プロローグ
鹿は主人の帰りを待っていた。
それは鹿にとって、幸せな時間のはずだった。
主人が笑顔で帰ってくるのを、獲物を片手に帰ってくるその姿を、鹿は心待ちにしていた。
雪に足跡をつけて時折飛び跳ねたりして、もしあそこにいるうさぎを狩ることができたなら主人はどれほど喜んだ顔を見せるのだろうと、そんな妄想をしながら。
夜になって、朝が来た。
朝が終わって、夜が来た。
朝が始まって、夜が終わった。
暖かな焚き火も、主人の座る丸太も空のままだった。
もしかしたら、獲物を得るのに手こずっているのかもしれない。
鹿は主人の帰りを待った。
どんなに空腹でも、立ち続ける元気がなくなっても、待てと言われたその場所で、待ち続けた。
鹿は旅に出ることを決めた。
主人を探す、遠い遠い旅に出た。
時には山を降りて、村人に叩かれながらも主人を探した。
とある村に、主人がいた。
主人は、笑っていた。
自分の知らない女と子供を抱えて、楽しそうに笑っていた。
それは紛れもなく鹿の主人なのに、主人は鹿を待ってはいなかった。
帰る場所がなくなった。行き着く先が、なくなった。
どうして。
何がいけなかった。
鹿は考え続けた。
そして気づいたのだ。
鹿が無力だから。一匹のうさぎも狩れないから。
主人と言葉を交わすことすらできないから。
鹿は捨てられたのだ。
消失と絶望の中で生まれた執着は鈍色で、やがて禍々しい漆黒へと変貌してゆく。
鹿は気づく。
誰も持ちえぬ強い力を持って、それを権力という鎖で縛ったのなら、きっと鹿は一人ではなくなる。鹿の周りは仲間で絶えなくなる。皆が鹿を崇める。何代先も、きっ
と、ずっと。
自分に必要なのは、神なのだと。
「ハツル」
自分を呼んでくれるその名はもう、待っていても得られない。