第56話 戦争開幕
私はいつも自分が通らなかった道にこそ幸福が転がっているような気持ちになり、『もし、あの時、ああしていたら』という想像を止めることができないのに常に悩まされています。
もし、私があくまでも『アスィーラの夫』としてそれまでの人生全部を捨て去って、この砂と魔術の国に骨をうずめる覚悟をし、美しきアスィーラの力になることだけを考えていたのなら。
きっと、世間には『精霊王は自国も生まれ故郷も、友誼を結んでいた大公国をも裏切り、女に狂って攻め滅ぼさんとしたのだ』と、まだしも現状に近い評価をされていたことと思います。
私は虚飾にまみれ肥大しきった、真実とぜんぜん違う『私』が人口に膾炙するのと同じぐらい、真実の矮小で醜い姿が人に知られるのをおそれておりますから、果たしてどちらがましだったか、それは判断をつけることができません。
けれど、強いて言うならば、まだしも『裏切り者』とみなされるほうが、これから先、ほとんど無限にふくらんでいく『賢く清く未来さえ見ることのできる精霊王』という評価にさらされ、その評価と現実とのギャップに悩まされる現在よりは、いくぶんかましだったようにも思えるのです。
女王アスィーラの軍事行動はとても素早く開始されました。
というより、のちに聞いた話だと、北方の私の祖国を攻める計画もまた、彼女の『夫探し』の一環だったようで、軍備自体は私がこの国に来る前にはすでに終わっていたのでした。
冷静に整理してみますと、つまり私がここで彼女の夫となり、彼女の用意したカバーストーリーの通りに『アスィーラとは幼いころに遊んだ幼馴染で、なんらかの事情があって私は精霊国のほうに行ったのだけれど、そこで奴隷商人に捕われてまた戻ってきたところを、アスィーラによって救われた』という人生を送ってきたことにして、精霊国に未練など見せなかったならば、このたびの侵攻そのものがなかったのです。
私はどうして、こうなのでしょう。
いつでも中途半端に要求して、事態によからぬ展開をあたえるのです。
ただ黙ってじっと人に従っていればそれで万事うまくいったはずなのに、途中で恐怖や焦り、『自分も、なにかしなければ』という使命感みたいなものがふっとわいて、それに突き動かされて出さなくていい意見を出し、しなくていい行動をし、事態を嫌なほうへとふくらませながら転がしてしまうのでした。
かつて公爵邸の貴人用牢獄で、世話役のメイドに『いっしょに逃げよう』と言われた時のことを思い出すことがあります。
『あなたはとても綺麗で脆そうで、いつもそうやって笑って人の機嫌をとろうとして、自分の欲望なんかぜんぜんないみたいなのだけれど、たまに願望みたいなものをちらりとのぞかせるから、私たちは、それが気になって、願望の正体をつかんで、あなたの力になりたくてたまらなくなるの』
言われた当時は、やはりメイドの優しい言葉がおそろしく、優しさの押し貸しに恐怖するあまり、その言葉に対しても、曖昧な愛想笑いと、うめくような声しか返せていなかったように記憶しています。
けれどこれは、冒険者時代についた『女たらし』というあだ名と同じぐらい、私がこれからたどる運命を予言した言葉だったのではないかと、この記録を認めているころになって、ようやく思うのでした。
「わらわと離れて精霊国にいたのだから、きっと、その土地に愛着もあるのだろう。うん、お前は本当に変わらんな。小さなものにも愛着を持つ。だから、わらわから、結婚の祝いに、精霊国をお前に進呈しよう」
そういう大義名分をかかげ、砂と魔術の国の軍は侵攻を開始しました。
私の故郷のほうでは、『王が伴侶に贈る土地がほしいので、軍を動かす』などと言ったら、ものすごい反発が起こりそうなものですけれど、アスィーラの国ではむしろ、みな喜び勇んでアスィーラの、そして私のための侵攻をするような、そういう様子なのでした。
