、目の前に真っ暗な崖が待ち受けていた。
父親が急いでハンドルを切ったが、間に合わなかった。
車内に絶叫がこだまし、激しい衝撃と伴に車は崖を滑り落ちる。
激しい衝撃に、全開にした窓から樹は体を放り出された。
もはや何が起こっているのか分からなかった。
全身を叩きつけられた衝撃で、一瞬息が止まった。
続けざま、激しい爆発音を聞いた気がした。
朦朧とした樹の視界に、紅蓮の炎が映る。
父さん…。母さんと…菜摘…は…。
樹の意識はそこで途切れた。
気がつくと、病院のベッドの上だった。
重傷を負い、身動きのならないまま、樹はそこで家族の死を知った。
どうして…。
樹は声を殺して泣いた。抑えようとしても、涙が止まらなかった。
どうしてだ…! なんで菜摘まで死ななきゃならない…!!
あれは事故じゃない。明らかに誰かの故意だった。
樹の中で暗い情念が沸き起こる。
必ず犯人を捕まえてやる…!
しかし事態は思わぬ方向に進んだ。
樹の証言するような証拠は見つからず、事件は事故として片づけられようとしていた。
そんな折、降ってわいたように父親の汚職の嫌疑がかけられた。
樹は耳を疑った。そんなことはあり得ないと思った。
父さんは絶対に、そんなことをする人間じゃない…!
しかし、動かぬ証拠があがり、樹の言葉には誰も耳を貸さなくなった。
…ちくしょう…ちくしょう…!!
誰かが、両親を利用していた。
そいつは両親と菜摘を殺しただけでなく、親父に罪をなすりつけ、うまくいったとほくそ笑んでいるに違いないのだ…!
樹はぎりぎりと拳を握り締めた。
全身を焼き焦がすような憎悪に、体が震え出すのを止めることはできなかった。
このまま終わらせてたまるものか…!
樹は高校には戻らず、たった一人で調査を始めた。
担任の教師が何度か連絡を取ってきたが、樹は無視し続けた。
すぐに、樹は退学処分を受けた。
問題行動を起こす犯罪者の息子に手を差し伸べようとする者は、もうどこにもいなかった。
バイトを続けながら、樹は必死で糸口を求め続けた。
しかし、手がかりはそう簡単に見つかるはずもなかった。
加えて、毎夜のように続く悪夢が樹を苦しめ続けた。
悪夢は何度でも、あの事故の場面を再現する。
必死で手を伸ばし、懸命に菜摘の手を掴もうとするのに、どうしても間に合わない。
最後には必ず、焼け爛れた家族の姿を目の前に突きつけられ、樹は絶叫した。
悪夢で目覚めた朝、樹は一人残された寂しさに震えた。
ぐっしょりと濡れたシャツが体に貼りつき、体温を奪っていく。
…どうして…おれは生き残ったんだろう…。
堪えようもないほど寂しかった。
どうしておれも死んでしまわなかったんだろう…。あのとき、一緒に…!
樹はぎゅっとシーツを握り締め、重い体を引き起こした。
台所で顔を洗い、そのまま乱暴に顔を拭う。
薄汚れた鏡に、飢えた獣のような眼をした男が映っていた。
…必ず、犯人に思い知らせてやる…!
ただ、犯人を暴いてやるという執念だけが、樹を支えていた。
五里霧中の中で、樹はかなり危険な行為をも犯すようになった。
いくつもの犯罪行為にも手を染めた。
気がつけば、界隈の不良たちからも倦厭されるようになっていた。
事件の前、樹はケンカらしいケンカをしたことがなかった。
はじめは、ほとんど殴られるだけの一方的な有様だった。
だが、まるで手負いの狼のような樹の気迫に押され、次第に周りの不良たちは樹を避けるようになった。
―あいつには関わるな。
いつしか、それが暗黙の了解となっていた。
樹は、自分などどうなっても構わないと思っていた。
自分の命にも、すでに執着を覚えなかった。
それでも、ただで死ぬつもりはなかった。
このまま、家族の死を闇に葬り去ることだけは我慢がならなかった。
次第に警察の世話になる回数が増えた。
刑事たちの多くは、樹の顔を見る度に忌々しげな顔をした。
蛙の子は蛙。そんなことなら何度も言われた。
そんな中、一風変わった刑事とも出会った。
その老練な刑事は、樹の無謀で非常識な行為に怒りつつ、その身を案じてくれているようだった。
樹の事情は全て把握しているようで、始めは頑なに心を閉ざしていた樹も、その刑事に会うときだけは、どこか安堵する自分を感じ始めていた。
だが、樹は結局、それ以上のことは何も話さなかった。
その刑事が何を言っても、犯罪まがいの調査を止めようとはしなかった。
