第十五話
孤独ナ少年ハ、自身ヲ犠牲ニスルホドノ覚悟ヲ持タズ。
無知ナ少年ハ守ラレテバカリデ、幸セヲ疑ワズ。
絡メトル。籠絡スルコトハ容易イ。
サア、早ク願ッテオクレ。
オ前ガソウスルダケデイイ。コチラノ準備ハ整ッテイルノダカラ。
ソウダナ、見タイ顔ガアルトスレバ。
無知ナ少年ノ泣き顔ダ。
*
「灰」
「なあに? にいちゃん」
「今日はどんぐり採集お休みするよ」
「え、なんでにいちゃん、一緒に行こうよ! どんぐり兄弟、九人目の家できてないよ」
「それはさ、灰が作ってやってよ」
「具合悪いの? にいちゃん」
「いいや」
「じゃあどうして? 元気ならいこーよ! ぼく、にいちゃんとじゃないと……」
「にいちゃんな、すっごくでかい枝を見つけたんだ。それを持ってくればどんぐり兄弟みんなが入れるお家が作れる。頑丈で壊れない、安全なお家が作れるんだ。それ、にいちゃんがとってくる」
「僕もいく」
「灰はダメだよ」
「どうして?」
「みんなのこと、守ってやらなきゃだろ」
あの時、どうしてわがままを言わなかったんだろう。
にいちゃんとじゃないと嫌だって、にいちゃんと一緒に守るんだって。
どうして言わなかったんだろう。
いつもあんなに、まだ幼かった兄に甘え続けていたのに。
どうして、
「うん!」
あの時だけは、頷いてしまったんだろう。
*
「月寧。家に帰ったほうがいい。えなさんが心配するよ」
「えなさんは今日、来ないよ」
「……風邪を引いてしまう。月寧に苦しんでほしくはない」
「へいき」
私は抱えていた毛布を広げて、端を涙に差し出した。
そのまま毛布の反対を握って、腰を下ろす。
水色の毛布。
もうすっかり毛羽立って、擦り切れてしまった毛布。
オルゴールとともに残っている、お母さんの形見。
涙と初めて会った場所。
焼け残った風浪宮の本殿。
その裏側で、私は腕と足を思い切り伸ばした。
海に面した絶壁に向けて、どろりと歪んだ星を写す水面に向けて。
「俺の心配はしなくていいんだよ、月寧。月寧のほうが辛い思いをしてきた。神の後遺症だって残ったまま。君はまず自分の身を案じるべきなんだ」
「それは、分からないよ」
「どうしてだい?」
「涙がいってた、罪のおはなし。今のは、罪じゃない、けど。私のほうが辛いかなんて、分からないよ」
「わかるよ」
「分からない、よ」
波が岩に当たっては弾けていく。
その音が、ずっと聞こえる。
行き場のない思いも、一緒に弾けてしまったらいいのに。
弾けたことすら、忘れてしまったらいいのに。
「ふっ」
涙が破顔していた。
口元に手を当てて、くすぐったくなるような視線を私に向ける。
「どうしたの、涙」
耐えられなくて、つい視線をそらした。
陸の見えない水平線、そこに映るブルーと星の輝きに意識を集中させる。
むりやり。
「月寧は変わらない」
「そんなことない」
「いいや変わらない。甘夏と白のこと、君のことだからほのかのことまで考えていたんだよね。君はいつもそうだから。彼らが苦しんでいたら自分のことのように苦しむ。それどころか苦しまない術まで探そうとする。自分のことには鈍感なのに、他人のことにはどこまでも鋭敏で。どこまでも彼らの幸せを追求しようとするんだ」
そういうところ、と涙は笑う。
背中の奥の方から、呼びようのないなにかが顔を出す。
涙に見つめられると、どうにもくすぐったい気持ちになる。
無性にブルーの声を聞きたくなって、毛布を握りしめた。
「それより涙、かけて。毛布」
「分かった。月寧。ありがとう」
涙はゆっくり瞬きをする。それからとても温かい表情で私の目をまっすぐ、じっと見つめた。
いつもみたいに冗談を言ったり、私をからかったりすることなく。
素直に言葉を伝えられたら、どうしていいか分からなくなる。
心臓の鼓動が速くなっていく。頬がほてっていく気がする。
なぜかそれを、涙に悟られたくないと思った。
この音、涙に聞こえてないかな。
顔、赤くなっていたらどうしよう。
私はたまらなくなって布団に顔をうずめた。
その横で、毛布が音を立てた。
涙が水色の毛布を膝にかけたのだ。
毛布、という隔たれた空間の中に、確かな温もりを感じる。
これは、涙の温度だ。
一枚の布で仕切られただけなのに、足以外までマッチで火を灯されたかのように熱くなった。
「あったかいね」
涙は言った。
再び視線を向けると、彼は眼下の町に目を向けていた。
「うん」
「一人で見張っていた頃よりずっとあたたかい。もしかしたら、俺も寂しがり屋だったのかもしれない。ずっとここで、誰かが来るのを待っていたのかもしれないなあ」
他人事みたいにそう言って、足をぶらぶらと揺らして、伸びをして、潮風を吸い込んでいる涙。
手をついて頭上を見上げては深淵の瞳を少年の様に輝かせるその姿は、まるで星に想いを馳せているようだった。
ブルーの向こう。
遠い、遠い場所にいる星たちに。
「たよって、ほしい」
知らぬ間に、声に出していた。
「ん?」
「涙も、頼ってほしい。私にできること、少ないけど、涙の力になりたい」
「元々、俺は君の救世主って話だったんだけど?」
「へんこうする」
「どんな変更? 教えてよ」
