第三話
「今? 名前を今つけたの?」
「出生が少し特殊でね。俺はね、晴鶴の本家の生まれなんだ」
「本家の人はみんな死んだって。えなさん、言ってた」
「逃げ仰せた者も数人いたんだよ。あんな事件があったから、誰も名乗ったりしないだけ。今もひっそり生きてる。俺のようにね」
涙は腕一本で私を引き上げた。地面に足をつくと、薄れていた両足の感覚が次第に戻ってくる。
「俺の目的はね、飾り付けて言うなら人助けだよ」
涙は崖に腰を下ろすと、彼の横の地面をぽんと叩いた。
涙の合図のままに、隣に腰掛ける。
「人助け? なら、さっきのは」
「あれもそう。冗談を言っているつもりはないよ」
涙はそう言って上を指差した。空と私たちを隔てる厚いベール。
青と白、そして腕に落ちてくる無作為な日の光。それが海の中みたいにゆらりくらりとする。
「まず先に、俺がここで成さなきゃいけないことの話をしよう」
「人助けの話?」
「そう」
涙はペットボトルを取り出すとぐいっと一気飲みした。薄浅葱の髪がふわりと揺れる。
「ここに閉じ込められている人にはね、リミットがあるんだ」
「リミット」
「そう。簡潔に言えば、ここにいる僕ら。晴鶴町の住民はもう生きていられる時間が短いってこと。なぜなら、ここにいる神さまが大御神だから」
「聞いたこと、ある」
涙が私の言葉に頷いて、まるで歌を歌うように、唱えるように口ずさんだ。
「どんな人間のどんな願いをも叶える神さま。今までの偶像としての神じゃない。正真正銘、強大な力を持った神さまだ。晴鶴はずっとずっと、大御神を生み出そうとしてきた。とても醜く、歪んだ方法でね」
「涙、歪んだ方法ってなに?」
「君覚えていないのかい?」
「彼にたすけてもらってから、記憶はあいまいなの。みんなも教えてくれない」
「きっと君が再び自我を失うんじゃないかと、心配しているんじゃないのかな」
涙は顔を上げて、やがて大きく伸びをした。
「晴鶴の悪習。多分この世で三本の指に入る。生きた人間を選んで、人ならざるものと融合させる。妖、悪霊の類のものとね。晴鶴はそうやって自分達の地位を高めていった。神を育て、あらゆる人間から畏怖と敬意を得る。そんな彼らの願いを叶えるために。きっと彼らは君にも求めただろうね。大御神となることを」
「おおみかみ」
そう口にするのに、何かがつかえた。
どこか躊躇している自分に、戸惑う。
「大御神に、なれ」
自然に口から漏れるのは、昔、誰かに言われた言葉。
じわじわと水かさが増していくように、体を浸していくように入り込んでくる。
思い出したくない記憶。
忘れていた、どこかで忘れたいと思っていた、過去の断片。
『神さまはね、生きた者から作らないといけない』
これは、誰の声だったかな。
『何を躊躇してる。でないと融合できないんだから』
暗闇の中で、まがまがしい何かが囁いてくる。
『君がそうなるんだ。どうか我らに力をくれよ。皆が求め欲するようなそんな強大な権力を』
『我らは、大御神を欲している』
いや。行きたくない。
「いや!」
「……月寧?」
はっと意識が戻った。
頬に冷たい感触。
耳元でちゃぷんちゃぷんと揺れる水音がする。
「飲んで」
乾いた喉を水が駆け抜ける。
一瞬で頭が冴えた心地になった。
ペットボトルをぎゅっと握りしめて、その冷たさに心の一部を預ける。
「すこし、おもいだした。あの時のこと」
「ごめんね。君の傷を抉りたいわけじゃなかった」
「ううん。大丈夫。ただのきおくだから」
そう言った時の涙のひどく傷ついたような表情が、やけに残った。
涙は両手を組んで頭の後ろにやると、頭上を見上げた。
「君がブルーと呼んだこの籠が晴鶴町を覆っているのも、本家の人間が皆殺しになったのもね、全部全部、ここにいる大御神の仕業なんだ」
「どういう、こと」
「君が人に戻ったあの日。晴鶴の人間が神さまになった。そして、それは初めて大御神になったんだ」
「大御神がブルーを作り上げた理由はこう。命を奪うため。それも、このブルーの中に囚われている全ての人間の命を」
殺す。
その言葉がふわふわと宙に浮いた。
唱えてみても実感が湧かない。
けれど、その言葉の意味を私ははっきりと知っている。
それは、人生を理不尽に奪うことだ。
「おおみかみは、どうしてそんなことするの」
「晴鶴が幻想を抱きすぎたんだ。大御神が必ず晴鶴のために行動してくれるなんていうお花畑な想像を。大御神は呪いだ。人を不幸にすることを主の目的とした、ただの呪い」
ここを恐れる人の言葉も間違いじゃないかもね、と彼は笑う。
この土地が禁忌と言われていた意味、えなさんが何度も私を止めた理由、激しく叱る理由が、ようやく分かった。
みんな風浪宮のことを。ここにいる大御神のことを恐れていたんだ。
そして、もう一つはっきりしたことがある。
「おおみかみは、彼なんだ」
私はそっと本殿に触れた。
「やっぱりあの人は、ここにいるんだね」
神さまになっていた私が助け出された日。
風浪宮が炎と悲鳴に包まれて、混沌だけが恐ろしい勢いでここを飲み込んでいったあの日。
あの日から、彼に会うことはなかった。
誰も彼のことを知らなかった。
代わりに本殿だけが残っていた。
炎に一切屈しないで。
