第二十話
狭い部屋の中には灰もいた。
「涙……?」
涙が一言も喋らない。体はこんなにくっついているのに、息を止めたように黙り込んだままだから、もう一度名前を呼んだ。
「たすけてくれたの? るい」
「助けるなんて、そんな大層な名前で呼ぶことはできない」
その口調は、焦りと安堵の混じった不思議な薄紫色をしていた。
「ごめん、ごめん。守れなくて。嫌だったよね。辛かったよね。君にもう二度と、あんな思いはしてほしくなかったのに。守りたかったのに」
また。涙が子供に還ったようだった。いつも涙は大人びていて、私のずっと先を見ているようなのに。今は不思議。私の方が大人みたいに感じる。
「大丈夫。涙。だって私にはね、きょうふがないから」
大丈夫。その言葉を繰り返しても、涙は納得してくれなかった。だけど思いっきり抱きしめたら、顔をあげた。少しだけ、目が赤かった。
「何か嫌なものは見ていない?」
正直に言うことができなかった。
灰のお兄さんの、あの短い叫びで分かった。灰のお兄さんの葛藤を。きっと素直に伝えたほうがいいんだろうな。だけど、どんな言葉で伝えたらいいか分からない。
だって、きっと灰は悲しむ。
一度でも、お兄さんが自分の不幸を願っていたなんて知ったら。
今よりもっとたくさんの涙を流して、もっと早く死にたいって思ってしまう。
「うん。みてないよ」
そう答えてしまう。
パシン
その時、和室の襖が勢いよく閉まった。耳に痛々しい衝撃が残る。視界が真っ暗になって、涙の体温をより鮮明に感じた。
「灰」
涙が暗闇の中で息遣いを頼りに灰の手を掴んだ。灰が涙の背後。私の隣に並んだ。
ぼう
暗闇の中で魂が浮いているように、意志を持たぬ、主人を持たぬ炎が姿を現す。
その炎は二、三度回転して、空気中のほこりの如く飛び回ってから、部屋の中心に腰を下ろした。
そのわずかな光源の先には、あのドロドロとした生き物の影の一部が照らされていた。
波打ち際をはぜる魚のように先端を揺らして、カゲロウのように壁に張り付いている。
あの時と同じ。
けれどあの時とは違う。
まがいもの。
呪いと人が混ざり合ったもの。どちらでもないもの。
「影間夕里だね。君は」
それは灰のお兄さんであり、灰のお兄さんではない生き物。
呪いと融合して、失敗して、そして離れることのできなくなってしまった生き物。
涙の声はもう落ち着いていた。
影は答えない。答える術を持たないのか、答えないのか、私には知ることができない。
けれど炎がぼうと揺れた。風なんて吹いていないのに、はっきりと炎が揺れた。涙は見定めるようにその反応を見て、さらに言葉を続ける。
「君の大切な人が来訪しているよ。見えるかい。影間灰だ」
炎は揺らがない。
「不本意、だったのかな。亡くなった今、弟を見るのはつらい?」
彼の口が、挑発的に微笑んだ。
「それとも、自己嫌悪で消えたくなっているのかな」
その言葉に、思わず涙を見る。表情に一切変化はない。私が見た灰のお兄さんの姿。
涙がそれを実際に見たのかは分からない。だけど。けれど。なぜか涙もそれを知っている気がした。同じ夕里の姿を抱いているような気がした。
涙が言い終わる前だったと思う。
襖が激しい縦揺れを始めた。それは私たちを焦らせるように、心を揺らすように徐々に音を大きくしていく。まるで歯軋りをするように、納得のいかない事柄に駄々をこねるように。
『いち』
地面全体がうめきを上げるような、けれど奇妙なくらいに落ち着いた声が数字を告げた。どこか幼さを感じさせるこの声は、夕里のものなのだろうか。
