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どうしてこんなことになったのだろう。
少女の言った言葉に私は何も考えられなくなっていた。どうすればいいのか分からない。
少女は逃げ出した。私は追いかけることもできずにただその場で呆然と立っているばかりであった。
どうしてこんなことになったのだろう。
私、浅田千里は後悔している。
緑色のカーテンを通して朝の光が千里の部屋を照らし出す。その光のくすぐったさに目を覚ました千里は緑色のカーテンを開き、オレンジ色のパジャマいっぱいに朝の光を取り込む。
「今日はいい天気ではないかもね。」
千里はそう言った。
「まあ、こんなにのんびりしている暇もないんだけど。」
寝室のある二階を下りる階段からいい匂いが漂ってきている。
「もうみんな起きてるのかな。」
リビングに入ると途端にコーヒーの臭いが漂ってくる。このコーヒーの臭いは独特で他に形容しがたいな、と千里は思った。
「おはよう、千里。葦樹起こしてきてくれない?」
母親がリビングに入ってくるなり言った。
「えー、めんどくさい。」
千里はそう言ってぶーたれる。何事にも動じていない父親は黙ってコーヒーを一口すすった。
「そのくらいいいじゃない。まあ、そのくらいいいんだけど。困るのは起きてこないあの子なんだし。」
どっちなんだよと千里は思ったが言葉を飲み込む。
千里は元来それほど言うことを聞かない娘ではなかった。なので、千里の母親はそれを許したという節がある。そして、千里にも弟を起こしたくない理由というのがあった。
それは、思春期の少年の朝に春のタケノコのように出てくるものが原因である。
「がぁぁぁぁ。」
千里は頭の中に浮かんできたイメージを薙ぎ払おうと乙女にあるまじき声を出す。かつて不用意に弟の部屋に入り、その光景を目の当たりにした経験があり、そのとき長い間弟と無言で睨みあった記憶は千里の中でトラウマと化していたのだ。
千里は気を取り直し、朝食を口にする。朝食は毎日同じパンである。毎日同じ、焼くだけで調理の終わるパンであるのになぜ母親はキッチンに立っているのだろう、と千里は常に不思議に思っている。
毎日流れているニュースを千里はふと眺めていた。普段も大して気に留めないのだが、少しは感想があったりはする。今日のニュースは児童虐待で子どもを殺した父親が捕まったというものだった。
千里は向かい側に座っている父親をそっと見る。父親も同じくテレビを見ていたが、大した反応もない。
児童虐待など身近にあるのだろうか。
それが千里の感想であった。目の前の父親は千里に暴力を振るったことなどほとんどない。あるとしても、子どもの頃威張っていたガキ大将の上級生の男子をボコボコにした時、拳骨をくらったくらいである。そのあと千里の父は千里に「男にはプライドっていうもんがあるから、あまり男を倒すのは止めてあげてくれ。」と言った。後々千里は母親から聞かされたのだが、父親は昔千里の倒したガキ大将のような子どもだったらしい。だが、ある日転校してきた下級生の少女に口げんかで敗れ、カッとした父親はその少女に痛い目を見せてやろうと思ったらしいのだが、逆にコテンパンにされてしまったらしい。だから、その男の子のプライドのために千里に拳骨したと母親は言った。だが、疑問に思った幼い千里は言った。
「なんでお母さんはそんなにお父さんのことを知ってるの?」
普段からあまりしゃべらない父親が母親に自分の恥ずかしい思い出を話すとは千里には思えなかった。すると母親は言った。
「だって、その転校生の美少女が私だもん。」
その後千里の父は母に頭が上がらず、子分として使役され続けたらしい。そんな二人が何故夫婦になったのかが千里には謎であった。ただ、千里が思ったのは父があまり話さないのは母に頭が上がらないからなのではないか、ということだった。
ニュースを見ながら千里は、あの時のガキ大将は元気かな、などと関係のない事を考えていた。ちなみに千里はそのガキ大将の名前を覚えてはいないし、思い出そうともしなかった。
