第二十一話
だから涙は言おうとしなかった。
灰に、真実を知らないまま死ぬことを提案した。
真実が灰を傷つけると知っていたから。
涙は初めから、全部知っていた。
「影間の人間は盲目だったけれど、盲目なりに嗅覚は鋭かった。彼らは正解を引き当てたんだ。夕里には才覚があった。儀式が滞りなく成功していたら、もしかしたら今の大御神は彼だったかもしれないね」
「僕の願い。僕の願いのせい。僕が願ったせいです」
灰は早口でそういった。自分の胸に何本ものナイフを突き刺した。
「僕が願ったから、にいちゃんを傷つけた。僕は何にも知らなかった。ただ守られてばかりいた。にいちゃんに背負わせた。僕が、にいちゃんを殺した」
捲し立てる灰を、涙は人差し指で制した。その顔が、あまりにも儚くて、薄い唇が紡ぐ言葉は、地面に落ちた瞬間消えてしまう雪のようにか細くて。
「それは違うよ。本当に違う。君は悪くない。君の願いは純粋だった。君は、愛する家族に会いたかっただけなんだ」
涙は、何かを押し殺すように言った。涙がこうして悲しむ誰かを慰めるのは初めてだった。めったに見えない涙の深層が、またひとつ姿を表す。
「悪いのは君じゃない。大御神だ。全部大御神のせいだよ。君は憎んでいい人間なんだ。自分を憎むんじゃない。自分の都合で人を不幸にする、大御神を憎むんだ。それでいい。それがいいんだ」
言葉を発するごとに、涙が傷ついていた。涙が傷だらけになる。
「涙。だめ……」
もう。もうこれ以上、涙の自分を痛めつけるような言葉を聞いていることができなかった。
だから私は涙の服の裾を握って、涙が私を振り返って。
そして。
ひゅ
という短い音と共に、夕里の過去の記憶を映し出していた部屋が姿を消した。
真っ暗闇になったその部屋で、涙の袖の感覚だけが手のひらを満たす。
瞬間、涙が動いた。わずかにそれに引っ張られる。
パチンという何かが爆ぜたような乾いた音がした後、部屋の中心にあの時の炎が現れた。
空気の波で揺れ動く炎は、壁に張り付く夕里の姿を映し出す。
真っ黒で、影のようで、もうきっと、夕里という原型は何一つとして残っていない悲しい成れの果て。
それが、ゆらりくらりと、炎に合わせて動き出す。
「動かないで」
涙の忠告と共に、夕里はさらに動きを増した。早くなっていく。
壁の半分ほどだった彼の姿はもはや天井まで伸び切って、どろどろとした液体を床に垂らす。
『いち』
記憶が流れた時と同じ声が聞こえた。ぼとっという陰鬱な音と共に、ドロドロとした液体に包まれた何かが天井から落ちてくる。
雛が殻を破るように、液体が剥がれ落ちて、地面に水溜りを作る。
「一郎……!」
灰が声を上げた。それは、どんぐりだった。
小さな帽子を被った細身のどんぐりが、地面に転がる。
『に』『さん』『よん』『ご』『ろく』
声のペースはまるで捲し立てるように早くなっていく。数字に合わせて、どんぐりがまたひとつ、またひとつと落ちてくる。
その度に、灰はかつてどんぐりにつけた名前を口にした。数字が増えていくと同時に、まるで地震が起こっているかの如く地面の底から地響きがする。
はるか奥、ずっとずっと先で、地面を粉々に崩して両手両足を無防備に伸ばす私たちの体を飲み込まんとばかりに、刻一刻と迫るその瞬間を、今か今かと唾を飲んで待ち侘びるように。
そんな狂気が、すぐ隣に立っていた。
『なな』
そこで真横の涙がすうっと息を吸ったのがわかった。ただの呼吸ではない。周りの一切の音、振動、それら全てを飲み込むような音。深い海の底に放り投げられた感覚。そう。
ごぼごぼごぼごぼ。
たった少し離れているだけだったのに、久しい音色。ブルーの鳴き声。
それが濃く、濃くなっていく。地上の明かりが消えていく。
深海の暗がりがにこやかに私の手を掴む。
