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さらそよぐ  作者: UrushioN
第一章
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第二話

そう唱えるだけで内臓を押し潰されるみたいな、だけどひどくくすぐったくて、好ましい感覚が喉元を満たしていく。このままじゃいられない。


―ごぼごぼ―


近づけば近づくほど、ブルーの鳴き声が聞こえる。


―ごぼごぼごぼごぼ―


ブルーのそばでないはずなのに、瞬く間にその鳴き声が入り込んでくる。

溜まった唾をぎゅっと飲み込んで、目線を上げる。

右手で本殿に寄りかかり、裏側を覗く。



青年が、そこにいた。



単なる青じゃない。

彼は空気と透明な絵の具を合わせてほんの少しのブルーを吸ったような、触れたら宙にとんでいってしまいそうな、そんな髪をしていた。


彼が人でないことにはすぐ気づいた。


あざ。

ううん、あざよりももっと深い。

抉られているような皮膚の色、窪み。

口元から頬にかけて裂けるように引かれた一本の線が鹿の角のように枝分かれしている。

何本も何本も。

それは、口だけではなかった。

鮮血の滴を肌に焼き付けたような大小様々な丸い窪みが、彼の首にびっしりと巻き付いている。

まるで鎖のように。


彼の瞳は極をうつしていた。

深海、それとも宇宙の果て。彼の瞳は望んで世界を離れたような、そんな圧倒的な妖艶さを持っていた。


彼は、私に気づいていないようだった。

彼の視線はただ、眼下だけに注がれている。


男の人が横たわっていた。


力なく投げ出された手足は動かすことが不可能なほど抉れ、髪は健康とは程遠いほど毛羽立って四方八方に伸び切っていた。

正気のない瞳が私に向けられる。目脂のついた瞳から何かが浮き出てきた。

涙だ。

眼球が白目を剥いてしまいそうになるのを必死に堪えながら、訴えるように私を見ている。

そんな一抹の思いすら遮るようにしゃがみこんだ彼は、どこからともなく取り出した紙を男の視界全体を覆うように貼り付けた。

愛も哀れみもない、ひどく乱暴な手つき。

男の身体がぴくりと跳ね上がる。

それは、ただの紙に見えた。

けれど男の痙攣は止まらない。

目に見えない生気が紙に吸い取られていくようだった。


「時間が、ないんだ」


立ち上がった彼の、その抉られた模様が火の粉を散らすように焼ける。

それが、すべての合図のようだった。


「まって!」


知らず知らずのうちに声を出していた。右手はすでに本殿から離れていた。

足はもう、彼のすぐそばまで寄っていた。

彼は私を見つけ、目を見開く。深淵の瞳にわずかな光が反射した。


「やめて」


私の掌が彼を押す。

私よりもずっと力があると思われていた彼の体は想像の何倍も軽く、ほんの少し触れただけで、後ろにのけぞった。


「はっ」


ブルーの鳴き声がする。

それも今までの大きさの比ではない。

思わず両手で耳を塞いだ。

それでも聞こえてくる。入り込んでくる。


―ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ―


自分が沈んでいるんじゃないかと錯覚した。

ここは海の底で、私は溺れているんじゃないかと。

違う。

気を失っている場合ではない。ゆっくりと耳から手を離して、目を開けた。

紙を貼られた男の上に何本もの柱が立っていた。

泡の柱だ。

男の体に吸い付くように聳える柱ははるか上空のブルーに向かって伸びていた。

男は動かない。助けを求めることも、痙攣することもない。

手遅れだと気づいたのは、背後で青年が立ち上がる音がしたからだった。

彼の口角はいつのまにか持ち上がっていた。その形をするよう、計算されていたかのように。


「人を殺してはいけないよ、なんて言うつもり?」


「あなた、だれ?」

「それ聞いてしまう?」

「うん。知りたい。あなたはゆうれい?」

「どうしてそう思う?」

「そのあざ。人のものじゃない、から」


彼は私の指先を追って、ああ、と思い出したような声をあげる。


「見えるんだ。これ」


首筋に手をやって、微笑んだ。

底の見えない笑み。けれど目を奪われる。彼しか見えなくなる。そんな清艶な笑みだった。


「君のことは知っているよ」

「え?」

「俺のことを幽霊だなんだと言うけれど、君だって人じゃない。だからこのあざも見えるんだろう。知っているさ。君は晴鶴の分家に生まれた少女。そして」


彼が小さく息を吸う。


「晴鶴の分家にして初めて神さまになった人。君は五年前まで人でなかった。そうだね?」

「どうして」

「ん?」

「どうして知ってるの。私のこと」

「晴鶴ってどんな存在か、君は知っているはずだよね」

「どんな存在、って?」

「晴鶴が人であって、人でなく。鹿から派生した妖の類であり、神を育て人間を誘惑し支配する。そんないやらしい家系の名だってことさ」



『ただの神であるお前は、何の願いも叶えられない。お前に器量がないからだ』

『返せ。返せ。返せ』

『この、嘘つき―』



「うん、知ってる」

私は小さく頷く。


「風浪宮で何度も君を見たんだ。無表情で、汗を流して必死に上がってきては本殿に倒れ込む。手の中のひまわりを大切そうに握って、目を閉じてじっと祈るんだ。ずっとね」


彼は左手をポケットに入れた。


