第34話 精霊国への逃避行
『精霊信仰最上位に位置する精霊王が、精霊国ではない国で、他の宗教の仕切りで結婚をして、第一王妃を決める』
これが政治的・宗教的に精霊国を追い詰めることだというのを、私はもっと深刻に理解しておくべきだったのです。
この当時に起こった『大公国・精霊国同時侵攻』について、王が不在であったあいだに出兵を決めた二人の妻を責める文献もあるのですが、これは本当の本当にお門違いで、すべてはやはり、私のうかつな行動がもたらした、自業自得と言うべき結果なのでした。
そもそも私はこの記録を認めている現在でさえも、精霊信仰における教皇であり、精霊国の国家元首である自覚にとぼしいような気がします。
普段から力をこめて『自分こそが精霊王なのだ』という自覚をもつようには心がけているのですが、おそらく、『力をこめないと自覚できない』という状況がまずだめなのでしょう。
そもそもあの虚飾にまみれた『精霊王』を自分だと思えというのが無理な話のように思えてならないのです。
だから私は王にして宗教最高権力者たる自覚にとぼしく、国家や教団を背負っている自覚のない行動を繰り返す……
手記を認めている現在でさえもこのありさまなのですから、二十代に入ったばかりのころの私は、『精霊王』と呼ばれてもとっさに反応できないほどに無自覚で、精霊国の信仰も、どこか他人事のような気持ちでいたのです。
いよいよ状況が煮詰まっていたらしいある日、私はもてなされるまま王宮の来賓室で飲む今日のお茶のことなど考えていたわけですが、シンシアはとっくに行動していました。
彼女は複数人の男性冒険者を部屋に招き入れ、私に「お兄様、脱出いたしましょう」と告げてきたのです。
この時に、ついうっかり『なぜ?』と問いかけそうになりましたけれど、さすがに私でも、それを口に出すほどではありませんでした。
現在は『なぜか』来賓待遇ではありますが、本来であれば獄につながれ、拷問でも受けているのが自然な状況なのです。
結婚式以来、この国にもひそかに精霊を崇めているのだと私に声をかけてくれたり、なにがしかの紋章をちらりと私にだけ見えるように示してくれたり(それはきっと、精霊信仰の紋章なのでしょうが、精霊信仰は細分化されすぎていて、偶像も紋章も、祈りの言葉さえ統一されておらず、私には意味がわかりませんでした)、そういう者が増えました。
特に私たちの世話をしてくれているメイドたちなどは、すすんで私に便宜をはかり、精霊信仰の洗礼を受け、今ある信仰を捨てて私に尽くしてくれるという者さえ、いたぐらいなのです。
私はもちろん洗礼の儀式など知りませんから、これもその場で編み出すしかなく、『結婚が互いを頭から水で濡らすのだから、洗礼ならば手の甲を濡らすぐらいでよかろう』という程度の思惑で、水を持たせ、彼女らの手をとり、その甲に水を丁寧に塗り込めました。
それをされたメイドは一様に精霊信仰への忠誠を誓ってくれましたが、私はこんなその場しのぎで彼女たちの後年にわたる生きかたを定めてしまったと思うと、なんとも重苦しい気持ちになり、やはりどうとでもとれる微笑みで彼女たちを見つめ、うめくしかなかったのです。
そんなふうに王宮内にも精霊を崇める者が増えてきた日のことだったので、私は自分が敵地にいることをすっかり忘れており、シンシアが旅装で現れた時、ようやく自分の危機的状況を思い出したぐらいなのでした。
「もう限界です。ここにいては、お兄様に近づくよからぬものが増えるばかり……国へ戻りましょう。ルクレツィアたちに出兵の真意も問いたださないといけませんから」
どうやら私に自覚がなかっただけで、私を捕らえ、あるいは殺そうというものは、忍び寄っていたのだと、シンシアの発言で気付かされました。
私はそれに私が気づかぬようシンシアが対応してくれていたのだと思い、彼女に深く礼を述べ、このお礼は国に帰ってきっとするという旨を告げたように思います。
