表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/28

17 記憶のトラップ


 コクーンの上蓋が閉まる。

 完全な暗黒と静寂の世界に包み込まれる。


 ケインは静かに腹式呼吸を繰り返した。

 手足の筋肉からはじめ、全身の力をゆっくり抜いていく。

 ブレイン・バトルのエントリー・フェーズと違うのは、誘導する声がコンピュータではなく生身の人間である点くらいだ。


『ブレイン・ギアを想起してください』

 ガイドの若い女性が囁く。

『あなたのブレイン・ギアを、想起してください』


 ─いい声だ。


 ケインは暗闇の中で、ちょっと笑った。

 知的な声だ。美人かな。まぁ、どうでもいいか。


 彼女は優秀な研究者。幼い頃から成績トップ。高校から飛び級で大学進学とか。

 そんなインテリは、賭け試合のブレイン・バトルなど見たこともないだろう。


 だが、もし見ているのであれば、驚くはずだ。


 今、ケインが構築している想像的構築体イマジナリー・ストラクチャーが、アカツキとはまったく別の形態であることに。


 

 それは黒く扁平な果実の種子のよう。

 鋭く尖った先端から細い二本の触手が突き出している。

 これはケインが深層探査のために新たに創り出した、探査プローブタイプのアカツキだ。


 脳の中の記憶深層では、ダイバーの知覚に深海の水圧と同じように積み重なった記憶の精神圧というプレッシャーがかかる。この圧感から知覚を保護するためには堅牢なイメージの外殻が必要だ。