影が、大海を跳ねるイルカのように姿を消した。涙は視線だけを左右に動かして、そして正面の一点で動きを止める。
「灰。真横の襖を開けられるか試してみてくれる?」
「は、はい」
灰は一歩右に進んで襖に両手をかけた。だらりと垂れ下がる細い松の枝葉が水墨で描かれている。灰は右足に重心をおいて何度か引っ張ってみたけれど、襖はぴくりとも動かない。
きし、といった小さな音を立てることすらなかった。薄暗がりの中で灰が眉を寄せて首を振る。
「やっぱりね。ありがとう。俺たちは今閉じ込められているよ。襖や床に何をしても無駄みたいだ」
「どうするの?」
「夕里を殺す。いいや、終わらせてあげるしか手はないだろうね」
「あっ……」
涙の返答に灰は請うように喉元から声を引っ張り出そうとして、やめた。
「そしたら灰はお兄さんに、夕里にあえる?」
「分かっているよ。大丈夫。むやみに選択したりはしない」
涙が示す言葉を明らかにすることはできない。だから約束だけをした。涙は最善の道を探してくれていると、信じることができるから。あまりに容易すぎるほどに。
「くるよ」
涙が注視していたその一点が、黒く禍々しい円になった。
円は周囲を巻き込む洪水のように広がって、飛び火するそれを止めることはできない。正面の襖一面にそれが広がりきった時、今まで襖に見えていたそれが、新しい空間のように映った。目を擦ってみても変わらない。私たちがいるこの正方形の和室。それと全く同じ空間が目の前に広がっている。涙が手を触れてみると、すぐさま反動で押し返されていた。
おそらくそれは、見えるだけ、なのだ。
『にいちゃん!』
目を見開く。灰の声だとはっきりわかる。だけど声が聞こえたのは正面だ。真横の灰じゃない。灰をみると、彼は全身の動きを止めたように真っ直ぐ目の前の空間を呆然と見つめていた。炎に照らされた左目から意志のない雫が滴っていた。
少年が二人、暗がりの部屋の中でしゃがんでいた。黒い髪の子供と、灰色の髪の子供。
灰。
夕里。
二人の子供はこの空間のことも、この空間を見ている私たちのことも、一切見えていないようだった。だってこれはきっと。夕里の。
『にいちゃん! にいちゃん見て!』
灰は花が咲くような顔で笑った。にいちゃん、とその名前を呼ぶことが心底幸せなように見えた。にいちゃん、にいちゃん。灰は繰り返す。愛しい兄の名を、何度も何度も執拗に呼ぶ。
『そんなに呼ばなくても分かるよ。一つ目の家ができたんだよな』
『ひとつめじゃなくてね、いちろうだよ? にいちゃん』
『ああ、そうだったそうだった。いちろうのお家、だな』
『心込めてないでしょ!』
『ばれたか』
『もう! にいちゃんはこれだから』
弟をからかいながら歯を見せて笑う兄と、ぷくと頬を膨らませる弟。
一見喧嘩を呈したその会話は二人の笑顔ですぐに崩れる。
互いに顔を見合って、弾けるように笑う。
互いに肩を押し当て、戯れあって笑う。
二人の前で、小さな枝で作られた家におさまるどんぐりも、笑っているようだった。
『に』
『影間も夢を見たいわ』
『ええ、もう、いつまでこんな状態なのかしらね。地べたに這いつくばって舌を舐める日々。隣の風来にだって散々言われたわ。なんとか押し殺してきたけど、もう限界』
『本家に献上できる器があればいいのに』
『いくら産んだって望みなんてないのかもしれないわ。だって』
縁側に座って雨空を見上げながら、二人の女性が会話をしている。不満に顔を歪ませて、怒りを覗かせて。影間の家の人間なのだろうか。二人はここにはいないはずの誰かに全ての不条理をぶつける。全てを、彼らのせいにする。
