『灰の旅路』
灰色の夜明け。
王都から南へ延びる街道を、一人の男が歩いていた。
黒の上着に深い灰のマント。どこにでもいそうで、どこにもいない姿。
リオは、初めてこの世界の“風”というものを味わっていた。
乾いた土の匂いと、遠くで鳴く不明の鳥の声。
五感のすべてが現実よりも濃く、息を吸うたびに空気が身体の奥で暴れる。
(空気の組成が違うな……酸素濃度も、魔力の密度も。なるほど、これが魔力世界か)
手をかざすと、指先がほのかに光を帯びる。
「概念」という力が、微細に反応する。
力を使わずとも、リオは今、自分が“この世界そのものに触れている”感覚を得ていた。
森へと入ると、空気がさらに変わる。
葉の緑が濃く、陽光が細かく分断され、まるで幾何学模様のようだ。
何もかもが異質なのに、彼には恐怖も驚きもなかった。
あるのは、退屈を壊す“喜び”だけ。
(退屈がないというだけで、世界はこれほど鮮やかに見えるものか)
木々の間を抜けたその時、視界の端で動く影があった。
四足。体高は人間よりわずかに高い。
狼に似ているが、背には硬質の棘が生えている。
魔獣。
その言葉が、自然に脳裏をよぎる。
リオは手を止め、相手の動きを観察した。
低い唸り声。地を抉る爪。距離を詰める速度。
――しかし、それだけ。
「なるほど。これが、この世界の“生物的強者”か」
狼型の魔獣が跳躍する。
リオは動かない。
代わりに、周囲の空間を“定義し直す”。
「質量、零」
一言。
次の瞬間、跳びかかっていた魔獣の体が宙で静止し、そのまま霧のように消えた。
音も、衝撃も、存在の証も残らない。
リオは眉ひとつ動かさず、ただ空を見上げる。
「簡単すぎる」
倒すというより、“世界から削除した”感覚。
力の行使に快楽も苦痛もない。ただ、現象としての確かさだけが残る。
彼は歩きながら考えた。
(概念を操るとは、つまり“世界のルールに直接触れる”ことだ。
物理法則も、生命も、感情すらも例外ではない)
そして、彼の中で何かが静かに鳴った。
それは傲慢ではなく、純粋な好奇心。
(この力で何を創れる? 壊すだけでは、退屈の延長だ)
森を抜けると、小さな集落が見えた。
低い木の柵と、石造りの井戸。煙突から白い煙がゆっくりと昇っている。
人の声が聞こえる。それだけで、少しだけ現実味が増す。
リオは門の前に立ち、軽く手を挙げた。
「通ってもいいか」
門番の男は驚いたように目を見開き、しばらく言葉が出なかった。
「お、お前……王都からの旅人か? 最近、あの辺りは……」
リオは興味なさそうに頷く。
「問題ない。通りすがりだ」
男はそれ以上聞かず、ただ道を開けた。
村の中には市場と呼ぶには小さすぎる露店が三つ。
野菜、パン、乾燥肉。どれも素朴だが、秩序がある。
「旅人さん、珍しいね」
小柄な老婆が声をかけてくる。
リオは頷き、少しだけ笑った。
「珍しいか」
「ええ、最近は盗賊が多くてね。王国が荒れてるって話だから」
老婆の声には怯えと諦めが混ざっていた。
リオは何も言わず、ただ視線を遠くに投げた。
(王国が荒れている――俺が壊した秩序の、余波というわけか)
だが、それを後悔する気持ちは一切なかった。
「秩序が壊れることが悪いとは限らない」
呟きは誰にも届かず、風だけが頷いた。
夕刻、リオは井戸のそばに腰を下ろした。
集落の子供たちが遠巻きに見ている。
異国の服、無表情な青年――彼はこの村では異物だ。
空を見上げると、茜色に染まった雲が流れていた。
ゆっくりと、確かに、この世界は回っている。
「退屈しない世界、か……」
自嘲するように笑うと、風が頬を撫でた。
村の外では、夜の気配が広がっていた。
茂みの向こうに、別の気配。
生き物ではない、“人”の気配。
リオは立ち上がる。
「……盗賊、か」
その目が、再び光を帯びた。
新しい“遊び”の始まりを告げるように。
夜の帳が降りた。
村を包む闇は、昼間よりも静かで、より生々しい。
虫の鳴き声の奥に、別の音が混じる。
鉄と革の軋む音――人が潜む音だ。
リオは焚き火の火を見つめながら、耳だけを外へ向けた。
火花が弾けるたび、闇の中の気配がわずかに震える。
(七……いや、八人か)
声もなく、彼は立ち上がった。
宿代代わりに借りていた粗末な木の家の扉を押し開ける。
冷たい夜気が肌を撫でた。
闇の中に、人影が動く。
狼のような笑みを浮かべた男たちが、刀を抜いて迫ってきた。
「よお、兄ちゃん。王都の旅人だって聞いたぜ?」
「持ってるだろ、金。命より軽いもんだ」
リオは無言で男を見た。
視線の圧だけで、相手の喉がひゅっと鳴る。
「……なんだ、その目は」
「観察している」
「は?」
リオは一歩、前に出た。
土の音が響く。
「お前らは、何を“正義”だと信じている?」
「は、正義? そんなもん、知らねえよ」
男が笑った。
リオの唇がわずかに上がる。
「ならば、“存在”の定義も不要だ」
指先が、闇の中で光を帯びた。
「概念――“敵”を消す」
風が止まり、世界が沈黙する。
次の瞬間、八人のうち五人が、音もなく消えた。
そこにあったはずの質量、体温、匂い――すべてが欠落していた。
残りの三人は、叫ぶことすら忘れて膝をついた。
リオは彼らを見下ろす。
「消す、とは“死”とは違う。存在を、なかったことにする」
「ひ……ひぃ……」
「だ、誰だお前は!」
リオは静かに答えた。
「勇者、らしい」
男たちはその意味を理解する前に、光に包まれ、煙のように散った。
静寂。
虫の声すら戻らない夜。
リオは淡々と手を下ろす。
(やはり、恐怖も、快楽も、ない)
村人が起き出す気配。
誰かが叫ぶ――
「盗賊が……! 消えてる!」
リオはその声に何の感情も抱かなかった。
ただ、自分の“力の輪郭”を確かめていた。
概念操作。
思考と定義で、世界を書き換える。
それは万能だが、同時に“何をするか”が問われる力でもある。
(壊すことに意味はない。ならば、創ることに意味はあるのか?)