誰がどんな力で壊そうとしても、決して壊れないで。
まるで彼がそこにいるみたいだと思った。
最初は妄想だと思った。だけどその妄想は、いつまで経っても離れてくれなかった。
そんな私を閉じ込めるように、そっと私たちとこの本殿を社会から覆い尽くすように、いつしかブルーができていた。
「おおみかみを、もどせる方法はない?」
僅かな沈黙があって、涙が口を開いた。
「ない。かつての君のように、大御神でなければそれは可能だったんだろう。けれど一度こうなってしまった以上は、手の施しようがない」
あの人がひまわりを持って笑いかけてくれる姿を、まだ夢に見ていたかった。
いつか叶うものだと、信じていたかった。
顔を上げると、頭に手が触れる。
すらりとした見た目に反して皮の厚い手が、私を包み込んだ。
「意地の悪い言い方でごめん。俺には、残酷な真実を伝えることしかできないんだ」
苦笑していて、眉がやさしげに下がって、だけど同時に、なぜか分からないけれど、涙が諦めている気がした。
自分の中の何かを。彼はそんな儚さを、常に身に纏っている気がする。
「あの人のために。私に、できること」
ひまわりは増えていくだけ。会えない日々が増えていくだけ。
あの人はただの神さまじゃない、大御神になった。
殺しを願う、呪いになってしまった。
あの人が望んでいるはずがない。
あれほどあたたかくて、優しかった手のひらは、そんな願いを抱かない。
私のせいで、あの人が人を殺めてしまうのは、いや。
涙の目を見返す。その瞳は相変わらず漆黒で、けれど僅かに揺れ動いている気がした。
「いつ」
「ん? いつって?」
「ここにいる人たちはいつ、大御神に食べられるの」
「ははっ、食べられるって表現は面白い。そうだねえ。五日後、かな」
五日。
「ぜったいに、だめ」
みんなが正しい死を迎えられないのはだめ。
この町には守りたい人がいる。死なせることは絶対にできない。何より、あの方にそんなこと、させたくない。
「まあ、そうなることを防ぐために俺がいるわけだから。安心していいよ」
涙は立ち上がった。
そのまま崖のほうへ歩くと、横たわったままの死体に触れた。
背中から首筋にかけて撫でていって、両目を塞いでいた紙をはらりと引き剥がす。
「これ、持ってみて」
差し出されたのは、一枚の和紙。
特に何も書かれていないし、変に重いわけでもない。
戸惑いながら涙を見やると、彼はにっこり笑って和紙をなでた。
人差し指で、なぞるように。私には見えていない何かが、涙には見えているように。
「須藤雄馬 金持ちになりたい」
「それ、さっきいた人の願いの紙」
願いの紙。
とても耳馴染みのある響き。
風浪宮を訪れる人たちが願いを託す際に使われる紙だ。確か自分の名前と願いを書いて奉納するみたいな、そんな感じのもの。
「それが大御神の養分なんだ」
「養分?」
「そう。命の源さ。もし、君が大御神に願いをかけたらね」
涙は穏やかな表情で言葉を紡ぐ。けれど次に続けられた言葉は、生優しいものではなかった。
「君の願いは遂げられる。けれど、最悪に不幸な形で遂げられるんだ」
「不幸な、形?」
「うーん。願い自体は叶っても、幸せにはなれない。そんな感じかな。神さまは本来、神さまを信じる力に頼る。願いが叶うかどうかは大した問題じゃない。神さま、という存在があることが大事だ。けれどね、大御神は違う。大御神は願いを叶えて、その願いと願いを叶えた後の不幸の差分、絶望を糧とするんだ」
涙は再び願いの紙に目を向ける。
「その紙は大御神との契約を形にしたものだ。つまりね、この紙が増えれば増えるほど、大御神の力は強まる。大御神が人を食べる日は近づいていくんだ」
「それで、涙はこの人を?」
「そう。分かってもらえたみたいで嬉しいよ。誤解が解けなかったら俺はただの鬼畜な殺人野郎ってことになるからね」
涙はぱっぱっと砂埃を払うと立ち上がる。
「大御神が誕生したと聞いて、晴鶴町の多くの人間がそれに願いを託した。やがてブルーができて、大御神が恐れられるまでずっとね。紙を託した人間が存在する限り、大御神は養分を蓄え続けてしまう。それを阻止するためには、願いを奉納した人間を殺すしかないんだよね」
「阻止できたら、どうなるの」
「養分を全て失えば大御神は力を保てなくなる。あとは自然に消滅するだけだ。ブルーと共に砂のようにさらさらとね」
胸が一瞬、突かれたように激しく痛んだ。
もう一度、あの人に会うことができるのか。
その問いに対する答えは、もう決まっているように思えた。
それ以外、考えられない。
だめ。
涙が出そうになる。必死で唇を噛むと、涙の声が降りかかった。
「消えるまでには少し時間がある。その間に、会えるかもしれないよ」
その声が、空気に溶けそうなほど柔らかく私の肩に覆い被さるから、余計に泣きたくなった。
涙の前では、心臓が透けているみたい。
彼の前に立って、目を合わせたら、もうなんの隠し事もできないような気がしてしまう。
「うん」
「さ、これで分かった? 俺の成さなければいけないこと」
包み込みような、いたずらっ子のような、誘い込むような、蠱惑的な青年が、私を見る。
「願いをこめた人を、殺す。おおみかみを、おわらせる」