第47話 砂と魔術の国への逃亡
『金がない』という問題にここまでシリアスに直面したのは、実のところ、この時期が人生で初めてだったのです。
それまでの私は子爵家で生まれてなに不自由なく……あくまでも金銭的にはなに不自由なく過ごしてきましたし、学生時代も実家からの仕送りで服の新調もためらう必要がなく、冒険者時代も先輩たちに誘われて仕事にあぶれることだけはありませんでしたから、『明日、この人生が立ち行かなくなるかもしれない』という恐怖とは、無縁でいられたのです。
精霊国王になってからも、それはもちろん国家は貧窮しているのですが、それが私の生活に深刻に降りかかることもなく、豪華とは言えないまでも、金銭的不安のない毎日を送ってきたのでした。
もちろんそこには大公国王からの多大な支援があってのことだったのです。
白状します。私は無意識のうちに、妻の父を、いくらでも金を出してくれる財布のように思っていたのでした。
大公国王が存命の限りにおいて、なんやかんやと『娘の婿』を援助してくれ、私は困った時に勇気を出して大公国王を頼れば、すべての金銭的な悩みから解放されると、そのように考えていたのです。
ところが今回、大公国王からにべもなく援助を断られ、それどころか『今まで支援したぶんをそろそろ返してほしい』とまで言われ、私はようやく、自分の立たされている場所が薄い板氷の上であることを自覚したのでした。
もちろん大公国王からの手紙は国家の大事でありますから、妻や家臣たちに見せないわけにはいきません。
しかし、私はこの手紙の実在を明かしたくなかったのです。
この手紙を見せては、私の浅い計略や、妻の父を金蔓とみなしていた……それも無意識にそうみなしていた心の醜さが、白日のもとにさらされるような、そういう気がしていたのです。
私は虚飾にまみれた『私』が取り返しのつかない勘違いとともに人口に膾炙するのを嫌う一方で、私の真実の醜く矮小な本性が親しい人に露呈するのも、ひどくおそれていました。
大公国王とのこのたびのやりとりは、一字一句にまで、私の他者に見せたくない本性が宿っているように感じられて、私はこの時、やはり、『逃亡』を選び、見せるべき手紙を誰にも見せず、大公国王とのやりとりは順調であるかのように偽装してしまったのでした。
私がその後もいくらか大公国王と手紙のやりとりをしたのは、なんらかの事情で気が変わって、大公国王が『やっぱり、援助をしてやろう。今までの支援のぶんも、返さなくていい』と言ってくれるのを願っていたからなのです。
叶うはずがありません。
しかし、大公国王は、まったくの薄情というわけでもなく、やりとりの中で、いくらかのとっておきの情報をくれ、それを金策に活かすよう助言してくれました。
『我らが祖国の南方にある国が今、ざわついております。先達って我らの生まれ育った国の元首である陛下が崩御なさったことは、精霊王もご存じのこととは思いますけれど、それはやはり、新たなる災いを、この穏やかな雪深い地にもたらしつつあるようなのです』
つまりは戦争の気配がするので、兵なり武器なり売りつけろ、ということなのでした。
しかし我が国には兵も武器もありません。
軍隊のほとんどを冒険者義勇兵で構築していたぐらいなのです。
それは彼らの善意、精霊へのあつい信仰のためでありますので、これを精霊となんの関係もない外国の戦争のために派遣するというのは、どう考えても納得を得られるはずがないのです。
民へなにかを命じるならば、それは、因果関係がわかりやすくなければなりません。
『精霊のために、精霊国を滅ぼそうとする敵と戦ってほしい』ぐらいまでは理解されますが、『このままだと精霊国が借金苦で滅ぶので、その資金調達のために、外国に傭兵として参加してほしい』となると、もうダメで、最後の一文だけを覚えた民が『なんで俺たちが傭兵なぞしなければならないんだ』と不満を噴出させるのです。
この手のことは冒険者時代に精霊信仰の隠し礼拝堂で嫌というほど経験しました。
当時は、民の不理解、勘違いからの激怒、裏切られたと叫んで報復行動に出て、しかも人に呪いの言葉まではいておきながら因果関係の精査を行わず、どれほど証拠を提示されても自分の間違いを認めない様子に苦しみ、怒り、『いい加減にしてほしい』と思ったものでした。
そういった経験から、とにかく民を自分のために制御できるとはまったく思わないので、私は民に傭兵として外国の戦争に参入してほしい旨を伝えることもなく、どうにか、ほとんど唯一の輸出可能な資源であると遠回しに言われた『人命』を金に換えることだけは思いとどまることができたのです。
しかしそれはそれとして、金銭的な問題は依然として存在し続けています。
兵力もダメ、資源もない、特産品もない。
他に輸出できるものはないかと悩み、苦しんでいた私のもとに、また大公国王から返事が来ました。
『とりあえず、現地を見てみてはどうか』
そろそろ大公国王の返事にも疲れのようなものが見てとれて、貴族的な言い回しが減って手短に本題だけが記されるようになっていました。
それは私にとってありがたく、また、『とりあえず現地を見る』というのは、私の大好きな『問題の先送り』に該当するものですから、私は大公国王のアドバイスにお礼の手紙を送り、『現地を見てみる』ことにしたのです。
ここでも私の愚かな勘違いがあり、大公国王、すなわち『王』から、精霊王、こちらも『王』への手紙で『現地を見てみろ』とあったなら、それは無言のうちに、『人でも遣わして、現地を視察させろ』という意味になるのです。
決して、『自分自身が現地入りして、自分の耳目で現地を見てみろ』という意味ではありません。
しかし逃避と先送りにかんして私はとてつもない行動力を発揮することがままあります。
それはもうあの学生時代に、ルクレツィアとの将来におびえて神学校をやめ、冒険者になった例を出すまでもなく、いつだって、逃げる時には全力なのです。
私は、現地入りを決意しました。
しかし私単身では国を越えるどころか王宮を抜けることさえままなりませんので、誰か協力者を募らねばなりません。
大公国王とのやりとりについて隠しているものですから、いかにも背後関係をたずねてきそうな臣下は頼れません。
ルクレツィアも、今回の問題にかかわらせるには不適格なような気がしました。
この時に私が声をかけるべきはシンシアとオデットに絞られたわけですが、私は珍しくきちんとした考えから、シンシアも候補から外しました。
それは現状、どうにか冒険者たちの活躍で昼夜の神殿の実質的領土切り取りの速度が落ちているので、これらの精神的支柱にして、冒険者方面で多大な裁量を持つシンシアを国から離してはまずいという思考なのでした。
私はこうして、オデットを頼りました。
オデットは私が漏らした願望を叶えるのに、いちいちその理由をたずねることがありません。それもまた、私にこの時、オデットを同行者に選ばせた理由なのかもしれません。
こうして私は、置き手紙一つだけで国を出て、祖国より南にある国家へと向かうことになったのです。
そこがほとんど魔術塔の本拠地とも言える『砂と魔術の国』であることを、私はこの時点でまったく知りませんでした。




