第七話
涙は、目を閉じていた。
一花家の駅からさらに遠くを目指す電車の中で、彼は眠っていた。
熟睡していたのか、もしかしたらほんとは起きていたりなんてことも、きっと彼のことだからあるだろう。
だけど、肩を合わせた二人だけの空間ですうと寝息を立てる涙の姿に、どうしようもなく嬉しくなる。
その温度に身を預けては、永遠を妄想する。
電車は風波高校の前で、停車した。
*
切符を通して駅舎を出ると、さっきよりも空が明るくなっていた。
ブルーが少し薄くなったようだ。
見上げてみると頭上にあった雲がすっかり遠くに見える。
甘夏の絵を思い出す。
あの絵の空に、ブルーの翳りはなかった。
私が電車で見た時とは違う、明らかに晴れやかな空。
ブルーのかかる晴鶴町にいながら、彼女の心はブルーの鳴き声が聞こえない空を見ていた。
「どうだった?」
「え?」
すっかり安らいだ様子の涙は、一花家での神妙な面持ちとは随分異なっていた。
落ち着いた歩みと共に見せる笑顔は軽やかだ。
「遺族との対面のことだよ。感想を聞きたくって」
「感想なんて、ないよ。苦しかった。鏡ごしの自分を、みてるみたいだと思った」
「ああ、そっか。君の大御神のね。確かに。彼女と君の境遇は近いのかもしれないね」
「涙は、どんな気持ちで聞いてた?」
「俺は、そうだなあ。やっぱりねって感じ」
遺影の笑顔に感じた微かな違和感。
母親の後悔。
とても寂しがり屋でずっと自分の味方を探し続けている、という涙の予想。
それは大いに当たっているように思えた。
けれど涙は小さく左手を振る。彼は苦笑した。
「あれ、そんな大層なものじゃないんだよ。多くの結論を基にした、絶対当たる予測論。大御神に願う人はみんなそうなんだよ。決まって例外がない。みんな何かを求めてる寂しがり屋なんだ。しかもそれが普通だってことが、どうしても見えなくなってしまうみたいなんだよね。まるで自分一人だけが世界の中でひとり孤独で、辛くなってしまったみたいにさ」
「そうかも」
今の気持ちをうまく言葉にすることができなかった。
甘夏は、叶わない願いを抱いた。
自分にはどうしようもできなくて、苦しくて、ただ苦しくて。
誰も近づかなかったとしても、行くなとどんなに言われても。
きっと彼女はそれでも願いを叶えたかった。叶えたい願いがあった。
―大御神は願いを叶えて、その願いと願いを叶えた後の不幸の差分、絶望を糧とするんだ―
きっとその願いは不幸な形で叶えられたのだろう。
甘夏が自殺した理由は確かに明白だ。
けれど彼女の母親の思う理由とは違う。
彼女は不幸な願いの叶えられ方、その絶望に打ちひしがれて、命を落とした。
「ついたよ」
涙が指を差す。
「風波の悲劇が起きた場所。風波高校」
坂を登った先に聳える、白い校舎。
一面に広がったグラウンドを取り囲む木は青々と茂っていて、だけど風に吹かれて弱々しく揺れるその細い幹が、もの寂しさを増長させる。
所々褪せて、ペンキの剥がれた部分もある校舎。
一花家で見た、あのもの寂しい新聞紙と同じ。
二年半。
風波の悲劇が起きてから二年半だと、母親は言っていた。
母親にとって、はるかに長い時間だっただろう。
一人取り残され、心の内を語る人もいなくて。
この校舎も、あの新聞紙も、みんな同じ。
みんな『風波の悲劇』の日、その日のまま、過去に取り残されているようだった。
*
「こんなにスムーズに侵入できちゃうと、逆に不安になるよね。もしかして俺たちのことを屋上で待ち伏せてたりして。どこかに隠れてるかもしれない」
「私と涙以外に人の気配、しないよ」
「冗談をまじめに返されたら人は誰だって悲しくなるよ。俺も例外じゃない」
「冗談?」
「気にしなくていいよ。今後俺がよく分からないことを言ったら、さっぱり聞き流すこと」
「うん」
ぎこちなく頷く私ににこりと笑いかけた涙は大きく手を広げてみせた。
「広いねえ、ここ。あ! 君こっち来て!」
屋上の奥になにやら見つけたらしい涙はしきりに手招きする。
まるで無邪気な子供のようなその様子に、少し嬉しくなる。
晴れやかに広がる笑顔に任せて、涙のそばに駆け寄る。
「ほらあれ、天文台だよ」
涙の指差した先、倉庫らしき建物の奥に筒状の建物があった。
その上に、こぢんまりとした球体がのっかっている。
小さいがしっかりとした作りの天文台だ。観測用のシャッターは閉まっているらしい。
涙は弾んだ足で天文台に寄ると、金属製のノブをがしゃがしゃと握る。