その音だけを聞け、と深淵が命令する。
暗闇の中で涙の頬のあざを、伝導線のごとくちりちりとした光がなぞっていく。
頬から顎へ。顎から首下へ。涙の顔色が、みるみるうちに青白くなっていく。
私は知っている。彼の持っているこの姿を。鹿と人の血の混ざった晴鶴の人間にしか成し得ない妖術を。私には到底できない魔の姿を。もう二度も目にしている。
手を伸ばして触れても、反応はなく。まるで深い眠りに落ちているように目を閉じて。
彼の頭から生える角は植物のつるの如く空間を侵食する。
角が枝を伸ばすごとに、そのてっぺんをブルーに届かせるごとに、頬のあざが消えていく。
涙が目醒めるように開けた深淵の瞳には、大樹のように枝を伸ばした角が映っていた。
「涙さん、ですよね……?」
灰は天たかく伸びた涙の角を見上げて驚嘆の息を漏らした。
それに、涙は視線を夕里から逸らさないまま苦笑した。
「あんまり見つめないでくれるかな。少し恥ずかしくてね」
「晴鶴だから、ですか」
「まあ、人の作った家系ではないからね。鹿となり、妖となったものはもう人ではない。どんなに人になろうと近づいても、それは紛い物に過ぎない。全部全部ね」
「僕にもできるんですか」
「君だってできるよ、やろうと思えば簡単さ。ま、こんな馬鹿らしい角は生やさないことをお勧めするけどね」
「なら」
灰はそこで、口を止めた。言い淀んでいるようだった。その言葉の先が、一瞬見えてしまったから。だから私が口にした。
「涙、どうするの」
「これ以上約束を守るのは難しい。このままだと、俺たちは全員ここで命を落とす。夕里が暴れている」
他の方法は、と言おうとしたところで、
ひゅんっ
爽快で、快活で、陰鬱な音がした。涙が視線を上げた瞬間、天井まで伸びた夕里の姿が分岐して、細く伸びた触手のようなねじれた刃が、涙の頬を掠めた。音もなく涙の頬から血が垂れていく。
「時間がない。この意味、分かるよね」
地響きがひどくなった。足元すらおぼつかなくなる。そんな中で、涙は静かに灰に問う。
これが、歪んだ願いの形だと。
もうこれ以上の出会いを期待するなと。
残酷な真実を告げる。
「いやです」
涙が口を引き結んで眉を寄せたその瞬間。
灰の方へ、禍々しい液体が空気を縫って襲いかかる。
すかさず涙が伸ばした右手を、灰が払い除けた。
その様子が、まるでスローモーションのように焼きついた。
「「灰!」」
私と涙は同時に声を上げていた。灰の腹から大量の血がどぷどぷと吹き出していた。
駆け寄ろうとする私に灰が笑いかける。
「止めたくないです」
「夕里を眠らせたら、灰。君を楽に逝かせてあげられる。苦しむ暇なんて作らせない。言ったろう。君が責任を負う必要はないんだよ。君が憎むべきは」
「自分です」
灰ははっきりと口にした。
「にいちゃんの真実を知ってから、ずっと考えていたんです。どうして止めなかったんだろうって。分からなかったはずはなかった。だってにいちゃんと僕は二つしか変わらない。今の僕よりあの頃のにいちゃんはずっと小さかった。いつも甘えて、にいちゃんの背中ばかり追いかけて。それなのにあの時だけは、僕はそれをしなかった」
「けれどそれは夕里が君を想ってした選択なんだ。君が命令したわけじゃない。それでもかい? それでも己を責めるのかい。君は」
「はい。それでもです。僕が悔やんでいるのは、にいちゃんの選択の結果、じゃないです」
灰は血が吹き出す腹を抑えもしないまま歩みを進めた。一歩。一歩。ゆっくり、けれど着実に。そんな彼の体を、夕里は容赦なく刺していく。腕を、腹を、足を、首を。
「なんで。灰」
自分の声がか細かった。灰が苦しまなくていい方法を必死に探る。なのに、ひとつも出てこない。考えれば考えるほど、望んだ答えとは遠い方へ行ってしまう。
