結
結
どうしてこんなことになったのだろう。
男はその光景を真正面から見ていた。
人々が黒い衣装を着て、俯いている。
もう彼は臭いを感じることはできない。
人々の中に、彼が望む人間の姿はなかった。
どうしてこんなことになったのだろう。
私は、人見知は後悔してもしきれない。
人見知は夢を見ていた。その夢を目覚めた彼が思い出すことはなかった。彼の中に残っているのはその遠い残滓、願いの欠片であった。忘れた夢はきっと彼が望んできたことが叶っていた夢で、それがもう叶わないことだと分かっているから、夢見た感情がまだ残っているに過ぎないのだろう。
彼は起床し、カーテンを開ける。部屋の中は寒く、外はきっとその部屋より寒いだろう。彼はそとの様子を垣間見ることができなかった。窓には外が見えないほどに結露が起こっていたためである。
まだ、雪は降らない。
それだけを確認すると、知は階下へ降りた。
知は人の気配を窺いながら階段を下りた。照明は既に灯っている。彼の妹、人見瞳が点けたのだ。それは彼にとっては当たり前なので、知は何も気にせず日常の習慣を送る。
リビングには温かく食欲をそそる臭いが満ちていた。テーブルの上に食事が一膳置いてある。それは妹の瞳が作ったものである。それを知は知っていた。知は椅子に腰を下ろし、手を合わせる。数秒間神に祈るかのように手を合わせ続けると、やっとのことで一言「いただきます」と声を発し箸を手に取る。その言葉はしみじみと、そして、やけに重たい響きを持っていた。知はこの行為を毎日欠かさずやっていた。食事を作った人間にこの上ない感謝をしていた。
知が食事を終えた頃に階下へと降りる階段を何者かが下りる音が聞こえた。それが誰であるのかを知は分かっていた。その人物はリビングに寄ることなく、知と顔を合わせることなくこの家を出て行くだろう。それも毎日繰り返される行為の一つであった。
知は食事を終えると、キッチンに食器を持っていく。シンクには水に浸けてある食器が水に浸けられていた。知はその食器と自分が食べた後の食器を洗う。
家から最寄りのバス停で知はバスを待っていた。瞳はかつては一つ前のバスで早くに通っていたようであるが、今は自転車で通学しているようである。知ははっきりと確認したわけではないが、朝、自転車が一台なくなっていることに気がついていた。
のらりくらりと低血圧のような足取りでバスはやってくる。知はゆっくりとバスに乗り込む。揺れるバスの中、知は瞳が自分を嫌って初めからこのバスに乗らなかったことを思い出した。一度過去のことを思い出すと、さらにさらに遡っていってしまう。
記憶というものは往々にして後味の悪いものしか残っていない。それは次に危険を冒さないために脳が記憶しておくためだともいえる。それを反芻するのはずっと覚えておくため。だが、それはその人物が大切にしているものとは言えないだろうか。嫌な記憶を忘れないようにしているのはその記憶がそのひとにとって決して忘れたくないものだからではないか。
知が気が付いたときには彼の父と母はお互いに笑顔を見せるということはなかった。その時には母親の腕に抱かれた妹の瞳がいたような気がする。瞳の世話をしているのが母親で、知の面倒を見ているのが父親だった。だが、知はまだ幼いながらに気がついていたのだ。父と母が互いに互いを避けるために、目を背けるために自分たちの世話をしていることに。後々よく考えてみると自分たちは両親の心の距離をとるために生み出された道具なのではないかと考えるようになる。そう考えるようになるのはそう考えるに足る出来事がその後で起きるようになるからである。
知が両親がともにいる姿で思い出せるのがその場面だけであった。瞳はまだ乳飲み子で、知はそうなると2歳か3歳であったろう。だが、そのころには知は今のように達観したものの見方をしてしまうようになっていた。
親にぶたれるということはざらにあった。それは兄弟げんかの制裁などの些細なことであった。知は自分が悪いと思ったので甘んじて暴力を受け入れていた。近年になって家庭内暴力と言われるようになっているが、数年前まではざらにあった。痣ができるほどとなると相当であり、知もそこまでされることはなかった。人体というものは、人の殻の部分は思った以上に頑丈なのである。知もその点では頑丈過ぎた。だが、その殻に反して中身は、柔らかい子ども心は確実に侵食されていった。
今思ってみれば、親に制裁を加えられたことに対して自分が本当に悪かったのか、と考えることが知にはあった。あの頃は、自分が全て悪いということにしていた。そうすればとても楽になった。自分一人を憎んでいれば他の人間を憎まなくて済む。制裁を加える親も、憎まなくて済んだ。知は誰かを憎むことができなかったのだ。どこまでも純粋で、どこまでも親を信じていた。
