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さらそよぐ  作者: UrushioN
第二章
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第十九話

一目散に走っていた。灰のスニーカーが灰を蹴散らして、舞い上がって、彼のスボンの裾に降りかかる。それでも走る。彼はそんなこと、気にも留めていなかった。彼はただ、先に向かう。声の聞こえた方へ。兄の声がする方へ。


「灰!」


涙が私に手を差し出した。

その手を繋ぐと、涙の手のひらが、指先が凍りつくほどに冷たくなっているのが分かった。

涙を見るけれど、一心に灰を追いかけてこちらを見ない。それでも私が転ばないように、できる限り速度を合わせてくれているのが伝わる。また火のついていない蝋燭に、ぼっと灯りが灯ったような気がした。それは私の不安のかたまりを溶かす。

涙の指をできるだけ強く握った。私の体温が伝わるように、少しでも、あたたかくなるように。心なしか、涙が、握り返してくれたような気がした。


「はあっ……はあ……」

「灰」


灰が膝に両手をついて、蒸気が上がるように激しく背中を上下させていた。

それでも顔だけは決して下を向くことなく、灰の視線は目の前の建物を捉えていた。

涙が手を離さないまま呟いた。それは涙の心の中の感傷に触れるような、柔らかで切ない響き。


「残っていたんだね」

「涙。これは?」

「光華殿。影間の所有する本殿だよ」

「光華……、影間の名には似合いませんね」

「影間だからこそ、つけた名前なんだ。彼らは自分たちが持っている影の名に、決して高くはない身分の有り様を重ねた。だから本殿に光あるようにと願いを込めたんだ。願いを叶える神を管理する家系が。皮肉な話だよね」

