第十六話
莫大な資産と敷地を所有している晴鶴家が擁する晴鶴町は、ほかの町とは違う。
そこだけが独自のルールで動いている。
誰もそのルールに口出しをしない。
独占された、不自然で、けれど自然に満ちた、不思議な町。
分家専用の墓もそのうちの一つだった。
晴鶴家の分家だけを祀り、分家の人間以外は立ち入ることも許されない場所だ。
「待月苑」
青々と茂った大木とは反対に、墓は寂れている。
涙と一緒にひとつひとつの墓を眺めていった。
ところどころに置かれた湯呑みはとうに空。
側面には苔が生えて、羽虫が飛んでいる。
墓を彩るように置かれた小さな植物は萎れた死骸だけを残して地面に張り付いて、雑草はいきいきと羽を伸ばしている。
私たちは草に覆われてすっかり息を潜めた石畳を踏みしめながら、奥へ進んでいく。
二つほど角を曲がったところで先を歩く涙の優しい声がさわやかな風と共に流れてくる。
「月寧」
お墓の横から顔を覗かせると、涙がにんまりと笑いながら手招きしていた。
「これ、ツユクサだ。知ってる?」
「ううん」
涙はしゃがんで墓の隣の雑草を少しどかしてみせる。
私も彼の隣にしゃがんでその花にぐっと顔を近づけてみた。
群青色のものもあれば、薄く紫がかったのも、グラデーションがついたものもある。
緑色の葉に、ちょこんと彩りを与えるように、また上品なレースのような花びらを舞わせるような、とても素敵な花だな、と素直に思った。
「これね、雑草なんだよ」
「誰かが植えたんじゃ、ないの?」
「そう」
涙は花びらを撫でた。
少しでも触れたらはらはらと崩れてしまいそうなその花を、決して壊さないように。
その瞳には愛おしいものを見つめるような、静かな情熱が灯る。
私には、彼がその花の奥、ここにない何かを見つめているような気がした。
どうしてか、心臓がきゅうと締め付けられる。
私は驚いて胸に手をやって、いつもより少し速い心臓の鼓動を聴いた。
「すごいよね。望まれたわけでも愛情を受けてきたわけでもない。なのにこんなに綺麗な花を咲かせて、休まずそこに立っている。誰が見てくれるわけでも、注目してくれるわけでもないのにね」
涙はそんな私には気づかないまま、花びらをさらりとなでる。
その言葉で我に返った私は、再び花に視線を戻した。
「かっこいい、ね」
「うん......。そうだ。確かツユクサには、素敵な花言葉があったんだ」
涙は視線を上げて、少しの間空を見つめた。それから少し表情を変えて視線を右にやる。
数秒の後、彼は呆れるといった具合で苦笑しながら首を振った。
「あーあ、よく思い出せないや。こういう時に花言葉をすらすら言えちゃうの、一回やってみたかったんだけどな。かっこいいからさ」
「ふふっ」
そんな涙の表情に思わず笑みが溢れる。
また見れた。大人びた涙がみせる、子供っぽいところ。
「月寧も興味があったら調べてみるといい。花言葉。結構ロマンチックなのも多くて、俺は好きだよ」
「うん。好きな花言葉を見つけたら、教えるね」
「それはいいな」
涙はもう一度花びらを撫でてから立ち上がった。
「そろそろ行こうか」
「影間さんのお墓?」
「そう。僕たちには忘れちゃいけない任務がある。もちろんずっと、こうしていられたら良いんだけどね」
*
『影間』
御影石で作られた墓石が、お墓の端っこにぽつりと立っていた。
まるで距離を置かれているように、孤立、させられているようにお墓の周りには不思議な空間があった。
「少し挨拶しようか、月寧」
「うん。こんにちはって、言わないとね」
涙と共にお墓の前に立って手を合わせる。
『こんにちは。弓鶴月寧、です』
目を閉じて、合わせた指先の感覚に集中していると、不思議と胸が沈んでいくような切なさに襲われる。
真っ暗な瞼の裏に滲み出てくる、深い深いブルーの色。
掠れるようなブルーの音色だ。
『あなたたちの家族の、影間灰を、探しに、きました』
影間家は解体された。
ならこの切なさは、彼らからきているのだろうか。
本家に認めてもらおうと奮起して、その本家から捨てられた家。
少しだけ、私みたい、だから?
