第十九話
一目散に走っていた。灰のスニーカーが灰を蹴散らして、舞い上がって、彼のスボンの裾に降りかかる。それでも走る。彼はそんなこと、気にも留めていなかった。彼はただ、先に向かう。声の聞こえた方へ。兄の声がする方へ。
「灰!」
涙が私に手を差し出した。
その手を繋ぐと、涙の手のひらが、指先が凍りつくほどに冷たくなっているのが分かった。
涙を見るけれど、一心に灰を追いかけてこちらを見ない。それでも私が転ばないように、できる限り速度を合わせてくれているのが伝わる。また火のついていない蝋燭に、ぼっと灯りが灯ったような気がした。それは私の不安のかたまりを溶かす。
涙の指をできるだけ強く握った。私の体温が伝わるように、少しでも、あたたかくなるように。心なしか、涙が、握り返してくれたような気がした。
「はあっ……はあ……」
「灰」
灰が膝に両手をついて、蒸気が上がるように激しく背中を上下させていた。
それでも顔だけは決して下を向くことなく、灰の視線は目の前の建物を捉えていた。
涙が手を離さないまま呟いた。それは涙の心の中の感傷に触れるような、柔らかで切ない響き。
「残っていたんだね」
「涙。これは?」
「光華殿。影間の所有する本殿だよ」
「光華……、影間の名には似合いませんね」
「影間だからこそ、つけた名前なんだ。彼らは自分たちが持っている影の名に、決して高くはない身分の有り様を重ねた。だから本殿に光あるようにと願いを込めたんだ。願いを叶える神を管理する家系が。皮肉な話だよね」
「こうか」
「光」という文字がぼんやりと浮き上がってくる。ブルーの上に、光が現れる。
朧げで、あとほんの数秒で雲に隠れてしまいそうな、儚い光だ。
今だって、ほら、もうブルーの青に飲み込まれてしまいそう。
「ここに、兄はいますか」
涙は焦燥にかられた灰を寂しげな瞳で見つめた。
「気配は感じるよ」
それから右手をそうっと持ち上げた。
「ただ、よくない気配だ。しかも、本家がここを善意で残した可能性はゼロよりも低いからね」
それを聞いて、灰は唇を噛む。さらに、さらに強く噛む。血が滲んできたところで、彼は私たちに背を向けて、本殿に向かおうとした。それを、涙が止める。
「先頭を譲ってくれない?」
「え」
振り向いて視線を落とす灰は瞼を極限まで下げた。
「ここから先危険なことが起こるよ。俺の予測だけどね。君が感情に任せて先を行ったら、君のことを守れない」
「だって、僕は死ぬんですよ。もうすぐ」
自重するように笑った灰を、涙はすぐさま咎めた。
「影間灰。命を粗末にしてはいけない。命の価値は残り時間で決まるものではない。絶対だ」
涙は厳しく締め付けていた糸を一気に解く。
「生きているうちに、お兄さんと邂逅したいよね。少しの間でいいんだ。任せてくれないかな」
「……わかりました」
「うん。ありがとう。それからね」
涙の手が、離れた。
思わず声が漏れる。
「涙?」
どうしてこんな締め付けられる気持ちになるの。
そうだ。ずっと頭の中で想像してきたことと同じなんだ。
嫌な想像。二度としたくないのに、私の頭の中に現れる嫌な景色。
『追いつこうとすればするほど、澄んだ水が泥に変わって足にまとわりつく』
甘夏の想像と、私の想像が合わさって、透明色になって溶けていく。
透明な紙は私の心にはらりと落ちて張り付いて、決して剥がれない呪いの紙に姿を変える。
「月寧にはここで待っていてほしいんだ。元神さまだった君には、あまり見せたくない。刺激が強いかもしれないし、危険だって伴う」
「いや」
「月寧。君はあの方に会いたいんだろう。それなら生きていなきゃいけないよ」
今、それを言うなんてずるいよ。あの方のことを、今この瞬間に言うのは。
ずるい。
「いや」
「月寧。これは君のためを思ってすることなんだ、どうか」
「いや!」
吠えるような叫び声が、灰のまちに。だけどその声すらも吸収されて、一切の跡すら残さないで消えてしまう。
冷たい。寒い。
あんなにあたたかった指が、結んでいないと死んでしまうよう。
息をするたび、身体が冷えていくよう。
降り積もった雪が、温度すらかき消してしまうよう。
ひまわりを枯らすよう。太陽を隠すよう。
なのに身を焦がすような熱が、私を揺らす。