鍵穴に吸い寄せられるように顔を近づけては、ひどく残念そうにため息をついた。
「ドア開かないみたい」
「当たり前、だと思う」
「学校のセキュリティーが甘々で天文台だけ厳しいって、そりゃないよ。普通逆だろうに。誰が天文台に無断侵入するっていうんだ」
「涙でしょ」
「そうだった」
大きく目を見開いてから、弾けるように笑う。
こんなに楽しそうな涙を見るのは初めてだった。
きっと心の底から星が大好きなんだ。涙と私を隔てる壁が、今は薄く感じる。
「夜にならないと星、見えないよ」
「夜になるまでいればいいよ」
「時間、なくなっちゃう」
「それでもいい。時間がなくなっても、別に」
涙はそこで言葉を切る。
「なんてね。今のは良くない冗談だ。君の希望も背負っているのに、あまりに無責任だよね」
その手がドアノブから離れると同時に、すぐさま涙の寂しげな笑顔が顔を出した。
すっと熱が冷めるようなその心地に、突然どこかに置いていかれるような寂しさを覚える。
ごまかすような笑顔。近くなったはずの距離が、あっという間に離れていく。
さっきみたいに笑っていて欲しかった。無責任だって、構わないから。
「私も、ずっと……」
「ん?」
すぐさま首を振った。言いたいのに、言えない。
私は、あの人のためにここにいる。
あの人のため。あの人に、会うため。
少しでも、話すため。
血が出るまで唇を噛み締める。
私も、自分勝手。
「さて、彼女はどこで飛び降りたんだろうね」
屋上のフェンスをさらさらとなでながら、涙は歩く。
私もその後に続いた。
「見て。フェンスが増築されているよ」
涙が指差したところを見上げる。
本当だ。緑色のフェンスは途中から色が変わっていた。
支柱を立てて新しいフェンスが無造作に繋がれている。雑なつくりだ。
けれどだからこそ、風波の悲劇があってのことなのだろうと、容易に察しがつく。
「当時がここまでの高さと考えると、そうだね。彼女が小柄だったとしても乗り越えることは容易いだろうな」
フェンスの先に目をやる。
その向こう側は、多分足一つ分もないくらい。
きっと強い風に吹かれたらひとたまりもない。とても不安定で、生と死が極限まで近づいた場所。
「こわい」を知らないと涙は言った。
自分の人生を投げ出す瞬間は、いったいどんな気持ちだっただろう。
甘夏も、こわいと思ったのだろうか。
「きて」
その時、反響するような声が遠くで聞こえた。
高い声。まだ若い、少女の声。
同時に視界がぐらつくほどの痛みに襲われる。
血液がぎゅるぎゅると沸騰しているみたい。
時空が歪んでいるみたい。
―ごぼごぼごぼごぼ―
ブルーの鳴き声が共鳴して、さらに鋭い痛みを与えてくる。
「どこに、いるの」
問い返すと、息を吐く声が聞こえた。
すぐ耳元で空気が舞う。私の腕を、何かが取り巻いた。
触れることはできない。
形のないそれは、一切の干渉を許さない。
「来て」
ふわりと、風が靡いた。生暖かくて、けれどひどく冷たい空気を運ぶ。
フェンスの向こうに、甘夏がいた。
「待って」
セーラー服に身を包み、黒髪を靡かせて、空気に溶けてしまいそうな彼女の姿。
手を伸ばすそのわずかな微風で、砂のように崩れてしまいそう。
「待って!」
フェンスに触れようと伸ばした手が、通り抜けた。
反動がない。
物に触れた時に押し返してくるあの反動が、なかった。
―ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ―
周りの音をかき消すほど、ブルーの音が大きくなる。
深海から突き上げてくるような、激しい爆発が起きるような、その音が心臓の鼓動とリンクする。
透けた肌が、私の腕を引き寄せた。
彼女の爪が肌に食い込んで、ぷす、と血がにじむ。
血管を圧縮するほど強い力。なのに、彼女は泣いている。
「君っ!」
涙の声が聞こえる。聞いたことのない彼の焦った声、驚いたような顔。
「ふふっ」
思わず笑みがこぼれた。
また見れた、涙の新しい顔。新しい色。
涙が私を追いかけるようにフェンスに触れる。
けれどフェンスは涙を拒絶した。
そんな涙の姿も、遠く、遠くなっていく。
フェンスの向こう、そのわずかな足場についた足をも、甘夏は引き剥がして。
今度は泣きそうな声で、さっきよりもずっと震えた声で、言った。
『花火、一緒に見たかった』
彼女のその声が、合図。
私の体が、宙に浮いた。