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赤い瓦の波に飲まれる

作者: nagaaaa

   1

 斜向かいに席を構える金田が、マウスの左側をクリックする。連続してクリックする。

 人気アイドルグループのチケットの先行受付にでも応募するかのように人差し指をピストン運動させているけど、実のところ、社内メールに来る異動の通知を取得しに行っているにすぎない。そんなことで屈腱炎になった場合、労災保険は使えるのだろうか。きっと彼の責任の中で処理されて、労災認定はしてもらえない。そもそも異動に際しては、課長から異動通知が送られてくる一時間前くらいに直接話があるのが春の風物詩というか伝統で、それがない以上、異動はない。

 異動通知が送付されるのが、3月26日の午前11時というのが毎年の恒例。現在時刻は、3月26日の午前9時。つまり金田は、甲高くも鈍くもない何とも言えないミドル帯の音でカチカチと意味もなく鳴らしているにすぎない。いや、過ぎないじゃ済まなくて、無駄にブルートゥース接続式のマウスの電池を消費しているし、仕事場のチンケなマウスのクリック音を必要以上に聞かされることによって、俺の三半規管が少しづつズレて行くという作用を起こしている。現に、俺はBPMも維持できない下手なドラマーみたいな音に苛ついている。でも、この陰気臭い総務課を抜け出したいという気持ちは分からなくもないから、注意はしなかった。


 堪らず、執務室をいったん離れようとノートパソコンを閉じた。この日だけは、ダレもカレも、異動発表に気を取られて仕事は進まないってことを知っている。

 思い切って立ち上がると、金田が、「何処行くんですか」なんて、聞いてくる。何処行くかって、お前から離れるためにどっかに行くのであって、何処かへ行く目的なんてない。無いけど、机に雑多に置かれていたファイルを適当に取って、「打ち合わせしてくるわ」なんて誤魔化した。

「ふうん。忙しいですね」誰のせいで、席を離れなくてはならなくなったか、理解していないヤツの返答には、辟易とさせられるが、まあ、忙しいよな年末は。なんて適当に返事だけしていた。執務室を後にしながら。


 手際良く山盛りの書類を捌く遠藤武夫は、心中穏やかそうだった。というか、この部署の人たちだけは、ある種の諦念だったり、安堵だったりが顔へ映し出されている。ここが人事部で、数時間後のことはもう知っているからだ。そのように人事部以外の奴は言う。人事部以外が言うってことは、多数決で言えば本当になるはずだ。きっと。

 武夫になんとも大層な仕事を土産に持ってきたぞと言うような感じでファイルを見せて、「実はあ、ちょっとコレ」と言うと武夫は、「それはちょっとアレだな」とか言って、ふたり、別個でミーティングが必要だなんて雰囲気を出して人事課を抜け出した。さっき適当に取ったファイルは、空だった。


 隠し持った社用車のスペアキーで、ハイエースに武夫と乗り込む。「アレとか、コレとか、別にないでしょ」とか分かりきったことを言ってくる武夫。俺は、どうせ暇だったでしょと返し、ふたりして蒸気式タバコを点灯させる。「暇じゃないって。今日は」「お前のとこはそうだったわ。人事課以外は、誰も仕事になってねえよ」タバコの煙は仕事で荷物を積むために高くしてあった車の天井に到達し、折り返して我々の手元のあたりで迷子になっている。「んで、どうなのさ。金田とか」今から、武夫から聞き出そうとしていることを教えてやったら、金田は人差し指の卑猥な動きを止めるだろう。ただ、人事発表前に席へ戻るつもりは無いから、金田の指先が人為的に止まることはない。

 武夫の口から、煙が漏れ出ながら、「ああ金田は、そのまんま。それより」と一緒に声も出る。「それよりって」「ああ、すまん。総務の課長から聞くと思うよ。後で」武夫は、大したことでもないのに勿体ぶる気がある。しかも、大抵勿体ぶれてなくて、大方の事柄が分かってしまう。なんだ、俺、異動じゃないか。金田が異動でオサラバ出来てベターだなと思っていたけど、みみっちい総務課から抜けられるならベストだと思った。


 武夫と粘って、何とか一時間。午前10時。もう一時間粘ってやりたかったけど、俺のタバコの充電は切れてしまったし、武夫は武夫で忙しいとか言いながら、その忙しさに酔った顔を浮かべていたので、一時間ぽっちで、早々に休憩を切り上げた。

 総務課に戻ってすぐに、何処に行ってたんだと総務課長の矢田博様に別室に連れられた。矢田に異動だと告げられ、武夫に対して事前に探りを入れていたせいか、大した驚きもなく、それでも「異動ですか」と驚嘆と辟易の中間みたいなリアクションをしてやった。矢田はまあ頑張れよとか、寂しくなるなとか、次は支所の総務課だってよとか感慨深そうに言っている。

 ん?支社の総務課?何故か本社よりも忙しい有名な支社の総務課だって。武夫に一発やられた気分だった。なにが、総務の課長から聞いてくれだよ。今度、アイツにあったら、ウナギか寿司かまたその両方のどれかを奢らせようと誓った。


 予告どおり、通知に書かれた移動先には「田町支社総務課」と書かれていた。通知のほとんどを明朝体で書いてある癖に「田町支社総務課」だけゴシックで、しかも太文字にしてある。そんなに強調しなくても行くのに、会社からは信用がないらしい。もう11年も勤めているというのに、今現在無い信用は、どのタイミングで獲得するのだろうか。退職後にやっと評価されるとか、このまま行くとゴッホみたいなことになりかねない。向日葵をのんびり描かせてくれるなら良いけど、そんな暇も与えられない癖に疑われてたら、精神がもたない。

 既に金田は、マウスを操作する手の人差し指を痙攣させるのをやめたらしい。「忙しいらしいっすね。田町は」とか声をかけてきて、他人事だからって言いたいこと言いよるなと思った。俺は、机の上で散乱したファイルをかき集め「これ頼むわ」と金田に渡した。金田は、仕事を受け持たないという決意の目でこちらを見て、ファイルを受け取ろうとはしなかったけど、そもそも元々金田の仕事だったし、異動するからこのまま置いておくわけにもいかないから、俺も伸ばした手を引っ込めることをしなかった。二十数秒経ってやっと金田がファイルを受け取ると、「じゃあ、異動だから。その仕事、お前に戻すわ」と、そもそも俺の仕事じゃないし、中途半端に投げ出していくわけじゃないことを強調した。金田にそれを強調しても何にも成らないのだけれども。コイツの右手人差し指のピストン運動と一緒みたいな理由だったりする。



   2

 異動発表から数日経っていたけど、俺の机の上は、その発表前みたいに散らかっていた。金田に渡したはずのファイルが全て俺の机の上に戻っているからだ。金田は、居なくなることを受け入れられずに仕事を拒絶して、矢田が見かねてこっそりファイルを戻したらしい。ピーターパン症候群とその親みたいな馬鹿なふたりが、いくら抵抗しようと、俺はここから居なくなるのに。

 俺は、俺が居なくなった後のこの課について、シミュレーションしてみた。

 パターン1、見かねて移動した後も、ここに寄って兼務する。

 パターン2、矢田が根気よく金田の仕事を巻き取る。

 パターン3、金田の責任感が覚醒して俺の机の上のアイツの仕事をやりこなす。

なんて、何パターンかを考察してみたけど、パターン1は、俺の意思的にもないし、移動先は外の支社だから、距離的にもない。パターン2や3なんかは、終わっているコイツらに、何か外的要因による強いショックでも起きない限りあり得ない。ルドヴィコ療法かロボトミー手術でも受けさせれば可能性もあるかもしれないが、終わってるコイツらをわざわざ矯正させるほど世の中は暇じゃない。

 パターン4、俺の代わりに来る社員が、割を喰う。というのが現実的なのは分かっていたけど、あまりに普遍的すぎてつまらないし、そもそも出ていく訳だしそんなことどうでも良い。ということで、俺は視界を遮るばかりの書類群を無視して、その仕事ぶりを金田レベルに合わせていた。

 議事録を書くふりをして、イヤホンで文化放送を聞いていると、カナル式イヤホンの加水分解ギリギリまで愛用しているゴムの外側から、呼ばれた気がして振り向く。矢田だった。矢田が書類の間から顔を出して、手招きしている。手招きしているけど、その顔は歓迎しておらず、一寸、怒っている様にも思えた。仕方ないから、イヤホンを引き取って、矢田の雛席へ行く。

 イヤホンを無理やり取ったせいでイヤホンのゴムが耳に残っていて気持ち悪い。加水分解でベタベタぼせいだ。そんなことをお構い無しに矢田は、「あの書類、残していく気?」とか、俺の机を指さしてほざいている。「いやあ、一応整理していこうとは思ってるんですが」「でも、全然減ってないよね?」「金田へ引き継いどきますんで」矢田は、釈然としないといった感じで睨んでくる。課長のくせに、まともに業務の分配を出来なかったツケが今回ってきているだけだと言うのに、何故、俺がそんな顔を向けられなければならないのか分からなかった。「すみません。あのファイル引き継ぎするか、やらずにここで談話しているか、どっちかにしてもらっていいですか」そう言って、席に戻るふりをして、執務室を出た。きっと矢田は、怒りと不安で、まともな思考回路が短絡しているに違いない。耳に詰まりっぱなしだったゴムを無理やり取ると破れて使い物にならなくなってしまったから、歩行速度の慣性に任せて放り捨てた。


 伊織は今度、田町だっけ。忙しくなるね。なんて言いながら、紙タバコを吹かしている武夫には業を煮やしている。武夫は人事部で、直接的な人事配置の権限を持っていないにしても、同期の俺をそんな忙しいところにやらないようにお口添えすることくらいは出来たはずだ。

 そのうえ、プルームテックの本体を席に置いてきたとかで、俺の紙を拝借。遠慮なく隣で煙を吹かしている。武夫は、タバコをアテにBOSS缶をガブ飲みしてる。ふたつが混じって、肺で腐敗させきった臭いのしている息は、喫煙室の排気口へと吸い込まれていった。あの排気口の出先で丁度業者が点検していたら可哀想だなと思いながら、コーヒー片手にタバコを深く吸った。そして、武夫と同じく俺も、腐りきった空気を排気口に向かって吐きかけ、その勢いのまま「撤回できないの?異動をさ」と聞いた。「伊織、異動希望出してたじゃん」と武夫は返事したけれど、忙しくなるところへの希望は出していない。

