27 新たな流れ
東ヨーロッパ、ウクライナ。
その古い孤児院は、港湾都市オデッサ郊外にあった。
孤児院裏手の休耕地に、ウクライナ空軍の大型ヘリコプターが飛来する。
着陸と同時に側面ドアがスライドし、巻き上がる土埃に顔をしかめながら、中年の軍人が降り立った。
軍服の男は荒れた休耕地を渡り、廃墟のように老巧化した建物に近づく。
内部に入ると、薄汚れた白衣の研究者が待っていた。
軍人はブリーフケースを手渡し、威圧的に命じた。
「新しい被験者リストだ。明日から受け入れる。すぐに準備しろ」
「わかりました、エルマン所長」
軍人は古びた建物を見上げた。
「『先生』は?」
「中庭です」
孤児院は廃棄された古い学校施設を改修もせずに使っている。
泥で汚れた廊下のタイルは剥がれ、窓ガラスもあちこちが割れている。
エルマンは建物の中を足早に進んだ。硬い靴音が廊下に冷たく反響する。
突き当たりにあるペンキのはげたドアを押し開けた。
そこは四方を建物に囲まれた中庭だった。
芝生は枯れ、ガラス片や材木が散乱している。
その殺伐とした風景の中に、眼鏡の中年男がぼんやり空を見上げていた。
エルマンは男に声をかけた。
「カイル」
眼鏡の男は振り向き、小さく微笑んだ。
「帰って来たのか、エルマン」
「ああ」
カイルは女性の座った車椅子を押していた。
エルマンは女性の前にまわり、地面にしゃがみこんだ。
「ユウ、おはよう」
長い黒髪の女性はきょとんとした顔でエルマンを眺め、突然やわらかな笑顔を見せた。
それは相手が誰であるかを認識していない、無垢な笑みだった。
「交渉は、上手くいったのか?」カイルが訊いた。
エルマンは立ち上がり、厳格な表情を変えずに言った。
「ああ、子供達の食料、衣類、医薬品は、ほぼリスト通り支給される」
「それは、よかった」
カイルはほっと息を吐いた。
二人の男、そして女性も四十代で、長年の知己である雰囲気が漂っている。
カイルはユウの車椅子を押し、荒れ果てた中庭をゆっくりと進んだ。
並んで歩きながら、エルマンは言った。
「新しい子供達が来る。すぐに心理適性を調べて欲しい」
「新しい子か……」
カイルは思い出すように言った。
「そういえば、セルゲイやエレナ達はどうしている?」
「まだアメリカにいる」
エルマンは前を向いたまま言った。
「インディペンデント・マッチに何試合か出場する」
「ブレイン・バトル……」
不意にカイルは吐き捨てるように言った。
「あれは、悪魔の見せ物だ」
エルマンはうなずき、強く同意した。
「そうだ。ブレイン・バトルは精神の麻薬だ。射幸性が高く、一度でも勝つと止められなくなる。アメリカやEU圏では破産者が続出し、本当に酷いことになっている」
「早く止めさせなければ」
カイルは介護ハンドルを握った腕を震わせた。
「私はあんなゲームのためにブレイン・ギアを作ったんじゃない!」
「大丈夫、私はわかっている」
エルマンは宥めるように肩に手を置いた。
「落ち着くんだ、カイル」
小さくハミングする声が聞こえた。
車椅子のユウが、細く澄んだ声で何かの歌を口ずさんでいる。
エルマンにはわからないが、多分日本のメロディーなのだろう。
「ブレイン・ギアは君が作った。しかし、それはもう忘れよう」
エルマンはカイルの耳元で、諭すように言った。
「私たちがするべきことは他にある。そして、ユウの『心』を取り戻すんだ。そうだろう、カイル?」
「そう、そうだった」
カイルは頭を振り、声を絞り出した。
「その通りだ。私達には、やるべきことがある」
エルマンはじっとカイルの表情を観察した。動機と目的意識の刷り込みはまだ充分に作用しているようだ。
「カイル、聞いてくれ」
エルマンは改まった口調で言った。
「ニューヨークのカジノで使った『知覚ウイルス』はまだ不完全だった。もっと即効性のある、確実に破壊衝動を解放するプログラムを作って欲しい」
「不完全……」
カイルはぼうっとした顔でエルマンを見た。