 そのため、バトルとは全く違う形態のブレイン・ギアが生まれた。


 これから進んで行くのは、眠り続けているミオの脳内世界だ。

 ブレイン・バトルでエントリーする、構造の安定した仮想ステージではない。

 生身の人間の脳の中は、どんな突発現象が起きるかわからない未知の領域なのだ。


『構築完了を確認しました』

 ガイドの女性が囁く。

『誘導マーカーを認識できますか?』


 ケインはアカツキを暗黒の空間の中でぐるりと回転させた。

 視界下方に誘導マーカーの小さなリングが見える。


「誘導マーカーを認識。……接近する」


『了解。マーカーに進入後、被験者の記憶領域に移行します』


 ケインは空間をスキップする感覚で、アカツキをリング状のマーカーに進める。

 ハルトマン博士の声が空間に響く。


『ケイン、気分はどうかね?』


「大丈夫、問題ありません」


 アカツキは、誘導マーカーのリングをくぐり抜けた。

 その途端に加速する感覚があり、前方の誘導マーカーがぐんぐん急速接近してくる。

 そのリングをくぐり抜けると、アカツキは茫漠とした灰色の空間に投げ出されていた。



 ─ここは……。


 淀んだ沼のような、暗鬱で色のない世界。

 何度も訪れ、もう見慣れてしまっている風景。

 昏睡状態にあるミオの記憶領域だ。


 ハルトマン博士の声が無彩色の空間に響く。 


『被験者の脳内移行フェーズを圧縮した。負担を感じたかね?』


「いいえ」


『我々もそれなりに仕事はしているよ』

 博士はおどけて言ったが、すぐに硬い口調になった。

『誘導路を描出ドロー、AIプローブを回収』


 薄暗い灰色の空間に、か細い光の筋・誘導路が現れた。

 これはケインが前回ダイブした航跡を、AIプローブがトレースしたものだ。

 空間の奥に伸びる光の筋はちかちかと瞬き、安定していない。

 これでは進めない。ケインは困惑した。


『ちょっと待ってくれ。フィルターをかける』


 その瞬間、曖昧だった光の筋は、明確な一本のラインに収束した。


『新しい論理フィルターだ。これが《《正しい》》場所へ導いてくれる』


 ケインは即座にアカツキを発進、加速させる。

 アカツキは形態を細い紡錘形に変え、光の筋に沿ってぐんぐん進んでいく。




「探査フェーズへ移行。自分からダイブしました」

 ガイドの女性研究者が、驚いた顔でハルトマン博士を振り返った。

「あの、速すぎませんか?」


「彼は何度もダイブして経験値も上がっている。心配ない」


 ジェイミーはステージからぼんやりとスクリーンを見上げていた。


 ケインのただ一人の家族である、妹のミオ。

 もう何年も昏睡状態で入院していると、ケイン本人から説明を受けている。

 ケインはミオの記憶深層領域に繰り返しダイブを試みている。そして、ダイブするためには、毎回億円単位の莫大な医療料金が必要になる。

 ケインが獲得した賞金のほとんどは、妹のために費やされている。


「だからカジノ・ライツの契約もした。しかし、あれは間違いだった」

 ジェイミーは深い溜息をついた。

「完全に、僕のミスだ」



 その結果。

 ブレイン・バトルの元締め・国際共通通貨連盟査問委員会からの出頭命令。


 黒い子供への『残虐行為』には、世界中から猛烈な非難が巻き起こっている。

 厳しい制定が下されることは間違いない。ライセンス没収ならケインは収入を失う。記憶深層ダイブも最後になるかもしれない。

 だからケインは、これまで以上に必死になって進むだろう。


「頼むから、焦らないでくれ、ケイン」


 ジェイミーは、そう祈るしかなかった。




 光の筋に沿って、種子型のアカツキは進んだ。

 前方からタンポポの冠毛のようなセンサーを開いたAI探査艇プローブが急接近してくる。

 プローブはアカツキをかすめるように擦れ違い、後方に飛び去っていった。


 周囲に暗い雲の塊が現れた。


 断片化されずに、ひと繋がりとなった記憶の集合体だ。

 それらはやがて空間を埋め尽くし、屹立する崖のように進路を塞いでいる。

 アカツキはその密集した記憶階層に向き合い、静かに停止した。


 ケインはアカツキの中から、視界いっぱいに広がる巨大な崖を見上げた。


 ここまで迷わずに来られただけでも、大幅な時間の短縮になる。

 しかし。

 ここから先は。


 ─ケイン自身の判断で進むしかない。


 人間の記憶は時系列に沿って保存されてはいない。意識の表層に近く、繰り返し想起される記憶もあれば、昨日の出来事でも二度と思い出されないものもある。今のところ記憶のメカニズムに消去機能は発見されていない。すべての記憶は必ずどこかに保存されている。


 だが。

 もし本人にとって過剰なストレスをもたらす記憶が生じたならば、脳はそれを、どう処理するのだろうか。


 ケインは眼前にそびえる、記憶が細胞のように密集し、うごめく壁を見上げた。

 アカツキを壁に接近させ、微速で上昇を始める。

 なんとなくという曖昧な感覚に頼って、何度か方向を変えてみる。

 時間は刻々と過ぎていく。

 人間の集中力は有限だ。数時間も続かない。ケインの脳の疲労が限界だと判断したら、博士はアカツキを強制的に回収するだろう。


 ─ミオ、俺を導いてくれ。


 ケインは心の中で、強く念じた。


 ─ここに来れるのは、もう、これが最後かもしれないんだ。





 ミオが消えたのは七歳の時。

 今でも忘れられない、暗い雨の朝だった。


 行方不明になって三日後、ミオは東京の雑居ビル内で意識不明の状態で発見された。警察は営利誘拐ではなく、イタズラ目的の犯人に連れ回された末に放置されたと判断した。事件性はないとして、まともに捜査もしなかった。

 病院で検査を受けたが、ミオに乱暴された痕跡はなく、脳にも損傷は見当たらない。

 しかし、ミオは眠り続けた。この世界に戻るのを拒絶するように。

 医師は昏睡の理由として、強い心因性ショックを受けた可能性も考えられるといった。


 ─結局は、わからないのだ。


 中学生のケインは深く失望したことを覚えている。

 そして真相は自分で探し出すしかないと。


 ─連れ去られた三日間に、何があったのか。


 それだけがミオを現実に呼び戻す手がかりだ。

 あの日、ミオに何が起きたのか。


 アカツキはある記憶の前で停止した。気になる気配がする。

 それは、ほのかな『匂い』だった。


 ─この匂いは、なんだろう?


 ケインはアカツキの触覚をそっと差し入れた。

 ミオの嗅いだ匂いの記憶が、意識に流れ込んでくる。


 ─この匂いは、『雨』だ。


 あの日は朝から雨が降っていた。

 ミオは体調が悪く、小学校に行きたくないと駄々をこねた。

 中学に進学したばかりのケインはミオを叱りつけ、一人で施設を出た。

 振り返ると赤いランドセルを背負ったミオは、立ったまま玄関でべそをかいていた。

 それが施設でミオを見た最後の記憶。




 ケインは養護施設の廊下に立っていた。


 廊下の電気は消え、薄暗い。建物の中は陰気でカビ臭かった。

 左右の部屋に子供たちの姿は見えない。子供は、一人もいない。

 窓の外は激しく雨が降っている。

 廊下の奥を、幼い女の子が横切った。


 ─ミオ?


 ケインは走り出した。廊下の突き当たりを曲がると玄関がある。

 赤い傘をさしたミオが立っていた。

 激しい雨の中を歩いて遠ざかっていく。


 ─ミオ! 行くな!


 玄関から飛び出そうとすると、突然雨の勢いが増し、水の(とばり)となって行方を遮った。

 ケインは後ずさり、施設の中に戻った。


 ─これは、あの朝の記憶だ!