 「そういえば、どうやって通うのさ。支社でしょ」武夫は多分、通勤手当がどうとか言う業務上の準備をしたくて聞いているに違いなかった。そもそも異動で勤務地が代わる人間がどれだけいるのか知らないけれど、俺だけではないはずだ。次の支社は駅チカだから、電車で通うつもりだったけど、武夫に対して一つくらい秘匿事項があって、それで困惑してもバチはあたらないだろうと思い「いやあ、また車で通うことにしようかな」と言った。武夫は、「分かった手続きしとくわ」とか言って、慌てて制止したけど、じゃあ。と喫煙所を出ていった。面倒臭い。武夫の所へ訂正しに行くのも億劫になり、そう思うと田町支社まで電車で通うのも煩わしく感じた。感じることにした。



   3

 アパートに帰ると、セキュリティロックが、意図せず作動し、玄関のドアが開いたとのアラーム音が鳴り響いた。ここ数日この音を聞いているのは、由恵が後から帰ってくるからで、更に言うと、俺が異動の狭間で業務放棄というか、引き継ぎをして暇を持て余しているからで、帰宅時間が逆転したからだ。

 数日前には、このアラーム止め方を考察した挙げ句、解除は無理だと諦めて鳴りっぱなしにした結果、警備会社を呼び寄せてしまっていたのに、今や解除キーを華麗に差し込んで止める事が出来るようになっていた。俺の適応能力は、並のアウストラロピテクス程度には備わっているらしい。

 家に入って早々にキッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫のドアは開けてもピーピー言わず従順で気持ちの良いやつだが、一分くらい経つと、煩く鳴り喚き出すことをついこの間知った。冷蔵庫のドアポケットに備えたビールを素早く取り出す。最初取り出したときには、ポケット一杯にあったビールも残り僅かになっていた。丁度3月31日を迎えると無くなる数を備えていた。もう、早く帰ってこれる閑話休題のような生活も終わりを迎えようとしていると思うと、ビールを飲む気持ちが失せた。ポケットのビールが減らなければ、面倒な職場へ異動することが無いのかと考えてみたけど、冷静に考えれば、ビールの数に関係なく4月1日を迎えるわけで、その日を迎えれば田町支社へ行かなければならない。ビールを手早く取り出したものの、ドアは開けっ放しで考え込んでいたせいで冷蔵庫はピーピーと鳴っていた。俺が躊躇する時間を鑑みてはくれなかった。350の缶を取り出して、強くドアを閉めた。

 早いことアルコールを体内に突っ込まなければ。待ちきれなくて、シンクの上でプルタブを開けると、膨張した二酸化炭素が弾けて泡が下水道管へ流れ落ちて行った。勿体ないと思い口を近づけた時には、吹きこぼれは既にこぼれきっていて、その泡の絞り粕みたいなものだけが唇に触れた。仕方なく、蛇口にかかった布巾で缶を拭い、ダイニングテーブルのいつもの席へと座って、一口。喉元を先頭で口に含んだビールの泡が通り過ぎたところで、由恵が帰ってきて、「先に帰ってきたんだったら、夕食準備しといてよ」とか言ってきたから「今からやるところだったのに」とプロトタイプの言い訳をカマす。由恵は先に夕飯を作っておいて欲しかったみたいで、だけどこっから俺がやると非効率だから、「もう、あっちでテレビ見といて」とか言うんだろうなと思っていたら、案の定リビングに追いやられてしてやったり、したり顔を浮かべてしまう。これぞ業務の引き継ぎってヤツ。んで、由恵には演技とバレないように、ごめんと震わせた声で言って、リビングへと行った。


 由恵の料理は、薄い。薄いというか、普通の濃さなんだけど、ビールを飲んでいる俺からすると薄い。由恵はアルコールを嗜まないタイプの宗派で、味付けをひとりよがりにするから、俺にとっては塩分がたりないのだと思う。そう思いつつも、「うん、美味しい」とつぶやく俺には、利他の精神が宿っている。由恵は、美味しいという俺の反応に対して、それは良かったとも、嬉しいともいわずに、あたかも美味しいのが当たり前といった顔をして、黙々と食べている。オヤジに昔、飯は黙って食えなんて、ショーワかメージかタイショーか分からないような格言をぶつけられた事があったけど、それを思い起こさせるくらい無言で、咀嚼の音だけが響いた。

 由恵は、薄味のから揚げを有蹄類が如く奥歯でペースト状にして飲み込んで、「そういえば、最近帰り早くない?」と急に聞いてきた。オレの奥歯は未だ、鳥のモモ肉をペースト状には出来ておらず、液体と固体の中間みたいな状態なのに、急いで飲み込んで言った。「異動になって、引き継ぎも終わってるからさ。今だけ暇なんだよね」「へえ、何処へ異動になるの?」他人の会社の部署など、分からないと思いつつ、本部の総務から、支社の総務に移ることを説明した。由恵は、仕事には興味もくれず、どうやって通勤するかと聞いてきたから、車で通うと伝えたところ、ガソリン代は自分の小遣いから払ってねとかぬかしやがる。俺は共働きなのに、小遣い制だ。理由は、結婚したときに、貯金がなくて結婚式の費用もハネムーンの費用も由恵が出したからだけど、家族婚だし熱海だしでそんなにお金は掛かっていないはずだし、もうその差額くらいは埋めているはずだ。労働の対価を召し上げられて不満がないわけがない。ガソリン代くらいくれよと反発しよう。そう決意していたのに「分かってるって。小遣いの中でやりくりするから」と由恵に言っていた。思想と口の動きが噛み合わないのは何故か。何度も反芻したけど答えは出なかった。昇給していないくせに忙しくなる故、残業代によって年収が上がるというのに、何重にも課税されたガソリン代によって俺の可処分所得は存分に減るということだけは理解が出来た。



   4

 仕方なく買った中古の軽に、ガソリンを入れる。軽油なら三分の二の価格で抑えることができるけど、軽油の軽は軽自動車の軽ではなくて、比重が軽いという話らしい。車屋で中古車を買うときに、イニシャルもランニングも最低限になるように組んだはずだったけど、軽油を使えないせいで、短期的なランニングコストはディーゼルエンジンのSUV車にすら劣る。短期的と言えども、バカでかいSUV車に経済面で劣ることには、ムカついて、指先に力が入って財布が軋んだ。中身が潤沢ならばたとえ力が入ったとしても、財布が軋むことはなかったろうに。俺の財布の中身が少ないのは、セルフガソリンスタンドの給油機に吸い込まれていってしまった所為でもあるし、歳出が増えたのにお小遣いをあげてもらえない所為でもある。財布の密度が小さくなり、非力な俺の指先でも簡単に軋ませることでができるほどに薄弱となってしまっていた。これ以上の出費は避けなければならない。軋ませ壊し、財布を新たに買うほどバカバカしいことはないと思い、怒りを抑えて財布をポケットに納めた。

 赤色の給油ノズルを掴んで、給油口へと突っ込もうとしたところ、車の給油口が反対にあることに気づいた。もう、ノズルを手に取ってしまっていたし、今更、車を動かすのも朝の通勤時には、なんだか面倒に思えてしまった。仕方なく給油ホースを軽自動車の上から通すと、ギリギリ給油口に届いた。届いたのは俺の車が軽自動車だからであって、もしSUV車だったらホースは届かずにさらなる面倒なことがあっただろうと、ラッキーだと念じてみたけど、こんな時にもホースが届くような車しか買えなかったと言う思考が右脳にも左脳にも順番に広がっていって、絶え絶え、爆発する寸前位には、給油が終わった。ガソリンを取り扱うときに爆発なんて起こしたら、中学生の時に取得した危険物取扱者丙種を取り消されるかもしれない。そんなことにならなかったのは、ケチって二千円しか給油しなかったおかげだけど、二千円しか給油できないということは云々となる前に給油口を急いで閉め、車に乗り込んだ。


 満タンでないにしろ、それなりに給油したはずだけど、通勤距離的に一週間もたないらしい。ガソリンの消費は交通状況によっても影響を受けた。朝に郊外から市街地へ通勤するためには、混雑を避けることは出来ないらしい。本社は、田舎の、だけど何故か複数路線が入り乱れるハブ駅を最寄りとしていたから、混雑も感じなかったし、車窓か見える国道も、その車線数を確保したのは、行政が年末に予算を使い切るために無駄に拡幅させたんじゃないかってくらいに空いていて、そして使われていなかった。人材派遣の会社とか大手ゼネコンの役員から役人にキックバックが渡っていると思うと憤怒で、アクセルを踏みそうになるけど、その道幅の広さ故に、事故などとは無縁そうな道だった。

 対して、田町支社への道は、交通量に反比例するように車線が少なく出来ている。交通量調査を怠ったのか、それとも、大手ゼネコンがキックバックを出し過ぎて、人件費を捻出できなかったのかは知らないけれど、とにかく渋滞は事実として起きている。

 渋滞のお陰で街並みが嫌でも目に入る。家電量販店から、コンビニ、飲食店まで見慣れたチェーン店で揃えたこの道路には、飽き飽きさせられる。不思議なことが一つだけあって、それは、店構えだけじゃなくてその並び順まで見覚えがあったことだった。ただ、きっと人間工学に基づいて設計した街並みで、店舗の車が入りやすい並びなんだろうと思い、特に気にも止めていなかったのだけれど、渋滞が進んでちょっとした住宅街に入ると店順に見覚えがあるのは人間工学という科学技術の賜物ではなく、俺の記憶の奥底へ仕舞い込んだものだという考察が浮かんだ。宅地の順番まで見覚えがあるからだ。


 暫く進んで、住宅街を抜けると、道路の両脇に田んぼが広がる。その田んぼの形、区分け、其々の反数まで、見覚えがある。そして、この田んぼを抜けた先にポツンと赤い屋根の土地単価が安いせいで大きく構えた家が見えることが想定された。何故、覚えているのかといえば、その赤い屋根の田舎の豪族みたいな家は、元彼女、蓮見玲子の御実家で、何度も夜に玲子を送っていったし、実のところ、同棲する前には、両親にも挨拶に行ったからだ。

 その後、玲子とはうまくいかずに別れ、人間工学を活用して、無理やり忘れて、由恵と結婚してからは、もう記憶の片隅にもなくなって、ディープクリーニング出来たものだと思っていたけど、どうやら未だ開けもしないフォルダへ格納しただけだったらしい。この景色が、あの屋根の色やうねりを思い出させ、そして玲子の両親の顔、玲子と芋づる式に蘇ってきた。

 そして、あの家が見えてきた。渋滞でそこまで到達するのが遅い分、何度もあの家の記憶を辿った。目の前にでてきた家は、記憶とぴったり重なった。ああ、赤い。そして瓦のうねりはベーリング海の如く波打ち荒々しく組んである。