親は片方しか家にいることが無くなっていた。父親がいないときには母親がいて、母親がいないときには父親がいた。二人が家の中で顔を合わせることはなかった。両方ともいないという空白の時間は存在した。
そして、その両親不在の空白の時間はだんだん、だんだん、広がっていった。
バスが動きを止める。目的地に着いたようだ。数人の生徒も降りようとしている。知は重い腰を上げた。
学校という場所は苦痛である。初めは知もそう思っていた。しかし、今はそんなことも感じられなくなっている。それは慣れなどという生易しいものではなく、心を停止させてなにも感じなくさせているに過ぎない。今の知はそうしなければ生きていけない自分自身に苦痛を感じている。
教室内では数人の生徒でいくつかの集団を作り、会話をしている。その内容は受験が主であった。もう年を越し、推薦を終えたものも数人はいるようだったが、多くは一般を控えている。それよりももうじきセンター試験であろう。そんな中、知は動く大きな影になって教室に滑り込む。誰も知に話しかけようとはしない。誰も知が入ってきたことに気が付く節はない。
知はこういうことには慣れていた。それは行動としてであって、精神の方は慣れることを知らない。だから、停止させている。誰も話しかけない常況は知が学校という場所にいる限りは必ず付きまとってきたものである。自分が周りに合い慣れないことを知っているから、敢えて、溶け込むようなことをしない。合い慣れない自分の大切な領域まで汚して、クラスという集団に馴染むことを知は潔しとはしなかった。
授業のチャイムが鳴る。このチャイムを再び聞くことはないと思うと、知は少し名残惜しくなるものかと思っていた。だが、就職先も決まり、あと一か月ほどしかチャイムの音を聞くことがないというのに、未だ、鐘の音が続くものだと思っていた。人間が学校に通っている期間など、一生に比べれば非常に少ない。それはあっという間に過ぎていく。それなのに。その大切な時を長く続くと思って青春を棒に振る輩は多い。
入試前なので、授業は自然と自習が増える。それは知にとって少し悲しい出来事だった。知は授業が好きだった。主体的ではない知が知識を得ることができるのが唯一学校の授業だったのだ。知は自分から気になったことを調べるということはなった。それは、あまりにも無益なものとしてやる前から行為を放棄しているのだったが、強制的に知識を教え込まれることは知にとって快感だった。知は知識を得るという行為が大好きだった。しかし、それを知は認識することはなく生活を送る。本当の自分などどこにも存在しないし、それをその人物が認識することはまず、ない。
暇な知は読書をする。周りが目をかっぴらきながら参考書との戦争を行っている中、知は浮いていると感じながらも堂々と読書をしていた。それを不謹慎と呼ぶんだと周りの生徒は思っているだろう。そのことに気が付きながらも知は読書をした。受験を控えていない自分が勉強をしても意味がないだろうし、許される範囲であると思っているからである。
知は小説を読んでいた。その本の作者は女性であるにも関わらず男性の名で書いており(そのことは公式にも知られている)そのくせ、内容は女性的であった。知はその作家に親近感を覚えていた。自分に似ていると感じた。
流れるような文体であるのに、その内容は乙女チックで胸に残る。それはあまりにも自分に似ていた。
知は何故自分が女性ではなく男声を好むようになったのか分からない。自分の中の記憶と照らし合わせて、そうではないかという理論を広げるばかりである。
知は父親に憧れていたのではないかと考えた。知から見た父親は、ろくでなしにせよ、大人の男として目指すべき姿であった。たくましい筋肉は少年のひ弱な肉体に喝をいれるにはちょうど良かった。男には父親を超えようとする本能があるという。それは生物的なものでもあり、また、大人から一人前に認められたいという子どもっぽい願望でもある。だが、それだけでは同性愛に発展はしない。契機にはなるだろうが、男なら誰しも持っている願望という点で絶対的な理由とは言えない。
知が女性を嫌いになってしまったというのが、彼を男性好きにする契機となった。
知は心が女性的過ぎた。
