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エピローグ はじまり


 ペントハウスの窓からは、眼下に広がるセントラルパークが一望できる。


 隙間なくビルが建ち並ぶマンハッタンでも、その公園の上空だけは切り取られたように広大な空間が開かれ、晴れ渡った秋空が広がっていた。

 穏やかな日差しを浴びた公園の緑は少しくすんで見え、樹々の間からは湖水が銀色に瞬いている。


 光に満ちた風景に背を向け、窓際に幼い少女が立っていた。


 年齢はおそらく五、六歳。

 上質な白絹のワンピースを着て、小さな身体をしゃんと伸ばし、誰かを待っているように佇んでいる。

 金髪の少女は幼いながらも気品のある顔立ちで、眉の上で切りそろえられた前髪が聡明な印象を与えている。


 窓から差込む日差しに、少女のうなじの産毛がプラチナの細糸のように光る。

 

 部屋の奥でドアの開く音がした。

 少女は眼を閉じると、ゆっくりと振り返った。


 毛足の長い絨毯を踏みしめる深く重い靴音。

 その音が近づくと空気が揺れて大きな存在が身体の前に感じられる。

 こうして眼を閉じて、暖かい波動が押し寄せるのを感じるのが、少女は好きだった。


「すまない」

 チェロのように低く豊かに響く男の声。

「待たせたね」


 少女は眼を閉じたまま顔を上向け、にっこりと微笑んだ。


「いいえ、お父様」


 大きな手が少女の頭を優しくなでる。温かさに頭全体が包まれるようだ。


「おいで」


 男の声が言い、少女は高々と抱き上げられた。

 いつもの甘い芳醇な香水が鼻腔をくすぐった。

 眠たげな子どもが甘えるように、少女は小さな頭を男の肩に持たせかける。


 眼をつむったまま父親に抱きかかえられていると、自分の身体の重さが消え、本当に宙を飛んでいるように思える。

 少女はこの感覚が大好きだった。この瞬間がずっと続いてくれることを願った。


 少女を抱いて父は移動する。

 ドアの開く音がして古い書物独特の匂いがした。隣の書斎に入ったのだ。

 少女は待機している人々の気配を感じる。

 何かを期待しているような、抑制された心のざわめきも。


「さぁ、お座り」


 父は少女を革張りのソファにそっと降ろした。少女は小さく落胆の息を漏らす。

 手に伝わる固くて冷たい革の感触が、少女を少し不安にさせた。

 すぐ隣のソファが重く軋み、大きな父が座ったのがわかる。

 父の豊かな声が響いた。


「練習したかね?」


 父は必要なことだけを訊く。非常に多忙なのだと少女は知っている。

 少女は黙って、こくりとうなずいた。


「本当に?」

 柔らかいが、嘘を許さない声が訊く。


 少女は返答につまり、正直に言った。

 「少し……だけ」


 父は愉快そうに低く笑った。チェロの弦が響くようだ。少女はほっとした。


「よし、始めよう」


 父のその言葉で、周囲の人々が一斉に動き出した。

 素早くキーを叩く音、小声で交わされる技術用語ばかりの会話。

 不意に少女の頭に堅い金属製のヘルメットが被せられる。

 いつもの感触とは違う。


「最新のブレイン・デバイス」

 父は簡潔に言った。

「一時間前に完成した」


 両目はヘルメットに覆われて、何も見えない。

 軽い耳鳴りがして、鼻の奥がつんとなる。

 頭の中がもやもやと動くような感覚が沸き上り、後頭部に刺すような痛みが走った。少女は反射的に革の肘掛けに指を立てた。


「大丈夫。息を吐いて。リラックスするんだ」


 父が言うのなら大丈夫。

 少女は言われた通りに息を吐き、身体の力を抜いた。


 暗黒だった少女の視界に、突然青い空間が広がった。

 上下左右に網目のような細いグリッドが瞬くと、細分化された無数のピースがちかちかと明滅しながら裏返っていく。次の瞬間、少女の周囲に立体感のある映像が現れた。


「見えるかい?」


 少女は首を回した。

 少女がいるのは壁一面に本棚が並ぶペントハウスの書斎の中だ。

 すぐ横のソファからいつものように黒いスーツを着た大きな男が、少女をやわらかな眼差しで見下ろしている。