 俺の家庭は安定している。子供もいないけど、低空飛行なテンションかもしれないけど、現妻との生活は、それなりにやっている。心残りもなく結婚もしたはずだ。

 別に、元カノのことなんて思い出す必要もないしむしろ邪魔なはずなのに、渋滞は、あの家の前を簡単に通り過ぎる事を許さない。


 何故、市街地の前には、国道の太い道があって、そして田畑が囲む道があるのか。俺は、家を出て国道、田んぼ、元彼女の家、田んぼ、国道、そして市街地といった感じで進んで、もうすぐ田町支社に着く。街並みは、もう市街地になっていて、サラ金、パチンコ、ホストクラブ等のインチキデザイナーと三流コピーライターが作成したような看板が、ビルの上でゴテゴテにそびえ立っている。どれも脳裏にこびりつきそうな色合いをしているけれど、しかしあの赤い屋根には敵わなかった。

 今日から勤める場所は激務だと言われていたけど、そんなことはどうでもよくなっている。仕事は流そうとか、固い決意を持った訳では無いけどきっと流す。会社のパソコンで“蓮見玲子”と検索エンジンに打ち込むことで忙しくなる気がする。



   5

 田町の課長の野村修に促されて、みんなの前で自己紹介をした。宜しくなんて頭を下げて顔を上げると、血色の良さそうな顔色の社員ばかりが背筋を伸ばして並んでいた。田町は激務だと聞いているし、きっと体育会系で揉まれまくった結果、疲労とか、倦怠感なんかを感じなくなったサイボーグ人間なんだろうと勝手に想像した。想像したら倦怠感に襲われた。俺だけ倦怠感。これからは、若者が夜を楽しむために飲む500ミリリットルのエナジードリンク缶じゃなくて、疲れ切ったオジサンが人間の体をギリギリ保つために飲む、茶色の小ビンの本当に滋養効果のあるやつに変えようと思った。

 但し、それは今の状況が解決した場合の話であって、あの忌々しい玲子の実家を頭の片隅の方どころか、頭蓋骨の外側へと追いやらないことには、仕事へは進めない。じゃあ、頭頂部を割って記憶を取り出せるかと言えば無理で、多分一緒に違う記憶もどっかに、飛んでいってしまうと思う。内科的治療法しか無いけど、そんなクスリも世には無いだろう。詰めろ、チェックが掛かっている。

 同僚になる元畑が、俺の机の上の書類たちを紹介している。これが、総務の管理表だとか、計上予算がこれだとか、丁寧にまとめられた印刷物をひとつひとつ細かく説明してくれている。テキストにしてチャットで送ってくれれば済むのにと、チロリと思った瞬間、目の前の書類には思考が及ばず、玲子にばかり気がいってしまった。玲子は何処でなにをしているのだろうかと5W1Hをひとつひとつ考察していっていると、活気よく「じゃあ、今のところからお願いしますね」と、元畑が言った。今のところが何処だかわからない。「わっかりました」と分かってない奴がよく使う小さい“つ“を入れて返事したにも関わらず、元畑は宜しくですともう一度言って、自席に戻ってしまった。わっからねぇよって感じだった。

 分からないから、何となく机の上の書類をペラペラと開いては、パソコンでインターネットの地図を出して、あの家の周りを調べたりして、小1時間ほど。「出来ました?」と元畑が聞いてくる。慌ててモニターに映るマップをバツボタンで閉じて、「いや、ちょっとこの辺がわからなくて」と適当に手に取った書類を見せる。見せると元畑は、「ああ、ここですか」と呪文のようにマニュアルの文字を唱和し始めた挙げ句、まあチャットでマニュアル送っとくんで。とか言って離れていった。最初から電子マニュアルがあるなら電子でくれよ。そうしたら、パソコンだけで事が済むのに。アイツは多分、俺のことをデジタル弱者だと決めつけて紙を渡してきた。マニュアルが送られてきたら、ありがとうと返して、地図でもう一回見ようと思う。


 半日が終わった。半日中、マニュアルとにらめっこするフリだけで終わった。仕事と関係ない画面がパソコンに映っていても何も言われないどころか、干渉されないし、変に仕事も増やされたりはしない。しかも、周りも忙しそうじゃないし、どうやら体育会系故の血色の良さではないらしい。俺だけじゃなく、課全体が優雅に暮らしてるっぽい。

 ここに踏み入った時には、滋養ドリンクを買おうかなと思っていたけど、ファビュラスに紅茶かコーヒーか、それともフラッペなんかが良いかもしれない。とにかく、予定を変更しなければならない。昼のチャイムが鳴ると同時にパソコンを閉じて、執務室を出た。気になったのは、誰も部屋を出ようとしないことだ。優雅すぎて、チャイムの音を聞いても急がないのか。俺が軍隊チックで、チャイムに従順過ぎるのかどちらかだと思う。どちらでもいい。折角、異動で時間が出来るようになったのだから、緑のエンブレムの混雑したカフェチェーンにでも行くことにした。車通勤になったし、カフェの方ならあの家の前を通る必要もない。車通勤も悪いことばかりじゃない。


 いつも通りの味だった。フラッペはどれを選んでも甘い。甘さを求めて頼んでいるのだけれど、いざ飲むと途中で飽きると言うか、クドくなるというか。それでも、飲み干したのは、午後の仕事をこなす為であって、まあ仕事なんかせずに玲子のリサーチをするのだけれど、それをやるのに体力が持たないからだ。そして、糖分を摂取しすぎた結果、昼間の太陽が一番昇る時に最も眠気が襲ってくる。分かってやっているのだけれど、中毒だから仕方ない。仕方ないということを周囲に押し付けて、成立させることができるのは、異動のおかげだなと思った。

 車を飛ばして、ギリギリでデスクに戻ると、課長に「ちょっといいか」と外へと連れ出された。折角、仕事に取り掛かろうと思ったのにと都合よく溜息をひとつ吐き出してから、「いいですよ」と笑顔で返して承諾した。全然良くないですけど。良くないけど、異動先一日目の課長には逆らえないから、仕方なくデスクをあとにして、個人面談室みたいな換気性能の悪い部屋にふたりで入った。

 課長が、ゆっくりとドアを閉める。「初日だけど、どう?」なんて聞いてくるから、ちょっと分からないこともあるけれど、ひとつひとつこなしていきますと、マニュアル通りの回答をした。勿論、元畑に貰った愚図なマニュアルには書いていない。「じゃあ良かった。ところでうちの仕事外回りないんだよね。パソコンで何検索してる?」「いえ、ちょっと通勤経路を」

「そういうのは、勤務時間内じゃないところでやってね。仕事遅れちゃうから」なんで、知ってんだよ。監視しているってことか。確かに見てたけど、ずっと見てたけど。だからといって、二次的にそれを見ている方がずっと悪いと思う。どっちがサボりですか。とは言えずに、「すいません。気をつけます」と唇と舌は動いた。「そういう無駄、減らしてるからさ。頼むよ」そう言い残し、課長はドアを思い切り開けて出ていった。スライドのドアが開け切った時に端に当たって打音を鳴らし、俺の「すいません」という非体育会系らしいか細い返事をかき消した。



   6

 タコメーターの隣にある時計は午後八時を示していた。前の職場の平均退勤時間より遅い時間を示している。残業させられたのは俺だけで、他の課員は定時早々に帰って行った。

 今まで、遅い時間になったこともあるし、大変だった事もあるけれど、部署の電気を消すということをしなければならなくなることはなかった。絶対に自分より遅く帰る人がいるようにコントロールしていたからだ。それも、まともなマニュアルも用意せず適当な引き継ぎをしてきた社員、それに気づかず、適当に俺に仕事を教えた元畑のせいだ。JTCの悪しき風習に巻き込まれたことは実に不愉快だった。

 由恵が帰るのが遅いとか言って、文句を言ってくる事を想定しながら家路につくのは憂鬱だった。だからといって、帰らないわけにはいかない。明日も明後日も仕事があって、体調管理も仕事のうちとか言う教訓を世間はありがたそうにトイレに張り出している。それが美しき国ニッポン。祝祭日以外仕事を詰め込まれるのは、日本で雇用者として生活することの宿命だ。それが美徳。

 キーボードを打ったり、コピー用紙を捲ったりするために酷使した右前腕の残った力を絞り出し、ハンドルを回す。中古車故か、疲労故か分からないが、やたらとやたらとぎこちなく左折した。左折すると、行きと同じ国道に出る。相変わらず国道沿いのラーメン屋やハンバーガーチェーン、スーツ専門店なんかは煌々としていて、俺より遅くに働いている奴がいると思うと少しだけ救いを得た気がした。光に救いを感じるのは、古代から同じで人間の習性的な物なんだろう。その光も篝火から、今や発光ダイオードになっていて、明るさは日々増しているのに反比例するように救いの力強さは弱々しくなっている気もする。LEDに神々しさを感じたら、それはカルトの始まりだと思う。

 科学技術の賜物によって付けられた、普遍的な明かりを見たということは、畑も住宅街も見ることになる。ということは、その前に禍々しいと言うか、禍々しく感じてしまっている色、つまりあの屋根の赤色を見ることになる。周囲の街灯のLEDでクッキリと照らされる屋根は俺の網膜に張り付いて離れないことだろう。なんて考えていても、その場所を通らなければ、家には帰れないわけで、奇しくも帰宅は出社と違って道が渋滞していないせいもあってすぐに現れた。案の定、屋根は灯りで照らされており、ただ、その光源は、何処にでもあるような大型のチェーン店からのものではなく、地元の工務店とか、スーパーとかの宣伝のために設置されたバカでかい看板によるものだった。こんな看板なんて無くても地元密着型のお店なら、売上は変わらないだろうに。三下の広告代理店とか不動産屋がタッグを組んで半ば騙すかのように看板を出させたと思うと虫唾が走った。この辺りの地元の店が損していることに対してではなくて、あの家がクッキリと見えてしまっていることに対してではあったが。

 昔、付き合っていた時のこと、そして、別れた時のことを思い出してしまった。俺は、別の人間と結婚していて、そんなことを吐露する第三者が思い当たらないことにもやるせなく思った。渋滞が無く、通り過ぎるまでに一度も信号に引っかからなかったことが救いだった。赤い屋根は、車のチャチなバックミラーに映って段々と小さくなっていった。



   7

 田町のギリギリ寂れていないと言い張れる駅を5分ほど歩いて着くカフェで、玲子とは初めて会った。寂れていない駅でも、5分ほど歩けばすぐに閑散としたシャッターが広がっていて、その中の一角にあるたまたま営業しているカフェ。そのカフェも例に漏れずボロのトタンを纏って古民家なんて顔をして繕っていたけど、実際はただボロいだけで、こだわっていますみたいな内装も、絶妙良い感じにダサかった。俺が選んだわけじゃなく玲子が選んだカフェだった。

