9.思い出にしたい私
目が覚めるといつもの私の布団じゃないことに気がつく。
布団だけじゃない。部屋も違う。私はいつものパジャマじゃなく、裸で布団の中にいた。そして隣で五十嵐さんが眠っている。
布団から手を伸ばし、ベッドの側に放り投げられたコートを手繰り寄せポケットからスマホを取り出す。
もう夜中の一時だった。最終バスは過ぎている。
そしてお母さんから着信とメッセージが来ていた。
とりあえず、友達の家で寝てしまったから朝になったら帰る、と返信しておいた。
嘘では無い、筈……。
急なお泊まりなんてしたこと無かった。大学生とはいえ、連絡も無しに帰ってこなかったから親は心配してたかもしれない。
直ぐに返信が来た。了解、と。
この時間まで起きてスマホをチェックしながら待っててくれていたんだろう。連絡が遅くなってごめん、と返した。
スマホをいじり肩が出てしまっていたので体が冷えてきた。暖房は何もつけていない。また布団に潜り込んだ。五十嵐さんは綺麗な顔のままスヤスヤと寝ている。そして眼鏡をかけていない顔を初めて見た。イケメンは眼鏡を外してても、そして寝ててもイケメンなんだな。
もぞりと五十嵐さんが動き、顔が近づいてきた。クンクンと匂いを嗅がれ、起きちゃうかなと思ったけれど顔が近いまま起きることは無かった。
(朝まで寝かせて貰おう)
今部屋を放り出されても行くところは無いし、交通手段もない。勝手に室内を歩き回るのも、物を探すのも、使用するのも躊躇われて、同じ布団で寝るしか思い付かなかった。
それに疲れていた。久能山に登ったし、初めてセックスもした。こんなに疲労感があるものなんだな。世の中のカップルはこんなに疲れることをしょっちゅうやっているのか。
何も知らない私は五十嵐さんにされるがまま求められるがままに応えた。何一つ抵抗しなかった。キスする時舌を出してと言われれば出したし、足を開いてと言われれば恥ずかしくても開いた。こうして、ああしてと言われたことを嫌と言わずに全部した。好奇心があったのだろうか。実際恥ずかしさはあっても嫌なことは何も無かった。
酔っていてもちゃんと避妊もしてくれたし。
(私達はこれからどうなるのだろう?)
私には分からなかった。自分がどうしたいのかもよく分からない。
とりあえず眠気が襲ってきて、温かな布団の中で眠りについた。
◇◇◇
「えっ……!?」
驚いた声がして、ぼんやりと頭が起き始めた。するとブルッと寒さを感じて目が覚めてきた。ぼんやりとした視界には肌色が映る。
くしゅん、とくしゃみをした。
「わっ!ごめっ、寒かった……」
布団が少し捲れて肩が出ていたので、布団を掛け直された。
(この声は五十嵐さん?起きたのか。私も起きないと……)
目を擦ると上半身が裸の体が見えてきた。視線を上げると青い顔をした五十嵐さんがこちらを見ていた。
「あ……」
「……おはよう、ございます」
「おは、よう……」
何も会話が思い付かない。お互いに無言になってしまう。
五十嵐さんは大丈夫かと心配になるくらい青い顔だ。二日酔いだからか、裸で寝て冷えてしまったからか、それとも私が隣で寝ていたということに衝撃を受けているからか……。
意を決して五十嵐さんが尋ねてくる。
「これ……俺……やってしまった……?」
やってしまったって、どういう意味ででしょう。
おそらく五十嵐さんは焦っている。お陰で私は少し冷静だった。夜中に一回起きて考える時間が少しあったのが良かったのかもしれない。
「……記憶、飛んでますか?」
「……少し、思い出せる。店で酔って、ひなのちゃんに送って貰って、そのまま……」
いろいろ思い出したのだろうか。両手で顔を覆って「ああぁ~……」と小さく呻き声を立てた。
「ごめん!本当にごめん!!」
