第零話
どこか遠くで、燃えている音がする。
誰かが怒号をあげている。
みなが廊下を逃げ惑う。赤子が泣き喚いている。
―どうして。
足音が近づいて、少年の声がした。
懐かしい。とても懐かしい声だと彼女は思う。
彼の声をずっと聞いていたいのに、燃え盛る炎の音がうるさい。
彼女は叫んだ。
喉がどこにあったかも忘れてしまった彼女はひたすらに何かを叫んでは、地団駄を踏む。
彼女は夢中で体を掻きむしる。傷ができても、血が滲んでも、どこかの肉が剥がれ落ちても、掻きむしる。
「つきね」
少年の声が、すぐ耳元で、した。自分の名前なんて忘れていたはずなのに、不思議と彼女はその名を聞こうとした。
世界の音が停止する。
「ごめん」
声は謝った。
「もっと早く来なければいけなかった。僕が逃げたせいで、苦しい思いをさせたね」
声はとても切なかった。
何かをひどく、後悔しているようだった。
分からないから、今すぐ触れたかった。
その声色に触れて、何か、とても美しいものを彼に見せてあげたかった。
彼を想うだけでたくさんの言葉が浮かび上がってきた。
今すぐ伝えたい。
口にしたいのに、口にしようとした瞬間、文字は泡になって、立ち上っては消えてしまう。
「おいで」
一瞬の沈黙の後、静かに胸を締め付けられるような声で、少年は手を伸ばした。
右手を探そうとしている内に、強く手を引かれた。
少年の手がはっきりと見えていくうちに、あらゆる感覚が鮮明になっていく。
身体中がむず痒い。燃え盛る炎が、肌に感じる熱が、熱い。煩い。痛い。
ふと視線を追うと、少年は私に笑いかけた。
「おかえり。月寧」
その言葉の意味がよく分からなかった。
何か言おうとした。
頭の中では完璧に出来上がっているはずなのに、長い間発することのなかった声は、形にしようとすればするほど崩れていく。
「無理をしなくていい。君はまだ人と神の間にいるんだ。さあ、行こう。ここは危険だよ」
私が燃え盛る炎を指差すと、彼は首を振った。
「炎から逃げるんじゃない。晴鶴家から逃げるんだ。遠くへ。風浪宮から遠く離れた場所まで」
よく分からないまま、私は頷く。
少年はそんな私を見て、少し首を傾げては自重的に微笑んだ。
少年に手を引かれながら、燃え盛る風浪宮の中を進んでいく。
通り過ぎていく部屋の中で、何人もの人が横たわっていた。
彼らは何をしているのだろう。
気になったけれど、少年は足を止めない。見向きもしない。
けれど横たわり、うずくまり、悲鳴にも満たないうめきをあげる者たちはその先にも、さらに先にもいた。
やがて屋敷を出ると、大きな一歩で鳥居をくぐり抜ける。
赤々と燃えて、轟音を立てながら脆く崩れていく、私がいた場所。
風浪宮。
彼はそこで手を離した。
もう一度掴もうと手を伸ばすと、その手は柔らかに払われる。
「逃げて」
動かないでいる私の背を、彼は押した。
「行くんだ。遠いところへ」
あなたは、どうするの。言いたいのに、よれて解けていく糸。
それが苦しくて、私は喉元に手をやってしゃがみ込む。
「 」
そこで、記憶は途切れている。
彼が向けた最後の言葉は、空白のまま。
私はずっと、その言葉を、探し続けている。
今でも彼の影を、追い続けている。
そして
それは突然現れた。
風浪宮を所有する晴鶴家のある町。
その晴鶴家が、支配する町に。
晴鶴の権威の象徴だった、風浪宮が燃えた日。
本殿を残して、全てが焼き払われたあの日に。
すべてを隠すように、すべてを埋もれさせるように、この町の上に覆いかぶさった半円状の球体。
物を通す代わりに一切の人を通さない、ゼリー状の要塞。
人はそれを、ブルーと呼ぶ。