表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さらそよぐ  作者: UrushioN
第一章
15/21

第十三話

「ブルーがよくみえるね」


涙が言った。

それに呼応するように白が呟く。

彼はずっと遠くの、遠くだった頃の話をしていた。


「この鉄塔の上で花火を見る。それが甘夏の願いだった。人気だったんだ、ここ。あまりに並ぶから鉄塔みくじってのができて、甘夏は絶対当てるって意気込んでた。そのためにお守りまで買ったりしてた」


甘夏のことを語る白の目は、やわらかだった。

時折こぼすように見せる笑みは、甘夏のことを愛おしそうに語るその姿は、とても彼女を愛していなかった人には思えなくて。

むしろ彼女のことを愛し続けているように思えた。


なのに。


柵に寄りかかって、どこでもないその場所に目を合わせて、涙を流すことはなく、私たちに目を向けることもなく、ただそこを見つめている甘夏の姿は、彼の目に入らない。

彼の瞳は、甘夏のかけらを映すことができないようだった。


「いつ出たんだい? 少年院」

「つい最近」


少年院。

甘夏の母親から聞いた話を思い出す。

そう。

甘夏の友達を、彼が殺した。

今目の前にいるこの青年が人を殺めたのだ。自らの手で。

何度も包丁を突き立てて。


「ひとつ」


白が口を開いた。


「聞いても良いか」

「ん? どんなこと?」

「君たちの身上、と言ったら良いか」

「ああ、そうだ。そうだ。話すと言っていたね」


涙は四枚の紙を取り出して、指でするりと一枚を引き抜いた。

首を傾げる白の前にかざして見せる。


「紙?」

「そう」


涙は微笑みながら和紙をなでた。

人差し指でなぞるように。初めて出会った時のように。

私たちには見えていない何かが、涙には見えている。

そして彼は私にしたように、白にそれを見せた。

甘夏の心からの願い、そして甘夏を狂わせた願いを。


「一花甘夏。 好きな人に   好きになってほしい」


白は言葉を失っていた。息をすることさえ忘れているようだった。

目を見開いて、細めて、甘夏の願いを詠んで、涙が流れそうになるのを堪えていた。

彼は何度も、浅い息を繰り返す。

震える声で、彼は呟く。その内容が信じられないというように。


「これって、呪われた地の……? 甘夏が、願ったっていうのか?」


私が頷いたのを見て、白は願いの紙から視線を逸らした。

ブルーから漏れ出た夕日の残りが、最後の輝きとばかりに彼の頬を照らす。


「俺は晴鶴の、月寧は分家の人間でね。一花甘夏の願いを受け取ったから、その処理をしに来たんだ」

「……処理?」

「俺たちは彼女の霊体を求めてここに来た。彼女をそのままにしてはおけないんだ。正統な儀式で彼女の願いを処分しなければいけない。生きている人間は死へ、死んだ人間は霊体を葬る。でないと、この町を取り囲むブルーが人を殺すからね」

「霊体、だって」


白の声色が変わった。

彼は反射的に涙の肩を両手で握りしめる。

服に皺がついて、それでも強く、強く強く握る。涙はその手を離そうとはしなかった。


「甘夏は、いるのか」

「霊体だけどね」

「それでも……いるのか」

「いるよ」


涙が頷いて、白の頬から自然に涙が伝った。

彼はそれに気づいてすぐさま拭う。

伝っては拭い、伝っては拭う。

その姿はまるで、決して泣くまいというようで、涙を流すことを許していないようで、白を縛っているもの、その一部を垣間見たような気がした。


「甘夏は、どこに?」


涙が黙って指差した方を、白はぼうっと見つめた。

こぶしを開いては閉じた。そして恐る恐る、腕を伸ばす。

空気が揺れるだけで割れてしまうような、繊細なガラスに触れるように。

空を切った手のひらを、彼はしばらく見つめていた。


「君たちには、見えているんだな」

「月寧には人でなかった時期があるからね」

「方法は、ないのか」

「人間である限りは見えないよ。まあ、そうだね。幽霊にでもなったら別だけど」

「分かった」


「なら、今から死ぬよ」


予想もつかなかった返事に、私は弾かれたように顔を上げた。

けれど、白の表情を見て一瞬で理解する。

彼は冗談なんて言っていない。

本気で、甘夏に会うために、死のうとしてる。

真横の甘夏に目をやった。相変わらず甘夏は一切の反応をしない。

それどころか、こちらの会話すら耳に入っていないようだった。


「それは許可できない」

「君の許可がいるのかい?」

「許可、というより、絶対にしてほしくないことがあるんだよ」

涙は今一度白に向き直る。その表情から柔らかさは消えていた。


「逃げようなんて、思ってはいないよね」


彼がそう口にした瞬間、空気が張り詰めたのを肌に感じた。

一切の感情の揺らぎを許さないその気迫に、瞬間白が気圧される。


「受けてきた非難に、失った信頼に、上下もわからないほど姿を変えた世界から、逃げようとはしていないよね。死を免罪符にしようなんて、思ってはいないよね。楽になろうとは、していないね?」