『もし、そこにいるのなら。灰のために力をかしてください』
じっと祈って目を開けると、涙がほんの少し口角を上げて、私をみていた。
「涙のあいさつ、もう終わってた?」
「とっくに。月寧は随分気持ちを込めていたみたいだね。俺のことは気にしなくていいよ。もう少し話す?」
「ううん。もう大丈夫」
「そっか」
「お墓、残ってるんだね」
他のお墓同様寂れているけれど、影間家のお墓はしっかり残っていた。
どこも欠けることなく、壊されることもなく。
けれど解体されて故郷すら破壊された家のお墓がこうして分家の墓として名を連ねていることに、少し違和感を感じた。
本家の人たちならこういう時、絶対にお墓も壊そうとするはず。
あの人たちなら、それをする。
一切の躊躇なしに。
「ああ、そうだよ。月寧はここの墓守さんを知っている?」
「はかもり、さん?」
うまく変換できない。
「喜多さんと言うんだ。喜多光洋さん。知っている?」
頭の中で、音が鳴った。
「みつひろ、さん。知ってる。覚えてる。いつもここにいた。ここで、見守ってくれてた」
「やっぱり」
涙はほのかに笑う。
「墓守っていうのはね、お墓をいつまでも残していけるように維持管理をするお役目なんだ。喜多さんはここ、待月苑の墓守さんで、喜多さんこそが影間のお墓を守った救世主なんだよ」
言って涙はブルーのかかった空を見上げた。
「去年の夏、息を引き取ってしまったんだけどね」
「そう、だったんだ。みつひろさん、そっか。みつひろさんがこのお墓、守ったんだ、ね」
『みつひろさん! みつひろさん! 今日ね、お母さんとオルゴール聴くんだよ。お母さんのオルゴールなんだ。小さな世界って曲が流れるんだよ!』
『そうかそうか。いいね、つーちゃん。小さな世界、私も好きだったよ。合唱コンクールで歌ったりもしたなあ』
『みつひろさんお歌歌ってたの?』
『そりゃ歌うさ。今でも大好きだよ。昔はねえ、演歌のみっちゃん、なんて呼ばれてねえ。スナックに行けばすぐに歌をせがまれたもんさ? あ、おっといけない。つーちゃんにスナックは、まだ早かったねえ』
私のことを唯一、つーちゃんと呼んで、のんびりとした口調で話す、優しい皺と大きめのほくろが特徴のみつひろさん。
お墓に着いたら一番に挨拶していた。
お母さんと何をするのか、いつもみつひろさんに伝えていた。
みつひろさんは私の話をずっと笑顔で聞いてくれる。
あまりに幸せそうに笑うから、いつかそのふくよかなほっぺたがおもちのように溶けて落ちてしまうんじゃないかと、本気で心配していたほどだ。
私には重いからといつも手桶を運んでくれて、まだ届かないからとお母さんのお墓のてっぺんも掃除してくれた。雑草を抜くのも手伝ってくれた、お花を一緒に選んでくれたこともあった。
お墓での記憶は、いつもみつひろさんと共にあった。
それなのに。
「どうして、忘れちゃってたんだろう」
あんなに大切だったみつひろさんの事、忘れるなんて。
「自分を責める必要はないよ、月寧。君は一度人でなくなったんだ。当然記憶も混濁するし、失われることだってある。そうめずらしい話じゃない。これは機能の問題に過ぎないんだから」
「うん、分かってる。だけどね。忘れちゃいけなかったと思う」
何があっても。忘れちゃいけなかった。
みつひろさんはそれくらい私の中で大きな人だったんだ。会いたかった。
せめて最期くらい、みつひろさんにお花をあげたかった。
「そう」
涙はそれをぽつりと言って、それから、あ、と声を漏らした。
「涙、どうしたの?」
「花瓶がない」
涙がお墓を指差す。花瓶が差し込まれるはずの位置に、ぽっかりと二つ穴が空いていた。
つまり誰かが、ここに来ているのだ。
解体された影間の墓に。
カラン、
何かが落ちる音がした。
金属製の何かが地面に叩きつけられたような、何かがまっさかさまに落ちていったような。
「あの 知り合いの方ですか!」
張り上げたような声が、背後から。
涙が片足の向きをくるりと変えて半身で振り返った。
そこには、スカイブルーの制服に袖を通した青年が立っていた。
花瓶を落としたまま。
その青年の髪色に、思わず視線を奪われる。
綺麗な灰色。
混じり気のない、純粋な灰色だ。
青年は私たちが返事をする間もなく言葉を続けた。
「影間の知り合いの方ですか。影間家を、知っているんですか!」