1.私が一目惚れをしたのは
大学に入学して半年が経った秋、私はその人の作品と出会った。
大学の長い夏休みが終わり、まだ暑さの残る中、後期の授業が始まった。日差しに照らされながら大学校内の階段を上るのはなかなかに辛い。汗をかきたくなくてもじわりと額に滲み、次第に首や背中を伝っていく。汗じみが出来てしまうなとか、日焼け止めが取れてしまうなとか、化粧も崩れてしまうな、と思う。
化粧といっても大学に入ってから始めたので、こんなやり方で良いのかな、と思ってしまうような程度の化粧だけれど。
だから化粧道具を持ち歩くこともなく直したりしない。日焼け止めだけ後で塗り直すくらい。
そんなことを考えながらもやっと教育棟まで登ってきて、掲示板のところで立ち止まる。ここは日陰で、後期の授業開始の日でもあり、学生で溢れ返っていた。これだけ人がいたらたとえ日陰でもムンっと熱気を感じる。階段を上ってきて自身の体が火照っているから余計にそう感じるのかもしれない。
ちょっとふうっと息を吐きたくもなる。暑いのも人混みも苦手だ。
風が吹き抜ける涼しい場所を見つけて、目当ての掲示板の前が空くのを待っていたら、友人に声を掛けられた。
「ひなのちゃん!」
「しのちゃん。おはよう」
「おはよう。今日暑いねぇ」
同じ学科の友人で、一番仲良くしてくれている。でもとても活発な子なので、サークルでも学科内でも他学科他学部の人とでも、誰とでも仲良くて交流が広い。優等生タイプなのか、マイペースな私にも話し掛けて側にいてくれ、そして自然と周りに人が集まってくる。
掲示板を見ようと思っていたのに、しのちゃんは既に情報を得ていたようで、教室に行こうと誘ってくれた。歩きながら全部教えてくれる。なんて情報網だろう。友人が多いとそうなのだろうか。
必須の授業なので同じ学科やいつも合同で受ける他学科の学生が沢山いる教室に入る。何となく同じ学科で固まって座っているので、しのちゃんに連れられるまま席に座る。
「さっき美術科の掲示板を見てきたけど、一年生に関する掲示は無かったよ」
もう座って待っていた学科の友人が教えてくれた。そっちの掲示板もチェック済みなんて、何時に来ていたのだろう。
確かこの子は大学の近くで一人暮らしだった。
私は実家暮らしでバスで通っている為、どうしてもいつも同じ時間になってしまう。一人暮らし、ちょっと羨ましい。
「教えてくれてありがとう」
「でも、夏休み中にチラシがいっぱい入れ替わってた」
「どんなチラシ?美術展とか?バイトとか?」
しのちゃんが更に詳しく聞く。
私にはこれがなかなか出来ないのだ。だから会話が続かないのだろうな。後で自分でチェックしようと思って会話が終わってしまうのだ。
「美術展と、ワークショップのお知らせと、あと個展のチラシがあったよ」
「ワークショップって、面白そうなやつ?」
更に詳しく聞く。
だからしのちゃんは情報網が凄いのだろうな。
「小学生向けのやつ。補助員募集のお知らせは無かったよ」
「そっかぁ。ありがとう」
それから別の人も加わり、話はどんどん変わっていく。夏休みの話、サークルの話、秋の学祭の話……先生が来て一旦話はストップしても、終わるとまた再開する。次の授業の教室先でランチをしながら話が続く。
それを私は適当に相槌をうちながら、聞いている。話を振られたら端的に答えるだけ。
大学での日々は、後期になってもそんな感じだった。
授業が終わり皆はサークルやバイトに向かう。私は帰りのバスまで時間が余っているので、掲示板をチェックしに行った。
友人の話を信用していない訳ではない。自分でもちゃんと確認したい性格なだけ。あと、チラシを見たい。
美術展はもう見に行ったものや、まだ始まっていないものだった。横浜は電車代がかかるなぁ、なんて思いながら、ワークショップのチラシに目を移す。小学生対象の絵本を作るイベントだった。「秋の夜長」「読書の秋」なんて言葉が並んでいた。
更に横に視線をずらすと、静岡駅近くのギャラリーでの個展のお知らせだった。淡い色味の綺麗な絵を描く人のようだった。
「綺麗な絵でしょ。良かったら見に行ってやって」
掲示板の向かいにある準備室から事務員の女性が出てきて声を掛けられた。