 ウエーブのかかった銀色の髪を肩まで伸ばした父は、偉大な指揮者のような風格がある。

 少女が頭に被っているのは映像情報を網膜や視神経ではなく、直接視覚野に送り込むブレイン・デバイスだ。


「とても良く見えます。今までで一番きれい」


 周囲の電子機器を操作している白衣の研究者や技術者達が、少女の言葉に喜びの声を上げる。父も満足げにうなずくと、指先を上げて進行の指示を出した。


 若い男性研究者が少女と向かい合って椅子に座った。

 スタッフが少女と同じブレイン・デバイスを頭にかぶせる。ブレイン・デバイスは後頭部から顔のほぼ全面をすっぽりと覆い、口元だけが見える。


「あなたのブレイン・ギアを想起して……」

 二人の間に立った若い女性研究者が、幼い少女を見て言い直した。

「ええと、いつもの『あなたの人形』を思い浮かべてね」


「普通に話せば良い。この子は理解している」

 父が言った。


 まだ学生らしさの抜けない新人の女性研究者は、戸惑いの表情を浮かべた。

 父は低く笑いながら、少女に言った。


「では問おう。ブレイン・ギアとは?」


想像的構築体イマジナリー・ストラクチャー。人間の知覚を電子情報空間に送り込み活動させるための仮想装置」


「つまり?」


「ブレイン・ギアはイメージで構築され、イメージのままに動きます」


 向かいに座った若い研究者が感嘆の声を上げた。


「その通り。全くその通り。素晴らしい答えだ!」


 若い研究者の口が笑っている。

 親愛の笑みなのか、子どもだと馬鹿にしているのか。

 少女も頬笑みを返し、頭の中で考えた。


 —このひとは、私の味方かしら? 敵かしら?


「エントリー!」


 父の声と共に周囲の書斎の風景が一瞬で掻き消えた。





 少女は灰色の空間にいた。


 自分の手も足も、何も見えない。靄がたちこめたような空虚な空間に『視点』だけが浮んでいる。

 ここはもう何度も来ている、コンピュータが創り出した『仮想空間』だ。


 間の前の少し離れた座標に人型が現れた。

 画家が使う木製のデッサン人形のような、形態も関節も単純化された人形。これはあの若い研究者のブレイン・ギアだ。

 特異性スペシフィシティのないデザインに、少女はかえって違和感を覚えた。


 —個性のないギアね。それとも強く自己抑制されているのかしら。


 ブレイン・ギアは仮想空間でそのイメージを維持し続けるため、その人間が最も強くイメージできる形態を取る。そこにはその人間の性格や思考の傾向が投影され、例えば攻撃的な性格であればそのフォルムも攻撃的なものとなる。それは隠しようのない『もう一人の自分自身』であるといえる。

 少女は自分のブレイン・ギアを想起した。イメージで作られた人形、自分の意思通りに動く『もう一人の自分自身』を。


 白いドレスをまとった女の子の人形が現れた。肌の色も三つ編みの髪の毛も真っ白で、その顔には目鼻も無い。


「スノーホワイト!」少女はギアの名を名乗った。


 木のデッサン人形は黙っている。名乗るつもりはないらしい。


「セレクト」

 父の声が空間に響いた。


 向かい合う二体のブレイン・ギアの間に十数個のアイコンが並ぶ。テニスやボクシング、カーレース、ブロック崩しや迷路脱出などがある。


「君が決めていい」

 木製人形は手を差し伸べて言った。

「どうぞ好きなものを」


 —これは意味の無い儀式だわ。


 少女は思った。私が選ぶものはいつも決まっている。

 そして少女は知っている。

 父も、この場に集まった研究者達も《《それ》》を見たがっている事を。この大人達は、皆《《それ》》を研究しているのだ。


 スノーホワイトは片手を上げてひとつのアイコンを差し、声高く宣言した。


「バトル!」


「ステージは?」父が楽しそうに訊く。


「どこでもいい!」


「では、ここで」


 少女はうなずき、意識を集中して武器を想起した。

 今まで何度も相手を打ち負かしてきた、使い慣れた自身の武器を。


 白い人形の手にスピアが現れた。長さは身長ほどで両端が鋭く尖っている。

 対峙する木製人形の両手には抜き身のサーベルが現れた。


 —面白い!