父親の無実を証明する新たな証拠を突きつけなれければ、警察はあてにならない。
そう、思い知らされていたから。
いつしか4年が過ぎていた。
そして、20才を迎えた年、樹はついに犯人に辿りついたのだ。
それは、両親と仲のよかった職場の同僚夫妻だった。
樹の小さな頃から家族ぐるみのつきあいで、樹自身も好意を持っていた夫妻だった。
樹は激しい目眩を覚えた。
好意を持ち、信じていただけに夫妻が許せなかった。
憎いと思った。
殺してやりたいと何度も思った。
夫妻を追いつめ、この手で殺して、思い知らせてやりたいと。心底思った。
しかし、その度に思いとどまった。
このままでは、死んだ親父たちが浮かばれない…。
真相を暴き、両親の無実を晴らしたかった。
夫妻に、なんとしてでも両親の墓の前で謝らせたかった。菜摘の前で謝らせたかった。
しかし、証拠がなかった。
孤立無援の自分が何を言っても、誰も聞く耳を持ってはくれないだろう。
樹は歯を食いしばるようにして、その後も調査を続けた。
そしてついに、いくつかの証拠の断片を手にしたのだった。
事故から、既に5年が経っていた。
だが、手に入れた証拠だけでは、夫妻の犯罪を暴き、両親の無実を晴らすには不十分だった。
だから。
樹は夫妻に罠を仕掛けることにした。
危険な賭けで、自分自身をも危険にさらすことは充分承知していた。
だが、安易に死ぬつもりなどなかった。
どんなことをしてでも、夫妻に自供させるつもりだった。
それができるのなら、たとえ死んでも構わないと思った。
そして、ここまで来たのだ。
*********
樹は佳奈子を促した。
これで全てが、終わるのだ。
佳奈子は立ち上がり、樹は佳奈子の方へと歩み寄った。そのときだった。
背後に殺気を感じて振り向くのと、頭部に激痛が走るのは同時だった。
樹はバランスを崩して机に手をついた。
その手に、ぼたぼたと、生温い血が流れ落ちる。
視野の端に、手にバットを握った啓治の姿が映った。
とっさに身をよじったが、眩暈のせいで動きが鈍った。
再び背中に激痛が走った。
「あなた!」
佳奈子が叫ぶ。
床に倒れ込んだ樹に、啓治は再びバットを振り下ろした。
骨の折れる鈍い音が響いた。
体が痺れた。
むせ返りそうな吐き気を覚え、樹はあえぎながら視線だけを啓治に向けた。
戻って、いたのか…。
誤算だった。
啓治を出かけさせ、ここには戻ってこないよう仕組んだはずだった。
「邪魔は、させん」
荒く息を吐きながら、啓治は言った。
普段おとなしい印象を与える啓治の形相は、すっかり変わり果てていた。
「私をだまそうとしたのだろうが、そうはさせん」
啓治は顔を歪ませ、もう一度バットで樹を殴りつけた。
全身を激痛が貫く。
遠くで佳奈子の悲鳴が聞こえた気がした。
突っ伏したまま動かなくなった樹を見て、啓治はようやく、そばの椅子にどさりと腰を下ろした。
震える佳奈子を抱き寄せ、床に横たわる樹を見下ろす。
「誰にも、邪魔はさせん」
低い震える声で、啓治は再び呟いた。
外では、いつの間にか雨が降り出していた。
風が不気味な声で唸り声をあげる。
嵐だった。
山小屋のランプが、目前の惨状をほの暗く照らし出す中で。
樹は、意識が遠のくのを辛うじてこらえていた。
すでに体の感覚がなかった。
…これは…もう、助からねぇな…。
直感的に、そう思った。
だが、頭はどこかが異常なほど冷めていくのを感じていた。
「千春、ちゃんの、ためか…」
言葉を吐き出すのも、容易ではなかった。
だが、まだ喋れる…。
そう思って樹は笑った。
樹の声に、啓治はぎょっとして再びバットを握りしめた。
しかし、樹がもはや身動きなどできないことを認めたらしく、血走った瞳を樹に向けた。
「そうだ」
頸い声だった。
「千春のためなら、私は何でもする。どんなことでも、私はできる!」
樹は、焦点の定まらない目を啓治に向けた。
「親友の…家族を、殺す、こともか…」
啓治は立ち上がった。
「そうだ。お前もあのときに死んでいればよかったものをな!」
咄嗟に殺意が込み上げて、樹は、霞む目で啓治を睨み据えた。
「そんな…ことを、千春ちゃんが、喜ぶ、とでも?」
啓治が顔を歪める。
「おまえに何が分かる!
…何年も何年も、千春を苦しみから救えなかった私たちの、この気持ちがおまえに分かるか?