夜が明けた。
村人たちは、リオに感謝の言葉を口にした。
誰も彼が何をしたのか、正確には理解していない。
「おかげで助かったよ、旅人さん」
「盗賊の連中、姿形もねぇんだ。神様が味方してくれたんだな」
リオは首を横に振る。
「神などいない。いたとしても、退屈な存在だ」
老婆が少し怯えた目をしたが、彼は構わず立ち去った。
(人は、わからないものを“奇跡”と呼ぶ。俺はその奇跡を、再現できる)
道を進みながら、リオは小さく笑った。
この世界は、確かに退屈ではない。
だが、何かが欠けている。
(壊すだけでは、世界は動かない。
俺の興味を満たす“変化”がほしい)
街道の先に、山々が霞む。
風に混じって、焦げた臭いが漂ってきた。
「……戦場の匂いだな」
リオは歩を止め、地平の先を見た。
煙が立ち上る。
砦の跡のような石壁。
その前に、数人の人影――鎧を着た兵士たちが何かを囲んでいる。
リオは静かに近づいた。
兵たちは、何かを蹴り、笑っている。
声が聞こえる。
「エルフの女だ! まだ生きてるぞ!」
女。
細い手足、血に濡れた銀髪。
耳の形が尖っている。
その瞳だけが、泥の中でも凛としていた。
リオは一歩踏み出す。
兵たちは彼に気づき、振り返った。
「なんだ貴様、誰の許可で――」
その瞬間、兵士の首が音もなく落ちた。
血が吹き出すよりも早く、リオの声が響く。
「“暴力”の概念を、奪う」
残りの兵士たちが慌てて武器を構えるが、その刃は振るわれない。
彼らの筋肉が動かない。心臓も、呼吸も。
崩れた壁から差し込む光が、鎖に繋がれた一人の少女の影を長く伸ばしていた。
リオが足を踏み入れたとき、少女――リアナは目を細めた。
月光を映したような銀髪、尖った耳。
彼女の身体には鞭痕が走り、唇は血の色に濡れていた。
「……誰?」
掠れた声。恐怖でも懇願でもない、ただ、長い絶望の果てに声を出すことを思い出したような響き。
リオは一歩、近づいた。
視線を落とし、鉄の鎖に手を添える。
鎖の概念――“拘束”を“存在しないもの”として定義を上書きする。
乾いた音とともに、鎖は粉塵になって消えた。
「な……に?」
「拘束とは、“自由を奪う定義”だ。ならば、“自由が奪われない”と定義すれば、拘束は存在しない」
「あなた……魔法じゃ、ない……」
「違う。俺の力は“概念”。理そのものを理解し、扱う」
リアナは呆然とリオを見つめていた。
恐怖も感謝もない。ただ、その目は久しく失っていた“好奇心”の光を帯びていた。
「お前は、なぜこんな所にいる?」
「……エルディアの王女でした。人間たちの戦争で、国は滅びました。
私は……奴隷商に売られて。護送の途中で魔獣に襲われて、ここに避難したのです」
彼女の指先は、まだ震えていた。
だが、涙は一滴も流れなかった。
「王女、ね。なら、命乞いでもすれば助けてやる」
リオの声は静かだった。
「命乞い……?」
「そうだ。俺は退屈しのぎに殺すこともある」
一瞬、リアナの喉が鳴った。
だが次の瞬間、彼女の瞳にわずかな光が戻った。
「……いいえ。命乞いなんて、しません」
「ほう」
「あなたが誰であれ、私は“王女”として死にます」
リオの唇に、初めて微笑が宿った。
ほんの僅か、退屈の縁が揺らいだ。
「その言葉が、お前を救った」
彼は立ち上がり、背を向ける。
「なぜ……助けたの?」
「“王女”という概念を、もう一度見たかった」
「……概念?」
リオは振り返らずに答えた。
「肩書きを失っても、“王女”という定義はお前の中に残っている。
それを取り戻すのは俺じゃない。お前自身だ」
リアナの胸の奥で、何かが静かに灯る。
砕かれた誇りの欠片が、再び光を取り戻すように。
「もし……もう一度、王女として立てたら」
「その時は、“同じ目線”で話せ」
「……はい」
リオは歩き出す。
背後でリアナが鎖を拾い上げ、それをそっと床に置く音が聞こえた。
その音は、彼女の過去を手放す音にも聞こえた。
夜風が砦を抜けていく。
瓦礫の上に立つリオは、遠くの空を見た。
(退屈はまだ終わらない。だが――)
この世界には、まだ「未知」という名の退屈の破壊者が息づいている。
リオは微かに笑い、足を踏み出した。
灰の夜を越えて、次の国へ。
そこにまた、彼の好奇心を刺激する何かがあることを、確信していた。
※面白かった・もっと読みたいと思った方は評価お願いします。




