第六話
―ごぼごぼごぼごぼごぼごぼ―
ブルーの声が心臓を満たしていく。
一度鳴ったら止まらない。
いつにも増して音が大きかった。
思わず耳を塞ぎたくなる。
亡くなった?
亡くなったら願いの紙は、どうなるの。
今すぐ涙に聞きたいけれど、こんなところで話はできない。
動揺を隠しているのか、それとも何も感じていないのか、涙は澄ました顔で進み出る。
「お線香をあげさせていただくことは可能ですか?」
「ええ、もちろん。挨拶してやってください。うちの子も喜ぶわ」
最後の言葉は、取って付けたような、どこか上の空のような口調だった。
*
「お茶を淹れてくるから、どうぞゆっくりしていて」
母親が襖を閉めて、もの寂しい足音が離れていくのを聞いてから、私はすぐさま涙に問う。
「涙。どうするの」
「ん? どうするって?」
涙は私の質問の意味を理解していないみたいだった。
その顔には少しの焦りも感じられない。
「甘夏は亡くなったって。亡くなった人はどうするの?」
「ああ。そういうこと」
涙は二、三度頷いてから表情を緩めた。
「やることは変わらないよ。肉体がないならかけらを探す」
「かけらって?」
「俺がそう呼んでるだけのものだよ。俗っぽくいうなら魂かな? 亡くなった人がこの世に置いていってしまったかけら。魂はいわば命の残骸だからね。残骸もしっかり回収する必要がある。それを探して、肉体の代わりに儀式をするよ」
「見つかるの?」
「見つけるよ。大丈夫。こういうケースもまあ、あるんだ。絶望した人間が死を選ぶのは、そう奇妙なことじゃない」
心配する私がばからしくなるくらい、涙は冷静で落ち着いていた。
涙から何度も出た、殺すという言葉。
彼は私の知らないところで何度も人を殺してる。
楽なわけない。
なにも思わないわけない。
涙にあって、私にはないもの。
足りないもの。
それは覚悟だ。
それが幾重にも重なって複雑な形で心臓に焼きついた。
見たい。
同じじゃなくても、せめてもっと近くで。
一緒にいたら、それが分かるだろうか。
「お待たせしてごめんね」
母親が湯呑みと茶菓子の載った盆を抱えながら襖を開ける。
私が立ち上がるより前に涙が母親のそばによって盆を受け取った。
母親はありがとうね、と言って襖を閉める。
甘夏の仏壇に、母親と涙と、私。誰もがしんと息を止める。
空気の容積がぐっと重くなったように、肩に力がのしかかる。
動いたのは涙だった。
湯呑みをくいっと傾けると、母親に一礼をして仏壇に向かう。
背筋を正して、甘夏が本当の友人であったかのようにやわらかな手つきで線香を取って、蝋燭に近づける。息遣いすら立てたくないと思うほど、その所作はあまりに無駄がなく、美しい。
涙は先がちりちりと赤くなった線香の火を消すと、丁寧に立てる。
大きな煙のうねりが天井に届いたのを見てから、指の先を合わせた。
涙の背中がおだやかに上下している。
ふと、仏壇の奥で笑っている少女に目を向けた。
セーラー服に袖を通した、その何処か初々しさが残る顔。
少女は笑顔だった。
長い髪が印象的な、まるでひまわりのような笑顔。
きれいだな、と直感で思った。
同時に目を背けたい、とも思った。
とても寂しがり屋の人だと、ずっと自分の味方を探し続けていると言っていた涙の言葉が共鳴する。
彼の予想は、どこか当たっている気がした。
笑顔の裏の、見えない顔。
まぶしい笑顔の裏に流れる涙が、少しだけ見えた気がした。
*
「亡くなったのを知らないってことは、風波の悲劇のことも分からない、のよね?」
仏壇に挨拶をし終えた私が座布団の上に正座すると、母親が遠慮がちに問いかける。
「ええ。僕も彼女もここの真反対くらいに住んでいますので」
「真反対って言うと……澄あたりかしら?」
「そうですね」
母親は苦笑した。
「それくらい離れてると、分からないわよね。晴鶴町じゃ、テレビもラジオも受信しないしね」
「ええ、情報源の入手には苦労していますよ」
「ほんとよね。今年で五年になるけど、どうしていいか分からなくなっちゃう。こうもずっと閉じ込められていると、あの子の死からどうも旅立てない気がして、ね」
母親は湯呑みに口をつける。
喉元はわずかに上下するだけで、お茶は彼女の口にほとんど入っていなかった。
「自殺なのよ」
母親はゆっくりと首を振る。
「理由ははっきりしているの。誰もが口に出さないけれど分かっているの」
「風波の悲劇、なんですね?」
涙の問いかけに母親は頷いた。
母親は仏壇の横の箪笥に手をかけると、一枚の新聞紙を取り出した。
それを机の上に広げて私たちに見せてくれる。
『風波の悲劇 十六歳の青年が起こした残酷な犯行』
新聞紙はくしゃくしゃで、ところどころに染みができていた。
色も褪せていて、大切に保管されていたはずなのに、それは過去に取り残されてしまったような哀愁が漂っている。
「ある女の子がね、友達をいじめていたの。いじめは次第にエスカレートしていった。それである日、女の子は決定的ないじめをした……」
母親が言葉に詰まった。
二、三度小さな咳をして、私が湯呑みを手渡すとありがとう、と微笑んでお茶に口をつける。
今度もやっぱり、お茶は減らなかった。