冷たい。寒い。
「いやだ!!」
その瞬間だった。
圧倒的な何かに、足元を掬われた。
突風のような風が吹いて、頭が自然に上を向く。身体が浮いているのが分かった。
何が起こっているのか確認する前に、体は吸い寄せられるように引きつけられて、板のような何かに強く体を打ち付ける。
何かが、激しく割れる音がする。
冷たい木の板の感覚で自分が横たわっているんだと分かる。
つきね。
どこか遠くで涙の声がした。灰の声も聞こえる気が、する。
だけどどこからしているのか分からない。伸ばした手は空を掴むだけ。
「る……い」
声は掠れていた。喉に手を当てても戻らない。
あ。
何かがつま先に触れた。どろっとしたなにか。それがゆっくりと侵食していくように足首、ふくらはぎへと。溶かすようにじっくりと広がっていく。
声が出なかった。この手は涙じゃない。灰でもえなさんでも、お母さんでもない。
だって知っている。私はこの感覚を知っている。
二度と忘れられない。この感覚はいつもあの言葉と共に、心に張り付いているから。
もう、境目も分からないくらいに。
『カミサマはね、生神でないといけないんだ』
『さ、服を脱ぎなさい。何を躊躇してる。でないと融合できないんだから』
『君は、大御神になれる』
『融合するんだよ。あれと』
いや。あんなのと。あんなものと。
ひとつになるなんて。
ちがう。ちがうよ、つきね。
だって私には、「きょうふ」がないんだから。
恐れる必要なんてないでしょう。
そう。そうだよ。
私には。こわいがないんだから。
どろどろとしたものは、もう喉元までかかってきている。
もう足の感覚がない。上半身の感覚だって、もう、そこにあるただそれだけのことしか分からない。触手を伸ばすように這いずり回るそれ、が喉に入り込んできた。
「っ!」
私は大きくむせこんで、それと同時に激しい潮の流れのように入り込んでくる。体内をじっくりと食い散らかすように。
ドウシテ
あの声。同じ声だ。声が出せないのか掠れてしわがれている声。
もう一度聞こえた。
ドウシテ
今度は声が鮮明になった。
「どうしてあいつじゃないの?」
少年の声だった。
その声は、泣いているようだった。うすぼんやりと、もう視界とも取れぬ暗闇の中に、光のような影が姿を現す。
白い髪の少年。
灰のお兄さんだとすぐに分かった。長く伸びたまつ毛と、その鼻立ちで分かる。目は灰よりも少し大きくて、それが彼の印象を強くしている。しゃがんでいる彼から、大粒の涙がこぼれていた。拭っても拭っても止まらない。
彼は雨粒のようにか細い声で言う。
「もう、いやだよ」
その言葉が、堰き止めていた彼の感情を溢れさせた。彼は涙を拭うことをやめて叫ぶ。その声に耳を傾ける者はいない。それでも彼は叫ぶ。
「どうしてあいつじゃないんだ! どうしておれなんだ! おれだって遊びたい! いっぱい笑って、いっぱい泣いて、怒って。全部全部あいつといっしょがいい! あいつといたい!」
彼はそこで自分の頭を強く叩いた。殴るような強さで、何度も叩いた。
「あいつのせいにするやつに、そんなこと言えるわけないだろ! お前なんて……! この、人でなし! 人でなし! 人でなし!」
だめ。自分を痛めつけちゃだめ。
けれど手の感覚すらない私には、触れることすらできない。泣きながら自分のことを殴り続ける少年を、見ていることしかできない。
「灰と……いっしょにいたい。いたい。いたいよ」
その悲痛な叫びが、暗闇の中に何度も響いた。こだまし続ける泣き声と共に。
その時。
「月寧!」
お兄さんの姿が切り裂かれる。暗闇だった視界に、一気に光が差し込んできて、その眩しさに思わず目を瞑った。
「月寧っ!!」
強く抱きしめられた。あまりに強い力だったから、咳き込みそうになる。
冷たくて、だけど暖かい、涙の手だった。
そこは、部屋だった。
和室。
間取りは、あの時の部屋と似ていた。
正方形の部屋に、壁と床、わずかな明かり以外の一切がなくて。
私の体内にまで入り込んでいた「それ」が、ぬるぬると地面を這いずり回ると、壁と同化するくらいに平たくなって背を伸ばしては、私たちのことを知覚する。
「月寧さん……! 良かった。本当に、良かったです」




