10 試合放棄
「どうしたの、ケイン?」
闇の中から、エヴァの声が聞こえる。
「ギアの挙動が変よ? ふらついているわ」
ケインはアカツキの中で唇を噛み締めた。
—いったい、どうやったんだ?
いつ、どこで、どうやって、あいつらは俺の視覚を奪ったのか?
ブレイン・バトル・システムへの侵入? いや、そんな高度で難易度の高い攻撃をバトル中に行うのは困難だ。
もっと、直接的な攻撃。
直接的な。
—そうか!
「油断した」ケインは声を絞り出した。
「油断?」
エヴァの声が飛ぶ。
「どういうこと? ケイン、説明して!」
「アカツキの視覚が奪われた」
「え?」
「眼が見えない。何も、見えない」
全員が黙り込む。
ケインはできるだけ冷静に言葉を続けた。
「おそらくギアから脳への視覚伝達経路が遮断された」
「おい! わかるように説明しろ!」混乱したルーサーがわめく。
「何かのウイルスが、ブレイン・ギアに侵入したんだ」
「ウイルスですって? そんな攻撃は完全に規則違反じゃない!」
憤然としてエヴァが叫ぶ。
「このバトルは無効よ!」
「その通りだ。だが」
ケインはアカツキの見えない眼を、声のする方向に向けた。
「奴らは攻撃してくる」
「まさか?」
かすれた声でエヴァは笑った。
「だって、バトルは無効なのよ?」
「無効になればカジノ・ライツは莫大な賭け金を失う。ゴールドバーグがそんなことをする訳がない。現に無効の判定をする審判は消えてしまった」
「じゃぁ、オフェンスの一人が眼が見えなくなったままででバトルを続行しろっていうの?」
エヴァはヒステリックに叫んだ。
「いや、一人じゃない」ルーサーが言った。
「なんですって?」
「ケインのキャンディマンが変だ」
「ルーサー、何を言っているの?」
「急に体が痺れたみたいになった。手足がまともに動かねぇ」
ルーサーは声を震わせた。
「俺はいったい、どうしちまったんだ?」
「キャンディマンもウイルスに侵入されたの?」
エヴァが金切り声を上げた。
「信じられない!」
「落ち着いてくれ、エヴァ!」
「連盟に提訴するわ!」
「落ち着くんだ!」
「許せない、こんな」
「エヴァ!」ケインは怒鳴った。
静かになった。エヴァの荒い息づかいが聞こえる。
ケインは見えないエヴァに向かってゆっくりと首を振った。
「このバトルは完全に仕組まれている」
「犯人はわかってる!」
横からルーサーが叫ぶ。
「ゴールドバーグの野郎だッ!」
「カジノの支配人ができるレベルじゃない」ケインは言った。
「確かに、そうね」
気を鎮めようと、エヴァは大きく息を吸った。
「八百長試合にしては手がこみ過ぎだわ」
「ロシアチームに勝たせるだけじゃない。何か別の目的がある。審判を買収し、ブレイン・ギアに障害を起こすまでして実行するほどの何かだ」
エヴァとルーサーは黙りこんだ。
「そして、これ以上ここにいては危険だ」
「おい、それは大げさだろ? 残り時間をなんとか逃げ切ろうぜ」
「俺は目が見えない。あんたは身体が痺れてる。どうやって逃げるんだ?」
「なんとかなるだろ! あと少しだ!」
「それも想定されている。エヴァ、残り時間表示は?」
夜空を見上げたらしいエヴァが、唖然とした口調で言った。
「……クロックが止まっているわ」
「くそったれーッ!」ルーサーが叫ぶ。
その時、ケインはかすかに動くものの気配を感じた。
—なんだ?
ケインはアカツキの中で意識を集中させた。
どこまでも静かな水面をイメージする。
その水面に一滴の雫を落とす。
素早く広がっていく波紋は『感覚の輪』だ。
その波紋は減衰することなく、水面を走っていく。
波紋感応法。
一種の感覚レーダーだ。ケインはこの技を誰にも明かしていない。
広がっていく『感覚の輪』が乱れた。
遠くから接近して来るものがいる。
それも急速に。
すべての方向から。
まずい!
「エヴァ!」
ケインは叫んだ。
「管制室にギアの回収を要請しろ!」
「何を言い出すの、急に?」
「早くここから脱出するんだ!」
「ノーノー! それはだめだ!」
ルーサーが叫ぶ。
「試合を放棄したら金が入らねぇ!」
「回収を要請するんだ!」
ケインは繰り返した。
「すぐに!」
「いやよ!」
エヴァは憤然として答えた。
「まだ何か方法はあるわ! 諦めずに考えるのよ!」
「時間がない!」
「なぜ? 理由は?」
「接近されている! 全方向から!」
「嘘! 何も見えないわ!」エヴァは叫んだ。
「このままだと奴らの攻撃を受ける!」
「……」
「エヴァ! 急げ!」
ごくりとつばを飲む音が聞こえた。
「ケイン……本当なの?」
「ケインを信じてくれ! 早く要請するんだ!」
「……」
「エヴァ!」
「わかった」エヴァは答えた。
「おい冗談だろ? よせ、やめろ!」ルーサーが叫んだ。
「教授、いいわね?」
エヴァの呼びかけに、ゴーレムは答えない。
「早く!」
「コントロール!」
エヴァの凛とした声が響く。
「チーム・レッドはバトルを放棄する! これはチーム・コマンダーによる正式な申請である。速やかに全員の回収を要請する!」
「なんてこった!」ルーサーが呻いた。
しかし、空間はしんと静まりかえったままだ。
「管制室! 聞こえないの? 回収よ! 」
夜空から、柔らかなコンピュータボイスが響いた。
「現在、ブレイン・バトル・システムに衛星回線トラブルが発生しています。ステージは現状のままホールドされます。復旧までしばらくお待ちください。現在……」
「おい、嘘だろ……?」ルーサーがつぶやく。
突然、エヴァが悲鳴を上げた。
「どうした?」ケインは叫んだ。
「き、急に現れたわ! 黒い分身よ!」
「どこから現れた?」
「ま、まわりの地面から、いきなり!」
「ステージの地下……」
ケインは理解した。その手があったか。
「ステルスじゃなかった。座標平面をすり抜ける暗証コードを持っているんだ」
「完全な不正行為じゃねぇか!」ルーサーは怒鳴った。
「エヴァ、敵は何体いる?」
「もう、いっぱい! いろんな大きさの黒いマトリョーシカが取り囲んで」
エヴァはふいに口をつぐんだ。
「どうした?」
「ボディが割れているのがあるわ。そこから、黒い顔がこっちを見ている」
エヴァは戸惑ったように言った。
「あれはなに? 子供みたい……」
「くそったれ! あれが本体だな!」
「エヴァ! それは、何人いる?」
アカツキの肩にすとんと軽い重みが加わった。耳元でエヴァの声が聞こえる。
「黒い子供は、三人よ」
「エヴァ、危険だ。ゴーレムから出るな」
ケインは肩の上の猫に言った。
「残念だけど……」
エヴァは落ち着きを取り戻し、冷静になって言った。
「こちらにはもう攻撃オプションはないわ。相手のチェックメイトね」
「ちっくしょう! マジかよ!」ルーサーが絶望の声を上げる。
「チーム・ブルーへ! チーム・レッドは試合を放棄する!」
エヴァは声を張り上げた。
「私たちの負けよ!」