2.優しい眼差しに肯定される私
朝のバスはいつも混む。なので座れないことが多い。それでも途中から座れることもあるので、運の良い日は座って本を読む。
推理小説はシリーズもので、すっかりハマってもう四冊目だ。本はパッカリと開く。何故なら今押し花の栞の代わりにポストカードを挟んでいるからだ。あの日にギャラリーで貰った厚みのあるポストカードはしっかりと本の目印になってくれている。そして美しい絵が、優しい眼差しが私の心を落ち着かせてくれる。
バスが大学に着いて、バスを降りる。
そしていつもの大学生活を送る。
今日は授業後、デッサンの課題のモチーフを探して校内をウロウロしていた。でも何処に行っても学生が居たり、通ったりする。そんなところで描いても落ち着かず、酷い絵になるだろう。教育棟に戻って絵画室を覗いてみたら幸いにも誰も居なかった。壁際に置かれた石膏像をモチーフ台の上に移動させてデッサンを始めた。
暫く描いているとスマホが鳴った。しのちゃんからメッセージが来たので開いて見ると、どこでデッサンをしているのかと書かれていた。
今日絵画の授業が無いのにスケッチブックを持っていた私にデッサンの課題を大学でやるのかと聞かれ、スケッチブックを家から持ってくるので一緒にやりたいと言われていたのだ。大学の近くに一人暮らししていてすぐに取りに帰れるのはとても羨ましい。
絵画室にいるとメッセージを送り、デッサンの続きをする。
デッサンは実は少し苦手。形を捉えるのが難しいし、微妙な凹凸を繊細に表現するのが上手く出来ない。
それでも課題はこなさなければ。静かな絵画室で黙々と描いていた。
そうしてどのくらいが経ったか分からない頃、絵画室の扉が開いた。
「ひなのちゃん!来たよー」
声に振り向くと、しのちゃんと他にも同じ学科の子達がいた。
「やっほー」
「皆も一緒に課題やりたいって」
「お邪魔するねー」
聞いてなかったのでちょっとびっくりした。
「大丈夫だよ」
何と返答するのが正解か分からないから、少し謎の返答をしてしまった。大丈夫だよって何が大丈夫だよって心の中で自分につっこんでしまう。
一緒にやることは嫌じゃないし、ここは絵画室で授業以外は自由に使って良いと言われている。私が占有して良い訳じゃない。ただ先に来ていたというだけ。
だから断るということは絶対に無い。
何て返答をするのが正解だったのだろう。
……分からない。人付き合いの苦手な私はこういうとき本当にどうしたら良いのか分からない。
皆は椅子やイーゼルを持ってきて同じ石膏像を囲み、何でもない話をし合いながら準備をしている。
私は何が正解だったのかを考え出してしまって、デッサンに集中出来なくなってしまった。そして皆の会話が耳に入り、余計に手が止まってしまう。
完全に集中力が切れてしまった。
「私、お菓子買ってくるね」
気分をリセットさせようと皆にそう言って、「いってらっしゃーい」という声を聞きながら絵画室を出た。
どうして私はこうも人付き合いが苦手なのだろう。こうしていつも突然思考に引っ張られる。
購買部に入ると、この時間は授業中だからか人が少なかった。チョコレート菓子が食べたくてどうしようかと迷いながらも、結局いつもと同じお菓子を選んでしまっている。
店舗を出て絵画室に戻ろうと階段を上ろうとしたところで声を掛けられた。
「あれ?君、この間の子?」
名前じゃなかった。ということは私じゃないかもしれない。私かと思って振り返って私じゃなかった時の何とも言えない恥ずかしさに、今の私は耐えられそうもない。なので振り返ること無くそのまま階段を上った。
「ちょっと待って!」
ガシッと手首を掴まれた。振り返るとギャラリーで会った作家の"蒼"さんだった。
「やっぱり!この間は来てくれてありがとうね」
「いえ……」
今日も爽やかで社交性抜群な笑顔でお礼を言われた。
「次は横浜でやるからそのチラシを持ってきたんだ。また美術科の掲示板に貼って貰おうと思って。君も良かったら見に来てね」
私は何も質問していないのに、今日わざわざ大学まで来ている理由を教えてくれる。
「行けたら……」
「そうだよねぇ。横浜だしね。来れたらで全然いいよ」