こうして国家の気風が好戦的に高まっていくにつれ、私はその中心付近で嫌というほど『戻らない流れ』みたいなものを感じさせられるものですから、どうにかしてこれを止めないといけないという使命感と、私がなにかをしたところでこの流れが止まるとも思えないあきらめが、同時に胸中に去来するのです。
どうにかして、戦争の気風が消えさえり、アスィーラの国が進軍をやめ、私は精霊国に帰り、私の国の経済的・食料的困窮が救われてはくれないだろうか。
私はそういう奇跡を祈っていました。
しかし、優秀な三人の妻でも、老獪な大公国王でも、この当時の私の願望を叶えられるようには、思われませんでした。
だから私がすがる先はもう神しかないわけですが、昼神教からは事実上の破門扱いですし、魔術塔ともさほど仲がよくありませんし、なによりあの二つの宗教の紳士的ではない振る舞いに悩まされておりますので、それらがいただく神に祈る気にはなれませんでした。
私が人生で初めて心から精霊に祈ったのは、この時だったのでしょう。
どうしようもない時ほど祈りがはかどるのです。私は手の中に幸運という長い糸の端緒があって、上へ上へと逃れていくそれを力一杯握りしめるみたいに両手をこまねき、必死に精霊に祈りました。
精霊というのは『神によらぬ不思議な現象』そのものですから、明確な姿などはなく、イメージしにくいものです。
だから、『精霊』という言葉に、私は必死に祈ったのです。
この時に考えたことは、のちにうまく聞き出され、現在精霊国における『最上位精霊』、すなわち昼夜の神殿における『神』に該当するものの偶像を作ることが禁じられ、『幸運の糸』という逸話が世に広まることになりました。
それほどまで、この時は必死に祈り、そして、祈りが通じたと、のちに思い返せば、そう述べるしかないような奇跡が起きたのです。
けれど当時、事態の真っ最中にいた私からすれば、それはまぎれもなく『対処すべき新たな問題』なのでした。
アスィーラの軍隊が気候変動線のあたりまで来たところで、線の向こうに展開している軍隊の存在が見えたのです。
私はアスィーラとともに神輿にかつがれて運ばれておりましたので、遠いところであっても、よく見ることができます。
まだ豆粒のようなその軍隊をじっと見ていると、軍の先頭に見慣れた人物がいるのがわかりました。
シンシアなのです。
あの美しい銀髪に、なにより金銀の瞳は、遠かろうが見間違えようもありません。
なぜ、シンシアが、軍の前に立って待ち構えているのか?
シンシアはよく通る声でなにかを言い始めたのですが、さすがに声がとどく距離ではなく、そのかわいらしい声が常ならぬ気迫を帯びていることだけが、残響で耳に届きます。
しかしただならぬことが起こっていることだけはわかるものですから、この時の私はといえば、おおいにおびえ、なにかきっとまた自分が悪いことをしたのだろうという確信から、神輿の中で膝を抱えて震えるはめになったのです。
アスィーラはその私を抱きしめてなぐさめるものですから、私はますますおびえ、もう、頭上から巨大な雷でも落ちて、あたり一帯まるごと消し去ってくれないかなと、そういう気持ちになったのです。
そんなおり以下のような情報が入ってきたものですから、私はもう限界を超えてしまうことになります。
「伝令! 女王陛下、精霊国軍王妃を名乗る者から、精霊王の返還を求めるとの通達! これに従わない場合、全力を投じて我が軍を攻撃するとの由!」
どうか、私のために争わないでほしい。
人生において死にたいと思ったことは、それはもう数限りなく、ほとんど毎日のようにありますけれど、ここまで切実に死を願ったことは、人生のうちでも片手で数え上げられるほどしかないと思います。
とにかく死にたかった。
その強い思いはこうして過去を思い返している今もありありとよみがえるほどのものだったのです。