突然、いわゆる土下座をされた。しかし何せ裸。私に優先して掛けてくれていたシングル布団では下半身が隠しきれていないので、ぎょっとして目のやり場に困った。カーテンの隙間から見える外はうっすら明るい。夜に比べたらこの時間は結構判別出来てしまう。男兄弟でもいたら免疫が多少はあったかもしれないが、私は妹しかいない。お父さんのはずっと昔の記憶だし。
「あ、あの!服、着ましょうか」
「そ、そうだね」
お互いに背を向けて、私はベッドの近くに放り投げられた衣服を身に付ける。布団から出たとき吃驚するくらい寒かった。裸だからというのもあるけれど、二人で入っていた布団が暖かかったからかもしれない。
「……今朝、冷えるね。温かいコーヒー淹れてくるよ。シャワーやトイレ使って大丈夫だから」
先に服を来た五十嵐さんが気を遣ってか伝えてくださる。
「シャワーは大丈夫です。トイレだけお借りします」
「洗面所はこの部屋の向かえに……あっ……」
突然言葉が途切れたのを不思議に思い、着替え途中だけれど振り返ると、五十嵐さんがベッドを見ていた。視線の先には……血がついていた。
「……ひなのちゃん……初めてだった……?」
そう言えば小説で読んだことがある。初体験の時は出血する人もいるって。シーツにはさほど血はついていないけれど、まだ出血するのだろうか。生理用ナプキンとかした方がいいのだろうか。パンツ、もう穿いちゃったけど、血がついちゃったかな。
知識が無さ過ぎてどうしようかと不安になる。無性にスマホで検索したくなるけれど、五十嵐さんがいる手前恥ずかしくて出来ない。
「シーツ、汚してしまってすみません!トイレお借りします!」
着替えも途中だけれど衣服と鞄とスマホを抱えて洗面所に飛び込んだ。
「あ、いや……」
背中から困った声が聞こえたけれど、パタンッとドアを閉めて逃げた。
初めてだったのが知られて恥ずかしいのもあった。
そして汚してしまった申し訳無さもあった。
パンツに血がついてしまったらお母さんが洗濯する時に感づくかもしれない。時期的に生理にはまだ早い。
トイレの中で固まってしまい、頭でいろいろぐるぐると考えていたら扉をノックされた。
「シーツのことは気にしないでね。支度できたらリビングにおいで」
「……はい」
なんとか声を出し返事をした。
私がテンパっているのを見て気遣ってくださっているのだろう。
溜め息をついて、とりあえずパンツを脱いで確認しよう、と思った。
トイレから出て洗面台の鏡に映る自分を見て、酷すぎるなと思う。髪はボサボサで、大して上手くもないメイクは取れ、顔は赤かった。女子力があまり高くない私は常にメイク道具を持ち歩いたりしない。勿論櫛も。こんな風に泊まるなんて予想しなかったから。
下着の替えだって無い。まあ、もう電車もバスも動いている時間だ。コーヒーを頂いたら帰るだけだ。幸いパンツに血はつかなかった。念の為ナプキンはつけたし。
髪を手櫛で整え、気休めにリップを塗った。
すると、夜、五十嵐さんに何度も髪を撫でられたことや、何度もキスをしたことを思い出してしまい、また顔が火照り出す。
(うわ~……どんな顔をしてリビングに行ったら良いんだ……)
恥ずかしさからもうこのまま玄関から外に出て帰ってしまおうかと思ってしまう。
でもさすがにそれは失礼だから、深呼吸を数回して心を落ち着かせ、リビングに行った。
リビングに入るとコーヒーの良い香りがした。暖房もつけてあり暖かい。
いつの間にか外は明るくなり、照明をつけなくても良いくらい日が昇っていた。リビングは青色を基調とした男の人らしい部屋だった。シンプルに見える家具でもデザインが素敵だなと思うものばかりだった。
「ソファーに座って待ってて」
「は、はい」
言われるがままにソファーに腰掛けた。何となく背筋が伸びて前の方に座ってしまう。
「コーヒーに砂糖やミルクは入れる?」
「いえ、大丈夫です」
