第86話 スタンピード対処
オデットという女性については、この記録を認めている現代の私でさえも理解できていない点が多いのです。
いつでもほがらかな笑顔を浮かべ、愛想がよく、市井の誰からも好かれ、顔の広い『冒険者の斥候役』としてのオデット……
やはり市井に出て情報を集めつつ、しかし『王妃オデットが城下に』などと評判にならないぐらい正体を偽装し、精霊王捜索隊という部隊を率いる、隠密頭としての顔までもつ、『王妃』としてのオデット……
そうして妻たちのあいだでは、一種独特な立ち位置であり、他の妻からある意味で敵視され、警戒され、オデット自身もほかの妻と積極的に仲良くしようということはないけれど、それでも感情によって情報を出し渋ったりということもない、『仕事人』としてのオデット。
後年になって、妻の中で唯一子を成そうとしなかった彼女と、そのあたりについての話をする機会がありました。
そうするとオデットは珍しく困ったようになり、たっぷりと時間をかけて言葉を整理してから、口を開いたのです。
「子どもがほしいとか、家庭を持ちたいとか、そういうことが、あたしにはよくわからないんだ。人並みの幸せっていうのかな。そういうのがどうにも、肌に合わない。あたしは宝が宝のまま輝く姿を見ていたいだけで、それを無理に自分のものにしようとする連中が嫌いなだけ。でも、『こいつが嫌い』というだけじゃあ、そいつの邪魔をする理由にはならないだろう? あたしには人生でたった一つの宝があればいい。それ以外に望みはないし、毎日見ていても飽きない宝ならもう持ってるから、誰かと争うのが面倒くさいだけなんだよ」
おそらくそれは、彼女の生き様を知るうえで重要な意見のように思われます。
もっとも、私にはやはり、理解し難い部分が多く、『つまり、どういうことか』というのを簡単にまとめられそうもないのですけれど……
この当時、オデットはやはりシンシアと明らかに折り合いが悪く、ルクレツィアやアスィーラとも相性の悪さがあったようなのですが、それでも、情報の出し渋りということは、なかったのです。
すなわちスタンピードの発生とそれにまつわる顛末は、精霊王捜索隊を通してシンシアにまで伝わりました。
ここで海の領域に滞在していたシンシアが行ったのは、冒険者組合の糾弾なのでした。
そもそも冒険者組合はスタンピード発生を阻止するために結成された組織であるというのに、雪の領域最大の国のスタンピード発生を阻止できないどころか、その予兆さえ見逃していたのです。
たしかに食糧難に端を発する人員削減ではあったのですけれど、それは冒険者組合がたくわえた財により支援してでも人員を維持すべきであり、事務局員でもない一国の王妃に頼り切って人員を減らすなど言語道断で、それは冒険者組合としての理念に反し、役目を十全にこなすことを放棄した許し難い行いである、そういうことを告げたようでした。
この『魔女の檄文』と呼ばれるものは文書としても残されており、冒険者組合本部のみならず、各領域の主要支部にまで送られ、その写しが精霊王城に保管されているのです。
そしてシンシアはとりあえず海の領域の冒険者組合事務局に『雪の領域における冒険者に向けた食料・生活支援』を呑ませました。
あの腰の低そうでいて、その実まったくこちらにおもねることのなさそうな海の領域の冒険者組合お偉いさんが、簡単にこんな要求を呑み、承諾するとは思われませんから、かなり強引な手段を用いたのではないかと思われます。
そのあたりのことは私にまで情報がのぼってきませんでしたので詳細は知りませんけれど、これはどちらかと言えば『知りたくなかったから、言われなかったのをいいことに、それ以上聞かなかった』というものであり、相変わらず、私の責任なのです。
さて冒険者組合は『冒険者向けの生活支援』を約束しましたが、冒険者というのは基本的に誰でもなることができます。
支援決定の報告が来るのに先んじてシンシアからオデットの精霊王捜索隊へ事情が説明され、その事情がすぐに宰相やアルバートにまで行き、そうして雪の領域においてこのようなものが発されました。
『先のスタンピード第一次被害における補填と、今後のスタンピード二次以降の被害への対策について』
この中ではスタンピード被害に遭った人や村落へ補償をする旨と、さらにその補償は冒険者比率が高い村落ほど手厚くなる旨が記されていたのです。
