喫茶店での一幕
ある老紳士が馴染みの喫茶店で、「いつもの」と注文しました。
しかし声をかけられたエプロン姿の青年は、どうやら新入りのようで、注文を聞き返してくるではありませんか。
「すいません。今日が初めてなもので」
それを聞いた老紳士は、ニッコリと優しい笑みを浮かべて「カフェラテのことさ」と言い直しました。それを聞き届けた青年は、カクカクとしたお辞儀をして、店の奥へと引き返して行きました。
カフェラテを待っている間、老紳士は店を見渡しました。いつもは大学生やサラリーマンで一杯の喫茶店ですが、どうやら今日は閑古鳥が鳴いているようでした。老紳士は、珍しいこともあるものだなぁと思いましたが、特に気に留めることはありませんでした。何故なら、今日は朝から雨が降っていましたし、近くに有名なコーヒーショップが出来たので、いつも来ていた客たちが、そちらに流れていったのだろうと思ったからです。
老紳士がカフェラテを注文してから、十分、二十分が経ちました。しかし、待てど暮らせど注文した品は届きません。流石にこれはおかしいと思った老紳士は、店の奥へ向かって声をかけることにしました。一度、二度、決して大きくはありませんが、店の奥に居ても聞こえるような声量で、声をかけました。老紳士の明朗快活な声は、雑踏の中でもよく通ることで評判なのですが、不思議なことに返事はありませんでした。老紳士は、なんだか無視されているような気がして、少し腹が立ちました。「一体どうなっているんだ」と呟くと、もう一度、先ほどより大きな声で「おーい。誰か居ないのか」と呼びかけました。そうすると、店の奥から額に汗を浮かべた青年が現れました。老紳士が少し怒っていることは、今の呼びかけを聞いたならば明らかなはずでした。しかしながら、どういうわけか青年は、よく鍛えられ上げた腕を後ろ手に組み、ゆっくり歩いて老紳士の待つテーブルへやってきました。前に立った青年は、いやに改まった風で、なんだか底知れない不気味な感じがしました。老紳士が口を開こうとするのを遮って、青年は慇懃無礼にこう言いました。
「何か御用でしょうか」
それを聞いた老紳士は、「御用も何もあるか。カフェラテはまだ出来上がらないのか」と少し感情を言葉に交えて言いました。それを聞いた青年は、表情を変えずに続けます。
「ああ、作り方がわからないんだ」
随分と言葉遣いがなっていないものですが、老紳士はぐっと怒りを飲み込み「マスターや他のウエイトレスは何をしているんだい」と、先ほどから考えていたことを問いかけました。そうなのです。この喫茶店は小さいながらも人気店で、いつもであればテーブルの間を縫うようにして、忙しそうにウエイトレスたちが飛び回っているのです。ランチタイムともなれば、喫茶店の主はカウンターの奥で、注文された品を作るのに大忙しです。尤も、その時間帯以外であれば、カウンター席に腰掛けて、常連たちと会話をしながらゆっくりとした時間を過ごしているのでした。
「そうだな、彼らならゆっくり休んでいるさ」
青年はわざとらしく、含みを持たせて答えました。
老紳士は、これは何かあるなと思い、好奇心の赴くままに尋ねました。
「じゃあ、今日は君だけというわけだね。しかしおかしいな。未教育の店員一人に任せるものかね。それに君からは、どうもおかしな香りがするね」
おかしな香りがすると言われた青年は、自分の肩や首周りの香りを嗅ぎましたが、よくわからなかったのでしょうか、首を傾げて「何の臭いがするんだ」と尋ねました。
老紳士は、これはもう間違いないと、自慢気に答えました。
「血だよ血。わかるかね。人間の血液だ。鉄の臭いを撒き散らすウエイトレスなんて居るものか。君、もしかして物盗りの類かね」
「おおっ。爺さん、よくわかったな。だが残念だ。気づかなければそのまま帰してやろうと思ったのだがね」
なんと青年は、喫茶店に押し入った強盗なのでした。この分では、きっとマスターたちは無事ではないでしょう。しかし老紳士は意外にも臆すること無く、寧ろ博打にあたったかのように面白がっていました。
「爺さん、恐怖で頭がイかれちまったか」
老紳士は青年に罵倒されているにも関わらず、楽しそうに笑いながら胸ポケットの辺りを探っていました。
「なんだ、爺さん。死ぬ前に煙草でも吸いてえのか」
青年は、そのくらいのことは許してやると言って、後ろ手に隠し持っていた包丁を、体の前で構え直しました。
「いやいや、傑作だ傑作だ。こんな偶然があるものかな」
それは独り言にしては大きな声でした。どうやら老紳士は目当ての物を見つけたようで、それを引き抜き、青年の額に向けました。
「実はな、私も同業なんだよ」
まずうちさぁ、カフェラテあるんだけど飲んでかない?