それだけ言って「じゃあ」と私の手首を離して去って行った。
掴まれた手首が震えているのに気がつく。男の人にこんな風に触れられたことなんて無かったので、心臓のバクバクが治まらない。しかも、私はあの人の絵のポストカードを栞代わりにするくらい気に入っているのだ。あの人は私がそうしているとは思いもよらないだろう。
まだ手首を掴まれているような感覚が残っている。強い力だった。そして大きな手だった。
殆ど初対面なのに躊躇い無く話し掛けて異性の体にも触れてきて、凄い積極性のある人だなと思いながらも、こんな震えている手ではもうデッサンなんて出来そうにないなとも思った。
この動揺が落ち着くまで絵画室に戻れそうもない。トイレに寄って時間稼ぎをすることにした。
トイレの鏡に映る自分を見ながら大きく息を吐いた。心を落ち着かせたかったけれど落ち着いたかどうか分からないくらいフワフワしている。この大学の実技試験当日に味わった感覚に似ているかもしれない。あの時は緊張していたけれど描き始めると手が勝手に動き出した。何故だか分からないけれどとても集中出来て、納得のいく絵が描けたのだ。あれを程好い緊張感と言うのだろう。
無駄な思考を排除さえ出来れば今日も描けるだろうか。
よしっ、と心を決めてトイレを出た。
そんな私を待ち受けていたのは、さらなる動揺だった。
絵画室に戻るとまさかの"蒼"さんがいたのだ。
しかも、私が使っていた椅子に座って、学科の女の子達と楽しげに会話をしていた。
足が止まってしまったのも仕方がない。
「あ、ひなのちゃん!遅かったね~」
しのちゃんが私に気がついて声を掛けてくれる。その声に促されるように皆が私を見る。一斉に視線が集まり一気に心拍数が上がるのが分かった。人の視線を集めるのは苦手だ。
「お、さっきの子!」
返答に困り何となくペコリと軽く頭を下げる。
「ひなのちゃんのこと知ってるんですか?」
「ひなのちゃんって言うんだね。この間俺の個展を見に来てくれたんだけど、さっき購買部の側で会ってお礼を言ったところだったんだよ」
「ひなのちゃん、見に行ってたんだね」
とりあえず頷いておく。
「もしかしてこの席はひなのちゃんの場所だった?勝手に座ってごめんねー」
そう言って立ち上がって席を空けてくれた。でも"蒼"さんはまだ側に立っているので、恥ずかしくて椅子に戻れそうもない。足が動かないのだ。
それに普通に今私のことを「ひなのちゃん」と言った。何とも気軽に馴れ馴れしく。ほぼ初対面だった人に対してこうも自然に一気に距離を詰められるなんて、本当に凄いなと思ってしまう。
挨拶をしたらもう友達だと言う人が居るけれど、この人もそう言う類いの人なのだろうか。
「ここの皆に横浜の個展の宣伝してたんだ」
よく見れば皆あのポストカードを持っていた。
何故だろうか。少し寂しい気持ちになる。
「ひなのちゃん、デッサン上手だね」
「え……」
思いがけない言葉を掛けられた。苦手意識のあるデッサンなのに、驚いて返答できなかった。
「しっかり形を捉えられているね。俺なんかより全然上手いよ」
「えー!画家さんなのにですか!?」
しのちゃんのツッコミに同意だ。
「ははっ!そうだねぇ。入学したばかりの頃は学科内で一番下手だったかもしれない。それでも好きな絵を沢山書いてたら画家になってたよ」
好きこそものの上手なれ、というやつだろうか。
でもあれだけ上手いのだから、学科内で一番下手というのは謙遜して大袈裟に言っているだけではないのだろうか。"蒼"さんが描く絵は本当に上手かった。色の美しさだけでなく、鳥の羽根は柔らかそうで毛羽立ちも細かく描かれていたし、蝶の羽根の模様も細部まで書き込まれていた。花や葉は自然の作り出す反り返しを忠実に描き、生きているようだった。そして迷いの無さそうな綺麗な線で描かれていた。
私のデッサンが上手というのも、お世辞なのだろう。
「そうなんですか。凄いですね」
「ありがとう。皆も課題頑張ってね。俺はそろそろ行くよ」
"蒼"さんが私に向かって歩いてくる。
一歩、二歩、三歩……
前に立つ。
「デッサンの続き、どうぞ?」
続き……座ってってこと……?