「綺麗ですね」
「ここの卒業生だよ。だから先輩だね。まぁまぁ良いヤツだよ。才能は確かだし」
そしてチラシを差し出された。
「こいつ、チラシをいっぱい置いてったんだよ。こんなに捌ききれないっていうのに」
苦笑いしながらチラシを受け取った。
折角だし行ってみようかなと思った。綺麗な絵だったし、静岡駅はいつもバスの乗り換えで降りるし、寄っていってもそんなに帰宅が遅くなることは無さそうな距離だし。
何より美術展と違ってタダだ。
貰ったチラシを鞄のクリアファイルに入れて仕舞った。事務員の女性に挨拶をして大学のバス停に向かうことにした。
「皆にも宣伝しといてー。チラシならいっぱいあるからって」
事務員の女性の声が背中に届き、振り返りまたしても苦笑いしてぺこりと頭を下げてから歩き出した。
午後になっても今日はまだ暑い。なるべく日陰を探して校内の端を歩いた。でもベンチで談笑する学生がチラホラいて、そういうところは近づきすぎないように距離を取ったので、日が傾いて昼間より近づいてきた様に感じる日差しに晒された。
早く夏が終われば良いのにと思う。十月なので正確には、夏のような日か。
バス停に着いて暫く待つとバスが来た。混んでいないので後方の席に座り、本を鞄から出して押し花の栞が挟んである所から読み始める。本好きの両親の本棚から抜き出してきた本だ。多分、二十年位前に結構売れた推理小説。少し紙が汚れているのが古本っぽい。静岡駅まで黙々と小説の謎にのめり込み読んでいた。
バスの乗客が続々と降りていく気配に気がついて、慌てて本を閉じ鞄に仕舞ってバスを降りた。
いつもはそこからまた別のバスに乗り換えるが、今日はギャラリーに行くので市役所の方へ歩き出す。
市役所から公園に向かって真っ直ぐ長く続くシンボルロードの、両端に植えてあるケヤキの陰になっているところを選んで歩く。それでも日中に比べれば暑さはマシになった。
この通りにあるモニュメントも結構好きだったりする。ユニークで、もう何度も見ている筈なのについ目を向けて見てしまう。
そこで一度立ち止まる。確かこの辺にギャラリーがあった。鞄からチラシを出して、地図とギャラリー名を確認する。
(リーフ……ギャラリー)
チラシから顔を上げて周辺のお店を順に見ていく。そして扉が開け放たれ、その奥に絵が何枚も飾られた店を発見した。
ああ、あの絵だ、と思った。
淡い色味のどこかメルヘンな感じのする絵。
ギャラリーの中を覗くように見ると、美しい白壁に掛けられた絵一枚一枚に暖かみのある照明が当てられ、絵の淡い雰囲気に合っていた。
少し勇気を出して足を踏み入れる。
「いらっしゃい」
ギャラリーの奥から声が聞こえた。けれど、受付のような所からグレーヘアがチラリと見えただけで姿を現すこともそれ以上声を掛けられることも無かったので、絵を見させて貰うことに。
全体的に淡い色味の印象を受けるけれど、モチーフの花や女性は大胆に配置され、モチーフ自身の華やかさや力強さを感じられる。
(なんて綺麗な色味の配色なんだろう)
博物画のような精密に描かれた花や鳥や蝶は基本線だけで、全体的に乗せられた色が本当に綺麗なのだ。淡い色が絶妙に混ざり合う。
そして描かれている女性と目が合う。
何事か問い掛けてきそう。相手を威圧する眼力では無いけれど、心の内を探られそして見透かされ、全てを暴かれてしまうような感覚がする。でも不思議とそれが怖いと思わないのだ。大丈夫だと、受け入れてくれているような気がしてきてしまう。
「その絵が気に入ったかい?」
突然話し掛けられビクッと肩を揺らす。恐る恐る振り返るとグレーヘアがとてもダンディーな男性がすぐ側に立っていた。
「はい……」
喉から出てきた声は驚きと戸惑いを十分に表す程の頼りないものだった。それを感じ取ってか、優しく微笑んで、眼鏡の奥の目が細くなる。
「突然声を掛けて驚かせてしまって悪かったね。学生さんかな?」
「はい」
「今作家が出ていて居ないんだ。まあ、気が済むまでゆっくり見て行っていいからね。私は奥に居るから聞きたいことがあったら声掛けて」
「はい。ありがとうございます」
そして奥に去って行った。
