第39話 精霊王の軍勢
いわゆるところの『精霊王』が『精霊のお告げを聞いている』などとされる理由の一つとして、『行動を起こすとなると、その準備期間が異様に短く、行動があり得ないほど早い』というものがあります。
精霊国は普段、さほど締め付けも強くなく……昼神教などは民衆が『自主的に』排斥している向きもあるようですが……よく言えば牧歌的、悪く言えばすべての国民がてんでばらばらに過ごしています。
ところが歴史上重要な瞬間にはこの国民たちが一つの生き物のように動き始め、精霊王の指差す先へ全力で駆け、そうして不可能を可能にしてきたのです。
この時、公爵軍を救援するために起こった『世界史上最大の義勇軍』もまた、『あり得ないほどの早さ』で動き、その初動を相手に悟らせませんでした。
すぐに雪に閉ざされるこの国は守るならいいのですが、他国に攻めるというのがやりにくく、その準備にはかなりの時間をようするというのが、軍略的な見立てのようでした。
しかしこの公爵軍救援のさい、我が国は十日もかけずに軍備を終え、十一日になるころにはすでに出発していたのです。
数十人の偵察隊ではありません。『全国民』なのです。万を超える軍勢が唐突に発生して、『大公国』を包囲していた軍勢の横っ腹に激突したのですから、その衝撃は軍略に疎い私でもわかります。
敵側の視点に立った記録なども取り寄せて見ましたが、この当時のことは『精霊のささやき』『悪い夢』『異界からの進撃』などとさんざんな言われようで、その悲惨な嘆きじみた記録を見るたび、私は『見なければよかった』と後悔するほどなのでした。
しかし当時のこちらがわの心境としては、大急ぎで進軍し、本格的な戦闘になる前に、どうにか公爵だけでも助けて国に帰らねばならない事情があったのです。
もちろん大きな問題の一つには食料がありました。
もともと雪深い我が国ではまともに作物が育ちませんから、食べ物は寒くとも育つイモ類と、それから輸入した麦などになります。
輸入品は基本的にダンジョン資源と交換で手に入れるのですけれど、この交換窓口であった公爵が『大公国』など興してしまいましたから、あらゆる国が慎重になって貿易を受け入れてくれず、それが我が国の食糧事情を逼迫させていました。
であるからして、全国民という軍勢を満足に養い続ける食料などあるはずもなく、村々から持ち寄られた食料を全部使い切ったとしてもせいぜい十日ほどしか持たず、また、全部使い切っては『国としてのその後』がありません。
実質的な『軍隊を動かせる時間』はせいぜい三日ほどといったところで、それはもう、全員が全速力で走って、ようやく国境に行けるというような、その程度の日数なのです。
「まあ、父も籠城しているようだし、食料備蓄はあるのではなかろうか」
ということで、『現地につくまでは手持ちの食料でやりくりして、現地についたら公爵から食料を融通してもらおう』という、まともな軍師がいたら絶対に進撃を止めるような状態なのでした。
無視できない大きな問題はまだあって、それは、我が軍の構成員のほとんどが『国民』ということなのです。
かつては農民が兵を兼ねていた時代もあったようですが、それはもはや昔のことで、この当時でさえも、すでに戦う専門の職業を確保して、常に訓練を積ませるという、『職業軍人』の制度が確立されておりました。
いわゆる『導器』というものが開発されるのはこれよりあとの時代の話になりますから、この当時は、槍や剣などで武装し、魔力の高い平民や貴族の血統のみが『魔術兵』として組織され、これが軍の主力となるわけです。
軍は基本的に『魔術兵』の攻撃力を活かすために陣形を組み、戦術を練ります。
相手の魔術兵に満足に行動させず、こちらの魔術兵を十全に行動させる……そのために連携して動くのが、いわゆる『職業軍人』の九割以上を占める『歩兵』の役割で、その働きをするためにはたゆまぬ調練が必要なのです。
ところが職業軍人制度のおかげで、一般の民たちは、この軍事訓練を行わないようになって久しいのでした。
つまり我が軍は陣形だとか、戦術だとか、そういうものができません。
