15 現実への帰還
ケインは、うっすらと眼を開けた。
白い天井、白い壁、白いベッド。ここは、病室だ。
妙に懐かしさを感じる。
どうして病室を懐かしいと感じるのか、自分でもわからない。
子供の頃に入院していた記憶はないし、妹のミオがずっと入院している病院は、白い内装ではなく薄い灰色だ。
—ミオ。
俺の、大切な、妹。
妹のミオは、父も母も、知らない。
シングルマザーの母親はミオを生んだ翌月、突然、姿を消したからだ。
そして俺は、父親を知らない。
母は父について何も語らなかった。ケインが五歳の時、妹のミオが生まれた。
ミオの父親が誰なのかも、母は教えてくれなかった。
ケインは眼を閉じた。
まぶたの裏側に、母の顔が浮かぶ。
子供心にも美しい人だったと思う。
しかしその人はある日家を出て、それきり帰ってこなかった。
事故なのか、本人の意思なのか、今でもわからない。
母親の失踪は、行政から育児放棄として処理された。
母親の縁者から受け入れを断られたケインとミオは、同じ境遇の子供を集めた養護施設に入れられた。
ケインは泣くこともできなかった。絶望し悲しんでいる時間さえなかった。
ケインだけでなく、幼い妹を守り、生きて行かなければならなかったからだ。
母が消えた理由を確かめたかった。
しかし現実の厳しさの中で、そんなことはいつしかどうでもよくなってしまっていた。
養護施設での生活は、ただ辛く苦しいだけだった。保護者である職員さえも信用できず、妹を守り、自身を守るために必死に生きる毎日だった。
十年が過ぎた。
高校生になると同時に、ケインは養護施設を飛び出した。とにかく金が必要だった。妹と二人で生きる、それだけのために。
そしてケインは……。
ブレイン・バトルというゲームで特異な才能を発揮し、プロのプレイヤーとして賞金を稼ぐようになっていた。
「ミオ!」
ケインは自分の叫びで目を醒ました。
頭上には微細に明滅する透明なリングが浮かんでいる。
「動かないで、ケイン」
柔らかい女性の声がした。
「脳神経の損傷を調べているの。もうちょっとよ」
この声は聞き覚えがある。思い出せ、この女性は……。
「サラ……」
ケインは口を開いた。かすれていて別人のような声だった。
「サラ・アルブライト……」
視野の中に、明るい金髪の女性が現れた。ずっと年上だ。
「ハーイ、ケイン。呼んだかしら?」
「サラ……」
ケインは子供のように繰り返した。
「リラックスして、ケイン。いろいろ考えないようにね」
サラは微笑むと、ケインの視野から姿を消した。
ケインは治療シートに横たわっている。
手足は麻酔で弛緩し、頭部は厳重に固定されている。
そこは定期的なメンテナンスに訪れる、セント・トーマス病院の脳科学医療研究室の治療室だった。
セント・トーマス病院はハドソン川に面したウエスト・ニューヨークにあり、マイス社直轄のブレイン・バトラー専門医療機関がある。
数年前からケインは、ここで電位ネットワークシステムの検査とフィードバック精度向上のバージョンアップを継続的に受けている。
サラ・アルブライトは主任技術者であり、ずっとケインの担当だ。
ケインは眼を閉じた。
ここにいるのは、カジノ・ライツでのブレイン・バトルが終わり、予定通り検査に訪れたということだろうか。それにしてもよく思い出せない。あのバトルはどうなったのか? ケインたちのチームは、勝ったのだろうか?
飛び交う黒いマトリョーシカ、異形の黒い子供達。奪われた視覚、そして……。
ケインは、大きく目を見開き、愕然とした。
バトルの記憶が途中から消えている。今までこんなことはなかった。
あのバトルで、何があったんだ?
もしかしたら、記憶が欠落するほど脳に損傷を受けてしまったのだろうか。
黒雲のような不安感が沸き起こり、急速に広がって行く。心拍数があがってきて、いても立ってもいられない気分になった。
どこかでコンピュータの警告音が鳴り出した。
男性の看護士が現れ、点滴チューブに注射器を差し込む。とたんに頭が朦朧としてくる。
ケインの意識は、深い闇の中に沈んで行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
眼を開けると、白い天井が見えた。
白い天井に、白い壁、白いベッド。まだ、同じ夢を見ているのだろうか。
ケインはゆっくりと左右の腕を持ち上げた。
目の前に、両手の指が見える。
十本の指は忠実なマニピュレーターのように動く。ケインは安堵の息を吐いた。
これは現実だ。俺はまだ、生きている。
「おはよう、ケイン」
眠たげな声が聞こえた。
聞き覚えのある若い男の声だ。ケインはベッドから上体を起こした。
狭い病室の中で、車いすに座った白人の若者が大あくびをしている。
ぼさぼさの髪、地味なフードパーカー。どこにでもいそうな大学生。
だが、そんな格好をしていても、なぜか育ちの良さは隠せない。
「ジェイミー」
ケインは自分のマネジャーに向かって言った。
「なんだその車椅子は?」
「もちろん、この病院で借りたんだ」
ジェイミー・パッカードは答えにならない返事をした。
ケインは病室を見回した。窓はなく、壁には時計もない。
「今日は?」
「24日」
「……3日も寝ていたのか!」ケインは叫んだ。
ジェイミーは髪の毛をがしがしとかいた。
「もう、目が覚めないのかと思ったよ」