「そうだ。それに来るたびに何度も女の人に連れ戻されていて」

「えなさんだ」

「その明らかに人でない目と、カタコトな話し方。神さまというものが君に与えた影響は痛いほど伝わってきた」

「話し方、へん?」

「うーん、少し幼いかなあ。生まれたばかりの赤子の幼さがそのまま出ている感じ。それでも戻ってきた方、なんだろう?」


私は頷いた。

えなさんに教えてもらって知った話。

私が喋れるようになったのも身の回りのことができるようになったのも最近の話らしい。

それまでは話しかけても反応しない。突然怒る。泣く。笑う。

目を離したら勝手に外に出て、行く先は決まって風浪宮。

一度人を離れるとはそういうことで、神さまになるとはそういうことだ、とえなさんは言っていた。


私にはきっと元に戻れない可能性だってあった。

今私がここにいるのは奇跡なんだと、何度も言われた。


一度神様になったらもう人間には戻れない。

それが普通なんだ、それが当たり前なんだからと。


「俺も聞きたいんだ。君こそ、誰も訪れることのない禁忌の地に足を踏み入れたのはどうして? ここ、言われているんだよね。ー呪われた地って」


彼の口が持ち上がる。



「彼に会いたいから」

「その彼っていうのは?」

「私をすくってくれた人のこと。人でなくなった私を、すくいだしてくれた。でも、それきり会えなくなった。今はブルーに閉じこめられて。そのまま」

「へえ。君はブルーって呼んでるんだ、これを」


彼は興味深そうに腕を組んで上を見上げる。


「でもこれそんな大したものじゃないよ。蠱惑的というか、阿呆というか。ま、毒みたいなものだ。一つ言っておくなら、そんな美しい名で呼ぶんじゃない」

「蠱惑的……」


これほど近しい表現を見つけたことはなかった。


ブルーが現れてから五年。

まるであの事件を忘れさせるように、何も起こらなかった。

この半円状のベールが普通であるはずがない。

けれど、ゆらめくブルーは私たちの気を惑わせる。

私たちの中の大切な、ブルーが異常であると判断する器官は、音も立てずに広がる毒気に侵され麻痺していく。

きっといつか私たちは、それに気づくこともできなくなる。

この不自然な生活に慣れていく。

ブルーの外に出ることができなくても。

ブルーの外にいる大切な人に会えなくても。

それをブルーに結びつけて憎むことをしなくなる。

まるでそれが自然の摂理で、避けられないことかのように、受け入れるのが当然かのように、口にしなくなっていく。


やっぱり、彼は何か違う。


知りたいという思いがまたひとつ顔を出した。


「あなたは。彼のこと、知らない?」


私を助けてくれた人は、きっと晴鶴の人。

青年がここを何度も訪れていたのなら、彼に会ったことがあるかもしれない。

そんな一抹の期待を抱いて、彼を見上げた瞬間。



「その彼っていうの、やめだ」



深淵の瞳が、私を見下ろしていた。

暗澹な夜の帳が降ろされたような、彼の瞳が。

彼が私の右手を掴む。

あまりに強い力だったから、手首に激痛が走った。

そのまま先へと連れていかれる。崖の方へ。

彼は崖の先に私を立たせ、私の手を、掴んでいた右手から左手に滑らかに移動させる。


「そんなに知りたいなら教えてあげる。ブルーの正体は篭だ。人を籠めた篭。誰も逃げられないよ。晴鶴の作った最後の神さまが、欲しいものを欲しいままにするためのものなんだから」


―ごぼごぼごぼごぼごぼ―


ざっと靴が地面を踏み外した音で気づく。もう先がなかった。

つま先ひとつ、そして彼の左腕ひとつで、今私は生きている。

ああ。吐息がもれた。

顔を上げなくてもブルーが見える。私、もっと前からこうしてみればよかった。

まるでブルーに包まれているみたい。

視界を左にずらしてみる。

崖の下。

小さく見える海が、大口を開けて私を待っていた。

はやく、はやく。

私の身体を飲み込みたいと言わんばかりに、風が背中を押し上げる。

彼の瞳が、震えていた。

確かにこちらを見ているのに、焦点が合っていない。

揺らぎ、迷い、戸惑い、全てがごちゃ混ぜになって、溶けていく。


「怖がらないんだ」

「こわい……?」

ぽつりと、彼がつぶやいた。


―ごぼごぼごぼごぼ―


ブルーの鳴き声がさらに大きくなる。

「あ……」

彼の名前を呼ぼうとして、名前を知らないことに気がついた。

そうだ。

こんなに言葉を交わしておいて、私は彼を彼としか呼べない。


「なまえ、おしえて?」


手を掴む力が、ぎゅっと強くなる。


「崖から突き落とされそうになっているのに、君は犯人の名前が気になるのかい」


痛くなるほどまっすぐに、そして悲しいほどに潤んだ瞳がこちらを見る。

彼は笑った。こぼすように、少し困ったように。

「死の淵に立たされている人間だとは、到底思えない」

「そうなの?」

「そうだよ。普通こういう時は怖いと感じるんだ。鼓動が早くなって、息が荒くなって、逃げ出したくなる。僕に命乞いをする者もいるかもね」


こわい。意味は知っている。


けれどそれが自分の身に起こっているとも、どういう状況で起こるものなのかも、よく分からない。


考えると、頭の中に靄がかかっていく気がした。とても居心地が悪い。



「るいだよ。涙。なみだと書いて涙だ。今つけた。俺は涙」


彼は、そう名乗った。

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