『黒髪に灰髪。おまけに無個性。特筆すべき才能も、その才能を育てるお金も、影間にはない。角一本生やせやしないのよ』
『いつか里子に出さないとね』
『そうね。金をむしられるだけだもの』
その後ろ、襖一枚隔てた奥から、まだ幼い少年が顔を覗かせている。黒髪の――夕里。
彼女たちの姿を見ることもできないようだった。
じっとしがみつくように、縋るように襖の端を握りしめて、廊下に視線を落としている。二人のため息と共に、雨音がしとしとと屋根を打つ。その度に、少年は怯える。瞳孔を開いて、寒さに震える。その表情は、女性二人よりも寂しげで、消えてしまいそうなほど儚い。その幼さに反して、彼の命の灯火はため息ひとつで消し飛んでしまいそうなほど弱っていた。
夕里が足音を立てぬよう息を潜めながら、奥の部屋へ消えていく。彼らには、居場所がない。もしも。もしも縁側で話す二人の女性のうちの一人が、灰と夕里の母親だったとしたら。
夕里は、どんな気持ちで。
『さん』
狭い和室の中にひとり、夕里が立っていた。朝か夜かはわからない。ただ布団を剥いだ状態で、彼は姿見を見ていた。彼の肩が震えていた。彼自身も制御できないほど激しく震えていた。
彼は少し癖のある髪を恐れるように触れる。毛先をつまむ。
黒髪の中、異様に目立つ、何色も混ざらない純白の毛束。
それは彼を蝕むように、真っ白に輝いていた。
それを擦り合わせて、息を吸って。思いっきり引っ張る。その髪全てを恨むように、全ての憎しみを込めてむしる。数秒後。右手に残ったのは、たった数本の白髪。黒の中の白は、消えてくれない。その異様な存在感を、消させてくれない。
『ああ……、』
声にならない嗚咽を漏らして、彼は力が抜けるようにしゃがみ込む。彼は絶望の意味を知っている。その白が広がった時、自分の身に何が起こるのか、もう分かりきっている。知らない方が良かったと、夕里は嘆いた。知らなければ、絶望しかない分岐路で迷うことなんてなかったのに。と。泣くことすら許されないその家で。
『にいちゃん、にいちゃーん。ご飯だよ。ご飯! 一緒に行こう!』
襖の向こうから無邪気な足音がかけてくる。
あの足音がここにたどり着いたら、俺は。
終わる。
『よん』
一転して部屋の奥行きが伸びた。それと同時に、橙色の薄ぼんやりとした明かりしかなかったその部屋が、眩しいくらいに彩られる。だだっ広い家に長机がいくつも並べられて、影間の人間が所狭しと座布団に腰を下ろしては酒を酌み交わし、机に広げられた極上の食材にかぶりつく。
『影間に光が来た!』
『まさか家が先祖返りを引くなんて!』
『風来の連中もびっくりしてたぞ! 散々動揺した挙句に済ました顔で、おめでとうございます、だってさ! こんなに面白えことはないよ!』
『一体いくつ位が上がるんでしょうかねえ』
『いつか本家の首を掻っ攫って、それでさあ……』
それが人の会話であると、認識することができなかった。認識することが怖かった。自分と血のつながっている家族が、両親が一つの涙すら見せずにその話を、笑ってしていることが恐ろしかった。
部屋の最奥に設けられた台座の上、絹を使った御簾の中で、夕里は涙を流した。
姿見の前で泣いたあの日のように、あの日よりもずっと白くなった髪に触れて、泣いていた。
『にいちゃん、出てこれないの?』
御簾の外で弟が呼んでいる。陰でわかる。またいつものお気に入りの人形を抱きしめて。影には映らないけれど分かる。灰はきっと涙目で、そこに立っている。
『ご』