「私も、涙の救世主になる」
海を見据えて、私はそう言った。
不思議とその言葉にくすぐったい感触はなかった。
むしろ胸にすうっと馴染んでいった。
ずっと前、ずっと昔から、この思いを抱え続けてきたみたいだった。
それが分かったのは、なんだか嬉しかった。
「そっか。これは頼もしい相棒ができたね」
「うん」
「二人目の願い、見るかい?」
「うん」
涙は紙を取り出した。
紙の枚数は一枚減って、三枚になっていた。
脳裏に浮かんだ昨日、ついさっきのことを思い出す。
甘夏の死に顔、白の死に顔。
手渡される紙は、ただの紙じゃない。
人が人生を懸けて、それでも叶えられないからと託した理想。
初めてこの紙を受け取った時と、心持ちは随分異なっている気がした。
それが良いのか悪いのかは、分からなくても。
白い紙を、涙がなぞる。
滑るように、撫でるような指先は変わらない。けれどその文字を、涙にしか見えないその文字をひとつずつ追っていくように、噛み締めるようなその手つきにもまた変化を感じた。
涙の心に踏み込もうとすれば、閉ざされてしまう。
彼の開いている扉はほんの一部だけで、未だ幾つもの鍵が取り付けられたままだ。
だけど今なら分かる。
涙も私と同じ、何かを感じて、考えてる。
その内容を知ることができなくても、それだけで十分だ。
今は。それだけで十分。
「影間 灰 にいちゃんにあいたい」
文字を見ただけで、胸が締め付けられる心地がした。
甘夏よりずっと子供の字だ。
歪な線で形成された名前の漢字はきっとまだ覚えたてで、『あいたい』とひらがなで綴られたその願いは純情で。
その願いと、そして大きい神さまに願っているというその事実が無情な現実をまざまざと伝えてくる。
きっとこの子も、この子のお兄ちゃんも。
「かげまって、聞いたことないかい?」
「ううん」
「影に間と書いて、影間。晴鶴の分家だよ」
私が首を振ると、涙は頷いた。
「君が知らないのも無理はない。影間が悲劇の家系という名で通るようになったのは、君がまだ神さまの時のことだからね」
「悲劇の家系、って?」
涙は軽く口を引き結んだ。
彼の眉がわずかに寄せられる。
「影間はね、分家によって解体された。根絶やしにされたんだ。本来ならもう、影間の生き残りはいないはず」
根絶やし。解体。
それがあまりに空虚な言葉で、想像することすらできなかった。
「なら、灰はどうして、影間なの」
「推測できる答えは一つだけだね。影間灰はすでに影間家から離れていた。そうとしか考えられない」
「どうして」
「それは、会ってみないと分からないね」
「灰、生きているかな」
「行ってみたら嫌でも分かるよ。肉体に会えたら生きている。かけらの痕跡があったら死んでいる。だけどどちらも先の短い命だからね。俺たちにとっては、あまり大差のない話かもしれない」
「月寧、」
涙は視線を私に合わせた。
その顔つきは、ブルーの影が当たって少し青白く、冷たく見えた。
涙がわずかに毛布をつかむ。
「影間ってさ、他の分家と少し違っていてね。分家の中で格が低い分、上昇意識が特別高かったんだ。本家に認めてもらうために、彼らは貪欲だった。誰よりも貪欲であろうとした。月寧、貪欲っていうのはね、理性を見失わせるんだよ」
「理性を?」
「そう。剥き出しの本能を露わにさせる。そういうのは大抵誰かを傷つけるんだ。必ず、誰かが傷ついてしまうんだ」
影間家。
悲劇の家系。
こぽ
ブルーの泡が弾ける。
「だからね、覚悟をしておいた方がいい。特に君にとっては。これは、神さまの深く関わる話だから」
「うん」
涙は、私が涙の目を見てはっきり頷くまで、視線を逸らさなかった。
深淵の瞳は数秒揺れて、やがていつも通りに、その瞳は静かな宙を映す。
「最悪の予想が当たらないことを、願うばかりだよ」
*
それから一晩、涙と星を見て過ごした。
首が痛くなるくらい見上げ続けた。
涙の指を追いながら、星座を知っていくのが面白かった。
涙と一緒に、あの展望台に行ってみたかった。
望遠鏡のスコープを順に覗いて、月とか火星とか、いろんな惑星について語る。
そんな時が来たら、その時はきっと、時間の感覚なんて吹き飛んでしまうんだろうな。
叶ったら、いいのにな。
「月寧、さっそく影間灰を探しに行こう」
星を堪能したからか、涙は心なしか明るかった。
自重した、どこか寂しげな笑みの見えないその様子に、私は嬉しくなる。
「どこにいるか分かるの?」
その問いに、涙は首を振った。
「俺は神さまそのものじゃないからね。悔しいけど見当をつけるしかないんだ。何せ彼の実家、影間家は解体されている」
「そっか。甘夏の時は家があったから」
「そう。故郷すらないと、まず見つけることに苦労する。これで晴鶴の過ちが増えたね。彼らは願いの紙に、住所と電話番号を記載させるべきだったんだ」
頭の中に、電話番号と住所が追加された願いの紙を思い浮かべてみた。
なんだかそれはもう願いの紙というより書類、お役所みたいに堅苦しく感じられる。
願いなんて到底叶わなさそうだ。
「涙、そしたらどこに行くの? 当てがあるの?」
「一応、ね」
涙はピンと指を立てた。
「分家の墓に行くよ。月寧」