第十二話
「甘夏、どこ、いっちゃったのかな」
坂道を降りながら、ぽつりと口にする。
こう呟いたら彼女が出てきてくれないかと期待する。返事は聞こえない。
遠ざかっていく校舎を眺めて、涙は言った。
「君が会えたのは、あそこが彼女の死に場所だったからだよ。そして、君が見たのはかけらの記憶だ。一花甘夏のかけら。君は一度、確かに彼女に触れたんだ」
「もう、あそこにはいない、の?」
涙は頷いた。
「君の手を引いて、どこかへ移動したんだろうね。かけらにも色々種類があるんだよ。一点に留まる者もいれば、思いのままに漂う者もいる。彼女は後者かな」
「なら、もう一度かけらに会えたら、そしたら甘夏を救える? あ、救えるっていうのとは、ちがうんだっけ……」
「そうだね。次に会ったらそれが最後だ。君にだけ背負わせることはしない。必ず儀式を終わらせるよ」
殺す、と涙は何度も口にした。
涙を流す人を見た。殺された人の、慣れ果ての姿。
甘夏はすでに死んでいる。彼女の願いが不幸な形で叶えられた可能性は限りなく高い。
本当に、本当に限りなく。真実に近いほど。
彼女はもう、どんな手を尽くしたって、救われないのかもしれない。
視界の端に緑色の掲示板が目に入った。
金属の柱二本で立っているその掲示板は、もう内容を更新されている様子もない。
柱は錆びついていて、わずかな風でメッキが簡単に剥がれていく。
その中に、一際目を引くポスターがあった。
導かれるように、自然に足が動く。
瞬間、涙の冷たい手のひらが触れる。右腕を強く引かれた。
振り返ると、涙は掴んだ右腕にじっと視線を落としていた。
辛そうに下された眉に、かすかに引き結ばれた口元、ブルーの影が彼の頬で揺らめいている。
「また一人で危険なことをするつもり?」
危険なこと。
飛び降りた私を助けてくれた時の、涙の顔が浮かんで、重なった。
「ううん」
私はほほえんだ。
涙には、笑っていてほしい。
そんな不安そうな顔、してほしくない。
「ちがうよ。涙。あのポスターをみたいの」
「ポスターって?」
首を傾げる涙のもう一方の腕をつかんで、掲示板の前まで彼を引っ張っていく。
「これ……」
涙の口角が自然に上がる。
彼はポスターを見、私を見、顔を輝かせた。
「すごいよ月寧。これで時間短縮だ」
涙の笑顔に嬉しくなって、喜んでもらえたのがなんだかくすぐったくて。
けれど、時間という言葉に胸が痛む。時間。
そっか、時間、だったね。
『晴鶴町花火大会 開催! 二○十六年 八月十五日』
「二〇一六年か」
「時間、とまったままみたい」
「だね」
私の言葉に、涙は頷いた。
ブルーができて、晴鶴町に閉じ込められてから、五年。
当然花火大会が開催されることはなくなった。
電気も、テレビも、人の一切の出入りを禁じるここは、何もかもが止まったままだ。
ブルーの外は、変わらず進んでいるはずなのに。
「君はさ、行ったことあるの?」
「うん、ある、みたい。でもおぼえてないんだ。お母さんが生きてた頃にね、みんなで行ったんだって。だけど、私が花火で大泣きしたから、すぐ、帰らなきゃいけなくなったって」
「それはえなさんに聞いたのかい?」
「ううん。お母さんの日記でよんだの」
「お母さん、日記を書いていたんだ」
「うん。毎日読むの」
命の線が切れる日までの間、毎日のように書かれていた日記。
それは私にお母さんを教えてくれた。写真の中だけだったお母さんを、もう誰も教えてくれない、お母さんの姿を。
「ねえ、涙。八月十五日って、今日だよね」
「そうだね」
「じゃあ、ほんとなら今日の夜、花火みれたのかな」
『午後六時から六時三十分まで』
もし、ブルーがなかったら。三時間後。
開催場所の雲鶴神社で、大輪の花火が夜空に咲くのを、みんなで一緒に見上げていたんだろうな。
「行ってみる? お祭り」