大御神が誕生して、本家の人間が皆殺しになっても、一種の幻覚を見続けているかのように、影間は俺に固執した。大御神がなんだ。髪なんて白でも灰でもない。黒だとさ。かつての夕里と同じだ。夕里は違う。夕里は特別なんだ。あの子は先祖返りなんだ。
大御神なんてすぐに、終わらせてやるさ。
『にいちゃん?』
顔を埋めてしゃがみ込んだままの夕里に、人形を持った灰が恐る恐る話しかける。
『にいちゃん、いつまでいられる?』
『三日、だよ』
『みっか……』
灰は片方の指をいっぱいに広げて指を折る。少し変わった折り方で三本目の指を曲げると、灰は幼心に何かを察したのか人形を力一杯抱きしめた。まるで次の言葉を発する勇気を、人形から貰い受けようとしているかのように。
『にいちゃん、あの、ね』
抱えきれないもどかしさを指に込めて、灰は必死に言葉を紡ごうとする。
『いっしょにね。にいちゃん、いやかもしれないんだけど、ね。だけど』
『灰』
夕里が立ち上がっていた。立ち上がって、弟のそばに寄って、そっとその小さな体を抱きしめた。弟とたった二つしか変わらない、まだ小さな兄が。弟の全てを受け止めるように抱きしめた。
夕里の瞳にはほんの少し、夕焼け色が混じっている。若葉が沈んで、寒い寒い冬が訪れるその前に、生き物の息を絶やさぬように絶えず準備を続ける秋のような橙色が、灰を見る。その目は、とても愛おしい。
『灰、山に行かない?』
『やま?』
灰はくりくりの瞳で兄を見上げて首を傾げる。
『そう。山。遊びにさ』
『やま!』
何かを思い出したように灰が手を叩いた。その顔がパッと笑顔になる。
『にいちゃんあのね! やまにはね! どんぐりがいっぱいあるんだって! ぼくね、どんぐり集めてみたかったんだ。にいちゃん、行こう!』
『どんぐり、か』
『いや……?』
『ううん』
夕里は首を振る。
そのどこか苦々しい笑顔に、胸が締め付けられる。
『にいちゃんも行きたい。行こう。どんぐり採集』
『うん!』
『ろく』
夕里と灰の姿が塵のように流されて姿を消す。
部屋の空間すらも掻き消えて真っ暗になった。咄嗟に涙を見ようとすると、視界の端から眩いばかりの光が漏れ出した。
「っ……!」
部屋のくくりはすっかり消え去って、視界いっぱいを埋め尽くしたのは、金糸雀色の壮麗な風景。中心にはつるのように、絡まり合って組み合って枝から伸びる、紅葉した葉をドレスのように見に纏う大樹の姿。風で戦ぐと、くるくると踊るように数枚の葉が舞い散って、ふかふかのベッドに体を横たえる。終焉を迎えた体を、安らかに眠るように横たえる。大樹のまわりは、そこを掻き分けて歩く夕里と灰の腰まで伸びたすすきが一様にその身を揺らしていた。
服とすすきの擦れる音を楽しげに聴きながら、灰が笑う。
『すごいね。にいちゃん。こんな綺麗なの、ぼく見たことなかった』
『俺もだよ。もっと早くくれば良かった』
『またこようよ! 三日たって離れちゃっても、にいちゃんまた戻ってくるんでしょ』
『ああ。戻ってくるよ』
夕里はそれを、なんでもないことのように返した。弟の無邪気な問いに、答えた。一度神さまとして迎えられてしまったら、帰ってこれることなどほとんどないと、夕里は知っていたんだろうか。知っていた気がする。
二人はそこで、屈んだりしゃがんだり、覗き込んだりしながら、葉の中に身を隠すどんぐりを集めた。灰は着物の袂が盛り上がるくらいいっぱいに詰め込んで、夕里は不思議な形のどんぐりを見つけては灰に渡していた。
『なあ、灰? ちょっと聞いて欲しいんだけどさ』
『うん』
地面にくっつくくらい顔を近づけながら灰が相槌を打つ。