すると冒険者というのは誰でもなれますから、人々はこぞって登録だけでもということで冒険者になります。
冒険者組合は『冒険者向け支援』を決定したわけなので、冒険者なら誰でも支援対象になりますから、こうして精霊王国はまたしても、食糧難が決定的に人命を奪う前の先延ばしを、他組織の支援によって行ったわけなのでした。
もちろん冒険者組合が『精霊王国で急に冒険者が増えた』と知っていればもう少し支援内容を見直したでしょうけれど、ここに我が国が大国にいたった理由たる『早さ』があります。
我が国は他の国家と違って臣下一人一人の裁量権がとても広く、しかも情報が『ある分野で最高の裁量権を保持する者』から『別の分野で最高の裁量権を保持する者』へ直接とどきます。
そうして情報がとどいたとたん、それを受けての政策が、他の国における『議会』みたいなものを通さずにいきなり決定され、実施されるのです。
だから冒険者組合は撤回や修正の必要性を認識する暇を許されず、『冒険者なら支援する』ということを約束させられ、実質的に国家そのものへの支援をするはめになったのでした。
あとから整理すると、これは冒険者組合との関係が悪化する可能性をはらむ危険な判断であり、たしかに目先の食糧事情は改善されますけれど、のちに遺恨を残しかねなかったのではないかと、冷や汗が垂れる思いです。
もしも私が検討を依頼されたなら、そういう悪い可能性ばかりに目を向けてしまって決裁しなかった気がするのですけれど、臣下たちが『あとは玉璽をつくだけです』という顔で書類をあげてきますので、私は『臣下が私のもとに運んだものなら大丈夫だろう』といういつもの思い込みのまま、玉璽をつき、国策として決定となったのでした。
しかしスタンピードのために冒険者の増員が必要というのは、まったく嘘ではないのです。
スタンピードの真のおそろしさ、そして真に国家の体力を削ることは、『魔物が群れをなして攻めてくる』ことより、『群れとまではいかない規模の魔物たちが、国の各所に隠れひそみ続けること』にあります。
一度ダンジョンから出た魔物たちはその生存本能に従って人の目のとどかないところにひそみ、そこで息をひそめ、殺人衝動のままに、人並みとも言われる知能を持って人狩りを始めるのです。
その『魔物の棲家』は一度スタンピードが始まってしまうとどこにどれぐらいあるのかもわからず、しかも潰し切らないと被害が出続けるため、延々と国力を削られ続けるのでした。
『地上からの魔物の殲滅』こそが冒険者組合の初代代表の成した偉業であり、その偉業を受け継いで『二度と地上に魔物の巣を作らせない』という理念で冒険者組合は存続しています。
ですからスタンピードというのは起きてしまった時点で冒険者組合の存在意義を問われる事態であり、冒険者組合は長い平和の中でゆるんでいたのは、たしかなのでしょう。
だって、この魔物の巣というのは文字通り繁殖……というより、『増加・分裂』と述べるべきかもしれませんが、とにかく『巣を長く維持されると魔物が増える』という側面もあり、巣で魔物が増えすぎるとコロニーが分裂し別の場所にまで巣を作り始めますから、これは雪の精霊王国のみの危機ではなくって、地続きにあるすべての国家の危機なのですから。
幸いにも『ダンジョンの急な同時多発的活性化』は海の領域のみならずすべての領域で起こっている可能性があると示唆されましたので、砂の精霊国や森の領域などは無事にスタンピードをまぬがれました。
それだけは『よかったこと』と、そう述べてしまっていいかと思います。
さて目先の食糧難とスタンピード対策については、この時点でできることはしましたので、あとはもっと長期の食糧難への対策の順番となります。
やはり精霊王国の食料自給率の低さは問題であり、多少快復しても、またこの当時のように豪雪が続く気候になると、なにもかもだめになってしまいますから、雪にまったく負けない作物か、雪が降っても大丈夫な施設か、他の領域からの食糧支援・貿易の調整か、あるいはその全部が必要になります。
我が国はご存じの通り貧乏でもありますので、すべてを同時にはできません。
今回のスタンピードでだいぶ魔物の核が集まり、多少は貨幣も確保できたのですが(以前記しましたが、このころはもうコア本位制経済がとっくに始まっておりまして、若者が勘違いするように物々交換をしていたような古い時代ではありません)、それでも経済的に優れているというほどではありませんでした。