なにより装備さえも足りないので、みんなして『まあまあ丈夫な服』だとか『農具』だとか、そういうものを持ち寄っているありさまですから、装備がそろわないと『槍衾』などの戦術をそもそもとれないのです。
我が軍、我が軍と記していますが、当時の『我が軍』の有様を客観的に見れば『武装難民』と述べたほうがまだしも現実に即しているでしょう。
つまり、本物の軍隊と『戦い』になってしまうと、数でいかに圧倒していても、蹴散らされるのです。
食料と、調練の不足。
これら問題が私たちの足を早め、結果として電撃的な奇襲となったのでした。
この状況を避けるために人員の選別などの対処法はいくらでもあったように思われますし、いくら北が山脈に閉ざされ大公国と祖国以外に隣接している国がないとはいえ、全国民を連れて進軍するのは、なにがなんでも常識はずれすぎると、今の私には、わかります。
当時だってルクレツィアあたりは、わかっていたのではないでしょうか。
けれどルクレツィアはなにも言ってくれず、結果としては大成功だったのですけれど、思い返してみれば、もしも私が裁量権を持っていたなら絶対に止める、国民全員の命を賭した気の狂った蛮行であるというのは、はっきりと記しておかねばならないでしょう。
まあ、当時も今も私は国王なので、裁量権の持ち主は私に違いないのですけれど……
さて、急いで駆けて人数差に任せるまま突撃し、故国の軍を破った精霊国軍。
ここからなにをするかは定まっていて、それは公爵と私の両親、可能であれば公爵軍の救出なのでした。
しかし我らは全速力で駆け抜けてきた訓練など積んでいない『武装難民』なのです。
そのように冷静な作戦行動はとれません。
私は神輿に乗せられたまま、我が軍が勢いに任せて故国の軍を蹂躙していく様子を見せられるはめになったのです。
相手がわの軍の誰か、誰でもいいから指揮官が一人ぐらい冷静さを取り戻して、ただの一隊でも陣形を整えて対処すれば、十倍する数がいるとはいえ、我々は足を止め、逆に蹂躙されるはめになっていたでしょう。
しかし叫びながらいきなり出現し全力で駆けながら鍬や鋤、肉切り包丁なんかを振り回す、鎧も着ていない民の群れは、『職業軍人』の想定の外にあったようで、冷静さを取り戻す軍人は誰もいませんでした。
味方である私から見ても、こわかったのです。
口々に精霊への祈りを叫びながら突進していく人の群れは、もはや理性もなにもなく、『ああ、数と勢いがそろえば、不断の努力や武装の差など、案外どうにかしてしまうものなのか』という、奇妙に落ち着いた感想を抱く以外、私はできませんでした。
ふと気付いて遠くをみやれば、相手の後方で我が軍に呼応する勢力まであり、その集団もまた着ていた鎧を脱ぎ捨てて叫びながら突撃を開始し、それにまた呼応するように同じようにする部隊が出て……
戦場は本当に、たちの悪い感染病にでも罹患したようなありさまなのでした。
軍勢が疲れ果てて止まるころには、もう鎧を着ている者は一人たりとも立っておらず、まともでない装備をしたまともでない様子の人たちが、狂ったように叫び声をあげ、勝利を祝っているという光景がありました。
これはまぎれもない、奇跡的な大勝利なのです。
けれど私は、この戦いの結果を『勝利』と呼びたくない気持ちでいます。
彼らは『精霊王が率いた軍』ではなく、『暴徒』と呼ぶべきだと、私には思えてなりませんでした。
この暴徒たちは、私がなにかして、彼らの期待を裏切れば、報復のために立ち上がる力なのです。決して私の制御下にない、おそるべき暴力なのです。
「精霊王! 我らが精霊王!」
熱狂する叫びが今も耳の奥にたまに響くような気がします。
私が率いたとされる世界史上最大の義勇軍はこうして大勝利をおさめ、私はいよいよ『止まれない流れ』というものを、具体的な姿として脳裏に描くことができたのです。
それは一つの方向に流れていく大量の民衆の姿をしていました。
これこそが私を精霊王に押し上げたものであり、今もって止まらせず、『精霊王』から降りることさえ許さないものの正体なのでした。




