第五話
眠りたくないと思って夜を過ごして、一刻も早く目覚めたいと思って朝を迎えた。
心臓は小刻みに揺れ続けていた。
早く足を動かしたい。
ここから出たい。
麦茶を飲み干して出かけの服に袖を通すと、ほかに一切のものを持たないで飛び出した。
明るい日差しが広い歩道を照らし、山よりも大きい入道雲がはっきり見える。
今日は天気が良いようだ。跳ね返ってくる光が眩しい。
「随分早いね」
階段を駆け上がって鳥居をくぐると、一拍遅れて少し驚いた様子の涙が顔を出した。
寝癖ひとつついていない。
寝起きのようでもないみたいだった。
そもそも涙は寝ているんだろうか。
彼のことだから一睡もしていない、なんてこともありそうな気がしてしまう。
「もう少ししたら迎えに行こうと思ってたんだけど、先手をいかれてしまったね」
「本当は、もっと早く来たかった」
「意欲十分って感じだ。良かった良かった。これなら五日も待たずに済むかもしれないな」
その言葉に、あまり返答したくなかった。
だから小さく頷いただけで、何も言わなかった。
―こぽこぽ―
朝のブルーの鳴き声がする。
「じゃ、やる気十分ってことで今後の行動指針を話そうか」
そう言って涙が取り出したのは、あの日男の人の命を吸った紙。
願いの紙。
いち、に、さん、し。全部で四枚ある。
相変わらず紙は真っ白で、普通はただの紙切れにしか見えないだろう。
「実は俺が願いの紙を回収し始めたのって、ほんの数ヶ月前までの話なんだ」
彼は両の手を縦に大きく広げてみせる。
「本当はもっとたくさんあったんだよ。その間はここ、無防備そのものだったから。回収も大変だったんだよね」
涙は願いの紙をどこか恨みがましい目で見、それから大切そうに一枚一枚なでていく。
「だけどそれももうあと四枚で終わり。君にはこの、残りの四枚の処理を手伝ってもらうよ」
「うん」
思い出されるのは、昨日の男の人の悲しい目。
「ひとつ、聞きたい」
「ん?」
「願いを叶えた人たちは、みんな命を落とさないといけないの? 本当に、死ななくちゃいけないの?」
「願いを叶えた者は消えなければならない。これは絶対条件。歪んで叶えられたにせよ、願いは遂げられる。一度そうなった人間が存在する限り、大御神は力を得続ける。契約の効力を取り消すには、それしかないんだよ」
涙の言ってること、理解できる。
それでも、それを受け入れられない自分がどこかにいる。
代わりの案なんてないことくらい、どこかで分かっていたはずなのに。
涙は言った。
大御神は、願った人の絶望を糧にするって。
その人たちは今どうしているんだろう。
どうしようもできないことがあって、苦しくて、願った先に、更なる絶望が待っていたら。
服の上から胸を押さえた。
願いの紙を書いた者は愚かだと、涙は言う。
けれどその人たちのことを思うと、自分のことのように息がつまる。
視界が狭くなって、色が減っていく。
あぶくが立って、酸素が失われて。
それは、その気持ちは。
あの方に会いたいと願う、私と同じだったんじゃないだろうか。
「紙、ほしい」
「ん?」
「願いの紙、一枚みせて」
手を差し出すと、涙はゆったりした手つきでふわりと紙を置いた。
「はい」
この紙に願いを書いた人がいる。
震える指で筆を握って、叶わぬ願いを神に託した人がいる。
その人はまだこのブルーの中にいて、同じ空気を吸っている。
「涙」
涙の瞳を見た。
「この人たちを笑顔にしよう。歪んだ分、悲しんだ分、ぜんぜん足りないけど。笑顔にしよう。せめて、最期だけでも」
返事はない。
代わりに、私の握った紙の上に手が触れた。
琴線をなぞるような、あたたかい音色が鳴るように、命を吹き込むように、彼の人差し指がはねる。
「一花甘夏。 好きな人に 好きになってほしい」
今にも途切れてしまいそうなほどか細く、だけど確かな意志を感じる文字が、そこに現れる。
「うん。そうしよう」
涙は笑って、そう言った。
*
かたん ことん
車体が線路を叩く。
首を傾けて窓を見やると、遠いブルーの向こうに海が見えた。
海を遮る一切のものが、そこには存在しない。