優しそうな人だった。ギャラリーのオーナーさんだろうか。
絵画作品の下には作品タイトルの他に値段も貼ってあった。販売もしているのだろう。SOLD OUTと書かれたものもある。決して安いものではなく、万は越えている。私が学生だと分かって、購入しに来たのではなく、勉強の為に絵を見に来たのだと思ったことだろう。それで話を止めて奥に消えたのだと思った。購入しそうにない客には押し売りしないのだと。
心の中でその通りです、ごめんなさいと謝りながら、会話が終わってホッとした。「気が済むまでゆっくり」という言葉に甘えることにしよう。
そしてそこから静かな空間で、一枚一枚の作品をゆっくり眺めさせて貰った。
全部を見終わって、ギャラリーの外が夕暮れに染まっていることに気づく。そんなにも夢中になって見ていたのだろうか。確かに心地の良い時間だったけれど。見終わってしまってどこか寂しささえ感じてしまう。私はどうやらすっかり絵の虜になってしまったようだ。
帰ろうと思った。ギャラリーが何時まで開けているのか分からないけれど、もしかして私が帰るのを待っていて閉められないとかだったら申し訳ない。
オーナーさんと思われる人にお礼を一言言うべきだろうか。そのまま立ち去るのも気が引ける。けれど、人に話し掛けるのは苦手なのだ。
どうしようと思いながら奥に視線を向けてみると、すぐに私の視線に気がついてニコッと笑顔を返してくださった。
「もういいの?」
「あの、ありがとうございました」
頭を下げてお礼を伝える。そして足を出入口に向けた所で「ちょっと待って」と声を掛けられた。再び視線を戻すとこちらに近寄ってきた。
「これ、ポストカード。今度は横浜でやるんだって。横浜までは行かないかもしれないけど、作品のポストカードだから記念にどうぞ」
差し出されたポストカードは、さっき私が夢中になっていた女性の絵のものだった。
「ありがとうございます」
受け取って裏を返すと、横浜での個展のお知らせが載っていた。また表に戻し絵を見る。私には買えないけれど、この絵のポストカードが貰えて嬉しくて心が喜んでいるのが分かる。
もう一度頭を下げて今度こそギャラリーを出ようと歩き出した所で、出入口から人が入ってきてまた足を止める。
作品を買わないのにいつまでも居座っている人みたいになってないだろうか。上手く去ることが出来ない。ちょっと恥ずかしさもあって顔を上げられず入ってきた人の足下を見てしまう。ちょっとサイズの大きなスニーカーだった。男の人だろう。この人が退いたら出ていこうと思った。
けれど、動く気配がなく、立ち止まっている。
「お客さん?」
「おかえり。そう。ポストカードを渡してあげたんだよ」
「ありがとうございます」
「お姉さん、この人がこの絵の作家だよ」
その声に反射的に顔を上げた。
美術科の掲示板でチラシを見た時、作家の名前は"蒼"としか書いてなかった。男性か女性かも分からず、でもそのミステリアスさが淡い色味のこの作品を際立たせているようにも感じていた。
でも目の前に居るのは、眼鏡を掛けた若い男の人だった。
知りたかったような、でも知らずにミステリアスな存在のままでいて欲しかったような、何とも言えない感情のまま目の前の人を見つめてしまった。
「学生かな?S大?」
「はい」
「後輩か。俺が持ってったチラシを見て?」
「はい」
「ちゃんと掲示板に貼ってくれたんだ。ちょっと無理矢理に沢山押し付けて来ちゃったのに」
無理矢理……押し付け……
事務員の女性が「コイツ」呼ばわりしてたのはそのせいだろうか。
「来てくれてありがとう」
何とも爽やかな笑顔でお礼を言われた。
美術科には結構シャイな人が多い。でもこの人はとても社交的な印象だ。私とは違うタイプ。
「……ポストカード、ありがとうございます。失礼します」
頭を下げる。オーナーさんらしき人には三度目だ。
私の「失礼します」の言葉で作家さんは出入口を空けてくれた。体を小さくしながら、空けてくれた道を通って外に出た。三度も頭を下げたのが何だか恥ずかしくて、振り返ることもなく早足でバス停に向かった。駅まで戻らなくてもここならいつもの路線が通るバス停が近い。私は夕日に向かって歩いた。