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ふと、どこかで言い争うような声が聞こえて目が覚めた。「…まただ。」無意識にでた言葉だった。目を擦りながら上体をひねり、枕元の目覚まし時計を確認する。まだ二時だ。徐々にヒートアップする口論を諌めるべく、僕は隣の両親の部屋へ向かう。
「おとうさん、おかあさん、なにかあったの?」両親の寝室のドアを開け、白々しく尋ねる。両親の口論はピタッと止み、「ごめんね?起こしちゃったね。お母さん、綾斗の部屋で一緒に寝ようかな。」と言い、夫婦喧嘩は収まる。これが六才にして覚えた初めての処世術だった。
だが、今日は違った。母から返ってきた言葉は意外なものだった。「綾斗、お父さんとお母さん、どっちが好き?」さっきまでの罵声とは一転して、情愛に満ちた優しい声だった。しかし言っている意味がいまいちよくわからない。父は何も言わず、ただ僕を見ている。哀しげな目をして。
「ぼく、どっちもすきだよ!」少し間をおいて取り繕って出た言葉がそれだった。しかし二人はそれをよしとしなかった。「綾斗、決めなさい。」「綾斗、お母さんの方が好きよね?」「綾斗、父さんと遊ぶの楽しいだろ?」「綾斗、お母さんのごはん美味しいでしょ?」「綾斗」「綾斗」アヤト…アヤト…
いつしか顔は涙や鼻水でぐしゃぐしゃだった。なんで?なんできょうはいつもとちがうの?六才の僕では、この状況を円満に解決する方法は見つけられなかった。今僕にできることは、どちらかを選び、どちらかを切り捨てることだった。
あの日から十二年経った。俺は大学進学のために父と暮らした家を出て、一人暮らしをすることになった。家具や家電製品は引っ越し先で買うつもりだったから、必要最低限の物だけキャリーケースに詰めて駅に向かった。
「綾斗くん」駅に向かう途中、見知らぬ女性に声をかけられ立ち止まる。見たところ三~四十代くらいの、しかしながら綺麗に整ったその女性は一枚の封筒を渡してきた。「あの…。」なんで名前を知っているのか聞こうとすると、ごめんなさいね…と、足早に去って行った。
改札を通り、電光掲示板に目をやる。次の電車が来るまでまだ二十分もあった。自販機で温かいお茶を買い、ベンチに座る。「さっきの人、なんだったんだろう…新手の美人局?」なんて思いながら徐に先ほど渡された封筒を取り出す。中には一枚の写真が入っていた。小さいころの俺…?
「綾斗、ごめんね。私がもっとちゃんと綾斗を見てあげられてたら、綾斗と一緒に居られてたら、あの日、綾斗は私を選んでくれてたのかな?綾斗がいなくて寂しいよ。でもそれ以上に私は綾斗に辛い思いをさせてたんだよね。私だけこんなのって、ずるいよね。最期にもう一度逢いたかったな。」
途中から涙が止まらなかった。写真の裏に隙間なく書かれた字は、紛れもなく母の字だった。なんだよこれ。なんでこんなものをあの人が持ってるんだよ。最期ってなんだよ。忘れたはずなのに。自分で切り捨てた母親なのに。言い表せない感情が、次から次へと溢れ出た。
六才の僕はあの日、父を選んだ。理由は単純だ。ゲームやおもちゃをよく買ってくれたから。それに理由はもうひとつあった。母は仕事で昼も夜も働いて、ご飯は作り置きだった。だから、お母さんなんていなくても、大丈夫だと思ったんだ。父の借金を返すために働いてるなんて知らずに。
口論の原因は金についてだったのだろう、と悟ったのは両親の離婚が成立してから数年経ってからだった。だって、口論の最中に返済が、とか足りない、とか聞こえてくるのだから。当時に気付けなかったことを死ぬほど後悔したりもしたが、後悔しても何もかもが遅すぎた。
気が付くと俺は引っ越し先とは真反対の電車に乗っていた。大崎記念病院、封筒に印字されていた病院名。隣県にある大きな総合病院だ。母はそこにいるのかもしれない。いてもたってもいられなかった。今すぐ会いたかった。あの日の事を謝りたくて、あなたのぬくもりを感じたくて。
病室に入ると、少し痩せた母さんが、幸せそうに眠っていた。