「なんで」
首を貫かれたところで、灰は倒れ込むように膝をついた。
「僕は……僕は」
一音一音発するごとに、声が掠れていく。血を吐きながら、それでも彼は口にする。その言葉はもう、私たちに向けられたものじゃない。
「にいちゃんに、ころ、されたい」
だって、だってね、と彼は幼子のように口にする。兄の元へ這い寄っていく。
「にいちゃんだけじゃ、なくて、ね。ぼくも、ぼくも、くるしみたか、った」
灰の指が、夕里の体に触れた。夕里はもちろん返答をしない。だけど、一瞬空気が弛緩して、彼の嵐のような攻撃が止まった。
灰はもうどこが手かも分からない彼の体に触れる。対話をするように手のひらをかざして、そして頬をつける。
「にいちゃんばっかり、なやませた。にいちゃんばっかり、ないてた。ぼくも、なやみたかった。なき、たかった。ふたりで、くるしみたかったんだ、よ」
上擦るように言った最後の声と共に、静かな声が響いた。
ニイチャンナ
その声は優しかった。
叫びではなかった。
スッゴク デカイエダヲ ミツケタンダ
ソレヲモッテクレバ ドングリキョウダイ ミンナガハイレル オウチガツクレル
ガンジョウデ コワレナイ アンゼンナオウチガ ツクレルンダ
ソレ、ニイチャンガトッテクル
オワラセテクレナイカ
モウ
クルシインダ
キズツケタク ナインダ
寂しい音がした。それは灰のそばに落ちた。液体が落ち広がっていって、包まれていたそれが姿を現した時、灰の瞳から溢れんばかりの涙がこぼれ落ちた。
「にいちゃ、……」
それは枝だった。地面に並んだ八つの兄弟をまもる丈夫な太さを持った枝だった。灰がそれを強く握ったとき、それを握る灰の手から血がこぼれ落ちた。灰が目を見開いたまま手を開く。灰の手のひらが大きく切れていた。
「包丁」
もう夕里の記憶は現れない。けれどなぜか、その包丁が誰のものなのか。どんな風に使われたのか、分かる。分かるからこそ、胸が苦しい。
「晴鶴の儀式は、自我が薄いうちにやるといい。そうでないと、儀式は面倒なことになる。なぜなら、より強い憎しみが必要になるから。より強い傷が必要になるから」
涙がぽつりと呟いていた。その言葉には、純粋な言葉以上の感情があった。
夕里はあの包丁で、自らの腹を割いた。
それが儀式で、呪いと融合する術だった。
夕里の中に、強大な呪いを生み出すために。
それがどういう名前で呼ぶのか、私には分からない。だけどそれはとても尖っていて、激しく波打っていて、とても、とても静かだった。
「にいちゃん!」
灰は大きく叫んだ。
「にいちゃん!」
錆びついた持ち手を震える両手で握って、灰はそれを、兄に向ける。
液体が灰の足に、腕に張り付いていく。張り付いては、溶かしていく。
灰が、飲み込まれていく。
私たちは、ただそれを見つめることしかできない。私たちには、灰に生かす術を与えられない。夕里を還してあげることもできない。
灰の選んだ道を、見つめることしかできない。
黒い液体の中に灰の体が消えていく。
もう上半身しか残っていない体で、灰は涙を流しながら笑った。最愛の兄に、ずっと共にいて、ずっと共に苦しみたくて、けれどたった一瞬しかいられなかった兄に。
もう、言葉の伝わらない兄に。
「にいちゃん、だいすき」
灰がゆっくりと両手を振り上げて、
さくっ、となんとも小気味良い音がした。
ごぼごぼごぼごぼ。
ブルーの音が、私の声をかき消した。
空に吸い込まれていくようだった。ブルーに呼ばれているようだった。
涙の手が、私の手に触れた。
彼は縋るように、私の右手を握った。その指先が、こんなにも心細く感じたのは初めてだった。
「ごめんね」
涙は二人の兄弟がいた場所に、そう言った。
「ごめんね」