『なあににいちゃん』
『ちょっと待っててくれないかな。ここで』
灰が動きを止める。
『どうして? にいちゃん。どこか行っちゃうの。いなく、なっちゃやだよ』
『違うよ』
夕里は苦笑した。
『にいちゃんはいなくならない。ちょっと向こうの方を散歩してみたいんだ』
『ぼくも!』
『灰はダメだよ。まだ小さいんだから』
『またそれー? にいちゃんずるいよ。ぼくだって大きくなってるのに』
『灰がもうちょっとしっかりしたら、一緒に連れてってやるから。だから、待っててくれないか。すぐ、戻ってくるからさ』
『うん。わかった』
灰の返事を聞いて、兄が大樹の向こうへ消えていく。そこは上り坂に見えた。ここより薄暗くて、もっと山奥に入っていくような、そんな道なき道に見えた。夕里は進んでいく。その足取りに迷いはなく。むしろ。
探し求める何かを見つけるまで帰れない、そんな覚悟が漂っていた。
『なな』
薄暗い森の中を、ひたすら頭上を見上げながら歩いて、夕里は足を止める。息を切らして木を見上げては、その木の下に広がった落ち葉をかき集め始めた。濃い色をした葉が地面にこんもり溜まったころ、夕里は、その葉を直接髪につけた。
葉の色素を映すようにゴシゴシと何度も毛先を葉で擦る。夕里は、自身の白い髪を消し去ろうとしていた。
『なんで……! なんで……!』
毛先の色は一向に変わらない。葉を何度押し付けようと、夕里の神々しいまでの純白は色褪せない。それでも夕里はやめなかった。葉をつけては髪を見、葉をつけては、髪を見る。その度に、涙がどんどん溢れてくる。落ち葉にシミができて、それすらも髪につけて、少しでも色をつけようとする。
彼は、『死』から逃れたがっていた。
どんなに腕を振っても、背中に張り付いてニヤついた笑みを浮かべる自身の運命から、全力で逃れたがっていた。
『なんっ……!』
夕里が葉を地面に叩きつけようとしたその時。夕里の手が、誰かに勢いよく持ち上げられた。
『眠っている生き物を起こしてはいけない』
目を丸くしたまま動けない夕里を、彼の腕を掴む背の高い男が、鋭く伸びた三白眼を精一杯宥めるようにしてみていた。
『だれだ! 影間の人間か!』
一瞬で怯えたように瞳を震わせる夕里に、男は困ったように眉を寄せる。夕里が離せ、離せとどんなに全身で抵抗しても、彼の肩に触れているだけの男の手に勝つことができなかった。男は肩まで伸ばした髪を乱雑にかき上げて苦笑した。
『ちょっとちょっと、人の話はまず聞いた方がいい。夕里』
『やっぱり俺の名前……! お前!』
『それも気が早い。あれだな。君まだ幼いな。そうだろう。弟がいるならもうちょっとばかり分別はつけておくべきだぞ』
『どうして?』
呆然とする夕里の向きをくるりと変えて、自分の正面に向けさせた男は、夕里と目線が合うようにしゃがみ込んだ。
『俺は影間の人間、だった』
『だった。ってことは今は』
『今は違う。あの辛気臭い家が嫌で出ていったんだ。元々俺みたいな出来損ないは向こうも要らなかったみたいだから、ウィンウィン、って感じだけどな。だから君のことも、君の弟のことも、少しくらいは知っているよ』
男の紹介に、夕里はさらに困惑したようだった。夕里の手から落ち葉がこぼれ落ちる。それを複雑な面持ちでただ呆然と眺めている夕里に、男は快活な口調で言った。
『教えてやろうか?』
『……何を?』
男はちょんちょんと指で夕里の髪をさす。
『まだ幼いのになあ。その色だから苦労してるんだろ。俺ならもっともっとまともな染め方を教えてやれる。ついてくるか』