 

 どこかにこの後の記憶に繋がる入り口があるはず。

 ケインは施設の中を走り回った。階段を駆け上がり、狭い自室に飛び込んだ。

 二段ベッドの下段に小さなテディベアがちょこんと置かれている。

 ここは、ミオのベッド。そしてこれは……。

 雑居ビルの階段で発見された時、ミオはこのテディベアを抱いていた。施設では与えられていなかった、このぬいぐるみを。

 ケインはテディベアを手に取ると、ベッドに座った。

 ふと、窓の外を見る。雨の風景は左から右へと、移動していた。


─繋がった!


 ケインは息を呑んだ。ケインは車の中から、ミオの視点で外を眺めている。

 膝の上には真新しいクマのぬいぐるみ。隣に座っている若い男。

 男はこちらを向いて笑い、温かい飲み物を手渡す。


─飲んではいけない!


 ケインは叫んだ。しかし、ミオはカップを持ち、口をつけた。

 柔らかな湯気が鼻腔をくすぐる。

 口の中に、温かいお茶の味が広がった。

 そして、暗闇が訪れた。


─どうなったんだ?


 ケインは闇の中で揺さぶられている。何人もの手で小突かれているようだ。

 突然、激しい痛みが下腹部に走った。

 身体が荒々しく突き動かされ、激痛は何度も襲って来た。

 ケインは闇の中で絶叫した。


─やめろ!


 警察は何も言っていない。施設で広まったのは悪意ある噂。

 しかし、本当だったのだ。


 やはりミオは……乱暴されていた。



─お前は本当は知っていた。妹は犯され、穢されたと。


─やめろ!


─お前の中の妹は美しいままだ。しかしその身はどろどろに腐っている。


─やめろーッ!


─それがお前の本心だ。お前自身が妹を辱めたのだ。


─やめてくれ……。


 ケインは暗闇の中で頽《(くずお》れた。


─認めるのだ。その通りだと。


 声の調子が変わった。おかしい。俺は誰と話している?


─お前は……俺自身ではないのか?


 くつくつくつ、と密かな笑いが漏れる。


─ここに来るまでずいぶん手間取ったものだ。失望するところだった。


 声は言った。それはもう、明らかに別人の口調だった。


─お前は、誰だ!


─よく聞け。


 深く響く低い声。こいつはいったい……?


─妹の『魂』を抜き、記憶の深層に沈めてある。


 ケインは戸惑った。意味が分からない。


─どういう事だ?


─妹の『魂』は深々層への中間点にある。まずそこに至らねば『障壁』へは到達できぬ。


─障壁?


─生命記憶の底、異世界との境界面だ。


─いったい、何を言っているんだ……?


 ケインは激しく混乱した。意味が全く分からない。


─行け、御門の子よ。


 不意に声は威厳を込めた口調になった。


─妹を救いたいのなら急ぐのだ。時間は多くは残されてはいないぞ。



 何かがおかしい。

 なぜミオの記憶の中に、こいつがいる?


 まさか。


 すべて……こいつが仕組んだことなのか?


 アカツキの機体が赤く光った。燃えるように輝き出す。


─お前は誰だ!


 ケインは暗闇に向かって叫んだ。


─答えろ! 


 アカツキが激しく振動を始める。ケインは絶叫した。


─お前は誰だァァァァ!




「強制回収!」

 ハルトマン博士はうわずった声で叫んだ。

「被験者はパニックを起こしている! 構築体を維持! 分解させるな!」


 ステージの上でジェイミーは立ちすくんでいた。

 研究施設の中が騒然としている。突然、何が起きたのか?


「緊急離脱フェーズに移行します」

「意識レベル急速に低下。構築体が維持できません。分解します」


 スタッフ達の緊迫した声が交錯する。


「緊急離脱」

「離脱完了。被験者浮上中」

「アカツキが分解。消滅します」


「なんだって!」

 ジェイミーは叫んだ。

「ケイン!」


「大丈夫だ」

 博士は大きく息を吐いた。

「アカツキは消滅するが、彼の意識は浮上中だ。間もなく回収できるだろう」


「ハルトマン博士!」ジェイミーが叫ぶ。


 博士は額の汗をぬぐい、痩せた身体をぶるっと震わせた。


「危うくロストするところだった」


 ロストとはブレイン・ギアと共に人間の意識までも消滅することだ。

 その場合、植物人間となるか、蘇生しても全く別の人格が現れることがある。


 ジェイミーはハルトマン博士に詰め寄った。


「博士、どうなっているんですか?」


「それは、私が聞きたいくらいだ」

 老博士は険しい表情でジェイミーを睨みつけた。

「記憶の中にトラップが埋め込まれていた。とても、信じられん」


「トラップ?」 


「理論的には可能だが……」

 ハルトマン博士は不審の眼をスクリーンに向けた。

「……いったい、誰がそんなことを?」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