また、相変わらず導器の開発支援には国費の大きな割合をあてておりまして、これはもう本当に胃が痛いことに、『導器開発推進派』と『導器にあてている費用を他に回せ派』で、私の妻や家臣が二分してしまうぐらいの問題なものですから、私はやはり考え決断するのが嫌でたまらなく、思考を嫌って、逃げ続けているのです。
推進派には、民が力を持つこと、というか貴族が『貴族だから』という理由で前線に立たされなくなることを歓迎するルクレツィア、民が力を持ち貴族に対抗できるようになることを望む宰相、それから新しいもの好きのアスィーラなどがおりました。
反対派の最先鋒と言えるのは意外にもシンシアで、これは『人には生まれ持った才覚や適性があるのだから、それを平らにしてしまうようなものは、本来求めるべきではない』という、古い貴族の血統主義みたいな主張によるものなのでした。
次いで反対しているのがアルバートであり、これはまあ、王族でありますから、私のように『貴族の特権であった魔術というものを、平民も自由に使えるようにする』道具に対して、生理的な嫌悪感があるようでした。
しかし彼自身は『気持ちは悪いが、必要ではある』と思っているようで、その結果として会議などすれば反対していることがにじむけれど、意見として反対まではしないと、そのような様子なのです。
まったく無関心なのがオデットで、彼女は本当に、私以上に『自分の意見』というものを出しません。
それは私のように決断から逃げているわけではなく、心の底からどうでもよくて、言うべきことが本当に思いつかないという様子でした。
反対派の旗色はこのように悪いし、宰相などがうまく文章を作り上げて私のところにあげますもので、だんだん導器開発費の割合は増えていくのでした。
この投資は導器の輸出を禁じているのもあり、この当時はまだ派手なリターンのないものだったのですが、このあとの国家政策の方針を決めるのにはおおいに役立ちました。
このころ、ようやく『戦闘以外の目的での導器』というのに着手され、それが雪深い中でも畑の温度を一定にたもったり、同じ原理で民が薪に頼らず暖をとったり、そういう恩恵をもたらし始めたのです。
そうして薪がいらない、すなわち薪をとってくる手間、保存する場所、世話する手間がいらなくなってくると、民の労働力があまりまして、例の『私財法』のために民が土地を開墾する余裕もでき、結果として国力の成長につながったのです。
スタンピードによる一次被害、ようするに『精霊王降臨』と呼ばれる事件から五年ほどが経過し、私も三十歳をこえまして、ようやくこの雪深く寒い土地の人々の体にも肉がつき、薪によらないぬくもりがいつでも味わえるようになりました。
しかし私は気楽にしていられません。
魔術塔交渉官の返却は魔術塔との条件決定がまとまらず、延々と引き伸ばされ続けていたのです。
交渉官は『数日に一度、精霊王が顔を見せにくること』を条件に大人しくしておりますが、やはり魔封じの首輪をどうにかする裏技がありそうな気配もあって、臣下からは『もう処刑してしまおう』という意見さえ、出ているほどなのでした。
しかし……これが策略だとしたら、私は自身の単純さにほとほと嫌気がさすのですが、数日おきに顔を合わせていると情がわいてしまうもので、私は魔術塔交渉官デボラを処刑することなどできそうもなく、日々これの扱いに頭を悩ませていたのです。
「君が、魔術塔で学んだことをこの城でも教えてくれれば、助かるのだけれど」
そんなふうにこぼした気がします。
そして、デボラはあっさりとこう応じました。
「それが国家とあなたの生命の存続のためになるのでしたら、喜んで」
「君は私の嫌がる顔を見たいのではなかったのか?」
「嫌がる顔を見るためには、健やかに、穏やかにいてもらわねばなりません。あなたが嫌そうな顔を向けるのは、この世でわたくしだけでいいのです」
相変わらず共感も理解もできません。
けれど、こうして我が国は、魔術というものについての得難い教師を得たのです。
……本当に、得難い教師なのです。
デボラ。
魔術塔における、好色な王担当の交渉官だと、私はこの時までそのように認識しておりました。
彼女の秘密の正体を記します。
七賢人デボラ。
またの名を『不変のデボラ』。
話によれば五百年もこの姿のまま生き続けているとかいう、そういうことさえ言われている正体不明の魔女こそが、彼女の正体だったのです。