あまりにも傷付きやすく、周りの人間の心を感じ取ってしまう。そして、運動が苦手で活発ではない。それを女々しいと言って男性は嫌うかといえば、そうでもない。男というのは心の奥底に女性的な感情を携えている。それをアニマと呼ぶらしい。知の父親も猫が好きだった。そのことを教えていたのは家族の中では知だけだった。きっとそのことが嬉しかったのだろう。知は父親に好感を持っていた。だが、男性は表向きではそういうか弱い面を見せたがらない。それを男性的なペルソナというらしい。
そんな姿を見ているせいか、知は男性のそんな裏側を愛するようになっていた。そして、自分も表と裏を使い分けるようになっていた。それには女性からの拒絶という面もあった。
男に対し女は理想を押し付ける。その理想は知の本質に反するものであった。弱弱しく、可愛いものが好きである知に対し、彼の母親や妹は、男らしく生きることを望んだ。
自分が女性から認められないということは、知の心に大きな傷を残した。いつの間にか知は女性と話すことはなくなり、男だけのグループと行動を共にしたりすることが多くなった。
そのことを一番嫌っていたのは彼の妹である瞳だった。
物音がして、知は目を覚ます。もう授業は終わっていたようである。チャイムには気が付かず、生徒の話声で目覚めたようだった。知は自分が眠ってしまっていたことにも気づいていなかった。目を覚ました瞬間、寝ていたことに気が付いたのだった。
昼休み、知は教師に呼ばれていた。昼飯などは第二劇画部が崩壊したあの日から食べていない。帰り道に食べればよいと思い、知はあの日以降食べてはいなかったのだ。
第二劇画部は良いところだったと知は考えていた。そこは本当の自分をさらけ出してもよい、自由の象徴だった。自分が自分でいられる気がしていた。
だが、彼の妹が瞳がその平和を崩した。それは仕方がない事だと知は考えていた。知は妹が女性でありながら同性を好きであるということに気がついていた。
今、メンバーはどうしているのだろうか、と知は思った。一日に一度は考えることだった。瞳は活動に参加していない。あの二人だけでも活動することは難しいだろう。
「人見、本当に就職でいいのか?まだ間に合うんだぞ。」
一週間に一度ほどは教師に呼ばれ、このことを問われる。
「もう就職先は決まってますし。」
男性教師の前で顔の表情を少しも変えず、知は言った。
「だが・・・俺は惜しいんだよ。お前、勉強をあんなにも頑張ってたじゃないか。」
男性教師は涙を流さんばかりに言う。センター試験が近づくにつれ、この教師は涙っぽくなっている。だが、知に言わせれば、この教師は自分のことを何も分かっていない。別に知は大学に進学するために高校に入ったというわけではなく、ただ、なんとなくやっていたに過ぎない。成績が良かったというのは結果的にそうなっただけだ。
「はあ、そうですか。」
知はそう言う風にしか返せなかった。
「もう一度考えてみろ。大学には奨学金だってある。両親があんな―――」
知は大きな音を立てて椅子から腰を上げていた。知のことを見上げている教師はしまったという顔をしている。ということは、この教師は瞳と話し、地雷を踏んづけてしまったことがあるのだろうと知は予想した。
「失礼しました。」
瞳とは違い、多少申し訳なさを感じながら、知は教室を出て行った。
この性格は両親のどちらの遺伝であろうと考えながら知は教室を歩いていた。
両親が全く姿を見せなくなったのは知が中学生の時だった。だんだん親が食事を作らなくなってきていた時から知はこうなることを予測していた。このことに知はひどく傷付いた。親に見捨てられ平気な子どもなどいない。
知が一番気にしていたのは瞳だった。瞳は気丈に振舞っていたが、無理しているのがはっきりと分かった。知はそんな瞳に声をかけることができなかった。その頃から、瞳が自分を忌み嫌っているのをはっきりと自覚し始めた。そして、知が瞳を避け、瞳が知を避けるようになり、今のような一日も顔を合わせない生活が始まった。それゆえ、第二劇画部で瞳にあったときは非常に驚いたのだった。知は妹が髪を染めていることを知らなかったのだ。そして、思った以上に成長していることにも驚かされた。中学生から高校生までの間に人があれほど成長するとは思っても見なかったからだ。
中学生になって親が帰ってこなくなっても、お金は振り込まれていた。お金の引き出し方も知らなかったものだが、引き出しから通帳を見つけ、その通帳の近くに暗証番号の書かれた紙があった。そして、その通帳から学費等が引かれていることに気が付いた。それはどちらが用意していたのか知らないが、計画的に家に誰もいない状態になっても大丈夫なように仕組まれていたのだと感じた。それを親心と呼ぶべきかと言えば、決して呼ぶべきではない。だが、知にはそのことを恨むことができなかった。
だんだん、お金は振り込まれなくなっていた。高校生になって少ししたころ、完全に途絶えた。