高く昇った太陽が海に道を作る。その光が、ブルーを通してゆらゆらと揺れている。
この五年間、殻に閉じこもるように、風浪宮以外のどこをも訪れなかった。
ブルーができてから、私の心は真っ黒だった。
涙に出会った今でも、それは煤けて霞んでいる。
こんな景色、もう諦めていたのに。
頭の奥の方で、オルゴールの音色が鳴っている。
昔お母さんが聴かせてくれたオルゴールの音。
きれいなものに感動した時、胸が熱くなった時、無性に泣きたくなった時。
この音はきまって流れてくる。
お母さんの顔は思い出せないのに。写
真を見ても、心にぽっかりと空いた穴は埋まらないのに。
この音だけは思い出せる。
この音だけは、どんな時も同じ温度でそばにいてくれる。
考えているうちに目頭が熱くなって、ごまかすように自分の髪に触れた。
「どうした?」
ふいに隣に座っている涙が覗き込んでくるから、慌てた。
涙は繊細だ。
些細な挙動とか、心情とか、少し揺れただけで気にかけてくる。
ほんとは全部わかっているんじゃないかって思うくらい、私の心に寄り添おうとしてくれる。
「なんでもない」
もう一度窓の外に視線を向ける。
「海が、きれいだったから」
「ああ、海ね」
涙の意識が窓にそれた。
「たしかに、美しいよね」
だけど時々、ふっと思うことがある。涙が人の感情を持っているのかいないのか、わからない瞬間が。
心では全然違うことを思っているようなそんな顔を、彼は時々する。
今も彼の本心は見えない。
薄くて厚いベールが、私と涙を静かに隔てている。ただそれだけ。
「この二つ先の駅で降りるよ」
「うん」
「一花甘夏さん。君はどういう人だと思う?」
「分からない。まだ、あえてないから」
「そう。俺はね、とても寂しがり屋の人だと思う。ずっと自分の味方を探し続けているような、そんな人の気がする」
「どうして?」
口角がいたずらっぽく持ち上がる。
「ただの直感。ほんとの所は全然分からないよ。ただの想像だからね。でもわくわくするでしょ? これから会う人を想像するのは」
「少しわかるかも」
涙は両手を前に伸ばして、息をつくと椅子に背を預ける。
そうして無機質な天井を見上げる。空を遮る灰色の天井を。
「いつもそうしてたんだ。これから自分が殺すのはどんな人か。頭の中に描いて、実際に会って答え合わせしてみたり、ってさ」
殺す人。
その言葉がやけに尾を引いた。
そう、私たちはなじみの友達に会いにいくんじゃない。
人を殺しにいく。
人の人生を、終わらせるんだ。
もう一度海を眺めた。
死んだらどうなるんだろう。
この海の一滴みたいに、いろんなものと合わさって、溶けていって、形がなくなって、いつか見えなくなってしまうのかな。
*
無人駅に降り立った後、出会った人に道を尋ねながら、涙とあたりを歩いた。
このブルーの中は広いようで狭い。一花甘夏の家はすぐに見つかった。
『一花』
漆喰の塀にかかった木彫りの看板が目に入る。
「いくよ」
耳元で小さく涙がささやいて、頷く間もないうちに彼はすでに戸を叩いていた。
「ごめんください」
鈴の音のような彼の声はよく響く。
涙の少し張り上げた声は初めて聞いた。少し体温が上がる。
「はいー」
すぐに引き戸が空いて、母親らしき女性が慌てた様子で現れる。
女性は私たちの顔を見るなりきょとんとした顔をすると、涙を見て私を見て、首元に手を当てて困ったように笑った。
「あの、どちら様?」
挨拶の言葉なんて考えていなかった。咄嗟に涙を見ると彼はすでに百%の笑顔で最も容易く嘘を吐く。
「甘夏さんの中学の同級生です。最近こちらに来る機会が会ってぜひごあいさつできたらと」
「ああ…………ああ」
母親の顔がみるみるうちに曇っていく。
引き戸に触れていた手が、うなだれるように下がる。
「ご迷惑でしたか?」
涙が声をかけると、母親はううん、ううん、と首を振る。
額に手をやって、精一杯私たちを見上げる。
「わざわざ来てくれてありがとうね。迷惑なんかじゃなくて、嬉しいの。ほんとうに、ありがとう。でも、でもね。残念なんだけど甘夏は……、亡くなったのよ」