 その数週間前。マッチングアプリを開いてはメッセージが来ていない事を嘆き、武夫に辛く当たっていた。武夫は面白がって、「もう連絡来ない、一ヶ月くらい前に切れてるのにメッセージでも送ってみたら?ほら、これとか」とか言って、“れー”というふざけた名前の女を指した。メッセージは俺の“楽しそうですね”という大して楽しそうだと思わなかった美術館巡りという趣味に対する心あらずなメッセージで完結していた。「なんて送るんだよ」と、澄ましたフリをして武夫に聞くと、「持ち球もう無いんだからさ、暇な日と会う場所聴けよ」と半ば強引かつ適当なアドバイスをぶつけてきた。俺は、言われるがまま仕方なく、しかし、ちょっとした奇跡を信じて、武夫の言う通りに、そっくりそのままメッセージを送った。返信は来ないと思っていたが、アプリケーションに相互メッセージ機能がある以上、可能性はゼロじゃないと考えていた。

 ある時には、布団から這いずり出てベッドボードの上で充電されているスマホを弄ったし、平日昼下がりの職場では、何かを検索するふりをして、マッチングアプリを開いた。愚図の金田が不審がっていたけどお構い無しだった。夜、寝る前には必ずメッセージを確認し、また、朝には大貧血を圧してベッドを何とか抜け出しては、スマホを手に取った。

 メッセージが来たのは、2日後の休日の朝だった。“今日の2時に田町のレオポルドカフェで”と。なんて、身勝手なんだと思ったけど、身勝手にメッセージを送りつけたのは俺が先だったし、反応してくれるなんて、なんて親切なんだとも、うっすらと思った。そして、今日の2時を迎えて、カフェの一角の席、俺の目の前に玲子はいた。

 玲子はチャイティーを、俺はエスプレッソを頼んだ。チャイの香ばしい臭いと、エスプレッソの含有カフェインによって、酔いそうになった事を覚えている。一頻り自己紹介を互いに終えたところで、「なんで会おうと思ったんですか?いきなり」と玲子に聞かれ、まさか、職場の同期の悪ノリがきっかけなんて言い出せなくて、「フィーリング?」と誤魔化したが何故か玲子には刺さったみたいで、その後、軽妙な玲子の喋り声と挙動不審故のロートーンの俺の声はしっかりと会話になっていたようだった。その日、俺は慣れずに疲弊したけど、玲子は満足そうに帰っていった。満足そうに帰っていったのをみて俺は、満足だった。

 帰って、“今日はありがとう。また会いたい。”と送るとまた例に習って返信はすぐになかった。2日後だった。土日のどちらかで飲みに行かないかという誘いだった。女の子のほうから誘ってもらうなんて、一度もなかったから浮かれた。その後のこともあるかと、打算に打算を重ね、土曜の夜にした。日曜だと次の日が仕事だからアフターは無いと狡猾に計算した。今度は田町じゃなくて、都心部の寂れていない、どちらかと言うとモダンで、少し薄暗い焼肉屋を選んだ。

 

 焼肉の日の土曜、俺は、当該のお店に30分も前に着いて、半個室の部屋へと通された。飲み放題を始めるかと聞かれて、揃ってからでと答えると店員は、面倒くさそうな顔をして、わかりましたと去っていった。勝手に早く来たにも関わらず30分という時間は苦痛だった。玲子から連絡が来ているかと何度も確認したけど、メッセージは無かった。次第にお通しで出されたモヤシは汁でシナシナになって、勿体なくなって食べたせいで無くなっていった。待ち時間の苦痛を緩和するために一本一本時間をかけて丁寧に口に運んでやった。別に玲子からのメッセージが気にならなくなることはなかったけど、口を動かすことで、よく喋れた気分になった。口寂しさという問題点だけは解消された。モヤシが無くなるころになると、俺は根拠のない不安に駆られるようになった。もしかしたら、玲子は来ないんじゃないか。俺は、玲子が来なかった場合にいかにしたら、この焼肉屋から惨めそうに見えないように脱出できるかを考えていた。

 二人分食べちゃいますよ。実は、大食いなんです。だから二人で予約を取ったんです。なんて顔をして、しれっとお会計するという案が編み出されたけど、食べ飲み放題のお店において、そんなものが通用することは無かった。後頭葉の中心よりちょっと後ろあたりから、ぼんやりとそんなアイデアが浮かんできた。聞くに堪えないアイディアだった。

 そんな風に不安に駆られていると、半個室に店員がやって来て、そして玲子を連れてきた。店員に促されて、玲子が座ると「お揃いですか」と店員がそっけなく聞いてくるので「お揃いですよ」とそっけなく返した。店員は、インナーカラーの毛を耳にかけて、最初の一杯を聞いてきた。俺はビールにして、玲子はハイボールを選んだ。

 お互い一口目を飲んだところで、「ビール結構飲むんですか」と普通は、お酒というベン図の大きい括りで聞かれるところを、もっと絞って聞かれたから、「ふふ」と笑ってしまった。「何?」と聞かれたので笑った理由を話したら玲子は確かにと妙に納得していた。その後、ガールフレンドはいつからいないのかとか、仕事はどんな感じかとか、一回目に会ったときに普通聞くことを聞かれた。カフェでは、こちらの緊張と、「フィーリング」という回答に良さそうな反応を貰ったことによって逆に饒舌になりすぎたせいで、そんな情報交換も出来ていなかったからだ。

 玲子の質問に大体答え終え、今度はこちらからと、「そちらは、彼氏は?いつからいないんですか」と聞くと、玲子は急に寡黙になった。「何?どうしたの?」と聞くと、玲子は、「……一ヶ月前まで。別れて、すぐボーイフレンド探し出すんだとか思われるかなと思って」と苦々しく言った。正直俺は、すぐボーイフレンド探し出すんだと思ったが、なるべくそういった感情が顔に乗らないよう、「いや、別に……。今時普通そんなもんじゃない?」と。そして、「俺だって、そんな期間空いてないよ」と付け加えた。俺は俺で、格好付けて実際よりも相当短い期間を玲子に伝えていたから、少し罪悪感もあった。ただ、奇しくも玲子の表情は晴れて、心配事がなくなったようで「そう?ならよかった」と急に饒舌になった。その後は、最近の映画の話、行きつけのカフェの話、深夜のバラエティの話なんかで盛り上がった。きっと焼肉屋のギリギリ風営法に引っかからない程度の照度が功を奏したのかもしれない。

 会話が一段落した頃、店員が「お時間まで10分前です」と告げてきた。俺は店員を軽くあしらって、また会話を楽しもうとした。だけど、玲子は「もう出ようか」と俺に言ってきた。正直、もう出るのかと思ったし、もうちょっと話したいと思ったけど、あいにく言い出せなかった。

キャッシャーに向かって俺が財布を取り出し全額を支払うと玲子は、そのうち半分程度のお札を俺に渡して来た。「貰っといて」俺は拒否をしたけど、押し問答が三回程続いて、あえて押し負けてそのお札を持った。

 店を出て、美味しかったねなんて言いながら店よりも少し明るい路地を二人で歩いた。玲子は、少し俺より早く歩いて距離を作って振り返り、「今日はありがとうね。またよろしく」そう言って「私こっちだから」と指差した方へ歩いて別れようとした。「待って」咄嗟に何も考えずに止めてしまった俺に、気に効いた方策は無かった。「もうちょっと、一緒にいたいな。できればずっと」玲子は再度振り返って「それ、告白?」なんて聞いてきた。世間では告白は3回目のデートの後なんて定説もあったから、思わず口ごもりしたけど、意に反して頷いていた。頭では、しまったと思っていたけど、「いいよ。付き合ってあげる」という玲子の言葉はそのしまったという考えを全て除ききってくれた。


 それから、二週に一回位のペースで玲子とは会った。玲子は旅行とか食事に行きたがったが、俺には、そんな物に興味がなく、興味がないものに金をかける気にはなれなかった。一緒に居られればそれで良かったから、玲子とは俺のアパートか玲子のマンションで会っていた。それに、玲子は友達とか家族とかと、頻繁に旅行へ出かけているらしかった。俺は、玲子の旅行という需要が満たされた箇所を担う必要はなかったし、だからこそ、二週に一回ペースで会っていた。玲子も玲子で楽しそうではなかったけど、つまらないという感情を露わにされたことはなかった。

 付き合い始めて半年くらいが経った頃、実家に用事があるから送ってほしいと玲子に言われることがあった。正直面倒だし、ガソリン代の月額を職場に支給される交通費の範疇で抑えたいというスケベ心に駆られて断りたかったが、「どうせ暇だし、たまにはそれくらいしてよ」という玲子に圧されて送ってやることにした。

 土日の混雑しない道を車で抜けていくと「あそこ。私の実家」と玲子が指した家は赤い屋根の見たことのある家だった。その時は本社に勤めていたから、田町に書類を届けに行くときにどうしても通ったし、赤い屋根は記憶に残っていた。あんな赤い屋根に塗装する感性の持ち主はどんなヤツだろうと思っていたが、まさか彼女の実家だとは考えても見なかった。やたら空いた土地に車を停めて、玄関まで行くと季節外れのクリスマスリースと新年飾り、そしてハロウィンかぼちゃのチャームみたいなものが同時に飾られていた。怪訝な顔でそれらを見つめていると容赦なく玲子はインターフォンを鳴らした。「はい」「お母さん、わたし」「ああ、おかえり。今出るね」と簡潔なやりとり後、玲子の母は玄関のドアを開けた。普通の人だった。拍子抜けだった。玲子の母は、ちょっと上がってってと声をかけてきて、俺はその呼びかけに乗った。

 リビングに通され、テレビ前のソファーに座るよう促された。座ると対面の位置に初老の何やら文化人らしい男性が座っている。ラウンドの金縁眼鏡にハンチング帽という男を、玲子は父親だと紹介した。「玲子さんとお付き合いしています。花野伊織といいます。よろしくお願いします」と自己紹介すると、娘の彼氏のことだからと色々聞かれるのかと思ったけど、「そうですか、よろしくお願いします。こちらこそ」とあっさりとした返事だけをもらった。俺は少し、逆に動揺したけど、玲子の母が、コーヒーを持ってきてくれて、喋る以外の動作をする理由を作ってくれたお陰で、その動揺から脱することが出来た。その後は、玲子の母から、天気の話とか、話題の映画の話とか当たり障りない話が羅列され、ある程度の時間が経過されると、良い感じに話を締められ、じゃあまたよろしくということで、玲子の実家を後にした。


 翌朝、俺のアパートでは、スマホが着信音をけたたましく鳴らしていた。朝から寝返りをうつのも面倒で、重たい上半身を腹筋運動の要領で起こし、ベッド脇のスマホを取った。玲子からの着信だった。彼女からメッセージが来ても、電話は一度もなかった。初めて電話を掛けてきたということと、カップルらしい会話を電話でできるという高揚感を持って、電話に出た。