だから、知は今、バイトの最中である。
さびれた町にも牛丼屋の一つはある。チェーン店で、かなり過酷な労働で有名な店であるが、知を雇ってくれそうなバイトはこんな場所にしかなかった。
「人見さん。そろそろ上がって大丈夫ですよ。後、店長が呼んでましたので、見つけて話を聞いてください。」
そう言われて、知は店内の狭い路地を店長を探し歩いていた。だが、探す必要などなく、知は店長を見つけた。
「お話とはなんでしょう。」
憂鬱な顔で俯いていた店長は知を見た。その顔は一瞬驚きを見せたが、しばらくして何か決意した、いや、観念した顔になった。
知は、嫌な予感がした。
「人見君。こんな場所ですまないね。」
そう言いながら、店長は唾を飲みこみ会話を続ける。
「実は・・・この店を閉めることになってね。」
「ということは・・・」
「ごめん。君は両親が帰ってこなくて大変ってことはよく分かる。でも、上からの指示なんだ。」
「じゃあ・・・」
「就職の方もなしということで。本当に済まない。」
頭を下げられても困るのだった。知は、現実の景色から自分の意識が抜け出るような感覚が巡っていた。
そして、今回も知は店長を憎むことができなかった。実際店長が悪いわけでもなく、本社を憎んだところでなんの問題の解決にもならない。店長は両親がいない自分のために就職まで手伝ってくれたのだ。
だから、知はどこに行けばいいのか分からなくなってしまった。
暗くなり始めたばかりの空には色々な人が歩いている。そのどれもが楽しそうというわけでもなかったが、知には何もかもが羨ましく映っていた。
自分はどうすればいいのか、という問いに対し、どうしようもないという答えしか見いだせなかった。今更大学など遅い。就職も、今となっては絶望的である。知は、心が折れてしまっていた。前に進むことができなくなっていた。
羨ましく映る人々の姿を見ながら、知は自分たちもこんなに楽しそうに活動していたのだという事実を思い出す。彼にとっては第二劇画部は美しい思い出であり、思い出にしてしまった自分を情けなく思い、この上なく後悔していた。
瞳が千里に告白するところを知は見ていた。そして、千里が瞳を拒絶する姿を見て、知は自分が拒絶されたかのように感じた。知には瞳の気持ちがよく分かったのだ。世界に合い慣れない自分が受け入れられることがないことを嫌というほど認識させられた。今日もその一部であると知は思ってしまった。
自分はどこにも受け入れられない。自分が変だから。男性を愛してしまっているから。
知は何もかも嫌になっていた。
そして、知はいつもそうである。辛い現実から逃げようとする。
家の明かりを点ける。瞳は帰ってきているはずだが、いつも明かりは消されている。瞳は自室に入って勉強をしていることを知は知っていた。
妹にどう顔向けすればいいのか知は悩んでいた。悩んでいても状況は改善しないのだが、今の知にはそれ以外できることがなかった。食事はいつも通り食卓に置いてある。それを口に運びながら、知は思わず涙を流していた。
美味しい。その美味しさが彼の悲しみに染みる。
申し訳ない。自分は瞳のためにバイトを頑張っていて、就職もしようとしていたのに、迷惑をかけてしまう。
自分など、いてもいなくてもどちらでもいい。むしろ、いない方が瞳の負担にならない。
自分に生きている意味などない。知はそう考えていた。それは今回のように辛い出来事があったからではなく、常に知が考えていることだった。それは彼の送ってきた過去から割り出された客観的な答えだった。
子どものころから誰も必要だと言ってはくれなかった。親はどちらも自分を捨てた。それは自分がいらない子だからだ。でも、一応は生きていた。自分は兄だから、妹を守る義務がある。例え嫌われていようとも。だが、もうそれにも疲れてしまった。
自分を必要としてくれた居場所があった。第二劇画部。だが、それも知が自分で潰してしまった。
彼にはもう戻る場所がなかった。
気が付けば、知はソファで寝ていた。朝日に起こされた。リビングにはすでに食事の臭いが漂っていて、すでに瞳の姿はなかった。知はかけられていた毛布を取り、目を開く。目には痛みがあった。泣いていたためである。ふと、何故毛布が掛けられているのかを疑問に感じた。その答えを思い立った瞬間、知は泣き出していた。
「ごめん。本当にごめん。」
妹に心配をかけて、知は非常に申し訳なく思った。情けなく思った。だから、謝った。本人のいないところで。そして、泣いた。彼の存在が消えた瞬間だった。