「こうか」


「光」という文字がぼんやりと浮き上がってくる。ブルーの上に、光が現れる。

朧げで、あとほんの数秒で雲に隠れてしまいそうな、儚い光だ。

今だって、ほら、もうブルーの青に飲み込まれてしまいそう。


「ここに、兄はいますか」


涙は焦燥にかられた灰を寂しげな瞳で見つめた。


「気配は感じるよ」


それから右手をそうっと持ち上げた。


「ただ、よくない気配だ。しかも、本家がここを善意で残した可能性はゼロよりも低いからね」

それを聞いて、灰は唇を噛む。さらに、さらに強く噛む。血が滲んできたところで、彼は私たちに背を向けて、本殿に向かおうとした。それを、涙が止める。

「先頭を譲ってくれない?」

「え」


振り向いて視線を落とす灰は瞼を極限まで下げた。


「ここから先危険なことが起こるよ。俺の予測だけどね。君が感情に任せて先を行ったら、君のことを守れない」

「だって、僕は死ぬんですよ。もうすぐ」


自重するように笑った灰を、涙はすぐさま咎めた。


「影間灰。命を粗末にしてはいけない。命の価値は残り時間で決まるものではない。絶対だ」


涙は厳しく締め付けていた糸を一気に解く。


「生きているうちに、お兄さんと邂逅したいよね。少しの間でいいんだ。任せてくれないかな」

「……わかりました」

「うん。ありがとう。それからね」


涙の手が、離れた。

思わず声が漏れる。


「涙?」


どうしてこんな締め付けられる気持ちになるの。

そうだ。ずっと頭の中で想像してきたことと同じなんだ。

嫌な想像。二度としたくないのに、私の頭の中に現れる嫌な景色。


『追いつこうとすればするほど、澄んだ水が泥に変わって足にまとわりつく』


甘夏の想像と、私の想像が合わさって、透明色になって溶けていく。

透明な紙は私の心にはらりと落ちて張り付いて、決して剥がれない呪いの紙に姿を変える。


「月寧にはここで待っていてほしいんだ。元神さまだった君には、あまり見せたくない。刺激が強いかもしれないし、危険だって伴う」

「いや」

「月寧。君はあの方に会いたいんだろう。それなら生きていなきゃいけないよ」


今、それを言うなんてずるいよ。あの方のことを、今この瞬間に言うのは。

ずるい。


「いや」

「月寧。これは君のためを思ってすることなんだ、どうか」

「いや!」


吠えるような叫び声が、灰のまちに。だけどその声すらも吸収されて、一切の跡すら残さないで消えてしまう。

冷たい。寒い。

あんなにあたたかった指が、結んでいないと死んでしまうよう。

息をするたび、身体が冷えていくよう。

降り積もった雪が、温度すらかき消してしまうよう。

ひまわりを枯らすよう。太陽を隠すよう。

なのに身を焦がすような熱が、私を揺らす。

冷たい。寒い。


「いやだ!!」


その瞬間だった。

圧倒的な何かに、足元を掬われた。

突風のような風が吹いて、頭が自然に上を向く。身体が浮いているのが分かった。

何が起こっているのか確認する前に、体は吸い寄せられるように引きつけられて、板のような何かに強く体を打ち付ける。

何かが、激しく割れる音がする。

冷たい木の板の感覚で自分が横たわっているんだと分かる。


つきね。


どこか遠くで涙の声がした。灰の声も聞こえる気が、する。

だけどどこからしているのか分からない。伸ばした手は空を掴むだけ。


「る……い」


声は掠れていた。喉に手を当てても戻らない。

あ。

何かがつま先に触れた。どろっとしたなにか。それがゆっくりと侵食していくように足首、ふくらはぎへと。溶かすようにじっくりと広がっていく。

声が出なかった。この手は涙じゃない。灰でもえなさんでも、お母さんでもない。

だって知っている。私はこの感覚を知っている。

二度と忘れられない。この感覚はいつもあの言葉と共に、心に張り付いているから。

もう、境目も分からないくらいに。


『カミサマはね、生神でないといけないんだ』

『さ、服を脱ぎなさい。何を躊躇してる。でないと融合できないんだから』

『君は、大御神になれる』

『融合するんだよ。あれと』


いや。あんなのと。あんなものと。

ひとつになるなんて。

ちがう。ちがうよ、つきね。

だって私には、「きょうふ」がないんだから。

恐れる必要なんてないでしょう。

そう。そうだよ。

私には。こわいがないんだから。

どろどろとしたものは、もう喉元までかかってきている。

もう足の感覚がない。上半身の感覚だって、もう、そこにあるただそれだけのことしか分からない。触手を伸ばすように這いずり回るそれ、が喉に入り込んできた。


「っ!」


私は大きくむせこんで、それと同時に激しい潮の流れのように入り込んでくる。体内をじっくりと食い散らかすように。


ドウシテ


あの声。同じ声だ。声が出せないのか掠れてしわがれている声。

もう一度聞こえた。


ドウシテ


今度は声が鮮明になった。


「どうしてあいつじゃないの?」


少年の声だった。

その声は、泣いているようだった。うすぼんやりと、もう視界とも取れぬ暗闇の中に、光のような影が姿を現す。

白い髪の少年。

灰のお兄さんだとすぐに分かった。長く伸びたまつ毛と、その鼻立ちで分かる。目は灰よりも少し大きくて、それが彼の印象を強くしている。しゃがんでいる彼から、大粒の涙がこぼれていた。拭っても拭っても止まらない。

彼は雨粒のようにか細い声で言う。


「もう、いやだよ」


その言葉が、堰き止めていた彼の感情を溢れさせた。彼は涙を拭うことをやめて叫ぶ。その声に耳を傾ける者はいない。それでも彼は叫ぶ。


「どうしてあいつじゃないんだ! どうしておれなんだ! おれだって遊びたい! いっぱい笑って、いっぱい泣いて、怒って。全部全部あいつといっしょがいい! あいつといたい!」


彼はそこで自分の頭を強く叩いた。殴るような強さで、何度も叩いた。


「あいつのせいにするやつに、そんなこと言えるわけないだろ! お前なんて……! この、人でなし! 人でなし! 人でなし!」


だめ。自分を痛めつけちゃだめ。

けれど手の感覚すらない私には、触れることすらできない。泣きながら自分のことを殴り続ける少年を、見ていることしかできない。


「灰と……いっしょにいたい。いたい。いたいよ」


その悲痛な叫びが、暗闇の中に何度も響いた。こだまし続ける泣き声と共に。

その時。


「月寧!」


お兄さんの姿が切り裂かれる。暗闇だった視界に、一気に光が差し込んできて、その眩しさに思わず目を瞑った。


「月寧っ!!」


強く抱きしめられた。あまりに強い力だったから、咳き込みそうになる。

冷たくて、だけど暖かい、涙の手だった。

そこは、部屋だった。

和室。

間取りは、あの時の部屋と似ていた。

正方形の部屋に、壁と床、わずかな明かり以外の一切がなくて。

私の体内にまで入り込んでいた「それ」が、ぬるぬると地面を這いずり回ると、壁と同化するくらいに平たくなって背を伸ばしては、私たちのことを知覚する。


「月寧さん……! 良かった。本当に、良かったです」

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