男の言葉を、夕里は数秒理解できないようだった。目をぱちぱちと瞬かせて、それから勢いよく頭を下げた。深く深く、これ以上ないってくらいに。その頭を男がわしゃわしゃと撫でる。
『最低限の礼儀はあるじゃないか。な、夕里』
男の大きな背中を、夕里は一歩も置いてかれないようについていく。
*
『髪を染めるのにはな、この紅葉の時期が盛りの、こいつを使うんだ』
怜然と名乗ったその男は猛々しいほど太い幹に手をやってニカっと笑う。夕里はその木を見て息を呑んだ。
『黒い!』
『驚いただろう? この木はな、黒い葉と、黒い花しか咲かせないんだ。この木の名前、予想できるか。この近くにあるジメジメとしたくっらーい家がヒントだ』
『もしかして影間って、こと?』
『大正解』
怜然の笑顔に、夕里の顔が初めて緩んだ。
『影間草ってな、ちゃんと名前もついてるんだ。俺は美しいと思ってるんだけど、あいつらは自分を見ているようで吐き気がするらしい。俺が影間のこんな近くに住んでる理由も、実は影間草が理由だ』
『どうして、どうして?』
怜然といる時の夕里は少し幼く、いや、年相応に幼く見えた。
『あいつらが嫌っている影間草に、あいつらが死ぬほど追い出したかった俺が住んでいる。こんな、こんなすぐ近くにな。だけどあいつらは気が付かない。最高に面白いと思わないか?』
*
怜然はそのガサツそうな見た目には到底似合わない丁寧な手つきで夜影草をすりつぶし、煎じ、煮た。そうしてできた真っ黒な液体を、滑らかな手つきで夕里の白に塗りつけた。
『本当に……?』
『ああ、本当だよ』
今までのように持ち上げる髪はもう悲劇の白ではない。孤独な和室で、吐き気のする御簾の中で、あれほど望んだ黒が、そこにあった。
『影間草は粘着質だから風呂に入っても落ちない。ただ、日毎に多少は薄くなってくるから三日ごとにここにくるんだ』
『うん……うん』
胸の中で、到底表しきれぬ感情がぐつぐつと煮えたぎっている。今すぐにでも駆け出したい気分だった。そうだ。これで灰に自信を持って言える。にいちゃんは、灰とずっと一緒だって。一緒にいられるんだって。
『また来いよ!』
また、という言葉が嬉しくて、走るたびに視界にほんの少しだけ映る黒髪が嬉しくて。夕里は弾んだ足取りで山道を下っていく。金糸雀色の大樹の下で、兄の帰りを待っている弟の元へ。
*
駆けていく兄の姿が霧散して、再び部屋が暗がりの和室に戻った時、灰が鼻を啜る音が聞こえた。兄の運命も、その苦悩すらも知らず、知ることのできなかった灰にとっては、きっと胸を押しつぶされるような情景だっただろう。そう思って、灰の服の裾を軽く握った。灰は一瞬驚いていたけれど、すぐに理解してくれたみたいで、泣き笑いのような、感情がいっぱいに入り混じった顔で笑った。
束の間。
今度は、二人の兄弟の姿が見えることはなかった。けれど二人の笑い声と怜然の声、それからおそらく影間の人たちの声がこだまするように響いた。
『にいちゃん! どんぐり集め! 行こう!』
『そんなに焦らなくていいって』
『だってあそこすっごく楽しいんだもん。なんか、家にいるとさ、ちょっと苦しいんだ』
『……じゃあ競争しよう。早くついたほうが、一番大きいどんぐりゲットだ』
『かっこいい黒、いい感じに残ってるじゃないか。反応は? どうだった。見事に騙せたか?』
『うん!』
『そりゃあ良かった。今日もしっかり染めてやる。夕里の命を守る黒でな。あとで俺の作った大福があるから持っていくんだ。弟の分もあるぞ。たんまり分けてやれ?』
『もう、どうしたらいいの。先祖返りは幻だったっていうの?』