知は妹の作った最後の食事をじっくりと味わい、家を出た。学校に行くためではない。もうとうに学校は始まっている時間である。知は制服を着ている。昨日から着替えていないためである。
知はふらりふらりと町中を歩いていた。行きかう人は知が制服姿なので不審な目で見ているが、声をかける者はいなかった。
知は地に足が付いていない感覚だった。もう浮遊しているようにふらふらと移動している。幽霊に足がないというのはこういう感覚を表していたのだと知は変に納得していた。
朝が爽やかな理由を 君に教えることはできなかった
そうすれば君はきっと 僕から離れてしまうと思ったから
でも教えた方が 良かったのかななんて思っている
君が消えてしまうと分かってたなら 教えたってよかったんだろ
歴史にもしなんてあってはいけないけど 僕は考えずにはいられないんだ
どんなときでも君の手を 嫌な顔しても握っていなきゃ
君は鳥みたいに飛び立っていく子だったから
今の僕に残っているのは ただただ 後悔だけ
どこかから音楽が流れてくる。その音楽を知は知っていた。バイト中に何度も何度も耳にしていたからだ。知は歌詞も覚えていて、頭の中で歌詞を歌っていたが、口から出たのはメロディだけだった。何故今この曲だったのだろう、と知は疑問に思った。この曲は一度爆発的に人気をはくしたものの、また一瞬で消えていってしまったロックバンドの曲である。流行に疎かった知はバンドが解散してしまったことを知らない。知っているのはヴォーカルが女子高生であったことくらいである。女性にしては低めの声で、軽やかに、しかし、独特の声のせいで暗めになり、どっちつかずの曲になってしまっている。
題名は『彼女が羽ばたいたのは朝だった』である。
曲のせいであるのか、知が最後に選んだのは高いところだった。初めは学校を思い描いたのだが、迷惑をかけると思い、廃ビルを選んだ。通行人はいない。
知は自由になりたかった。兄という重圧から、現実という厳しさから、逃げ出したかった。だから、空を翔けることにした。
「くだらないね。」
誰もいないはずなのに、知に誰かが話しかけていた。知はそれを聞こえないふりをする。
「かつて学校の屋上から身を投げた一人の少女がいた。でも、彼女はそんなつまらない理由で空を飛ぼうとしたわけではない。」
手すりを越えてもたもたしていては見つかってしまう可能性がある。知は一気に飛び越えようと考えた。
「彼女は自由という名の可能性を夢見て飛んだんだ。その背中には翼があった。ただ、世界が彼女が羽ばたくことを拒否しただけさ。」
知は建物の下を覗いて、自分が高いところが怖かったことを思い出した。しかし、彼の決心は変わらない。
「最後まで世界と戦って一生を終えたあの子と世界に屈するだけで抗おうともしなかった君と一緒にしないでほしいね。」
知は飛び降りた。
それは、エスカレーターが下りる瞬間と似ていた。地面に近づいていく中で、あの地面に当たったら死ぬほど痛いんだな、と知は思った。
そして、何もかも終わった瞬間、死ぬほど痛いんじゃなくて、死んでしまうじゃん、と考えて、一生を終えた。
人の死が与える影響というのは極わずかである。それは確かに大きな衝撃である。人見知という少年が与えた衝撃は大きかった。多くの生徒に、第二劇画部の部員に、妹に大きな傷を残した。しかし、それで世界が何か変わったわけではない。人々の生活は少し変わった者もいる。でも、大したことはない。
世界というものからしてみれば、人の死など大した脅威ではない。死は終わりである。終わったものに何の脅威もない。世界が最も恐れていることは生きているものが既存の世界に対抗し、新たな世界を作り出すことである。一見、死した者が影響力を持っているかのような現象が起こる。だが、それを引き起こしているのは誰か。生きている人間である。死者の影響は生きているものなしに起こらず。死というのはあまりにも意味がない。
人見家之墓と書かれた石の前に三人の男女がいる。それぞれ線香を供え、手を合わせている。そのどれもが黒い服装に身を包んでいる。
ばか。
涙を流しながら瞳は声に出さず言った。瞳は怒っていた。もう、何が何でも兄に一言申さずにはいられない勢いだった。
瞳は墓石を倒した。ツルツルとしたこんにゃく色の物体は思った以上に簡単に倒れた。そして、中から何食わぬ顔で兄が出てくる。
私はアンタの助けなんかなくても生きていけた。自分がいないといけないなんて、驕りなのよ。
知は何が何だか分からない顔をしていた。
独りで何もかも抱え込んで。本当にバカ。私たちは家族だったでしょ?相談くらいしなさいよ。
だから―――
目を開け、顔を上げると、墓石は倒れてなどいなかった。全ては幻である。
だから、帰ってきてよ!