少し身をかがめて微笑んでから、涙が言う。
「僕たち急いでいませんので、本当にゆっくりで大丈夫です。なんでしたら黙って新聞を読みますよ」
その提案に母親は勢いよく首を振った。
何か強い想いを振り払うように、仕切りに何度も。
「いいの。説明させてほしいの。ごめんね。あなたたちは聞いても気持ちがいい話ではないし、本当は、しない方がいいのかもしれないのだけど」
「いいえ」
首を振った涙と私を見て母親は弱々しくほほ笑む。
「私が整理をつけたいの。ここ最近はもう甘夏に挨拶にくる人もほとんどいなくなって、あなたたちが本当に久しぶりだった。夫はもう、早いうちに亡くなっていてね。ぼうっと過ごす日々が続いていたの。それこそ、一日の境がつかなくなるくらい」
ふっと作ってみせる笑顔が、痛々しい。
母親は一つ大きな息を吸って、甘夏の仏壇に目をやってから口を開いた。
「女の子が決定的ないじめをして、クラスメイトの男の子が、その子を殺したのよ」
殺したのよ。
頭の中にこだました。
こだまして、いくつもの波になって、私の心を震えさせる。
「男の子は随分前から殺人の準備をしていたみたいで、凶器に使われた菜切り包丁の他に、果物ナイフ、カッターが見つかった。女の子は三十五箇所を刺されたわ。腕は切り取られて内臓はぐちゃぐちゃ。男の子は女の子を殺した後、一切の抵抗をしないで捕まった。本当に、彼の目的はその女の子を殺すことだけだったのよ」
湯呑みを持つ手が震えている。
母親はそこで目を閉じてふうと息をついた。
「そのいじめられていた子というのが……甘夏なの。殺された女の子、いじめをしていた女の子は甘夏の親友だった。殺したのは、甘夏ととても親しくしていた男の子だった」
母親の言葉を聞いてすぐ頭にぱっと思い浮かんだのは、願いの紙に書かれていた言葉。
『一花甘夏。 好きな人に 好きになってほしい』
真横の涙を見ると、机の一点を見つめて考えてこんでいる様子だった。
「原因がはっきりしすぎていて、甘夏が何を思って飛び降りたのか、分かりすぎていて。分かりすぎているからこそ、あの子が本当にどんな思いだったのか分からなくなるの。どうやって整理をつけたらいいのか、誰に怒りを向けたらいいのかも、分からなくて」
最後の方は、本当に蚊の鳴くような声だった。
―ごぼごぼごぼごぼ―
ブルーの音が激しく鳴り響いて、つかえた何かは呼吸を難しくさせる。
「飛び降り、だったんですね」
涙が顔を上げて言った。
「ええ……そうよ。殺人が起こったその日に、学校の屋上で、ね」
「そうですか」
母親は頬や首筋に何度も触れては、唇を堅く噛み締める。
話したいことは山ほどあるのに、溢れる想いがそれを邪魔しているようだった。
早くここを出たいと思った。
大切な者を失った人の想い、それががどんなものか分かっていたはずなのに。
待つことの苦しさを、もう会えないという絶望を、やるせなさを知っているはずなのに。
自分をそっくりそのまま見ているよう。
気を逸らしたくて、部屋一面に目を通す。
ふと、絵画が目に入った。部屋の隅っこに無造作に立てかけられた、水彩画。
自分の意識が吸い込まれていくのが分かった。
「あの絵は」
母親と涙が同時に私を見る。
私が絵画を指差すと、母親はほっと安堵したような表情で立ち上がった。
「これね」
母親は机の上にその絵を置いてくれる。
絵はとても小さいものだった。
抽象的かつふわりとした薄いタッチで、電車の座席に並んで腰を下ろす男女の姿が描かれている。
「甘夏が書いたのよ」
机に頬杖をついて懐かしむように目を細めた母親が言った。
へえ、と涙も前のめりになって絵画に目を落とす。
言いようのない感覚が体の中で煮詰まった。
脳にじんわりと血液が広がっていくのを感じる。
足を丁寧にそろえて男の子の肩に頭を預ける少女。
かばんを抱き抱えて、女の子を包むように寄り添う少年。
すごくバランスがいいわけではなかった。
なのに彼らの体温がそのまま伝わってきた。
彼らの後ろに広がる窓の外の景色、真っ青な海に繋がるようにのびた青空。
遠くで流れる潮のかおり、奥行きが匂いで捉えられるのが、不思議。
「すばらしい、という言葉では足りないな」
ふと、涙がつぶやく。
その瞳は、絵画の中の海の光が反射しているように輝いていた。
「美術部だったのよ。あの子。絵を描くのがもう本当に大好きで、なにもかも全部ほっぽってずっと描き続けてた」
母親が画用紙をなでる。
「すごいって、言ってあげられればよかったな」
それは、ここにいる誰に対してのものでもなかった。
「少しも褒めてあげなかった。絵を描いてばかりのあの子を何度も叱った。そう。そうなのよ」
母親はその絵を抱きしめる。
その背中が小さくなる。
「生きている間に、褒めてあげたらよかった。余裕がないからって、どうしてあの子のこと放っちゃったんだろう。いなくなってから気づくなんて遅すぎる。遅すぎる」
私も涙も、それ以上なにも言わなかった。
言えなかっただけなのかもしれない。
私たちはどうしたって、甘夏を亡くした母親の気持ちにはなれない。
私たちがどんな言葉をかけても、一花甘夏は戻ってこないのだから。