こんな無力な私たちにも、たった一つできることを見つけたんだ。
千春は助かる。その邪魔は誰にもさせん!!」
その事情を、樹も知っていた。
難病に冒された娘の千春。
助かるはずの手術が医療ミスで失敗し、このままでは死を待つ他になかった。
助かる可能性は、法を犯す中にしか残されていなかった。
そして、夫妻は犯罪者への道を選んだ。
この事実にたどり着いたとき、樹は呻いた。
夫妻の心情は、今の樹には痛いほど理解できた。
大切な人を助けられない悔しさ。
ましてや、目の前で苦しんでいる娘を前に、ただ見ていることしかできないとなれば、きっと耐え難いほどの苦痛だっただろう。
だが、だからといって、夫妻の行為を許すことは絶対にできなかった。
夫妻の犯罪に気づき、自首するように熱心に説得した両親を事故に見せかけて殺した。
その上、その犯罪の罪までなすりつけたのだ。
何の罪もない菜摘を巻き添えにして…!
樹は燃えるような眼差しを向けた。
「だから、菜摘まで、殺したと?」
こいつらは、自分の娘を助けるためなら他人の娘を殺しても構わないと、本気で思っているのだろうか。
「菜摘に、何の罪があった!!」
啓治は唇をかんで、目をそらした。
激しく嗚咽を漏らしたのは、佳奈子だった。
その目に涙が溢れる。耐えきれずに佳奈子はその場に崩れ落ちた。
「…あの車に…乗るはずじゃ、なかったのよ…」
「佳奈子!」
啓治が振り向いて、佳奈子の肩を掴む。
「あなた…達は…、菜摘ちゃんまで…あの車に乗るはずじゃなかったのに…!」
樹は目を見開いた。
「佳奈子…!」
啓治は佳奈子を抱きしめた。
「君のせいじゃない! 全ては僕一人でやったことだ。君のせいじゃないんだ…!」
啓治は佳奈子を必死で抱き寄せた。
「佳奈子…!」
樹は二人を見上げた。
そんな答えが返ってくるとは思わなかった。
何かに、胸が抉られたような気がした。
「あぁ…あぁ…!」
頑是無く泣く佳奈子と、必死で佳奈子をかき抱く啓治を、樹はただ黙って見つめた。
そして、ちらりとテーブルに目を向ける。
テーブルの裏側、テーブルクロスに隠れて、ごく小さなマイクが取り付けられている。
それは、今までの会話全てを録音しているはずだった。
樹の手に入れた証拠だけでは、夫妻の犯罪の全てを暴くことはできない。
しかし、この録音データがあればそれも可能になるはずだった。
佳奈子が自供を翻したときのための。
何より、自分が殺されたときのための。
最後の罠だった。
レコーダは山小屋の外にあらかじめ備え付けておき、その場所を証拠のコピーに記しておいた。
そのコピーは、明日になれば警察へ届くよう手配してある。
自分が死んでも、あの刑事なら…。
自分を案じてくれたあの刑事なら、これらをきちんと取り扱ってくれるだろうと思った。
樹は自分の血溜まりに頬を浸しながら、嘆息した。
この5年抱き続けていた激しい憎悪が、急速に無力感に変わるのを感じていた。
ひどくやるせなかった。
夫妻は許せなかった。
決して許すことなどできなかった。
だが、ただ憎しみだけを向けることもできなくなっていた。
他の人々を蹴散らしてなお、この人達は幸せになることができなかった。
底なし沼に足を取られ、娘だけはなんとか助け上げようとあがき、夫婦で必死にかばい合いながら、結局皆沈んでいっているのだ…。
樹は夫妻を見上げた。
ただ、むなしかった。
啓治は、嗚咽のおさまった佳奈子をいすに座らせ、胸元から注射器を取り出した。
小瓶から液体を注射器に移し、樹に向き直る。
「これが何だか分かるだろう。」
麻薬であることは容易に想像がついた。
一度に大量に接種すれば、命がないことは知っていた。
樹はぼんやりと注射器を見つめ、口を開いた。
「…そんなことを…しなくても、…おれはもうすぐ、死にますよ…」
全身が寒くて寒くて、仕方がなかった。
目を凝らそうと思っても、視野がぼけるのを感じていた。
啓治は驚いたように樹を見つめた。
「そうじゃない。君は麻薬に手を出して、ばかな若者同士のケンカで死んだことにしてもらうんだ」
言って、樹のそばにかがみ込む。
「あぁ…」
うまい考えだと思った。
実際、ここまでたどり着くために、様々な犯罪に手を出し、チンピラ連中とも交流があった。
麻薬に手を出したことはなかったが、証拠が何もなければ、自分の死はそのように処理されるに違いないと思った。
啓治は動きを止めて樹を眺めた。樹が何を考えているのか分からなかった。
いや。
啓治は頭を振った。
そんなことは、考えも仕方のないことだ。
こいつを殺せば、千春は守られるんだ…。
思い直して樹の腕をまくり上げようとした啓治は、佳奈子の声に押しとどめられた。
「待って、あなた」
啓治が佳奈子を振り返る。
「佳奈子…?」
佳奈子は啓治を見つめ、ぎこちない表情でほほえんだ。震える体を懸命に抑えていた。
「あなただけに負わせたくないの。わたしが、やるわ」
思ってもみない言葉だった。
今までずっと、私の後ろで、ただ怯えるようにしていた佳奈子。
啓治の胸の内が熱くなった。思わず目に涙が滲む。
たまらなく佳奈子が愛おしいと思った。
私はこれを、絶対に守らねばならない…!