そしてハタと自分の立っている位置に気がつく。絵画室の扉の前に突っ立っていた。これでは部屋から出られない。
慌てて横にずれて通り道を空けた。
「すみません!どうぞ……」
先日のギャラリーでの反対だ。あの時は私がギャラリーから出るに出られなかったけれど、今日は私が道を塞いで出られなくしてしまった。
もう恥ずかしくて顔を上げられない。
私の頭の上でフッと微かに笑う声がした。
「ありがとう、ひなのちゃん。アリアス良い感じだね。髪の毛の描き込み頑張ってね」
そして絵画室を出ていった。
私はアリアスの石膏像を選んだのを少し後悔していた。あの髪の毛を描く集中力が切れていたからだ。
でも"蒼"さんの言葉に何だか嬉しくなってしまって、その後皆のお喋りが気にならない程に集中することが出来て、デッサン課題を無事に終わらせることが出来た。
次の日の絵画の授業で、順番に回ってきた先生にデッサン課題を見せたら「いいね」と言われた。滅多に褒めたりしない先生なので嬉しかった。
授業後、友人達にも「赤井先生に褒められてなかった!?」「凄くない!?」「赤井先生が褒めてるの初めて聞いたよ!」と言われた。そのぐらい滅多に褒めない先生なのだ。
今日は絵画の授業で講義も終わり。美術科の掲示板をチェックしに準備室の前に行くと、絵画の赤井先生と事務員の女性が雑談をしていた。
「あ!えっと……神永さんだっけ?」
事務員の女性が私に気がついて声を掛けてきた。
「はい」
「五十嵐くんの個展、見に行ってくれたんだってね。ありがとう」
「あれ、そうなの。神永さん、五十嵐くんの個展を見に行ったんだ」
先程デッサンを褒めてもらった赤井先生ににこやかに話し掛けられた。殆どまともな会話をしたことがない先生。授業では、いい加減なデッサン課題をしてくる学生には厳しい台詞を言う少し怖い印象の先生だったけれど、こんな笑顔もするのかと内心で驚いた。
しかし、五十嵐くん……?
「五十嵐って……"蒼"さんのことですか?」
「そうそう。五十嵐蒼くん」
名字を知らなかった。チラシの作家名には名字の記載が無く"蒼"としか書いてなかった。
「はい、見に行きました」
「どうだった?感想は?」
赤井先生にそんな風に問われて少し緊張する。どんなことを言ったら良いのだろう。分かってないな、みたいに思われたらどうしようと、そんなことを考えて思考が片寄ってしまい、格好良い台詞が思い付かない。
「そうですね……淡く綺麗な色の素敵な作品ばかりで、楽しく見させて貰いました」
結局こんな台詞。
もっと語彙力が欲しい。
感じたことを言葉にする表現力も欲しい。
「確かに、彼は綺麗な色を出すよね。描写力も高いし、勉強になったんじゃないかな」
「はい。私もあんな風に描けるようになりたいと思いました」
「五十嵐くん、昔はあんまり上手くなかったんだよね」
「そうなのですか?」
「在学中にどんどん上手くなっていったんだよ」
「五十嵐くんは赤井研だったんだよ。赤井先生に厳しく指導してもらって上達しましたよね」
「そんなに厳しく指導したつもりはないけどね」
昨日、学科内で一番下手だったと言っていたのは嘘でも大袈裟に言ってた訳でも無かったのかもしれない。
それだけ努力をしたということなのだろう。
もともと才能もあったとは思う。あんな綺麗な色を出せるのは感性が素晴らしいからだと思うし。
もっと頑張ろうと思った。
もっと上手くなりたい。上手くなって"蒼"さんみたいに画家になりたいという訳ではないけれど、絵と向き合いたいと思った。それがどう将来に繋がるのかは分からないけれど、折角大学で学ぶ機会を貰ったのだから、存分に追求するのも良いのかなと思った。
帰りのバスの中で鞄の中の本を開いた。栞にしているポストカードの中の女性は私に眼差しを向け『それで良いと思うよ』と言ってくれているような気がした。