 出なければ良かったと思った。おはようと旅行はどう?とか聞く俺に対して、玲子は、「別れたい」の一言それだけ伝えてきた。「なんで?」俺も玲子に倣ってシンプルに聞くと、「いい人だとは思うけど、なんか違うんだよね」と。その何かを聞いたんだけどと言おうとしたけど、「何か気に障ることがあるならさ。治すから」と変換して伝えた。「別に。何かってわけじゃないけど。ごめん」彼女のごめんには、一切の罪悪感は無かった。思えば、玲子の母親が当たり障りないことしか聞いてこなかったのも、父親があっさりとした挨拶しかしなかったのも、どうせ一回しか会わない相手だと分かっていたからなのかもしれない。

 諦められない気持ちがあったけど、何も改善策を示してくれない以上、諦めるしかないというのも分かっていた。「今までありがとう。じゃあ」という玲子の一切の感謝の感じ得ないお礼を最後に電話は切れてツーツー音が響いた。

 玲子とはそれ以降、会うことはなかったし、俺は、田町の支所へ行く用事があるときは後輩へ全て任せていたから、玲子の実家の前を通ることもなく、そのうち新しい彼女として由恵と付き合って、そして結婚まで漕ぎるける頃には忘れることができていた。田町に異動となるまでは。



   8

 あの家の前を通ってから、玲子の事を思い出してから、玲子とは何だったのか、今どうしているのか、あの家はちゃんと管理されているだろうか。ずっと考えている。食事中だって例外じゃなくて、由恵の作った肉じゃがを咀嚼するのが面倒で、やたら入った具を避けて、汁だけ啜ってみたものの、あまり味がしなかった。

 脳みそのリソースのうち、殆どををあの情景を反芻することに割いていて、残りは口に向かって料理を運ぶことに使っているから、味蕾を使って味わうということが出来ていない。料理を口に運ぶということだって、薄く注意を向けているだけであって、ほとんどが反射で行われていて、噛んで飲み込むということについては、全て反射で行っているせいもあって、肉じゃがの小さく滑りやすい食材、とりわけ玉ねぎなんかがボロボロと唇、顎を伝って食卓へと零れ落ちた。

 由恵に、「ねえ、落ちてる。汚い!」と注意をされる。その瞬間だけ、ふと食事に注意を向け、テーブルに落ちた玉ねぎにびっくりした。こぼしていたんだなあと。由恵は、布巾を俺に、渡しながら、「どうしたの?可笑しいよ?」と聞いてくる。どうもこうも、元カノのことを考えていたら食事もろくに出来なくて。なんて言えずに口ごもりながら、箸でこぼれた玉ねぎを拾って食器に戻すと、また由恵に汚いからやめてと怒られた。由恵がテーブルにこぼれた玉ねぎを紙フキンで拾って、「ホント、大丈夫?」と聞いてくる。「大丈夫、大丈夫だけど、ちょっとだけ食欲がない」

 由恵は、悲しそうな顔をして、だけど割り切った顔をして「じゃあ、しょうがないか」と肉じゃがを下げた。「ごめん。ちょっと寝てくる」「後で風呂くらい入りなよ」なんとか立って、寝室へ向かう俺の背中を目掛けて、由恵は告げた。


 布団に包まったって、玲子のことを考えることはやめられなかった。それどころか、視界が暗くなった分、玲子に集中できるようになってしまった。居ても立ってもいられないから、いつもはデジタルデトックスとか言って布団に入ったらスマホは触らないというルールを決めているけど、俺はサイドテーブルに置いたスマホに手を伸ばす。伸ばした右手はギリギリスマホに届いて、何度かそのツルツルのボディを引っ掻きなんとか手中に収めた。スマホを布団の中に引き込み入れて、電源ボタンを押す。青白く光った画面によって、俺の顔をクッキリと内カメラが捉えたらしい。顔認証によって、ロックが解かれた。

 百文字程度の短文で綴るやつ、画像が主なやつ、やたらキャッチーな音楽に合わせて踊るやつ、同じ時間にみんなで写真を投稿するやつ全部で玲子を調べてみたけどらしいアカウントはひとつもなかった。近しそうな年齢や住んでいるところから、実家付近の同級生らしきアカウントを見つけ出すところまでは至ることが出来たのだけれど、その先、鍵垢やアニメアイコンで誰かわからないやつなんかに阻まれてその先には進めなかった。玲子はナチュラルデジタルデトックサーだったなと、どれだけ探したって本人にはたどり着くことは出来ないことを察していたが、探さないことは出来ない。仕舞いには、ビジネスパーソンの紳士淑女の方々が使う本名でやるやつも検索していた。しかしこれが、ハマって“蓮見玲子”で探すと明らかに玲子、しかし十歳ほど若い玲子の顔のアイコンが出てきた。出てきた嬉しさを抑えきれずに、強く押すボタンも無いのに、俺はスマホの画面を強くタップした。アイコン同様、更新が十年前に止まっていた。スマホで探偵ごっこをすることによる緊張と緩和によって、脂質が主成分な汗をかいていた。シャワーを浴びなければ。スマホの画面は便器より雑菌が一杯らしい。玲子を探すたび汚染されていく指を洗いキレイにしなければいけないとわかっていながら、永遠にも思える時間をスマホの画面をスワイプするのに費やした。



   9

 寝不足が祟ったせいで、滋養効果のあるドリンクなんかを飲んだ。それでも眠いということは、ドリンクがインチキ商材なのか、若しくは俺の寝不足が重症かのどっちかだと思われる。所詮は特定機能性食品であって、薬じゃないってことかもしれないが、この飲料物が子供の頃から、壮年週刊誌の裏表紙に広告宣伝を打ち続けられている事を踏まえると、恐らく俺の寝不足が重症なんだと思う。ふらふら蛇行運転しない様に、何度もツバを飲んで正気を保った。こんな時でも赤い屋根は眼前に現れて、その時だけは目が冴えた。

 

 赤い屋根の前を通る時だけ目が冴えたせいか、会社について始業時間を過ぎた頃から、帳尻を合わせるかのように眠気が襲ってきた。俺の机の状況は異動前と変わらず、大量の書類が積まれている。変わったことと言えば、書類が積まれている理由で、前までは仕事ができるが故に色々巻き取っていた結果だったが、今はあまり仕事が進まないうえに誰も巻き取ってくれないせいでこの状況に陥っている。

 書類を減らさないといけないのに、眠気は執拗に襲ってきて、思わず積まれた書類を枕にしてシエスタでもしてやろうと思ったけど午前中だし、多分課長に怒られたり元畑に冷たい目で見られることが想像できてしまって辞めた。

 我慢するとは言っても、眠いものは眠い。本社に送る書類をかき集めて、営業車の鍵を取って課長に、「本社に行ってきます」と宣言すると課長は、元畑に行ってもらったらいいよと賛同しない。俺の仕事が滞っているから、課長が賛同しない事は分かっていたが、「僕もちょっと、手放せなくて。花野さんの方が動けるかと」と元畑が想定通り横やりを入れてくれたお陰で、無事本社へ行くことができることとなった。これで武夫と一緒に副流煙を天へと届けてやることができる。


 本社に着いて武夫のところ、人事課に行くと「忙しいから今は」とか言って煙たがって追い返そうとしてきたが、俺も忙しい中来てんだよとちょっと粘ると、「わかったわかった。ちょっとだけな」と武夫を屋上の喫煙所代わりのスペースへと引き込むことに成功した。ちょっとで終わらすつもりなんて無い。


 喫煙時間を長くするために買っておいた長くて、細い吸うのに時間がかかるタイプのタバコを武夫に渡して火を貸してやった。本当は葉巻とかの吸うのに一本30分以上かかるような代物のほうが良いのだけれど、流石に武雄が痺れを切らして事務所に戻ってしまう懸念があるからタバコにしておいた。武夫がしびれを切らすギリギリにタバコが切れるっていう算段だったりする。俺もタバコに火をつけて互いに互いの吐く煙で目が充血していた。これのせいで近眼と老眼が通常よりも早くきていると思う。「どうよ。田町はさ」「どうって」「いいっしょ。あそこ。実は楽だし」なんで楽だと思ったのか。「きついって噂出てたじゃん。俺が流したんよ。ホントは楽だけど、お前のポスト作ってやったんだから感謝しろよ」なにが感謝だ。確かに仕事は楽だ。皆机の上をきれいにまとめて、ストレス無く暮らしているように見えると思う。俺以外は。俺の机は、全然整然としていないし、仕事も多い。慣れていないからなんて、言葉で片付けられてたまるか。それに毎日2回確実に、あの景色を目にしないといけないと思うと苦痛だ。あの家のことを考えているときに、由恵が家事をやってたまには手伝ったりしたらなんて文句を言われたときには、嘔吐感すら覚えると思う。そういう文句を纏めて武夫に言うために、わざわざ用事を作って、赤い屋根の前を通過するのを往復一回分、本日は出退勤も含め、合計四回通ることになる苦痛を受け入れてまでここに来ている。

 来ているんだけれど、武夫がまあゆっくりやれよとか、器用なお前ならすぐ大丈夫になるとか、俺が何も言っていないうちから先回りするように慰めというか、エールというかをかけてくるから、ちゃんと順を追って話すことは出来なかった。唯一、「田町になってさ、元カノの実家の前通るんだよ。最悪」とギリギリ伝えると、武夫はマジでコイツは何を言ってるんだという顔をして、「今更?もう結婚してんだからさ。そんなの忘れとけよ」と。マジでコイツは何を言ってるんだと俺は、衝動的に思ったけど、マジでコイツは何言ってんだなのは、俺であることをコンマ何秒かにハッと理解してしまったから、「うん。まあ、そうだよな」と、不本意にも飲み込んだ。俺がおかしい事は、理解できていたけど、本意かどうかは別ごとだ。



   10

 本意ではなかった。何故、オマエが俺の思い出に口を出してくるのか。何を残して、何を記憶から消し去るかは俺の勝手のはずだ。しかも、実際は“残し”ているのではなく、“残って”いる訳で、そこに俺の自由意志は一つもない。武夫のマジでコイツ何言ってんだという顔から発せられた「そんなの忘れとけよ」という会話を忘れようとして、細長いタバコの四分の一を残してクシャクシャに灰皿に押しつぶし、「じゃあな」と言って、武夫を残し本社を後にした。

 本当は、武夫と昼メシでも行って、イタリアンチェーンのドリアでも食べようと、勿論、武夫の金でと思っていたが、そんなことしたら、あの武夫の顔が俺の複雑に刻まれた脳の襞へと張り付いて、後悔してますとかドキュメンタリーで言ってた若者のダサさ際立つタトゥーの如く剥がせなくなる気がして辞めた。一食1,500円は覚悟しなければならないほどにインフレした昨今において、食い扶持を捨てるなんて合理的じゃないけど、合理性だけで人間は生きてはいけない。武夫の顔を忘れるために、道中、車から赤い屋根をネットリと直視してやった。どちらかと言うと、武夫の顔より酷かった。昼メシのことなど放ったらかしにして、アクセルを踏み込んで、田町へと一刻も早く到着するよう速度を上げた。


