15 帰らないで!帰ってきて!
喫茶むらさめ ーエミル・D・アサネー
マヤのRAー17の機能拡張を請け負ってから1週間ほど過ぎた。ほぼ作業は終えて、マヤに納品できる状態になったから、今日は飲みに出てきた。
まぁ、俺は一人静かに飲みたい口なんで、喫茶むらさめに足を向けたというわけだ。
夜は、マチルダが店を開けている。
昼の光差し込む爽やかな花壇の香りがするよような雰囲気のむらさめとは違って、夜バージョンはカウンターテーブルの木目が磨きあげられて紅く光り、多分引き出しになっているのか、奥の棚にはボトルがならぶ。ああ、これはこれでいい雰囲気だ。
マチルダの筋の通った鼻に尖晶石のように流れる前髪を見ていると酒が上手くなるのも事実だ。
「はい、おススメの五月祭の王よ。」
マチルダが差し出す細い指先のグラスには、春らしくやや紅みのある冴えた藤黄の酒が注がれていた。
口をつけてみる。うん?これはメントで香りづけされているのかな。爽やかな緑の風が吹いたようだ。
緑の帽子・・・ロビンかぁ。そういや昔、子ども達にロビンフッドの話をしたことがあったっけ?ああいや、ピーターパンか。帽子でごっちゃになってるな俺。
いけねぇ、もう現世の記憶が曖昧になってきたのかなぁ。
俺がいなくても、娘は大きくなって結婚して・・・孫とか生まれんだろうなぁ。ピーターパン、孫には読んでやれねぇな。
俺がいない世界線。勝手に動いていきやがる。娘の顔、もう触れねえか?もうおばちゃんだろうがな。
まぁここの酒で、明るい気分にさせてもらおう。機嫌良くしておきたいしな。
呼び鈴が鳴った。
「ここ、いいかい?エミル?」
銀の鎧に立派な剣。それ以上に魅力的なのはご本人様だ。腰まで黒紅のストレートの髪が美しくたなびく美女。彼女の名前はルシーナ。名前はこの世界の月の女神になぞれえてだぞうだ。
そして、この女性はなにを隠そうこのラーナリで数少ないS 級冒険者ってやつだ。・・・俺の元同僚。
実力はこの娘の方が数段上なんだよな。しかも複数の宝保持者。
そりゃ、こんなのがいれば、俺がいなくても仲間は回るわな。
「先生、私にも同じのちょうだい。」
ルシーナはマチルダを先生と呼ぶ。なんでも彼女に剣術を教えたのはマチルダなのだそうだ。
「おい、大丈夫か。そもそも酒飲めたのかよ。」
「わたし、これでも23になったのよ。」
あれ、ハタチくらいじゃなかったっけ?しかし、なーんか日本人顔なんだよね。この土地では珍しく。懐かしいな、なんだか。
「で?花のS級冒険者様が何の用だい?」
横からスッと五月祭の王が差し出された。
「用がなきゃ、来ちゃいけないのぉ?」
ああ、こりゃめんどくさい。帰ろうかな。
「あー、これ、おいしー!さわやかぁー。」
おい、本当にS級冒険者様かよ。普通の女の子じゃないか。ま、いっか。
それに、せっかくいい気持ちになってるのに、野暮な話もないだろう。
俺は少し付き合うことにした。おいおーい、ペース早くないか?
息子と違って、娘と飲んだらこんな感じなのかな?前世と現世の年を足したら俺、中身オジサンだもんな。でも・・。
「美味いか。」
「うん。」
やっぱり女の子は美味しいもの飲み食いしてる時が一番カワイイな。こっちまで嬉しくなる。
いっぱい、あの子達にもおいしいもの食わせてやりたかったな。
いくつになってたとしても、娘は娘。一緒に過ごす時間が無くなったのが一番・・・堪えるな。
よっし、明日は多分マヤが来るし、早めに帰るかぁ!
俺が帰ろうとすると、服の裾をハッシと捕まえられた。
「帰らないで!帰ってきて!」
え?なんですと?なんと難しいことを。
「エミルがいないと、わたし困るぅ~」
アレ、寝てやがら。困ったもんだな。
「マチルダ、頼むよ。」
「ああ、奥の部屋に寝かそう。悪いが抱っこして連れてきてくれるか?用意するから。」
俺は仕方なくルシーナを抱え上げる。軽いな。これなら足が少し痛いくらいでも連れていける。
奥のソファーベットにルシーナを寝かせることにした。
「少し、鎧を緩めておこう。私がやるから。」
マチルダが、鎧の窮屈そうなところを緩めていった。
すると、ルシーナの胸元から何か落ちた。
これ、俺のだ。俺のお守り。10年ほど前、とある少女にあげたもの。
戦場での出来事だった。
「やっと、一緒にいられると思ったのに~」
そっか、約束があったな。今度、素面の時に話をしよう。気がつかなくて悪かったね。
戦場で抱えて逃げたあの泥だらけの少女がこんなに強く綺麗になって傍にいたとはな。
「マチルダ、勘定置いておくよ。またな。」
お守りをルシーナの剣に引っ掛けて、俺は店に帰ることにした。