「あれが、不完全だと?」
「そうだ。もっとダイレクトで強力なものが欲しい」
カイルは困惑した様子で視線を落とした。
「知覚ウイルスは『侵入するプログラム』だ。つまり保持者自身にも感染する。あれ以上強くしたら、運べなくなる……」
「保護スーツを強化しよう。あの黒いスーツだ」
「簡単に、言ってくれるな」
カイルは溜息をつくと、車椅子を押していた足を止めた。
二階の窓に子ども達の小さな顔が並び、三人を見下ろしている。
誰もが痩せていて表情が暗く、不安そうな眼をしている。
ここには身寄りのない孤児や、親が育児放棄をした家庭の子が集められていた。
「黒い知覚保護スーツは」
カイルは二階の子ども達から眼を逸らした。
「ウイルスの感染を防ぐ防壁プログラムを構築化したものだ」
「わかっている」エルマンはうなずいた。
カイルは神経質そうに眼鏡を押し上げた。
「子ども達は特殊な保護スーツに自分自身を強制的に押し込むことになる。強力な催眠暗示によってだ。これ以上スーツを強化すれば、その負担に耐え切れない」
「やってみよう。大丈夫、君ならきっとできる」
エルマンはカイルの肩を掴んだ。
「思い出せ、カイル。君はブレイン・テクノロジーの《《天才》》なんだ」
「……」
躊躇いながらも、カイルは小さく首肯した。
「よし」
エルマンは満足げに胸を張った。
「新しい子ども達は、明日から順次到着する。きっと優秀な素材がいるはずだ」
その時、車椅子のユウが急に額を押さえて背を丸めた。
「どうした、優?」
カイルはしゃがみこみ、心配そうに顔を覗き込んだ。
「また頭痛が始まったのか? 早く部屋に戻ろう」
優は『違う』と顔を左右に振った。
「優?」
「来る……」
優は震える声でいった。
「来る……もうすぐ……」
「来る? なにが?」
「ケイン」
「ケイン?」
「……あの子が……」
「ケイン……」
カイルはきつく眼を閉じ、呻くようにいった。
「それはいったい、誰なんだ?」
カイルが研究室に向かうのを見届け、エルマンは二階にあるオフイスに入った。大きなデスクいっぱいに書類が整然と並べられている。
エルマンは椅子に座り、インターフォンを押した。
「少尉を」
隣室に続くドアが開き、若いウクライナ空軍将校が入室して敬礼した。
「お呼びですか、エルマン所長?」
「セルゲイ・マルコフスキー他三名の現在位置は?」
「まだ大西洋です。貨物船ですので、オデッサ到着は三週間後になります」
「途中で遺棄しろ」エルマンは平然と言った。
「……どういう意味でしょうか?」
「わからんか」
エルマンは苛立って言った。
「報告では四人ともあのブレイン・バトルで強い精神的ショックを受け自閉症になっている。治療を受けさせる余裕はない」
若い少尉は顔をこわばらせ、所長を見つめた。
「どこかに置き去りにされてもわかりはしない、ということだ」
「ど、どこかとは……」
「お前に任せる」
若い将校はぎこちなく首を縦に振った。
「了解……しました」
エルマンは革椅子の背にもたれ、葉巻に火をつけた。
「ニューヨークでのバトルは強力なプロモーションになった。対戦相手であるバトラーの精神を破壊できると気づいた組織から、次々に接触がある」
「所長の計画通り、ですね」若い少尉は硬い声でいった。
「これは、祖国のためだ」
エルマンはじろりと睨み、声を低めた。
「この計画によって得た資金が、この国の未来を左右することになる」
「はい」若い将校は背筋を伸ばした。
「ところで、カイル・ローゼンタールとユウ・ミカドの会話は?」
「すべて盗聴しています」
「私がいない間に、何か変わったやりとりはなかったか?」
「いえ、これといった……」
「よし、下がれ」
敬礼した少尉はきびきびとした動作で部屋を出て行った。
エルマンは椅子に深く座り、高々と脚を組んだ。
机上のディスプレイは画面が分割され、施設内の様々な部屋が映されている。
粗末なパイプベッドの並ぶ寝室。がらんとした食堂。
