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さらそよぐ  作者: UrushioN
第一章
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第十一話

「月寧!!!!」


青年は私の名前を呼んだ。

どうして。一度も名前、名乗っていなかったのに。

必要ないと思ってたのに。

あなたは私のこと、君って呼んでいたのに。


「涙!!」


かじかんだ唇は、彼の名前を呼んでいた。

ひび割れた唇が痛む。

それでも彼の名前を呼んでいた。

彼は私の声を聞いて、笑う。

ふわりとした笑顔だった。

涙が溶けてしまいそうだと思った。

彼の姿が、どんどん近づいてくる。その手が、私を包もうとそばに寄る。

彼は泣いていた。


「泣いてるの?」


涙の涙なんて、最期まで見ることはないと思っていた。

そう言うと、涙はもっと表情を緩める。

彼はうん、と頷く。彼の涙が私の頬にこぼれた。

あたたかい。あたたかいのに冷たい、涙の涙。

彼の指先が、私の背に触れた。


「涙、このままじゃ死んじゃう。あなたが。あなたが死んじゃう」


飛び降りたのは、私なのに。


「君を守るためだよ」

「涙が死んでまで?」


涙はそこで笑った。


「君は不思議だよ。自分は死んでもいいと思ってるのに。俺の心配だけはするなんて」

「だってそれは……」


涙は口の前にしいっと指を立てた。


「俺が死ぬのが嫌なら、もうおしゃべりしている時間はないよ」


地面が、迫っている。


「大丈夫だから。君は安心して見ていて。大丈夫。今の君には、希望がいるから」


涙は目を閉じた。


どくん どくん どくん どくん


ブルーの音が変わった気がした。

同時に、涙のあざが鼓動のように揺れていた。

ちりちりとした熱が、涙のあざをなでていく。

尋常でないものが、動き出す予感がした。

涙の顔色が、みるみるうちに変わっていく。青く、青白くなっていく。


「涙……?」


まるで深い眠りに落ちているように。私の声の一切が、届いていないように。

めりめりと、急速に木の幹が成長するように、彼の頭から角が生えていった。

角が枝を伸ばすごとに、そのてっぺんをブルーに届かせるごとに、頬のあざが消えていく。

しゅうと吸収されるように消えていく。

あざがすっかりなくなった時、立派な角がそこにあった。

視界を埋め尽くすような、大樹のように枝を伸ばした角が。

ブルーの音が、静まっていく。

ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ

涙の瞳がゆっくりと開く。深淵の瞳は少し闇を増している気がした。

こちらを見て微笑んでいても、涙ではないなにかがそこに住んでいるみたいだった。


「着いたよ」


私を抱きしめる力が強くなって、ふうと息遣いが聞こえた時。

全身の力がどっと抜けて、はっきりと重力を感じた。

痛みはない。空中に投げ出された私の身は、涙によって救われたのだ。

涙が、ゆっくりと私を抱き起こす。

ブルーはもう、はるか遠く。鳴き声も掠れるほどにしか聞こえない。


「立ち上がれる?」


涙が私の顔を覗き込んだ時、思わず目を凝らした。

あざが元通りになっていた。

あんなに大きかった角も跡形もなく消えている。

晴鶴は人でなく、鹿から派生した妖の類。

涙の言葉を思い出す。

私も晴鶴の分家で、同じ血は引いている。

けれどあの時の涙の姿と、そして当たり前のように姿形を変えられる涙は、私とは全く別の存在に感じた。触れてはいけない聖域のごとく、どこか神秘的で。

まるで、風浪宮のよう。

私は小さく、涙に見えないように深く息を吸った。

どうしてか分からない。

なぜか、こういう気持ちになるのはとても苦しい。息を止めて、頭を揺さぶって、全てを止めたくなる。


「さあ、ここを出よう」


私は差し伸べられた手を掴んだ。

「うん」



「もう二度と、あんなことはしないで」


神妙な面持ちで涙は言った。


「ごめん、なさい」

「謝らなくていい」


涙はそう言って、ほんの少し顔を背ける。


「涙?」


顔を覗き込もうとすると、彼は口を開いた。


「君は、叫んでいたよ。何度も何度も。すがるように、ごめんなさいって。見ていられなかった」

「……そう、だったんだ」


思えば何かを発していた気がする。