いつもは入れるのに断ってしまった。これ以上私を気遣わなくていいですと、言いたかったのかもしれない。
「どうぞ」
持ってきてくださったコーヒーはほかほかと湯気が出ていた。
「ありがとうございます」
飲んでみると熱かったけれど、苦い後に香りが口に広がって美味しいなと思えた。ブラックコーヒーなんて初めてかもしれない。家で飲む時はいつも当たり前に砂糖を入れていたし、自販機やコンビニで買う時もカフェオレを選んでいた。飲めないと思っていたけれど、味覚が変わってきたのかもしれない。それかこのコーヒーが高くて良い物なのかもしれない。
一息ついたところで「ひなのちゃん」と呼び掛けられた。
「ごめん。酔ったまま勢いでしてしまって、最低でした。本当にごめんなさい」
改めて頭を下げられた。
よく分からないけれど、謝罪の言葉を聞くと悲しくなった。
「いえ、私も……ごめんなさい」
抵抗もせず受け入れたのは私だ。むしろ謝罪させてごめんなさいと思う。
「体は大丈夫?痛かったり気分が悪かったりしてない?」
「体は……足が痛いのですが、昨日は久能山に登ったのでただの筋肉痛かもしれません」
あと、股に違和感もあるけれど、さすがに言いづらい。でもきっと本当はそこを気にして言った言葉なんだろう。
「そうか……。ほんと、ごめんね」
また謝られてしまった。
そして無言になる。
居たたまれない空気から逃げ出したくなって、コーヒーを飲み干すと立ち上がった。
「私、帰ります。ごちそうさまでした」
「え……家まで車で送ろうか?」
「お酒まだ残っていませんか?顔色悪いですし。運転は危ないと思います。ここから駅近いですから私は大丈夫です」
もう謝罪の言葉を聞きたくない気分だったので、動きながら喋って玄関まで来ると「それじゃあ失礼します」と言って返事もまともに聞かずに部屋を出た。そのまま早足でエレベーターに向かった。
エレベーターの中で立っていると足がガクガクした。昨日の疲労が足にきているのかもしれない。
いや、きっとそれだけじゃない。部屋を飛び出してきてしまったことで心臓もバクバクしていたから、足が震えているんだ。
立ち止まると駄目だと思い、エレベーターから降りると早足で歩き出し、エントランスを出て駅に向かった。
私、期待でもしていたのだろうか。
夜中に目が覚めた時、私達はこれからどうなるのだろうと思ったけれど、どうにもなる筈がない。分からないふりをして相手の気持ちを試し、付き合うことを期待していたのだろうか。
さっきは何度も謝られたことに何故か胸が痛んだ。昨夜の行為は過ちなんだと言われているようだった。お酒の勢いというものかもしれない。もしくは離婚した時のことを思い出させてしまい憂さ晴らしをしたかったのかもしれない。
朝になり酔いも覚め、自身がしてしまったことに気がついて後悔している様子を見るのがいたたまれなかった。
ベッドの上であんなに優しかったのに。「痛くない?」とか「嫌じゃない?」とか、無理をさせることは全く無くて、凄く気遣ってくれ、優しく触れてくれた。
そして甘いキスをくれた。何度もして欲しいと思う程に夢中になる甘いスイーツのようなキス。
これではまるで……。
いや、気持ちがはっきりとする前で良かった。体を重ねたことで情が移っただけかもしれないし。優しく大切に抱かれ、勝手に愛されてると勘違いしてしまっただけ。五十嵐さんにとっては性欲が抑えられなかっただけに違いない。
きっと気まずくてもうサークルで会うことは無くなるだろう。ここで終わりにしてしまえば辛い思いをせずに済む。憧れのまま思い出に出来る。
相手は十歳も年上。イケメンで、素敵な絵を描く人。地味で、お酒も飲めない年齢で、可愛くもない私がどうにかなる訳が無い。
だから涙も出なかった。
ただ、体の違和感だけ翌日も残った。