「じゃぁ、俺はそんなに……」
「大丈夫、脳には損傷はない。サラが言っていた」
ジェイミーはまたあくびをした。
「麻酔医がドジったんだよ」
「そうか……」
ケインは頬を両手で叩いた。まだ頭がぼうっとしている。
「とにかく、ケインの目が醒めてよかったよ」
ジェイミーがニコッと笑う。
「今日は、24日だったな?」ケインは再び訊いた。
「そうだよ。思い出した?」
「!」
ケインはベッドの上で飛び上がった。
「ボルチモアに行かなければ!」
「そう」
「今、時間は?」
「夜明けまであと一時間」
「充分だ。九時に間に合えばいい。車は?」
「もちろん用意してある」
ジェイミーは両手を上げて背伸びをした。
「じゃぁ、でかけようか」
ケインは立ち上がろうとしたが、ふらついてベッドに腰を落としてしまった。
無理もない、三日間も眠っていたのだ。
ジェイミーはケインの様子を観察しながら言った。
「ケイン、いろいろ動きがあった。情報が溜まっているよ」
「だろうな」
ケインは脚の筋肉を平手で叩く。
「これに着替えて」
手渡された紙袋には、病院職員の制服が入っていた。
「なんだこれ?」
ジェイミーは静かに言った。
「君には監視がつけられている。連盟の査問委員がお呼びだよ」
「……何があった?」
「後で話すよ。そうそう、マスクを忘れないで」
ケインは病院職員の制服に着替え、車いすの後方に立った。
「歩けるかい?」
「あたりまえだ」
ケインは念のためまた足を叩き、介助ハンドルを掴んだ。
「部屋を出て右。十メートル先の角を左。エレベーターで地下三階」
ジェイミーは簡潔に指示しながら、取り出したスマートデバイスをタップした。すぐに相手が出る。
「いいよ、始めて」
数秒後、ビル中に火災警報が鳴り響いた。
ケインはドアを薄く開け、廊下を窺った。
黒いスーツの男が慌てた様子で走って行く。
ジェイミーの乗った車椅子を押し、ケインは落ち着いた足取りで病院の廊下を進んでいった。
火災警報はすぐに止み、病院は再び夜明け前の静けさを取り戻す。
エレベーターのボタンを押し、到着を待つ。
振り返ると、廊下の奥から黒人の警備員がこちらを見つめながら歩いて来る。
ドアが開き、ケインは車いすを押して素早く乗り込んだ。
「おい、ちょっと」
黒人警備員は腰の電撃警棒に手をかけ、早足になった。
「ちょっと待て!」
警備員の手がかかる寸前で扉は閉まり、エレベーターのかごは下降を始める。
ケインは、ほっと息を吐いた。現実のバトルは回避したい。
地下三階の駐車場に着くと、ジェイミーは車いすから立ち上がった。
「こっちだよ」
ブラックボディのセダンがあった。目立たない車だ。
ケインは助手席に座り、マスクをむしりとった。
「ジェイミー、説明してくれ。あのバトルで何があったんだ?」
ジェイミーはカーナビに向かい声をかける。
「ルート設定。メリーランド州ボルチモア、ジョージ・ロビンス大学病院」
「ルートを設定しました。ボルチモアまではハイウェイで約三時間のドライブです」
カーナビが答え、フロントグラスに誘導アイコンが浮かび上がる。
ジェイミーは素早く車を発進させながら言った。
「ケイン、君に提案がある」
「なんだよ急に、改まって?」
「僕の言うことを冷静に聞いてほしい」
車はスロープを駆け上がり、地上に出た。
夜明け前の町はまだひっそりと静まり、道路は行き交う車も少ない。
車はハドソン川沿いの道を南に向かう。対岸のマンハッタンは不夜城のように輝き、流れる川面にその灯りを映していた。
「ケイン、聞いてる?」
「ああ、聞いてるよ、ジェイミー」
「今日、これから君がすることは?」
「……深層記憶探査。ミオの記憶深層に、ダイブする」
「ブレイン・ギアでね」
「大丈夫だ、ジェイミー。今度は上手くいく」
ケインはシートにもたれた。
「絶対に、ミオを見つけてみせる」
ジェイミーはステアリングを神経質そうに指で叩いた。
「この間もそう言った。批判しているんじゃない。でも、もっと慎重さが必要だと思う」
「どういう意味だ?」
「精神を乱したくない。知らないでおいた方がいい」
ジェイミーは声を落とした。
「ブレイン・ギアが安定しなくなる」
「あのバトルのことか?」
「そう」
「何があった? あのブレイン・バトルで何が起きたんだ!」
「だから……」
ケインは運転するジェイミーを見つめた。
「大丈夫だ。約束する。俺は大丈夫だ。影響は受けない」
ジェイミーは口を硬く結んだまま、前方を注視している。
ケインはできるだけ落ち着いた声で言った。
「真実を知りたい。いや、知らないままでは、ダイブできない」
ジェイミーは小さく首を振った。
「頼む、ジェイミー」
「……わかった」
ジェイミーは怒ったように言った。
「後ろのバックにノートブックがある」
ケインは後部シートのバッグを引き寄せ、中から旧型のノートブックを取り出した。
「この動画ファイルか?」
ジェイミーは重い溜息をついた。
「そう。中継スタッフから流出したらしい。凄い再生回数になってるよ」
ケインはパッドを操作した。仮想カメラの映像素材のようだ。
「ケイン、これを使ってくれ」
ジェイミーはワイヤレスイヤフォンを差し出した。
「僕はもう、あれを聞きたくない」
ジェイミーは硬い声で言い、前方を見据えた。
ケインがその言葉の意味を理解するまで、五分とかからなかった。