 支社に戻ると、課長への報告を省略し、すぐにパソコンを起動させた。課長はまた地図サイトでも開いて、バーチャル旅行でもするんじゃないかとか思っているのだろうか。ソワソワしながらこっちを見ていた。けど、心配御無用。俺が、日報で報告しますみたいな感じをだしながらマウスを握ると、課長は御満悦そうに自分の業務に戻っていった。

 会社のオーバースペックなGPUが搭載されたパソコンを利用して、玲子のSNSを探す。正直、格安SIMのおまけみたいな価格で付いてきた俺のスマホで調べようが、リンゴマークの高スペパソコンで調べようが、検索エンジンは同じアルゴリズムで駆動しているわけだから、結果は変わらないのだけれど、パソコンを使えば見つかる。そう、直感が働いた。


 見つからなかった。スマホで夜更かしして散々探したのに、たとえジョブズがプロデュースしたパソコンだとはいえ、職場の午後4時間で見つかると思ったのが間違いだった。検索エンジンの才能は同じなのだから。

 狼狽していると、チャイムが鳴った。課長越しに窓の外を見ると、既に太陽の三分の一が周囲の高くもないビルの後方へと沈んでいた。ここまで来ると、武夫の主張は正しいのかもしれない。忘れよう。早く帰って、由恵と唐揚げでも食べながら、天気のことや野球のこと、はたまた政治のことなんか喋っていれば忘れられるはずだ。颯爽とパソコンをシャットダウンして、鞄を取った。鞄を取って立ち上がり、別に仲良くしようとしているわけでもないけれど、せめてお疲れ様でしたと課長や元畑に言おうと思って振り返ればヤツがいる。課長は、俺の前で棒立ちになってじっと顔を覗いてきていた。

「アレ、終わった?」「アレですか。アレでしたら、もう少しです」アレがどれを指しているのかは全然分から無かったが、今日一日、書類の作成をしていない事は分かっていて、だからといって全く出来ていませんとは言えなかった。全く出来ていないからもう少しまでという表現とどれだけのギャップが生じているかは、アレが何かを分かっていない故、測ることはできない。それに、そんな事はどうでも良かった。アレが終わっていることなんかよりも、早いこと自分の身が田町支社から我が家へと移っていることのほうが、余程大事だった。「それでは、お疲れ様……」「あと少し位ならやっていったらどう?」あと少しと言われても困る。あと少し、何をやれば良いんだ。「アレをあと少しですか?」俺は、アレがさも“少し”じゃ終わらないもの扱いして言ってやった。課長は、考えるような素振りをして、「まあ、でも、今日の日報は今日中に出してほしいんだけど。そんな量じゃないでしょ」と、本社に赴いた分の日報だった。正直ギャップはそこまでない。日報だったらすぐ書けるけど、残って再度パソコンを起動し、ワードを開きキーボードを叩くのは面倒事この上ない。

 俺は、課の全員のために身を切って本社へ赴き、必要な書類を渡してきたと言うのに、その報告まで求めてきていることに対して怒りを覚えていた。俺が黙り俯いて、黙秘を続けていると、五月雨式に「ほら、皆だって残っているし」と課長が後ろを向いて掌で課内を指した。課長の掌の先で元畑が帰り支度をしている。元畑は課長と目が合って、その後すぐに目線を落として、気づいていないふりをした。課長は、そんな掌のやり場に困って、後頭部へと持っていった。俺はというと、先ほどまで垂れていた頚椎を立ち上げて、バツの悪そうな課長に目を向け一言「お疲れ様でした」と伝えて、職場を出た。

 背中に向けて仕事が出来ないだの、出来ないくせに早く帰るだのと聴こえない様に愚痴る課長の声が蝸牛管へと到達してきた。振り向いて、皆早く帰っているだの、出来ないのは偶然俺がこの課に遅れて配属された結果によるものだの振り向いて反論してやることも出来たが、そんなことする前に早く家に帰らなければ、除光液を使っても取れないシールのように、武夫に執拗に取り憑かれることになるから、我慢して無視した。



   11

 何も消えない。網膜に、三半規管に、焼き付いた武夫が、課長が、すべてが消えない。

 武夫にどう反論すればよかったのかを考えて、結婚しているからってなんなんだよとか、そんな稚拙な言い訳でぼんやりと納得して、すぐさま課長をどう論破すればよかったのか思案して、ああ、あの時は振り向いて何でもいいからひとこと言うだけだったとか思い出してまた、武夫のことを考えてと、反芻するたび記憶が鮮明になっていく。架空のディベートを繰り返して、勝つ度にフラストレーションが溜まっていった。どうしたって、満たされることはない。帰るまでは。と、言うことで、軽自動車のアクセルをベタ踏みした。車体が軽いせいか、初速だけは信頼できた。昔ミニ四駆のボディを限界まで薄くした事を思い出した。そんな思想を立ち上げては隣のSUVを置き去りにして、直ぐに追いつかれ、抜かれた。馬力がないから、初速しか信頼できなかった。中古車のタコメーターは140キロまでしか無い癖に、一瞬置き去りに出来るから、軽自動車に速いという期待を持ってしまっていた。根拠の無い期待。「そんな速いわけないだろ」武夫に言われた気がして、信号でSUVに追いついたあと、もう一度アクセルをベタ踏んでみたけど結果は同じだった。日光を背にして運転している癖に、サングラスをかけたSUVのドライバーの目元を想像した。想像が膨らんで、別人なのに、課長と同じ目元が薄ら見える気がした。もう一度、信号で横に並んで顔、特にサングラスで隠れた目元を見ると何処も課長に似ているとこなどなかった。信号が変わって、アクセルを今度はゆっくりと踏んだ。SUVは、俺の車なんかより遥かに大きくて筋骨隆々なのに、すぐさま小さくなっていった。SUVのドライバーが見えなくなって顔をもう一度思い出そうとした。目元は課長で再生され、それに気を取られた結果、軽自動車に十分な四車線道路の対向車線へとはみ出し、前から向かってくるトラックに長めのクラクションを鳴らされた。俺は咄嗟にハンドルを左に切ってなんとか、並行車線へと引き戻すと共にクラクションを鳴らしてきた対向車線のトラックを右のサイドミラーで確認すると、思わず、「うるせえな。静かに鳴らせよ」と悪態をついた。声が車内で響く。フロントガラスや後部座席に反射して戻ってきた自分の声を聞いて、拍子抜けして冷静になって、実際危なかったなと、トラックに逆ギレして悪かったと心底反省したけど、その反省さえも、俺が、吠えてそれに気づかなかったであろうトラックさえも、ホログラムのように現れる課長と武夫に吸い込まれていった。


 全てをふたりに吸い込まれて取り込まれたということはつまり、また蛇行しているということであって、偶に対向車線にはみ出したりしながらも、稀に正気を取り戻して、真っ直ぐ走ったりしているってことだった。

 正直、車を一回停めて運転代行業者を呼んだほうがいいくらいになっていたけど、タクシーよりも全然お金が掛かるという、そこだけは冷静な勘定が出来ている癖に、代行と俺のどちらが上手く運転出来るのだろうかという比較は、色々な情報がオフィスフロアの配線ばりに絡まり丸まって、ロジカルには出来なかった。

 飲んだら乗るなって教訓は、アルコールに飲まれてまもなく、アセトアルデヒドへの変換が上手になされていない人間の意識に残っているだろうか。絶対に残っていない。事故って、アルコールを分解して、その副生成物が脳や胃を刺激して始めて意識下へと表出するはずだ。それと同じ状況。だから俺は悪くない。


 辛うじて感じることの出来るハンドルとアクセルペダルの感覚以外のものを飲み込んだ武夫と課長は、既に他のものに取り込まれつつあった。フラクタル構造の一番外郭のマクロ層にある赤い屋根がすぐそこまで迫っていた。武夫と課長の郭から、手だけをぬくっと出すようにして感じることの出来る軽自動車を、体全身で触る感触、感覚というのは、赤い屋根郭の外側に持っていくことは出来ない。

 あの屋根の赤色、瓦の打つ波がひいては寄せて、その周波数をだんだんと短くしていって、もう俺の顔前に迫っていた。波の間からまるで北斎の富士の様に玲子の顔が覗いている。ゴッホの星月夜のぐるぐるよろしく、渦巻きが錐揉み回転、近づき迫ってくる感覚はだんだんゆっくりになっていって。


 少し怖くなって抵抗したらしい。屋根に俺ごと取り込まれる前に、ハンドルをなんとか左に切った形跡がある。軽自動車は、コンクリートの柱にぶつかった。軽自動車は、エコノミー化の影響で脆いのか、俺の股の間まで電柱が突き刺さって止まっている。何回も深呼吸しようと吸っては、吸いきれず吐いている。過呼吸だった。近くにビニル袋がなくて、通勤で使っているカバンを鼻と口に当てて対処した。空気を透過させるはずの普通のバッグで対応したのに不思議とその症状は治まって、今度は深呼吸などする暇を惜しみ、急いで車外に出た。

 外から車を見ると、ボンネットの付け根まで電柱が来ていて、さながらユニコーンの角のごとく立派におったっている。俺は不思議と冷静で、警察を呼んで調書を取られた場合の拘束時間なんかを推察して、そのまま車を置いて帰るという選択肢と比較し、僅差で警察に事故状況を伝えることにした。

 感覚は、もとの速度を取り戻していくらか速くなっている。武夫や課長はいないし、回転もしていない。

 ただ、赤い屋根だけは、実像として、衝突した電柱の前方20メートル程先で瓦を波打たせ、満ちていた。



   12

 せん妄していないだけで、混乱もしていないし、錯綜もしていない。スマートフォンの画面を冷静に110とタップすることができるし、電話口の婦警に事故の調査が必要がないくらい理路整然と説明することだってできる。ということで、事故処理のために警察を呼んだ。

 巷には、複数人が絡む事故を起こしてその場から去ってしまう奴がいる中、俺はしっかり理性を保ち、警察を呼んだ。婦警は「5分くらいかかりますので、安全な場所で待ってください」と言った。“安全な場所”だって。路上にそんな物があるのかは、甚だ疑問だ。実際蛇行運転や車線はみ出しの挙げ句、電柱に突っ込む事例が目の前にある。電柱がなくて、歩行者がいた場合、単独事故じゃすまなかった。それでも、どちらかと言えば安全な、事故ったクルマの後方に陣取り待つことにした。前に立つと、事故車に追突事故が起こった場合に巻き込まれて轢かれることがあると、夕方のワイドショーでやっていたのを思い出してのことだった。