涙がいたずらに口角を上げて、肩をすくめてみせる。
差し出されたその手に、迷いなく触れる。
「うん」
今夜、花火は上がらない。
誰が空を見上げることもない。賑やかな声も、聞こえない。
けれど。
もう、目指す先は決まっている。
甘夏は白と一緒に花火を見ることを願った。
そこはきっと甘夏にとって、想いの強い場所。
甘夏のかけらに、もう一度会えるかもしれない。
*
見渡す限り一面の海に、境内いっぱいに腕を広げて伸びをする。
潮の香りがするのが心地良い。
空はブルーのせいで薄暗くぼやけて見えるけれど、目を閉じれば甘夏の描いたあの絵が溶けるように浮かび上がってくる。
ブルーがなければ、ここはきっとこんな眺めなんだろうな。
あの鮮やかな青をまぶたの裏に載せて、想像する。潮の香りが一段と強くなった気がした。
「寂しいね」
「……うん」
海に面した神社、雲鶴神社。
そこに、人の姿はない。
生き物の気配すらしない。
あの掲示板と一緒。ここも寂れていく。
少しずつ少しずつ海に溶かされて、やがて錆びて消えていく。
ただ、その途中。
「どうして、誰もいなくなってしまったの」
「雲鶴は君と同じ。晴鶴の分家でね、彼らは大御神を過度に恐れた。皆殺しになった本家のように、自分達もそうなることを危惧したんだ。結果彼らは晴鶴と足を切って、神社も捨てた。今頃どこでどんな暮らしをしているのか、俺には想像もつかないよ」
もう一度境内を見回す。
雲鶴の人たちに捨てられた神社は、さっきよりももっと寂しい光景に見えた。
置いて行かれた悲しみが、建物ひとつひとつから伝わってくる。
その息遣いが聞こえる気がした。
「月寧。何か気配は感じる? 甘夏の声は聞こえるかい」
「ううん、聞こえない。ごめん」
涙が私の頭をわしゃわしゃとなでた。
「謝る必要なんてないよ。そうだ、少し回ってみようか。何か気になるところはある?」
「あれ」
私は即座に指をさした。
境内の奥。背の低い木に周りをすっかり囲まれながら、たった一本。鉄塔が立っていた。
ひとり、大きく飛び出して、ひとり、とても寂しそうで。
真っ白な体にブルーの揺らぎを反射するその姿に、なぜか強く惹かれる。
「あの鉄塔かい?」
「うん」
涙は少し驚いたようだった。
「君は本殿とか社務所に行きたがるかと思った」
「それも見たいけど。気になるの」
涙は鉄塔のてっぺんを見つめて、ふっとこぼすように笑った。
「うん。少し分かる気がするよ、月寧の気持ち。行こうか」
肩を並べて、歩き出す。
「涙、今なんじ?」
「五時四十五分だね」
「じゃあ、もうちょっと、だね」
「そうだね。時間になったら鳥居の前で花火を見ようか。上がるはずだった花火を見よう。ブルーに覆われて見えないけれど、二人で」
「うん。みる」
小石で作られた小道を、涙と歩く。
こぽこぽこぽこぽ
ここはブルーの声が少し遠い。
遠いから、息の音と、こつこつと石を蹴る音がよく聞こえる。
振り返るとブルーはもう木に隠れてしまっていて、わずかな隙間から見えるブルーは色を深くしていた。
もう時期夜が来る。
ブルーの夜。
花火の夜。
鉄塔の足元が見えてきた。
涙の顔に影がかかって、顔を見上げても表情が分からない。少し元気がないようにも感じる。
だけど涙は言っても絶対に認めようとしないし、言ったら離れてしまうような、そんな気がする。
だから言わないままでいる。
「この鉄塔はもう使われなくなったみたいだね」
「分かるの?」
涙が少し屈んで、頭上を指差した。
「ほら見て、あそこ。電線も断ち切られて、たった一本だけ残ってる」
「どうして残ってるの?」
「うーん、そこまでは知らないな。だけど、そうだね。残したかったんじゃないのかな。きっとこの鉄塔はここの景観に必要だったんだ」
「じゃあ、ひとりじゃないんだね」
「うん? ひとりって?」