 少女はギアの中で眼を輝かせた。

 自分の中で活力エナジーが沸き上り、躍動するのを感じる。

 このイメージの世界ではすべてが見え、自分の思うがままに自由に動ける。

 この仮想空間にいる自分こそが、本当に生きている自分なのだ。


 スノーホワイトは槍を低く構えたまま、いきなり木製人形に向かって突っ込んだ。木製人形は慌てて後退するが、白い人形は一瞬でその胸元に飛び込み、防御の構えで交差させた二本のサーベルを下方から跳ね上げ、がら空きになった胴体に反転させた槍を突き刺した。

 その瞬間、火花が飛んで槍の穂先は堅い手応えと共に弾き返され、白い人形は反動で大きく仰け反った。


 —装甲アーマー


 迂闊うかつだった。

 木製のように見えたテクスチャーは偽装で、本体は堅牢な甲冑のイメージで固められていたのだ。

 木製人形は跳ね上げられた両手のサーベルを振り下ろした。少女は両肩に激しい痛みを感じて悲鳴を上げた。


「このバージョンから『痛み』を加えた」

 灰色の空間を震わせ、まるで神の宣託のように父の声が響く。

「今までのようにはいかない。慎重にな」


 木製人形の両腕がスライドして伸び、関節が増えた。

 手長海老のように伸びた腕を振るって、二本のサーベルが頭上や背面から避けきれない軌道で襲いかかる。

 スノーホワイトのドレスはずたずたに切り裂かれ、身体に走る痛みに少女は悲鳴を上げた。


 大好きな父親がこんな酷い仕打ちをするとは信じられなかった。

 自分は父親から愛されているはずだった。

 だってこんなに父の実験に協力しているのに。

 こんなに頑張って闘っているのに。

 だから父はきっとどこかで助けてくれる。

 そう、心の底では確信していた。


 次の言葉を聞くまでは。


「さぁ、どうする?」


 父は言った。《《含み笑い》》をしながら、《《愉しむ》》ように。


「このままでは死んでしまうぞ?」


 少女の心の中で、何かが折れた。

 とても大切な『何か』が。


 —いやだ!


 サソリの毒針のように高くかざしたサーベルが襲いかかる。

 少女は槍を振ってその切っ先を逸らした。


 鈍い衝撃が身体を貫いた。

 下を見ると、もう一本のサーベルが腹に突き刺さっている。

 少女は槍を落とし、身体を折ってサーベルの刃を握りしめた。

 経験したことのない激烈な痛みが下腹部から脳に駆け上がった。少女は歯を食いしばり、獣のようなうめき声を上げた。


 痛い。

 お腹が痛い。

 剣が刺さっている。痛くて死んでしまいそうだ。

 いや、本当に死んでしまうかもしれない。

 混乱している。頭が混乱している。

 どうしたらいい? 

 どうしたらここから逃げられる?


 —どうしたら、いったいどうしたら……? 


 これは現実なのか。

 仮想ゲームの中なのか。

 もうわからなくなっていた。


 —こんなのは、いやだ……。


 黒くて冷たい『死』の恐怖が心に襲いかかる。

 少女は消えかかる意識の中で、小さく呟いた。


 —死にたく……ない。




 突然。

 耳元で囁く声が聞こえた。


「……てば、いい」


 少女は耳を澄ませた。この声は?


「……てば、いい」


 声は同じ言葉を繰り返す。


「勝てば、いいのだ」


 それは確かに、父親の声だった。



 少女は顔を上げた。


 木製人形はもう一本のサーベルを水平に構え、剣先を少女の喉元に当てている。

 傾げた首はこの子供に止めを差そうかどうか思案しているようだ。

 だが、顔にある亀裂のように裂けた赤い口は……。


 にたりと歪んだ笑いを浮かべている。


 少女は認識した。


 —こいつは、敵だ!