一切の感情の揺らぎを許さないその気迫に、瞬間白が気圧される。

二人は互いの目を固く見つめ合っていた。呼吸すら許さない沈黙の中で、彼らは言葉よりも多くを語り合う。

沈黙を破ったのは白だった。


「甘夏だけが、違ったんだ。地獄だった世界を、彼女が変えてくれた。甘夏が俺に、生きるって言葉を教えてくれたんだ。だから話したい。どうしても」

「謝っても楽にはならないよ」

「楽になるためじゃない。どうしても、伝えたいんだ。その術があるのなら、どんなものだっていい。ただそれだけだよ」

「君の気持ちを聞いて甘夏は悲しむかもしれない。霊体を穏やかに逝かせたいとは思わない? 君の願いは自分勝手だよ。自分がそうしたいから? 君にとってそんなに命は簡単かい。さっきも言ったけど、甘夏を君の死に場所にしてはいけない」

「簡単じゃない」


白の声がわずかに揺らいだ。


「一生をかけて、彼女に伝えたかったことを、俺は口にしなかった。俺は恐れた。それが甘夏を、皆を最悪な結果に陥れた。何一つ伝えられないまま」

「……側にならいるだろう」

「どうしてもだ」

「側に行って、甘夏は救われるのかい。それがもっと最悪な結果を招いたとしても、君に責任は取れないんだよ」


どんな人も傷つけないように、柔らかな布で包み込むようなその口調が、乱れた。

白に詰め寄る涙の顔は、今にも押しつぶされそうなほど歪んでいる。

まるで白ではなく、涙自身をつぶしているみたい。

口にすればするほど、涙が壊れていくみたい。

どうして涙はそんな、自分を責めるような顔するのだろう。


「甘夏のこと、あいしてるんだよね」


私は涙を遮って、一歩前に進んだ。

白が私を見、そして頷く。

自身の気持ちそのままを純情に吐き出すように、ひとつひとつを大切に綴るように、彼は一拍置いて言う。

海のようにどこまでも、透き通るほど晴れやかな顔で。


「ああ。愛してる。今なら分かるんだ」


人間じゃなくなった私は、愛とか恋が分からない。

心の真ん中にあるのはいつだって埃を被った名前だけで、それがどんな形をしてるのか、もうわからなくなってしまった。

でも。少しわかった気がする。

その想いは絶対に、誰にも止められないんだって。

知らぬ間に動いてるものだって。


ほんものは、死ぬほど純粋なものなんだって。


「甘夏ね、泣いてた。白が離れたの、自分のせいだって。自分のこと、責めてだ。だけどね。私、分かるよ。白は、甘夏をあいしてる。ぜったい、ぜったい、あいしてる」


愛してる、と口にした時、白は瞳を寄せた。


唇を噛み直して、それでも私から視線を逸らそうとしない。


「甘夏にあったら、なんて、伝えるの。おしえて。知りたい。私もね、甘夏に、笑顔になってほしい。泣いたまま、死んでほしくないんだ」

「月寧、それじゃあ彼は死のうとしてしまう」

「涙。白と甘夏はね、一緒にいなきゃだめ、なんだよ」


白は死にたいんじゃない。

甘夏の隣にいたい。ただそれだけ。それだけが、全て。

命を天秤にかける必要なんてない。

だって愛していたら、どうしようもなく惹かれてしまうから。

笑顔になってほしいから。幸せになってほしいから。想いを伝えたいから。

たとえ伝わらないとしても、側で息を感じたい。

そんな強い想いを一体、どんな言葉で止められるというのだろう。


「俺には、心がなくて」


彼は胸元を固く握り締めながら、言葉を紡ぐ。

途切れそうになるのを堪えながら、記憶を再形成していく。

涙は鉄柵に寄りかかって、少し顔を覗かせながらブルーを見上げていた。

深く眉根を寄せるその顔が崩れることはなかったけれど、話を遮ろうとはしない、

静かに、ただ耳を傾けている。

「喜び、悲しみ、怒り、寂しさ、全てが俺にはない。あったかもしれないけれど、それは形だけだ。俺はただ辞書で知っているだけ。上部の言葉しか並べられない人間だった」


少しだけ、その気持ちがわかる気がした。

私も「怖い」を感じられないと言われたから。

けれど喜びも悲しみも、怒りも寂しさも。彼がないという全てが、私にはある。

忘れてしまっただけで、わからなくなってしまっただけで、きっとここにある。