仕切りに同じ言葉を、繰り返していた気がする。

ごめんなさい。声を発さず空っぽの言葉を口にしてみる。

重力を持たない透明のごめんなさいが、風に運ばれて消えていく。


「何か思い出していたの? 神さまの頃の話」


涙が私を見る。

どこか潤んだその瞳が数秒私を捕らえて、瞳孔が陽炎のように揺らめいた。


「いいよ。いいんだ。君の傷を抉るつもりはない。もう君に、月寧にあんな顔させたくない」

「ううん」


涙が綿毛のように離れていってしまいそうだったから、私は焦って言葉を紡いだ。


「うそつきって言われてたことを、思い出したの」

「月寧は嘘つきじゃない」

「ううん。何回も、言われた。晴鶴の人、たちに。みんな、そう言ってた。私は、うそつき。うそつきで、非力。本当なの」


そよ風が私を撫でて、そして涙を撫でて、涙は言った。


「君、恐怖って分かる?」

「きょう、ふ」

「分からない?」


涙はとても悲しそうな顔をした。


「なら、こわいは分かる?」


頭の中でこわい、 という言葉を反芻してみた。

その言葉を聞いただけで、脳天にかけて虫が這いずるような感覚が伝染していく。

その理由がわからなくて、わからない自分がいることが余計気味悪くて。

私の知らない、宇宙よりも外にいる何かが突然腹をえぐってくるみたいで。

私は激しく首を振る。


「わからない」

「言葉まで分からなくなるとは予想以上だ」

「私はこわいがぬけてるの?」

「当たり前」


涙はこぼすように笑った。


「突然崖っぷちまで連れていかれて人の腕一本に自分の命を委ねる。フェンスを飛び降りる。普通だったら発狂してるよね。もしくは泣き叫ぶか。いずれにしても君の反応は、ない」

「そうなんだ」


心に思い当たる節がなくてうまく頷けない。

こわい、こわい。

確かに触れている気がするのに。どこにあるのか分からない。

今の私には手を伸ばしても到底届かない気がした。


「神になった後遺症なのかもしれないね」

「それも?」

「そう。人でなくなるというのは、それほど失うものが多い。まったく、君から片時も目を離してはいけないってことがよく分かったよ」

「ごめん、ね」

「謝らなくていいって言ったろう?」

「そっか。そうだった」


涙は膝に頬杖をついて、そんな私の様子を見て苦笑した。


「もう一つ聞かせて」

「うん」

「飛び降りたのはどうして?」

「甘夏に、引き寄せられたの」


まだじんじんと焼けつく腕を抑える。

当然なのか、必然なのか、傷跡はない。

食い込んだ爪の跡も、赤いあざだってついていない。


「甘夏だって?」


涙は目を見開いた。私は両の拳を握りしめて口を開く。


「うそじゃないよ」

「いいや疑ってるわけじゃない。少し驚いただけだよ。そうか。もしかしたら月寧には、人の想いを引き寄せる才があるのかも」


涙はゆっくりと表情を綻ばせる。


「甘夏とは会話を交わしたのかい?」

「ちょっとだけ。涙。私ね、甘夏の記憶を見た」


彼の目が、細められる。少しだけ、声のトーンが低くなった。


「どんなこと? 教えてよ」

「好きな人に 好きになってほしい。あの願いの相手はね。白。月島白だよ」


私は涙に、全てを伝えた。

きっと、上手に話せなかった。

精一杯の言葉を使っても、それは甘夏の気持ちを表現するにはほど遠い。たとえどんな言葉を選んでも。

涙はじっと、聞いていた。

夕凪のように静かに、私が言葉を紡ぐのを待って、時々、何かを思うように空を見上げていた。


「月島」


ぽつりと呟くように、彼は言う。


「風波の悲劇。その殺人犯か。ねえ、甘夏は他に、なにか言っていた?」

「あ。花火、いっしょに見たかった、って」

「そう。花火ね」

「うん」


口にするか、少し戸惑った。湧き上がってくる気持ちに戸惑ったから。

だけど、どうしても伝えたくなった。

どうしてか、わからないけれど。


「甘夏はね、白のことが大好きだったの。たとえ白がどんな白でも、白を愛していた。白といる全ての時間が、甘夏にとっては大切で、尊くて。ずっとそばにいたかった」


無性に頬が火照って熱い。

だけど涙に、少しでも多くの甘夏を知って欲しかった。

まるで自分のことのように感じた甘夏の気持ちは、もう私の中に染み込んでいる。

月島白。

それが彼女の恋人。

愛した人。

愛したかった人。

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