 少女の両手がずしりと重くなった。

 少女は朦朧とした意識のまま、《《それ》》を構え、点火した。


 目の前で真っ白い閃光が炸裂した。

 猛烈な爆発音が轟き、少女の身体は後方へ吹き飛ばされる。

 回転する視界の中で、頭部を失った木製人形が遠ざかって行くのが見えた。

 その直後に、少女は意識を失った。





 書斎の中はパニックになっていた。

 若い研究員は座っていたソファから数メートル後方の床に倒れ、全身を痙攣させていた。

 男性は口や鼻、耳からも血を流し、待機していた医療スタッフ達が懸命の救命措置を施している。

 研究員達は並べられたコンピュータに取りつき、口々に叫んでいる。

 瞬間的に生起した大量のデータを処理しきれずにほとんどのコンピュータが停止していた。


「信じられない!」

 研究者が声をわななかせた。

「一瞬で武器を生成した。なんてイメージ想起力だ!」


「あれは十六世紀頃の青銅砲です」

 眼鏡の女性研究者が興奮した口調で言った。

「きっとネットで検索したことがあるんだわ!」


「でも、眼が見えないのにどうやってインターネットを?」


「ブレイン・デバイスを使ったに決まっているだろう!」 

 別の研究者が声を荒げた。

「あの子は『脳』で直接ネットを見ているんだ」


「しかし、見ただけで作れるなんて」

 年配の研究者が額の汗を拭った。

「あの子は天才か、それとも……」


 騒然とする人々の中で立ちすくんでいた新人の女性研究者が、あっと声を上げ、ソファに倒れている少女に駆け寄った。


「しっかりして!」


 頭にかぶせられたブレイン・デバイスを外す。

 腹部を抱えて身体を丸めた幼い少女はきつく眼を閉じて眉根を寄せ、激しい苦痛に堪えている。


 仮想世界でのダメージ数値を『痛覚』としてフィードバックする危険性を、この女性スタッフを始め何人もが指摘していた。ブレイン・デバイスを通じて『痛覚』をダイレクトに送り込まれた脳がどんなダメージを受けるのか、まったく予想がつかなかったからだ。

 しかし、それを強行した今回の『人体実験』が最悪の結果を招いたのは明らかだった。

 この責任は……。


 少女を抱え起こそうとした若い女性は、ふわりと肩に置かれた手でその動きを止めた。背後から「ありがとう」と低く響く男の声。


「……この子を気にかけてくれたのは、君だけだ」


 女性は肩越しに振り返ろうとした。

 しかし、手が柔らかく肩に置かれているだけなのに身動きができない。


「君は?」


 名前を訊かれているのに気づかず、女性は数秒経ってから慌てて声を上げた。


「サ、サラ・アルブライトです!」


 大きな男は身を屈めると、ぐったりしている少女を抱え上げた。


「この子と共に、歩むがいい」


「え?」


 振り返ると男の大きな背中が、隣室のドアの向こうに消えるところだった。

 少女の父親であり、この実験を強行した、いや、この『ブレイン・バトル』プロジェクトの最高統括責任者である男の後ろ姿を、サラは茫然と見つめていた。



 大きな男は窓際に立ち、眼下に広がるセントラルパークの樹々を眺めている。秋空にはうっすらと鈍色の雲がかかり、陰影が薄くなった公園は平坦でちっぽけな箱庭のように見えた。


 男は窓から離れ、室内の長椅子に歩み寄った。

 白いドレスの少女が仰向けになって静かな寝息を立てている。その顔には既に苦悶の後もなく、何か楽しい夢を見ているように微笑みさえ浮べていた。


 男は長椅子の傍らに片膝をつき、少女の額にかかった金の前髪を指先で丁寧に整えた。


「美しい娘よ」

 大きな男は呟いた。

「お前は賢く、そして猛々しい」


 男の頭の中ではこの瞬間も膨大な数の案件が次々に処理されている。それらは複雑に絡まり合い有機的に連動しながらある巨大な計画を形作っている。とりわけ『ブレイン・バトル』は硬直化した世界経済システムに楔を打つ中核プロジェクトであり、同時に眠っている人間の脳の力を呼び覚ます壮大な実験場になるはずだった。


 そしてその先にあるものこそ……。


 男は太い人差し指を少女の眉間に向けた。

 指先が蛍のように光り、銀色の細い光の筋が何本も頭を出した。

 その光の筋は糸のようにうねりながら額の中に入っていく。


「その賢さ、猛々しさはいずれ刃となって、私に向けられる」


 光の糸は生き物の触覚のように震えている。

 それでも少女は静かに呼吸を繰り返していた。


「失い、そして得よ。より自由に仮想の世界をかけるがいい」


 大きな男は眠り続ける少女を見つめ、そっと囁いた。


「愛しき娘、シンシアよ」





 そして。

 



 十年が経った。

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