 5分、300秒が長く感じた。カップヌードルの3分でも長いと感じるのに、何もしない5分は異様な長さで、1秒ごとにカウンターを押していったほうが体感的に早く過ぎていくんじゃないかという気にもなっていた。

 スマートフォンを弄くり倒してれば良いものの、事故った手前、反省している感を醸し出さなければならなかった。5分経過するくらいでやめれば良いかもしれないけれど、警察が4分30秒とかで到着した場合、俺がスマートフォンを手に、ストレートネックを悪化させている過程を見られてしまうことになるかもしれない。警察の心象を悪化させて、二桁の点数を免許から理不尽に引かれた挙げ句、免停になって徒歩で帰宅する羽目になるのだけは避けたかった。

 まだ、バックして、電柱をぶっこ抜けば軽自動車が動くかもしれない。俺は、次回から気をつけてと警察に何事もなかったように解放され、軽自動車は外傷だけで問題なく動くという最高の想定でシミュレートして正気を保つ。


 警察二人が怪訝な顔を浮かべてこちらを見ている。一人は、原付の荷台に調書を開いて書き込みながら、俺の目をジトッと見つめてきた。思わず目をそらすと、そこにあったもう一人の目と鉢合って、ソイツは面倒そうな様相の目で睨んできている。

「一体、どうやってぶつけたんですか。これは」どうって、電柱に斜め左30度から突っ込めばこうなるよと伝えたかったが、二人の警官の目が何倍にも増えて見えて吃った。あうあうという俺の喃語に耳も貸さずに調書の警官は、「アルコールとか入ってます?もしかして」と決めつけのように質問をぶつけてくる。「いえ」俺はあうあうのあをいに、うをえに変えて何とか答えてやった。主に話する方の警官は、調書の方に釣られるように、「一応、検査するんで」と言って、原付の荷台から調書の方の調書をどけて、荷台をごそそと探って呼気アルコール検知器を取り出した。

 調書のほうが乱雑に避けられ微風で、歩くと走るの速度で逃げていく、バラけそうになっている調書を追っかけ突っかけ転びそうになっていた。話してる方の警官は、俺にビニール袋にストローが付いたものを渡してきて、「これに息入れて」と怪しんでかかってきたから無言で受け取って、ストローをしゃぶって息を吐いてやった。ビニル袋が膨らみ、中が水蒸気で白く靄がかかっている。せっかく吐いた息が蒸れて、コンタミネーションしている感じがする。

 警察の連中は、俺がわざわざ息を吐いてやった袋を分取るように奪って、機械のチューブにつなげた。電源が入ったぞと言わんばかりにピッピと鳴る機械は、袋の空気を取り込んでどう思うだろうか。酒を飲んでいないけど、常習的に煙草を深く吸う俺の息にはニコチンとタールがうんと含有されているだろう。この機械が見つけ出したいはずの有機物は何処にもない。副流煙にまみれながら窒息してしまえと思っていたら、断末魔というのは滑稽な程鈍くて高い音を鳴らして感知が終わった事を伝えてきた。

「あれ?おかしいな」警察は、困ったように機械を覗いて、深くため息をついた。さっき近くで話した方の警察からは、二級品の安い煙草の臭いがした。警察は、あてが外れたと舌打ちをした。アテなら俺が選んでやるのに。そうしたら美味しく酒を飲んで、いい気分になって、そよ風に当たりながら原付で帰れることだろう。俺はすかさず110番通報を入れてやるけど。

 警察は諦めたように、二人でツカツカと近づいてくる。とりあえず事故状況だけ処理していくからと偉そうにほざいている。いくらほざこうが構わないけど早く解放して、由恵のもとへと向かいたい。警察が俺を疑ったことを棚に上げたのだから、俺にだってその権利がある。俺は、事故そのものを棚に上げることにする。



   13

 助手席の首の部分にくくりつけられたモニターには、激安の発泡酒を讃えるコマーシャルが流れていた。警察に酒を飲んでいないにも拘らずアルコール検査をさせられ、アルコールが出なかったからといって不躾な態度を取られた人間にとっては、不快でしかない。運転手に電源を切ってもらおうと思ったけど、「ああ、それ切っちゃうと、自動でドアが開かなくなっちゃうんですよ」とか言われそうで、タクシーの運賃を払った後に自分でドアを開けるのはなんだか屈辱的な気がしてやめた。

 メーターは等速的に回転して、七千円を超えていった。車で通勤した場合のガソリン代とか、車税なんかを全部合わせて一日分に勘定し直したときの二十倍以上に膨れ上がっていた。しかも、通勤経路の中間あたりまで車で運転してきていたから、実質40倍だ。家まであと一キロの最寄りの駅のロータリーへタクシーを入れてもらう。「じゃあ?8千400円ですね」と最後に停車する瞬間に上がった400円分も、きっちり請求された。もうちょっと近くまでタクシーを走らせれば良かったと思いながら、一万円を出すと、タクシーの運転手は面倒臭そうに小銭を数え、五百円玉2枚、百円玉5枚と五十円玉1枚、そして十円玉5枚でお釣りを返してきた。釣り銭くらい用意するのが務めだろうが、このサボタージュがと、罵ろうと思ったが、「ありがとうございした」と気の抜ける声と、自動で開くドアの音に邪魔されて、なんとなく深く会釈してタクシーを出た。タクシーは俺を降ろしてすぐ、ベタ踏みしたように加速して、ロータリーを颯爽と抜けていった。

 あのコマーシャルの流れる画面の配線を抜いてやれば良かったと、タクシーのリアガラスの先にあるバックミラーに映るタクシー運転手の顔を睨みつけた。やっと帰って由恵の顔を見られる。


 タクシー代をケチって歩く一キロは、遥かに遠い。遠いから今日の出来事を反芻していた。武夫と話せば、俺が痩せる。風桶。風桶と言ってもまさかその間に事故るとか、タクシーメーターを気にするとか、そんなんが入ってるなんて、誰も想像しないだろう。課長の嫌味なんかも入っている。まあ、本家本元のように世の中から、猫が減ってネズミが大量発生するなんて、人災までは起こっていないのだけれど、奇怪さで言ったらきっと負けないと思う。

 タクシーが走り去っていった道とは反対につま先を向けて右から踏み出す。何の変哲もない道で、住宅街を抜けていく。アスファルトで舗装されているくせに、上り坂と下り坂を繰り返す道に対して、住居地域ならば、もうちょっと、造成すればよかったのにと、当時の土木建築業者の悪態をつきながら、歩き続けた。

 家の前の坂道まで来る。道路の傾斜は、最高でも7度が限度らしいが、優に二桁角度を超えているように見えた。

 こんな坂を体力自慢が障害を乗り越えて、ゴールを目指すテレビ番組で見た記憶がある。その番組で、壁の前で諦めて立ち尽くすベテランを見たことがある。ああ、あの選手はきっとこんな気持ちなんだろうと月木のゴミ捨てで普遍的に登り降りする坂道を見て感慨した。

ただ、俺はこんな坂の前で立ち尽くすわけにはいかない。俺の家に帰るだけだし、坂道一本30メートルが感覚ほどの苦行じゃないことは理性では分かっている。それにそもそも、由恵の顔を見なければ、あの忌々しい反芻がまた始まってしまう。

 まず坂をじっくりと観察し、そして平坦な道で楽に歩ける理由を考えた。平坦な道で楽に歩けるのは、重力がしっかり体幹にかかっているからで、つまり単純化すれば、地面に垂直に体があるからだ。地に足付く。俺は、その坂に垂直になる様に体を後ろに傾斜させ、坂を登ろうと一歩踏み出した。後ろに転げて、後頭部を打った。


 前に手をつくようにしてなんとか坂道を登りきり、家の前までついた。肩は呼吸に合わせて上下に揺れている。地面についた手をなんとかよじ登らせるようにして膝まで上げて、一般の方々がスタミナ切れを起こした時のような格好を作った。そして、水面からぬるっと息継ぎするように顔を上げる。家の電気は既に消えている。由恵は寝ているのか。寝ているということを推定できてしまった時点で、また忌々しく反芻が始まってしまう気がして、既に筋肉痛を引き起こしそうなくらい痙攣している大腿は動かせないから、急いで股関節から足を動かして数段の階段を歪に登り、家へ入った。


玄関を開けて廊下を抜けてリビングに行く。キッチンの換気扇に付いた小さい明かりだけが付いて、用意された野菜炒めと味噌汁を照らしている。真上から照らされている事とIHなせいで、味噌汁を入れた鍋によって出来るはずの影は一つもなく、鍋の内部の味噌汁は、黄色がかった異様な色に見えた。ラップで封された野菜炒めの上には正方形の付箋で、“片付けはしてください”と一言。普段はやたら過度の落ちた筆跡で書く由恵が、あえて書いたゴシックみたいな文字があった。仕方なく俺は、コンロの火をつけて、野菜炒めの皿は、レンジにかけてやることにした。レンジの外側から温まる感じはあまり好きではなくて、鉄フライパンでガチャガチャと振り回してやりたかったが、IHキッチンだし、テフロン加工されたフライパンしかなかったので消去法で、レンチンを受け入れた。レンジのつまみを回すとぶぅんと音を鳴らして光り、内部を回転させた。野菜炒めから湯気が出ているのが見て取れる。見惚れていると、チンと音を鳴らしてレンジは止まった。先ず、沸騰した味噌汁の火を止めて、レンジを開けると先ほどまで野菜から出て箱の中に溜まった湯気が換気扇の気流に乗って顔に向かってきた、思わず顔を背けてキッチンの入り口を向くと由恵が立っている。後ろ手でレンジのドアを閉めようとして、湯気の野菜炒めに手を突っ込んだ。確実に火傷していたけど、熱さや痛さは鈍かった。

 佇む由恵。遅かったけどなんかあったの?と聞かれる前に俺は、「ただいま」と言った。由恵は、お帰りを省略して、「遅かったけど、早く帰って来るって言ったじゃん」と、予想よりも遥かにキツめに聞いてくる。ちょっとあってねなんて、下手な言い訳は逃れられなさそうな雰囲気が漂っていて、車で事故って、アルコール摂取を警察に疑われたという、言い訳に事足りる事実をゲロれば、解放されるだろうという思想が脳の表層を駆け巡り、その脳の内側は絶対に駄目だと言っていたけど、しっかりゲロった。