『ちゃんと洗ってみたか? 万が一染めてるって可能性も……』
『ないわ。洗わせたけれどちっとも落ちない』
『風来の連中にもし知られたら……!』
『そうだ!』
『灰を立てるのはどう? あの子の灰色も、十分珍しいんじゃないの?』
その声が、その声だけが、何度も何度もこだまする。頭にガンガン響くように、壊れた時計が秒針をぐるぐると回しながら、うめきをあげるように。
『はち』
灰。
ただ髪が灰色だから、灰。弟である灰はいつもぞんざいな扱いを受けていて、灰自身も、多分それに気づいてた。気づいていたから、灰はいつも俺の後をついてくる。決して離れないように、置いていかれないように。そうしないと、自分を見てくれる人が世界のどこにもいなくなってしまうから。期待を受けるのは全部俺だった。だから、それでいいと思っていた。そのままであることを願っていた。本家に献上する対象として選ばれるのは俺だったから。そして。本家に献上されるということがどういうことなのか、俺は知っていたから。灰にはずっと、ずっと知らないままでいて欲しかった。
なのに。
『夕里にもう望みはない』
『灰を立てよう』
『まだ幼いけれどいいのか』
『いいや、幼い方が抵抗も弱い。その方が手っ取り早い』
彼らには、もう一寸先すら見えていなかった。自身の位が上がること、散々自慢をした風来や数多の分家に対する面子。それを取り繕うことで必死だった。でないと虚偽の情報を言いふらした一族の恥として、処分されてしまうから。本家のことよりも自家の利益を優先するような輩には、晴鶴の分家としての価値はないのだ。影間という落ちこぼれた家なら、尚更。
彼らの目にはもう、灰の灰色の髪しか映っていなかった。
灰が笑えなくなった。自分の献上の宴を告げられた時のあの表情が、もう離れない。息を吸うごとに、瞬きするごとに思い出す。思い出しては、鼓動が早まる。太陽のように晴れやかだった顔は曇り、ぎこちない表情しか作れなくなった無邪気な弟のことを、もう、見ていられなかった。
『にいちゃんと、離れたくない』
そう毎日のようにつぶやいては、和室で涙を流す灰の背中を撫でることができなくなった。どうしてそうなったのか、知っていたから。この家の中で俺だけが、知っていたから。
『灰、行こう』
だから弟の手を引いた。いつもの場所へ。あの、場所へ。いつものように待っていてと口にして。
俺を見た怜然が初めて、今にも泣きそうな顔をした。
『どうした』
ここに来た理由なんて問わなくていいはずなのに、怜然は口にした。手にはもう、影間草をすりつぶした桶が用意されているというのに。
『もう、やめるよ』
『夕里。分かっているのか! もしお前が染めなかったら、隠せない。髪だってもう、毛先どころじゃ』
『分かってる』
夕里はいつものように髪を摘んだ。黒の影で覆われたこの向こう側がどんな色をしているのか、夕里はもう知っている。全て、真っ白なのだ。
『だけどお前は! 俺はお前に、苦しんでほしくない。こんなに優しくて、弟想いで、いい子なのにさ。なあ、本当にお前がやらなくちゃいけないのか。俺にできることはないか。そうだ! 俺が犠牲になるんでいい。俺が行くから』
肩を掴む手が震えている。あの怜然から涙が溢れている。ひどい顔だな。夕里は苦笑した。怜然の姿を見ていると、自分の気持ちを冷静に整理できる気がする。溢れ出して沸騰して、この世の全てを飲み込んでしまいそうな自分の叫びを、もう誰にも聞こえないくらいに押し殺すことができる。
『俺がやらなくちゃいけない。そうじゃないと。終わらないんだ』