充血した瞳に慈愛の色が浮かぶ。啓治は妻の体をかき抱いた。
「ありがとう…。君の気持ちはよく分かってる。でも、それで十分だ」
言って、妻の頬をそっとぬぐう。
「私がやろう」
樹は混濁する意識の中で、ぼんやりと二人を眺めていた。
知らない内に、口の端に笑みがのぼった。
二人の様が可笑しかった。
可笑しくて、可笑しくて。
―哀しかった。
目の前の夫妻は、明日には捕まるだろう。
それを知らずに、懸命になって自分を殺そうとする二人がひどく可笑しかった。
そして、夫妻が捕まったら…。千春ちゃんは、どうなるだろう?
それを思うと、わずかに胸が疼いた。
事件の全容を知り、両親の犯罪を知ってしまったら。
千春ちゃんはこの先、どうなるだろう…。
自分のせいで犯罪に手を染めた両親。
自分のせいで死んだ親友の家族。
自分を責め、自分の存在を呪い、苦しみ続けていくのではないだろうか。
…いや、耐え切れずに、自ら死を選ぶかもしれない…。
樹の胸にやるせなさが込み上げる。
一体、自分は何をしているんだと思った。
自分が味わった苦しみを、あるいはそれ以上の苦しみを、千春ちゃんに与えるだけではないだろうか…。
一瞬、このまま夫妻の犯罪を見逃してやろうかとさえ思った。
だが、それでも。
樹にはどうしても、両親と菜摘の死を闇に葬り去ることができなかった。
考えても、答えなど出るはずもなかった。
ただ無性に悔しく、哀しかった。
どうして人は、こんなにも弱く、哀れで、滑稽なんだろう…?
目に涙が滲んだ。
腕に注射針が喰い込む感覚など、もはやなかった。
この場の全てが滑稽な寸劇のように思えて、大声で笑い出したかった。
「なぜ笑うの…!」
そんな樹に、佳奈子がたまりかねて小さく叫ぶ。
樹は、佳奈子をぼんやりと見上げた。
ふいに、ひどく懐かしい気がした。
その感覚に、樹は自分でも戸惑いを覚える。
だが、哀れで可笑しくて滑稽でも。
懸命に生きているこの人々が、ひどく懐かしい気がした。
自然に、笑みがこぼれた。
「…あなた方を、許す、ことは、できない。…でも…」
樹はゆっくりとまぶたを閉じる。
全身を苛んでいた寒気が、急速に薄らいでいくのを感じた。
「おれは…、あなた方が…、好きだったんです…」
佳奈子は口を手で覆った。
嗚咽が止まらなかった。
自分が底なし沼にどこまでも沈んでいく気がした。
恐ろしかった。
何より自分自身が恐ろしかった。
啓治は震える佳奈子を必死で抱きよせた。
樹はもう息をしていなかった。
立ち上がらねば…。
啓治は懸命に自分を叱咤した。
これからすべきことを必死で自分に言い聞かせた。
自分がどんどん薄汚れていくのは分かっていた。
取り繕おうと、あがけばあがくほど、なお一層深みにはまっていく。
だが、立ち上がらねばならなかった。立ち上がらねば、前に進めなくなる。
自分はどうなってもいい。
だが、千春と、佳奈子だけは守らなければ…!
啓治は樹の遺体を山小屋から運び出し、遠く離れた繁華街の裏道に投げ捨てた。
山小屋の血痕は丁寧にふき取り、痕跡は全て焼却した。
嵐が、都合よく、全てを隠してくれるはずだった。
******
いつも通りの毎日を演出する夫妻の前に刑事たちが現れたのは。
翌日の、夜のことだった――。
END
当初はこの事件から派生するファンタジーだったのですが、実際に書いてみると、ここで終わった方がいいかなと思え、それ以降のお話は却下しました。
…というわけで、救いのないエンドかもしれません。
高校時代に書いた物語、つたない出来ですが、お読み頂ければ幸いです。