 由恵は、一瞬驚いた顔をして、それを隠すように、冷静を装って「飲んで事故ったってこと?車は?」と矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。脳の奥底の言う通り、解放などされなかった。俺は、「飲んでない。だから捕まらず帰ってきただろ」と事故ったことは、有耶無耶になるように返事してやった。「でも事故ったんでしょ?車は?」と先回りする由恵。俺は、有耶無耶に出来ないなと悟って、事故の時に警察がしていた実況見分通り由恵に伝えてやった。すると、「めっちゃ大通りじゃん。何で事故ったのよ」と、警察よりきつく由恵は。「何でか分かったら、事故って無いって」「そういう事が言いたいんじゃないの。出勤どうするの?何で事故ったかわからないのに、新しい車買って同じ道を辿ったら、また事故るじゃん」何で事故ったかは分かっているけど、課長や武夫のこと、ましてや、玲子とその実家の赤い屋根でサイケに陥ったなんて絶対に言えない。そんなデタラメに聞こえる言い訳したら、尚更出勤出来ないじゃんって言われておしまいだって分かっていたから、黙って、でも手持ち無沙汰でレンジの取っ手を掴んで開け締めしていた。ガチャガチャとキッチンに響く。それをかき消すように由恵は大きな溜息を吐いて吐いて、「まあ、無事なら良かったけど。ごはん、片付けだけしてね」と、一言、今回限り不問にしますと、それに近しい言葉をあっさり出した。俺は一瞬止めたドアの開閉をゆっくりと始動させた。由恵ありがとう。もう、元カノのことなんて考えない。SNSの巡回もやめる。あの屋根を見たって、動揺しない。キッチンを出ようとする由恵の背中にそう誓おうとしたら、由恵は振り向いて、「そういう事やってるから事故るんじゃないの」と冷めた目で、レンジの取っ手を睨めつけ、吐き捨てた。仰る通りでございます。



   14

 目覚ましの10分前に目が冴える。実に清々しい朝だった。昨日の自分が、寝る前に洗い物をし、スマホをイジらず、晩酌をせずに睡眠を確保したことを褒めてやりたい。いや、褒めることでもないし普通のことだ。俺はほぼ洗礼を受けたに等しい。

 一番大きいのは、ソーシャル・ネットワーキングサービスってやつを軒並みやめたことだ。イーロンマスクも、ザッカーバーグもそれぞれSNSで唯一神のように崇められたり、逆にハデスかのように扱われたりしているけど、アカウントを抹消した俺にとっては、どちらもただの人だった。スマホを下に向かってスワイプして、新しい情報へと更新することなんかより朝食のために、冷蔵庫の中身をチェックするほうが大事だったりする。

 起きてすぐキッチンへと向かい、冷蔵庫から、卵と食パンを取り出した。

 慣れというのは偉大だ。料理は由恵に頼りっぱなしで、フライパンに卵を割るだけでも苦労して、殻を混入させてしまう。慌ててフライパンに指先を突っ込んで、事前に熱していたことを思い出した。反射で飛び出した指は火傷を負ってヒリついたけど、これが料理かと思うと気持ちよささえ感じてしまう。俺が家事に慣れていないせいか、大きな音を出したのか、由恵が寝室から降りてくる。「おはよう」と声を掛けると「おはよう」とちゃんと返ってくる。これぞ正しい夫婦の平日の朝ってやつだと思った。

 由恵は、挨拶も早々に、キッチンを出てドタドタと音を立てて階段を上がっていく。昨日までは俺のほうが遅かったから気づかなかったけど、由恵はドタドタと階段を駆け上がるんだなあと感嘆しているとジュウジュウとフライパンが音を立て、卵の白身部分を茶黒く焦がしていた。慌てて卵を混ぜ込んで、スクランブルエッグにした。スクランブルエッグには牛乳とか生クリームを入れるとふわっとするらしく、急いで冷蔵庫を探すと、唯一チーズがあって、同じ乳製品だし同じ効果があるだろう、きっと。と、とろけるチーズと銘打った正方形シート形成のチーズをフライパンにぶち込んでざっと混ぜ込んだ。フライパンの中は、すぐさま粘性を帯び、そのうち茶色を帯びてきたために火を止めて、適当に半分に分けて皿の上に置くと、皿が灰色のせいか湯気が換気扇へと向かって伸びていた。既にチンと音を立てて飛び出していたトーストを一緒に乗っけて、ダイニングテーブルに線対称になるようにふたつの皿を置いた。

 ドタドタと駆け上がった由恵は、ドタドタと階段を降りてキッチンへと入ってくる。「ごめん。早く行かなきゃだった」「朝ご飯は?」と言って、トーストに目を向けると由恵も皿に目を配り、無表情で「ごめん。時間無くて。行くね」とキッチンをドタドタと出て行った。数秒後に由恵の車が、駐車場からドタドタとタイヤを回し、出勤に向けて出庫される。ドタドタという音は次第に小さく鈍く、ドップラー効果というのかこう言うのを。離れていった。

 車の音を最後まで聞いてこれどうしようか。由恵分のトーストとチーズイン炒り玉子を前にし、腕を組んで思案していた。トーストは8枚切りだから、2枚食べたとしても4枚切りと同等だとして、玉子は2個分で朝からこんなに食べたら、職場で血糖値が上がって眠くなってしまうかもしれない。はたまた、満員電車で立ったまま寝過ごしてしまうかもなとなんとなくトーストを手にとってネチネチと端を練りこねっていたら、その部分が小さくなって、ふと2枚のトーストを重ねて端を外側から押し込んでやると薄く纏まった。これならと纏まった部分が剥がれないように2枚を開き、玉子を挟み、四角いパンの辺を丁寧に圧縮して固めるとなんか1枚のトーストみたいにみえて罪悪感がなくなって、そのまま口に運んだ。チーズの香ばしい匂いが口一杯に広がって鼻から抜ける。ああ、やっぱり2枚のパンは2枚だし、2個の玉子は2個だったと罪悪感を感じていると、時計が視界に入ってもう7時半だと気づいた。ああ、まだあと10分あるか。コーヒーでも淹れようかな、ケトルに手を伸ばそうとしたものの、車の昨日に廃車にして電車で出勤しないといけないことを思い出して慌ててケトルを置き直し、キッチンを出てフォーマルウェアに着替える為に、由恵よろしくドタドタと音を立て階段を登った。



   15

 徒歩55分の最寄り駅までの道のりをランニングとダッシュの間みたいな速度で駆け抜けて、15分で走破した。車があるからいいやと言って、ケチって買った建売住宅の弊害がこんなところで出るとは思ってもいなかった。

 改札を駆け抜けようと前に出した手に持って最近ネットの季節限定セールで買ったパスケースをたたきつけてやると、反応せずにその癖に俺の身体には反応して、左右から板が出てきて静止させられた。ふっとパスケースを眼前に持っていくとちゃんと電子カードが入っている事が分かって、つまり理不尽に扱われた気がして苛立ち、でも俺は昨日洗礼されたんだと言い聞かせて、改札に八つ当たりしようとする衝動を抑えて、静止板を叩こうと振り上げた手を胸前で抱え込んで改札の液晶を睨め付けると初乗り運賃すら入っていない事に気付いて、恥ずかしくなって胸前の手を再び振り上げて、でも洗礼されているしなあと今度は手が簡単に動かぬようポケットに忍ばせて踵を返し、券売機へと向かった。

 券売機には、仕事に行かなさそうな御老体が列をなして、切符を買っていた。今どき切符なんかで電車に乗るなよと思った。ひとりひとり、小銭を入れて路線図を見て、ボタンを押して切符と小銭を取るということを繰り返している。稀に小銭を落として、その場でしゃがみこんで床にぴっちり隙間無く張り付いた十円玉を苦戦して拾ったりしている。御老体だからか、小銭を拾い上げても、その苦境は終わらないらしく、ゴールドジムで追い込まれた人も敵わないくらいスローなスクワットによって身体を起こしていた。そんな事だから、平常以上に時間が経過する。スマホ依存からの脱却のために身に付けた、家に転がっていたスウォッチを見ると、乗車予定の電車が来るまであと2分。目の前の老婦人が終わってあと1分だとしてダッシュで踏み切りさえ通り抜ければ、間に合う。駅まで走って、反対のホームまで渡るのにまた走るのかと辟易とさせられているうちに老婦人はいなくなっていて、後ろからジジイが俺を抜かして切符を買おうとしていることに気づいた。俺は無理やり肩を入れ込んで、ジジイと目も合わせず券売機に電子カードを突っ込んで、家庭版のリズムゲームの如くボタンを連打した。後ろでジジイが喚いているのを無視して、出てきたカード乱雑に抜き取って再度ジジイに肩を当てて通り抜け、改札へと向かう。横目でジジイがよろけるのを見てほくそ笑んで今度こそ改札カードを当ててやると、ピッと気持ちよく音を鳴らして、静止板が開く。これで良いと悠然と通り抜けると、その先の踏切がカンカンと鳴って、走って通ろうとした俺の顔前30センチメートル先で閉まった。


 目当ての次の電車は、空いていた。目当ての電車は快速で、余裕を持って着くのにこの電車は、全ての駅に止まるタイプで、なにが癪に障るってぎゅうぎゅう詰めで無いのは良いのだけれど、座れない程度には混んでいて、俺はシートの恩恵には肖れないってことだ。仕方なくつり革を持つ。ただし、贅沢に3本を纏めて持つ。カメラだって支柱が三本あるから安定して立つ訳で、一脚ってのもあるけど、あれは人が半分支えているという事情であって、それを電車に当てはめれば三本持つ必要が出てくる。折角、混んでいないのだから、その権利ぐらい俺にもある。シートに座るジジイが訝しげにこちらをみてくる。さっき、肩で突き飛ばしたジジイだ。俺は背けずジジイと目を合わせてじっと見つめてやると、そのジジイは目を逸らし、電車のリノリウム床にできた黒ずんだ革靴の裏の跡を数えるようにしていた。俺はそれを一頻り堪能したあと飽きて、車窓に目を移した。

 相変わらずのスーツ屋や飲食チェーンが立ち並ぶ。車で通勤する時と景色は変わらない。そう言えば、国道に沿って路線が敷かれていたと思い返し、と言うことはあの忌々しい赤い屋根の瓦のうねりをみることになり、それは、また昨日の夕方までの俺に戻ることを意味することなので困る。洗礼が解かれてしまうという感覚が襲ってくる前に反対の窓へと向こうとするも、三本もつり革を持っているせいで強く反発されて90度くらいまで回ったところからもとに戻された。その瞬間、赤い屋根が目の前に現れると嘔吐感を覚え、絶え絶え、目を切るとさっきのジジイとまた目が合って、睨まれ、睨み返し、でも嘔吐を堪えたままだったから堪らず視線を外し、誤魔化すようにポケットのスマホを取り出して弄る。

 俺はデジタルデトックスを掲げていた筈だけど吐くよりマシかと自分を慰めていると、ふと気づいた時には、画像を投稿するタイプのソーシャル・ネットワーキングサービスをインストールして、玲子のことを検索していた。相変わらず玲子らしきアカウントは見つからなかった。


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