第68話 溺れる者は氷柱をもつかむ
私の願いは世界平和です。
戦争はもちろん、細かな諍いさえもなく、人々は常に飢えを心配せずにすみ、笑い合い、歌い合い、一人で物を書きたければそうして、演劇などを見て、愛する人と心の底から信じ合える、幸せな世界……
そういうものを、私は常に、願っています。
だって、そのほうが面倒がないではありませんか。私は食料の自給率について心配したり、人々が次々に予想外のことを起こすのにいちいち法を整備したり、言わなくてもわかるようなことをその都度明文化したりする作業を、本当に、『なんて無駄で意味のない、人がもう少し人のことを思いやれればいらない手間なのにな』と思ってしまうのでした。
そういうわけですから、多数を動員し、特例として法を整備し、兵站の計算や、軍備による出費、それによる国民感情の悪化に、死者が出た場合には賠償など、そういうものが発生する『戦争』という行為を、本当の本当に憎んでいます。
しかし、戦争は起こるのです。
この当時に起こった『気候変動線東西の乱』もまた、平和を望む私の心に大変な打撃を与え、ただでさえ騎士山脈よりもうずだかく積み上がっていた問題を、さらに倍、あるいは十倍ほどにも増やしたのでした。
このころの精霊王国にはどうにかきちんとした軍隊はありました。
けれどこの当時の軍隊は『数』というのが勝敗を決する重大な要素たるとは、信じられていなかったのです。
もちろん数は大事です。それは、大公国救援のために出兵し、『数』と『勢い』でもって祖国の軍を呑み込んでしまった光景を思い出すだに、そう思います。
けれどお互いがきちんと『戦おう』と宣戦布告をしあい、平原で向かい合って軍を並べ、それから始まるような戦いにおいて、『数』が必要になる場面は、よほど追い詰められたがわの窮地にしか存在しません。
魔術。
戦いは基本的にこれの撃ち合いで勝敗が決します。
魔術というのは個々人の魔力と生育環境によって使える種類、威力が大幅に変わります。
また、いわゆる『緒戦』においては一斉射撃をするのですが、これは射程や威力などが、『部隊にいる中でもっとも弱い者』に依存するのです。
そして魔力は一般的に貴族の血筋が強く、扱いについては魔術を学んだ時間に左右されます。
以上の要素を念頭においた上で、精霊王国軍と昼夜神殿連合の魔術にかんする戦力を比較してみると、絶望的な事実が浮かび上がるのです。
向こうは魔術塔こと夜神教が名をつらねているだけあって、『魔術の扱い』においては一日の長どころではなく、さらに相手がわには、貴族までもが、こちらの五倍以上いるありさまでした。
正しくは、『戦争に出る貴族の数』が、こちらの五倍以上なのです。
貴族というのは魔術戦において貴重な戦力であり、戦争時にはその血筋の価値がたいへん高くなります。
貴族は面子を大事にしますから、たとえば『長年お世話になった王国の王』だとか、『かつてお世話になった他の家』だとかに出陣を呼びかけられれば、その借りを返せていないと判断される限りにおいて、出兵を拒むことはできません。
けれど私は新たに『ふわふわと』玉座についた王なものですから、国家貴族に対する『貸し』が少なく、出陣を呼びかけても応じてもらえないどころか、むしろ彼らに相手につかれないために、お金なり、利得なりを支払わなければいけない立場だったのです。
金、金、金。
私の人生にこの言葉が立ち塞がり始めたのは、王になってからなのでした。
実際に王となるまでは、きっと、王というのは、食べるもの、着るもの、もちろんお金の支払いによって悩むことなどいっさいないものと、そのように思っていたのです。
ところがこうして王として国家を経営すると、支払いだの、賠償だの、そういったもので、お金も資源も食べ物も、いくらあったって足りず、常に困窮がじりじりと私を足元から炙り続けるのでした。
精霊王国の領域にいる貴族たちは、こうして私からいろいろなものをせびり、そうして、せびったものが支払われたからといって、味方につくことはなく、せいぜい『中立』を表明するだけなのです。
しかしそんな経緯で表明された『中立』など信用できるはずもなく、もしも国土に攻め込まれたなら、今『中立』を表明している者どもはきっと裏切って私を差し出すに決まっていますし、実際、国家の貴重な資源を食い散らかしてそこにいる彼らは、すでに敵がわに有利な行動をとっているようなものなのでした。
けれど『出て行け』とも言えません。
そんなふうに精霊王から言ってしまえば、それは貴族たちに大義名分を与えることになります。国土や民、あるいは大公国王への借りによってかろうじて完全な敵ではない貴族たちが、大手を振って敵になるのです。
いったい、どうすればいいのか。
私は『いったい、どうすればいいのか』と思うことが人生で幾度もありました。
そのたびに私の頭に浮かぶのは、事態を解決するための方策ではなくって、『苦しくなく、痛くなく、自分の責任とみなされない死にかた』なのです。
どうしようもない問題に直面するたび、私は誰かに殺されたくなります。
しかしそれを自分の口で人に依頼することもできず、実際に目の前に『死』が迫ればきっとおびえて逃げ出すだろうというのがわかってもいますので、こうしてどうしようもなさに、ただただ頭を抱えて、意味のないことばかり考えるようになるだけなのでした。
しかしこの絶望的な煩悶も、実際に身を焼かれるような焦燥も、のちに世間で言われる『精霊王』は感じていないことにされています。
それは、このあとに起こることが原因なのでした。
『魔術戦力』というどうしようもないことで悩みに悩み、もはや降参してしまったほうがいいのではないかとさえ思っていた私のもとに、とある技術者がおとずれたのです。
それは第一王子が指定した開戦期日よりひと月ほど前であり、本当であればすぐにでも生まれそうなアスィーラとの子についてだけ悩んでいたかったある日のことでした。
その技術者がもたらしたのは、魔術の扱いに長けた、魔術塔の兵と貴族兵がほとんどいない精霊王国を、その国土の規模にふさわしい列強国たらしめる革新的な道具だったのです。
そうしてそれは、精霊王国以外ではたしかに見向きもされないどころか、排斥・討伐の対象になりそうだというのも納得できるぐらい、今まであった権力構造というものを、壊しかねないものでした。
もっとも、そんな考察はやはり『のちに思えば』で、この当時の私は凍てつく湖の中で溺れ、差し出されたものは氷柱でもつかむような心地で、必死に、その技術にすがっただけなのです。
のちに導器、あるいは世界で初めてそれを実戦導入したのが私ということになっているので、精霊器などとも呼ばれる道具で……
それは、民を簡単に魔術兵に転じさせてしまう、おそるべき兵器だったのです。




