第四話
「大正解」
彼は後ろに手を組んだ。
そのまましばらく、涙は口を開かなかった。
まるでブルーを見るのに忙しいというように空を見上げていた。
私はすうと息を吸う。頬を膨らませて、首が痛くなるくらいにブルーを見上げる。
少しでも早く、涙を止められるように。
ほんの数秒でもいいから、あの人に会いたい。
表情、仕草、声色、そして私を引いてくれたその手に、もう一度触れたい。
そして、謝りたい。
私がうまく神さまをできていたら、彼が大御神になることは、なかったかもしれないのだから。
このままじっと待っているだけは嫌だ。
「涙」
私は彼の名前を呼んだ。
彼が振り向く。
「涙の仕事。手伝わせて」
彼の感情が揺らいだのが分かった。
「本当に俺が君の希望か、保証はできないよ?」
「それでもいい」
「ははっ。いいね、やっぱり」
どこか遠くで、ブルーが鳴いている。
ブルーのとろんとした光が、私たちに影を落とす。
涙は不思議。
きっと彼の中には私の知らないいくつもの涙が詰まってる。
陽光にかざしたビー玉のように、涙はいろんな色を見せる。
きっと五日を過ごしても、涙のすべてを知ることはできない。
だって、たった五日。
一日を五回繰り返すだけ。
足りない。きっと圧倒的に足りない。
それでもいい。
涙と、あの人を終わらせてあげたい。
*
夜のブルーは、また違った姿を見せる。
特に星が見える日は、格別。
夜空に瞬く星は私が海面越しに見ているかのようにゆらめいて、ごぼごぼというブルーの音で、自分が海中にいると錯覚する。
足の動きさえ、ゆらりくらりとさせる。
ブルーの夜が好きだ。
別世界に来てしまったのように思えるこの時間が。
空いっぱいを抱きしめてしまいたくなるこの瞬間が、たまらなく愛しい。
私と涙は、揃って石階段を下っていた。
足音が二つ。
交わす言葉は少ない。
けれどわずかな緊張感に包まれたこの瞬間が、また愛しいと思える。
これもブルーの効果だろうか。
「君、ご両親は?」
「いない」
「じゃあ一人暮らし?」
「うん。でもえなさんはくる。時々、だけど」
「その、えなさんっていうのは親戚の人か何かかい?」
「そう。お母さんの、お姉さん。えなさんには家族がいるから、ときどき来てくれるの」
「そうか」
「涙は、どこでくらしてるの」
「俺? あそこだよ」
「あそこ?」
「今まで散々おしゃべりしたでしょ? 風浪宮。そこで寝泊まりしてる」
「じゃあなんのために、一緒に来てるの? ううん、そうじゃなくて。あんなところ寝泊まりするようなとこじゃない。あついし、さむい。体調悪くする」
涙はくすりと笑った。
「ここに来てるのは単に君と少しでも長く話すため。それにあそこ、意外に心地がいいんだよね。良かったら君もどうぞ。砂の布団くらいなら用意できるかも」
「わらえない」
私はむっと頬を膨らませた。
年はよく分からないけれど、涙は私と同い年くらいに見える。
上にしても下にしても、そんなに離れてはいないはず。
そんな人が、たった一人で。あんな場所に。
「涙、なんさい?」
「君と同じくらいかな」
「じゃありょうしんは?」
「もういないよ。先の風浪宮火災と共に亡くなった」
「そう、なんだ」
私の質問にそっけなく答えた涙はふと立ち止まって、私の顔を覗き込む。
「別に面白くもなんともないよ俺は。ただ神さまの真実を知った、正義のヒーローのなりたがりなんだから」
「だめ」
「何が?」
「もうあそこで寝るのは、だめ」
「ははっ」
涙は目頭を抑えながら笑った。
「じゃあどこで寝ろって? もしかして君の家に招待してくれる、とでも言ってくれるのかな」
「そう」
涙はもう一度からからと笑った。