そして倉庫のような部屋に蓋のないコクーンが幾つも並び、幼い子ども達が下着だけで横たわっている。
この孤児たちが催眠療法によって知覚ウイルスのキャリアとなるのだ。
「ニーズは世界中にある」
エルマンは歪んだ笑いを浮かべた。
「生産が追いつかなくなるな」
「お前は、全く理解できていないようだ」
突然、背中に悪寒が走り、エルマンは小さく悲鳴を上げた。
「知覚ウイルスの脅威を理解する者は少ない」
ざらざらとした声が響いた。金属音が混じったような耳障りな声だ。
「それが明らかになった時、この世界は全く別のものに変貌しているだろう」
「アレクシス……」
エルマンは声を震わせた。
椅子を回転させ、背後を振り返る。
黒いベンチコートのフードを被った男が、真後ろに立っていた。
「無理をするな、所長」
深く顔を覆う影の中で、男は嗤った。
「すべては大きな流れの中にある。お前一人の力など、微々たるものだ」
「いつ、アメリカから帰って」
「ユウ・ミカドは、何といったのだ?」
アレクシスは言葉をかぶせた。
構えたハンドガンの銃口を下げ、エルマンはかすれた声でいった。
「『ケインが、もうすぐ、来る』といった」
「ケイン……ケイン・ミカド……」
黒衣の男の姿が、ゆらりと動いた。
エルマンがデスクに向き直ると、男は部屋の中央に立っていた。
いつの間にか窓のカーテンがすべて引かれ、室内は薄暗くなっている。
「……アレクシス」
エルマンは慎重に声をかけた。
「グリーディ・アームズのサイモン・フィリップスは死に、ブロンクスのアンリミテッド組織は壊滅した。国際共通通貨連盟が米国国防総省を動かしたんだ」
黒衣の男は考えに耽るように、じっと佇んでいる。
エルマンは思わず咎める口調で言った。
「誰が直接連盟に仕掛けろといった? 私に無断で、勝手なことをするな!」
男は黙ったままだ。エルマンは叫んだ。
「アレクシス!」
黒衣の修道僧が暗い顔貌を向けた。
エルマンは息を呑み、机の下でハンドガンを握りしめる。
「連盟は既にこの研究所を察知している」
「な、なんだと?」
エルマンは顔色を変えた。
「誰かが迂闊に連盟に検索をかけ、逆探知されたのだ」
アレクシスは声もなく笑った。
「ネットのセキュリティレベルを上げろ。ここに防諜のプロはいないのか?」
「貴様!」
エルマンはハンドガンを構えた。
その瞬間、黒衣の男はエルマンにのしかかるように迫っていた。
「身の程を知れ」
手首に激痛が走り、エルマンは悲鳴を上げた。
ハンドガンを握った手首が内側にねじ曲がり、銃口がぴたりと自分の顔に向けられている。
「お前の本当の役割は」
黒衣の男は腕を伸ばし、尖った指先でエルマンの額を鷲掴みにした。
「カイル・ローゼンバーグを保護することだ」
額を掴まれたエルマンはか細い悲鳴を上げ、頭を振った。
「カイル・ローゼンバーグがこちらにありさえすれば、いずれ究極の『知覚ウイルス』を産み出すことができる。そして俺はすべての人類の破壊衝動を解放する。その淘汰の先にこそ、未来はあるのだ」
「いったい、な、何を言っているんだ?」
エルマンは声を震わせた。
「知覚ウイルスは、ブレイン・バトルで勝つためのものと……」
「お前には、到底理解し得ぬこと」
黒衣の男は息を漏らしながらいった。
「お前に暗示はかけぬ。カイル・ローゼンバーグのようにはな。しかし、連盟の手が迫っている」
額を掴んでいた指先が、ずぶずぶと肉の中にめり込んで行く。
「忘れるのだ。すべての俺の記憶を……」
デスクに向かったエルマンは、書類に素早く目を通してはサインをし、また次の書類を取り上げている。
黒衣の男は、その姿をじっと見下ろしていた。
「大きな流れが、動き始めている」
黒い影は、見えない顔貌を窓の外に向けた。
「ラボ・タワーに……」
その姿が霧のように周囲に拡散していく。
「日本に……行かなくては……」
つぶやきは空間を漂い、消えた。