瞳は泣いた。
その場にいた慎仁と千里は何も言わず、瞳を支えていた。
そんな三人の様子を知は真正面から見つめていた。これは罰なのだと感じながら。彼は死んでから後悔の涙流していない。そう。もっと他にやりようがあったのだ。さっきの瞳の言葉は知の中に流れ込んでいた。ようやく、自分が間違っていたことにその時気が付いたのだった。
自分は愚かだった。そのことに気が付かなかったことが愚かだった。もっと、人に頼っていればなんとかなった。
「君たちはどんな未来も描いて行ける。そうだろう?死ってのがどんだけつまらないか。現に君の両親なんて一度も現れなかったじゃないか。」
急に景色が変わる。そこは同じ墓地ではあるが、瞳たちとは少し離れている場所だった。
「黒江銀?」
「ああ、言いたいことは分かる。そんな顔されるのには慣れてるから。」
見事な銀髪の背の低い少女が高齢者用の手すりに体重をかけてもたれながらに立っている。黒い衣装に全身を包んだその姿は―――死神に似ていた。
「不謹慎なことを考えてただろ?」
「分かるのか?」
「いや、みんなそんな顔するから。」
投げやりな感じで第二劇画部部長黒江銀は言った。
「お前は、その―――」
「死神じゃないかって?」
お道化たように銀は言った。知は銀が傷付いたことに気が付いた。
「ごめん。」
「死者に謝られても困るんだけどね。」
「お前は一体―――」
「別に幽霊ってわけじゃないからね、私は。うちもアンタんとこと同じで、親が色々あってね。」
そのとき、銀は初めて悲しそうな表情を見せた。それでもなんとかお道化て見せようと、泣いているのか笑っているのか分からない歪な顔になってしまっている。
「知は後悔してる?」
黒江銀はいつも知のことを呼び捨てにしていた。彼女は知より学年が一つ下である。
「・・・ああ・・・」
知は瞳たちのいる方に目を向けられなかった。
「何に後悔してるの?自分の死が大したものじゃなかったってこと?それとも、死ぬって行為自体?」
知はこの少女が自分以上に死に対し苦痛を感じていることを知った。彼女の笑顔はきっとそのためにある。
「俺が後悔しているのは―――みんなを悲しませたことだ。」
すると、ふふふ、と上品な笑いを銀はした。腹を抱えるほど笑いたいのに、その笑い方を知らないかのような笑いだった。
「変わらないね、知は。でも、気付いてる?それがそもそもの原因だって。」
「⁉」
「私、わざわざ歌まで歌って、ビルの屋上でも言ってたのに、まだ気が付かない?」
銀は怒っている。しかし、それを笑顔で隠している。その中の悲しみも深い。知には分かった。
「あれはお前が?」
「そんなんじゃ、何も変わらないよ?早く気づきなよ。大切なことは一体何だい?」
「それは―――世界と戦うこと?」
「そのためには何が必要なんだい?君はもう気がついてる。」
「―――守りたいもの・・・いや、違う。守りたいという自分の意志。それを叶えたいという正直な心。自分を偽らないこと。」
「ほんと、できれば死ぬまでに気がついて欲しかったんだけどね。」
「そうだな。」
「後悔は拭いきれないかい?」
「ああ。」
もう遅いのだ。私は、いや、俺は取り返しのつかないことをしてしまったんだ。
「でも、私たちと関わる中で後悔ばっかりじゃなかったでしょ?思い出してごらんよ。私たちの過ごした儚い日々(マジックアワー)を。」
『最強の生徒会副会長黒江銀編』へつづく・・・?
最強の生徒副会長黒江銀編に続くかはわかりません。もし書くのなら、ハッピーエンドに、かつ明るくラノベ風に仕上げたいと思います。
どなたかが書いてくださっても構いません。