シンシアは「いえ、そんな、シンシアは別に……」とひどくまごついて述べ、なにか遠慮があったのか、この時に私が申し出た『お礼』は、未だ彼女のもとで取り置かれ、使われる気配がありません。
かくして私はシンシアと冒険者たちに連れられて、王宮を辞することになりました。
このまま足を止めずに精霊国に帰るのだな、と思った時、もはやこの国が私の故郷ではなく、あの雪ぶかく厳しい寒さの精霊国こそが私の帰るべき場所なのだと、そのように認識された気がします。
ふと、両親に一言あいさつをという思いもわきましたが、冒険者たちのえらく緊張した面持ちが私に状況を察せさせ、さすがにそのようなわがままを言うことは、かないませんでした。
この当時の私たちはどうにも、王都をまずは東門から抜け、北上しつつ西側へ移動し、公爵軍、できれば精霊国軍に合流しようというルートで動いていたようでした。
情けない話なのですが、私は冒険者やシンシアに道案内を任せてすっかり安心しており、自分がどのようなルートで国に帰ろうとしているかさえ、のちに聞いてわかったほどなのです。
これは私の油断しやすく、問題から目を背けたがる小心のせいではありますが、しかし一方で、シンシアたちが私に心労をかけまいと、私に問題を直視させない努力を常にしていたことは、感謝し、評価されるべきだと思っています。
王国を北上していくとだんだん寒さが厳しくなってきて、私は吐く息が白くなるころ、ようやく精霊国に戻れる懐かしさが胸によぎるのを感じました。
しかしまだ国境は遠く、冒険者たちはぴりぴりしていて、私はつきかけた安堵の息を引っ込め、咳き込みそうになったのを覚えています。
私はといえば、たぶん命懸けの逃避行の最中だったはずなのに、とても呑気なものなのでした。
冒険者として他の冒険者に指示を出すシンシアの姿は新鮮で、小柄な少女にむくつけき大男たちが従い、その機嫌を決して損ねてはならないというように一挙手一投足まで力がこもっているのを見ると『シンシアは本当に、すごい冒険者なのだな』という感慨がわいてきました。
これは小心者の醜い嫉妬心だと、のちに思い返して自分でもへこんでしまうぐらいなのですが、私は、シンシアが男の冒険者ばかりを連れてきた時、冒険者たちとシンシアとのあいだにある『なにか』に嫉妬したのです。
シンシアは妻という立場の女性でありますから、それが私の知らない男と知り合いであるふうにしていると、なにもないとわかってなお、私の心は針でつつかれるように、ざわつき、わずかに痛むのでした。
一方でシンシアは妹でもあるので、彼女が彼女なりの人間関係を築いているのは、あの台所で生ごみにまみれていた姿を思えば、とても喜ばしいことではあるのですけれど……
しかし、シンシアと冒険者たちとのやりとりを見ていると、そこには『怖い上官と忠実な部下』という様子以外の色合いはまったくなく、私は自分の醜い嫉妬心を恥じるとともに、素直にシンシアの『彼女なりの人生』が垣間見えるのを喜ぶことができました。
ちなみに嫉妬心から脱却できていなかったころ、シンシアの知り合いは男性ばかりなのかとたずねてしまったのですが、彼女はその時、このように答えました。
「これは、お兄様に会ってもいいように私が選別したチームなのです」
どうにもシンシアは『お兄様』を特別視しているところがあるようですから、それに接する者の態度などにも、かなりの注意を払っているというような話でした。
私は気にしないと思いつつ、たしかに、我慢ならない相手というのもいるものだなあと精霊信仰の隠し礼拝堂にいたころのことを思い出し、シンシアの気遣いに感謝を述べました。
そうして私にとっては気楽な逃避行が三日も続き、そろそろ国境が見えてくるかなというところで、私たちは、とある勢力にでくわすはめになりました。
それは『精霊国侵攻』の報があった以上、当たり前に予測しておくべき、『精霊王を国に逃がさないようにする部隊』であり……
どうやら、かつて私の指示によってシンシアやルクレツィアに蹴散らされた、昼神教の神官戦士団のようなのでした。