「雲鶴神社は、ここにある。お世話してくれる人、いなくても、ここにある。ずっと一緒。この子、ひとりじゃなかった。よかったね、涙」
「ああ。そうだね」
涙は一瞬眉を上げてから朗らかに顔を寄せる。
その口が何かを紡ごうとした時、彼は突然足を止めた。
「誰だ」
張り詰めた声で、涙は前方を警戒する。
私の前に腕を伸ばして、何かから守ろうとする。気配が感じられなかった。
けれど数秒もたたずして、鉄塔の前。その陰から、誰かが姿を現す。
心の中の甘夏が叫んだ気がした。
もう彼女は、私の中にいないのに。
「しろ」
口にした瞬間、彼は大きく目を見開いた。
ああ。同じだ。
美術室で見た彼と、同じ。
鋭い中に、優しさがあって、
「どうして、俺の名前」
ちょっとぶっきらぼうな口調で喋る男の子。
感情表現が苦手で。だけど、とても素直な男の子。
ああ、彼だ。
言葉よりも先に気持ちが先行して、うまく話せない。
甘夏が。甘夏はね。
彼女のかけらが見つかる前に。
儀式が終わってしまう前に。彼女の気持ちを、早く。
声にするより前に、涙が口を開いていた。
腕を下げて警戒をといた涙は言う。
「君が、月島白なのかい」
「そう」
返す声は、あたたかい。
けれど彼は、甘夏の記憶と異なっていた。
「ごめんなさい。生きていて。俺なんかが生きていて、生き続けていて、ごめんなさい」
私たちの正面に顔を向けて深く頭を下げる。
深く、深く。じっと。
「甘夏の友人の方、ですよね。ごめんなさい。俺のせいです。甘夏が死んだのは、亡くなったのは全部、俺のせいです。謝っても変わらないのは分かっています。だけど俺は。俺、は」
彼はそこで、言葉を辞めた。
「いつもこの先が、言えなくて。うまく、言い表せないんです」
頭を下げたまま、彼は言う。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
「あの、頭、あげて?」
「いいえ。下げさせてください」
「そうじゃ、なくて……!」
焦る私の代わりに涙が丁寧に伝えた。
「僕と月寧は、一花甘夏さんの友達ではないよ。知り合いでもない。顔も、写真上でしか見たことがない。赤の他人なんだ」
「えっ」
彼が反射的に顔を上げて、何度も目を瞬かせた。
「僕らに頭を下げる義理はないんだよ、白」
「じゃ、じゃあ誰なんですか……? どうして俺の名前と、甘夏の名前を?」
「願いを託されたからね」
涙は目を閉じて、そう言った。
何かを奏でるように、そう言った。その一瞬に、多くの色が隠されていることを、知っている。
「少し上で話さない?」
「上?」
「そう。敬語なんか使わなくていい。君の楽な話し方でいいからさ」
「ですが……、でも、なんで」
「君、ここに登りにきたくてきたんでしょ。この鉄塔の上で花火を。約束していたんだよね。君の好きな人、一花甘夏と」
彼はもはや言葉にできない様子で、口を押さえた。
瞳がわずかに潤んで、彼はそれを必死で耐えていた。
その姿に、どこか心が落ち着くような、私はほっと息をつく。
「どうして……どうして」
彼は小さな声で繰り返す。
「それは上がってから話そう。見晴らしの良い場所の方が気分がいい。何より、大切な話は、大切な場所でしたくないかい?」
涙が白に先を譲って、その後に私が続いて、はしごに手をかけようと上を見上げた時。
あ。
鉄塔の上。小さな見晴台の、その場所に、甘夏がいた。
群青色のセーラー服が風に吹かれて、さらさらとスカートが靡く。
甘夏は手すりにもたれて、どこか遠くを見つめていた。
かけらだ。甘夏のかけらが、いる。
振り返って涙を見る。指をさしてもいないのに、彼は頷いていた。
そのしぐさだけで分かる。
ああ、涙は知っているんだ。
もう知っているんだ。
だから、白を。
あの場所に、連れていくんだ。