まるで私の言っていることがばかみたいに。
「それはできないよ」
「どうして?」
「さっき見たでしょ? 願いの紙。あれは増やしてはいけない。大御神はあれを増やすことで人を食おうとしているんだ。俺はそれを止めなきゃいけない。つまり、分かる?」
「わからない」
「呪われた地にわざわざ足を踏み入れて願いを持ってくる物好きがいないか見張ってないといけないってこと。本当なら片時も離れたくないくらいだよ」
「ねえ、涙」
さざめくのはただひとつの言葉。
五日。たった五日。
みんなが死んでしまうまで。
あとそれだけしかないという残酷な事実。
「五日しかなくて。もう、今日が終わっちゃう。もし。もし、間に合わなくなったら」
「君は随分とせっかちだね。恐怖を知らないから不安もないかと思ったけど、使命に駆られた場合の話は別なのかな」
「不安くらい、ある」
「そっかそっか」
足音すら邪魔になる。
今はブルーの音だけでいい。その音がいい。他はいらない。
「焦らなくていいよ」
暗くて顔はよく見えないのに、涙の声色はとても優しかった。
「元神さまが望んで力になってくれるだけで嬉しい限りなんだよ。人手が多い方が捗ることも多い。俗っぽいこと言うなら、話し相手だって欲しいしね」
「涙は、やさしい」
「優しくないよ」
「ううん。やさしい」
ブルーの鳴き声が私たちの沈黙を遮る前に、もう一度口にした。
「優しいよ」
涙は少しの間動かないで、星が好きなんだと呟いてブルー越しの夜空を眺めていた。
深淵の瞳に映り込んだ星の瞬きがシャッターを切ったように私の目に焼きつく。
しまいの合図というように涙が息をした。
その音を聞いて心に帷が降りてくるような心地になる。
重い扉が次々に閉まっていくような、いたたまれない気持ちになる。
「安心して眠りなさい。睡眠だって大切なんだよ。こと、明日からは忙しくなるから」
少し大人びた口調が、私と彼の距離を離させる。
口の中を転がる飴玉のように甘くなめらかな涙の声色が私の喉を潤して、喉元まで出かかっていた言葉を全て流し込んでしまう。
「うん」
全てを知っているは涙の方で、私じゃない。
一度夜空を見てから、彼に手を振る。
いざそうするとたったそれだけの動作がひどく重いことに気づく。
「またあした」
「うん。また明日」
涙の方は手慣れたように、まるで今までそうしていたかのように完璧な笑顔で私に別れを告げる。
そのまま動かないから、私がここから離れなければいけないんだと気づいて家路についた。
*
―僕にとって、それはただ興味の線上に載っているだけだった―
おかしいとか、異常だ、とかそんなのは考えたことがない。
皆そうだと思っていたし、そもそも皆のことをさほど意識していなかったようにも思う。
「白!!」
ある日母はお気に入りの箱を勝手に開けて、つんざくような悲鳴をあげた。
僕が母を叱ろうとする前に、母の方が金切り声をあげながら捲し立ててきた。
「これは何!」
「虫だよ」
「どうして、生きてないの?」
「元々しんでたんだ。これは公園で、これは幼稚園、これは家の前。僕がころしたんじゃない。しんでたんだ」
「そんなことどうでもいい! 私にはどれがどれだか分からないわよ!」
「どうして? そんなのすぐ分かるよ。これはカメムシで、これはアリ。セミのもある。そう! 今度はカマキリのがほしいんだ」
母はどうしてこうも普通の会話を乱したがるのか、理解ができなかった。
母は掠れた息をして箱を投げ捨てる。
「目玉だけじゃ、どれがどれかなんて分からない」
次に僕に向けた目は、何かこう、言葉にし難い、血走った目をしていて、それは僕のことを自分の息子だとは、毛ほども認識していない、憎悪の瞳だった。
「この、悪魔」