彼の辛さは、感じてきたことは、とても想像しきれない。


「ずっと、誰かの代わりに生活しているようだった。それは確かに俺の周りで起こっているのに、まるで別の世界の話みたいだった。俺はそれを膜だと思っていた。薄いけれど破れない。どんなに殴っても、決して破れない。そして俺は、その膜を破ったら良いのかすらも分からないんだ」


白はブルーに視線を移した。


「母は常に俺を恐れていた。俺にとっての正常は、母にとっての正常じゃなかった。そして母の正常は、みんなの正常と同じだった。だから何度も母を失望させた」


白は涙に似ている。

自重するその話し方も、何もかも。

自分を刺すようだから、それがちくちくと痛む。

白の唇がわずかに震えた。


「ある日言われたんだ。悪魔って」


『うそつき』

あの人たちの声が現れた。

私はあれを悲しいと思った。

きっと悲しいと思ったから胸が傷む。

傷跡を掻き回すように、じくじくと痛む。

「悪魔」と言った白の声が重なった。

過去を語る白の声はまるで無機質で、変調のない、事実を語る機械のように感じる。

きっと彼は今でも分からないのかもしれない。

泣くことの意味を、悪魔と言われる所以を。

それを分からず、分からないと遠ざけられる気持ちは、一体どんな形をしているんだろう。

それすらも悲しいと思えない彼の痛みは。

痛みを感じない痛みは、一体どれほど痛いのだろう。

涙は。

彼はどう思っているんだろう。どうしてあんなに怒ったんだろう。

そう。白だけじゃない。私は涙の痛みだって、その感じ方だって知らない。


「だけど」


白の表情が明らかに変化した。

針のように尖った何かが丸くなった。

降り積もる空気が一瞬で融解して、舞い落ちる速度を緩めた。


「校内に展示されてた絵を見た時、俺は初めて泣いた。青空の元、身を寄せ合っている男女の絵だった」

「それで、甘夏に、さしえ?」

「ふっ」


白は笑みをこぼした。


「恋愛を知ったら、愛が分かる気がした。愛を知ったら、俺は人になれる気がした。慣れない文章なんて書いて、俺は彼女に近づいた。心ない悪魔の作品を、彼女は読んでくれたよ。丁寧に読んで、何度も頷いて。原稿用紙にひとつだって皺を入れないようにしてさ」


ひまわりのような笑顔。常に太陽と共に輝いた笑顔を見せる彼女が原稿を読む姿を想像した。

きっと微笑みながら、喜びの感情を噛み締めながら。

その表情が、容易に想像できる。

白と過ごす日々を、彼女は宝物のように愛していたから。


「彼女の真似事をすれば、彼女のように作品を愛したら、いつか人を愛せる気がした。人間になれる気がしたんだ」


白が小さく息を吸う。


「だけど、甘夏に対して抱くものが、愛かもしれないと思った時。急に、全てが恐ろしくなった。いつかこの感情を失ってしまうかもしれない。俺と甘夏の正常が、違ってしまうかもしれない。純情な彼女の時間を、こんな悪魔が占領していいのか。言われたくなかった。他ならぬ彼女には、」


それは白の、悲痛な叫びだった。


「悪魔だって、言われたくなかった」

「それで、甘夏を遠ざけたんだね」

「涙……」


涙がそこで初めて口を開いた。

白を試すようだった。けれどその表情は、白を嫌悪し遠ざけるものじゃない。

涙は白に近づこうとしていた。その真意を知りたがっていた。


「遠ざけたつもりはなかったんだ。けど、俺から離れた方が甘夏は幸せかもしれないと思ったら、もう、止められなくて。いつか甘夏を傷つけるかもしれない恐怖の方が、大きかった」


白の頬を涙が伝った。


「何も決められずにいたから、俺は甘夏を、みんなを傷つけた」

いくつもの白が、揺れているようだった。それを制御できないことに、ひとつにまとめられないことに、彼は憤っていた。


「結局俺は、悪魔だったから」

「君は抱え込んでばかりだね。本意を彼女に伝えようともしないで、傷つけていただなんて傲慢だよ」

「そうだ。だから伝えたいんだ」


「彼女に伝えたいのは、甘夏に伝えたいのは」


『愛してるってことなんだ』


彼はそう言った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