『そんなこと、頷けると思うか……、思うか』
怜然。分かってるはずだ。影間に捨てられて、影間を捨てた怜然が出向いても、振り向いてはくれない。それどころか、代わりに俺の姿が来てしまったら、怜然は殺される。真っ先に疑われて、殺される。
『頼みたいことがあるんだ』
『なんだ』
『灰を頼む』
夕里は怜然と目を合わせた。夕里の目は、一瞬たりとも揺らがなかった。その覚悟は、到底その年でできるものではなかった。
夕里は笑う。肩をすくめて笑う。その目から涙がこぼれ落ちていることを、彼は知らない。
『俺はあいつが大好きなんだ』
幸せになってほしいんだ。笑っていてほしいんだ。色々な景色を見てほしいんだ。たくさんの人と話してほしいんだ。あいつのやりたいこと、全部叶えてほしいんだ。
怜然が同じ気持ちなのも、知ってる。
夕里は頭を下げた。初めて怜然に会った日。深く深く頭を下げたように。
『灰を、攫ってください』
怜然は、すっかり赤くなった瞼をゴシゴシと何度も拭った。そして、夕里の髪をわしゃわしゃと撫でる。何度も何度も撫でて、そして抱きしめる。夕里が崩れてしまいそうなほどに強く、強く。
『分かった』
それが、夕里にはあたたかい。とてもとても、あたたかい。
『きゅう』
かさ、かさ、と落ち葉を踏み分ける音がする。
寂しげな背中が、どんぐりを掴んでは、落とす。ただひたすらに、それを繰り返す。
「にいちゃんな? すっごくでかい枝を見つけたんだ。それを持ってくればどんぐり兄弟みんなが入れるお家が作れる。頑丈で壊れない、安全なお家が作れるんだ。それ、にいちゃんがとってくる」
『僕もいく』
『灰はダメだよ』
『どうして? まだ大きくないの? 僕、まだ、だめ?』
『灰はさ、みんなのこと守ってやらなきゃだろ』
灰の顔がパッと晴れた。灰は山を下っていく兄のことを止めなかった。
『うん!』
「だめ……」
真横から、小さく掠れそうな声が聞こえた。灰がシャツを握りしめて、手を伸ばしていた。
「だめ……だめ! にいちゃん!!」
灰は叫んだ。全身で叫んだ。
「にいちゃん!! にいちゃん!!」
涙がそっと寄って、肩に触れる。
「にいちゃん!!!! やだ!! にいちゃん!!」
兄の背中が見えなくなって、いつも兄が上っていた方から、和服姿の男が一人、やってくる。灰はどんぐりを抱いてきょとんとした顔をする。男はなぜか泣いている。だけどその泣き笑いは、心地よい。この金糸雀色の大樹のように、あたたかい。
『君をさらいに来た』
『俺のことは、人攫いと呼んで』
灰の叫びと共に、走馬灯のように部屋の様相が変化した。
怜然と影間の里を離れる灰。楽しそうに怜然とご飯を食べる灰。時折寂しそうに空を見上げる灰。
そして、ブルーのかかった風浪宮で、願う灰。
灰が願いの紙を書いて手を合わせた瞬間。
視界が真っ暗になる。まっくらな部屋の中に一人、夕里がいる。正方形の和室で、すでに呪いと一体化した夕里が、突然叫びをあげる。その体が暴れ回る。
悲鳴をあげる影間の人たち。
そして、まだ人が住む影間の地に、火を放つ大量の集団。風来を筆頭に数多の分家が影間の地に火を放つ。燃やし尽くす。裏切り者に火を。嘘つきに火を。
影間の地に灰が降る。
もう誰も息をせぬその土地で、灰の雨が降り続き、まがいものと化した夕里だけが、生きている。
「まさか」
灰の唇が震えた。
「うん」
私も、気づいていた。涙がはぐらかした、最悪な願いの叶え方。灰が招いた、最悪。
もう何も映さないその部屋で、涙が告げた。
「夕里の儀式が失敗したのは、灰の願いが理由だよ」