ふと千里は思う。自分が他のことを考えながらニュースを無関係に見ていられるのは自分があまりにも幸福だからなのではないか、と。父親も興味がなさそうにニュースを眺めている。
世界には至る所に不幸が転げ下りてしまっているというのに、幸福な私たちはそのことに気が付かず、のうのうと暮らしている。
千里の家から高校までは徒歩で軽く30分はかかる。なので、近所のF高生は自転車で通っている。が、千里は徒歩で通っている。それは千里が徒歩を好んでいるというのもあるが、自転車が怖いというのも理由の一つであった。それは、千里が自転車に乗れないということではない。千里は自転車に乗っていて誰かに怪我をさせたらと思うと萎縮してしまうのだった。自転車に乗っていて誰かをはねたという経験は千里にはない。ただ、授業の中で自転車に乗っていて怪我をさせ下半身不随になってしまった話を聞いてしまってからは、いつか自分が怪我をさせてしまうのではないかと気が気でなくなってしまったのだ。その話を聞くまで自転車を悠々と乗っていた千里は誰かにぶつかりそうになった経験はあった。だが、それは大抵が自動車であり、交通規則を厳守する千里に過失はないものばかりであった。
だが、やはり千里は徒歩の方が好きであった。自転車では10分とかからない距離だが、徒歩ではゆっくりと景色を楽しみながら登校できる。自動車の窓から流れる景色を見るのが好きであった千里は20分も早く寝起きしなければならないというデメリットを負ってでも歩いて登校したかったのだ。
苔むした家の塀。その上から除く明るい柿の色。そして、どこまでも並んでいる電柱。そのどれもを千里はこよなく愛していた。だからこそ、その景観を妨げるものを憎んでいた。
「なんでこんなところに酒瓶が・・・?」
道路の真ん中に酒瓶が立っていた。これでは車が通って大惨事になりかねない。千里はさっと道路の真ん中へ行って酒瓶を取ってくる。
「お猪口までついてたし。」
酒瓶のとなりに行儀よくお猪口も並んでいた。一体昨夜この道路で何が起きたのだろう、と千里は考えたくもなかったのだが自然と想像が浮かんでくる。これは想像力を掻き立てるアートなのです、と言われたら千里は信じてしまっただろう。
千里は酒瓶の口を臭ってみる。頭を揺さぶるようなにおいが千里の鼻へと注ぎ込まれる。
「ガソリン臭い。」
千里は小学校の時のアルコールランプをふと思い出した。アルコールも引火するならガソリンの類なのかな、と千里は思いつつ、道路のわきに酒瓶を置く。口にはお猪口を被せておいた。
「やれやれだぜ。」
「先輩、何やってるんですか?」
「うぉう⁉」
突然声をかけられた千里は思わず妙な声を上げてしまった。特に、アルコールの入った瓶を運んだ後なので背徳感があり、体が飛び上がってしまった。
「なんだ、瞳か。」
千里の目の前には自転車に跨ったセーラー服の少女がいた。名を人見瞳という。
「いやあ、瞳ほど自転車が似合う女の子はいないね。」
すらっとした細く白く、そして長い足を眺めながら千里は思わず言っていた。
「何を言っているんですか?」
そう言って瞳は自転車から降りる。千里はそのことに少し残念に思った。残念に思った自分を少し軽蔑した。
「いや、決してお世辞じゃないよ。」
千里は瞳を美しいと思っていた。背は女子の平均身長より高めであるし、肌は透き通るほどに白く、顔立ちも整っている。きりっとした眉は意志の強さを感じさせ、惹かれるものがあった。男子の評判も悪くないことを千里は知っていた。ただ、残念なのは自分の美貌に瞳自身が気が付いていないことだった。
「そんなことありません。私なんか。チリさんの方がよっぽど綺麗です。」
瞳が言うと嫌味に思えてしまう千里だが、決して自分を装飾する意図で瞳が言っているのではないことを千里は知っていた。瞳は素直なのだ。その嘘偽りない性格は瞳の兄と同じだ、と千里は瞳の兄のことを考えていた。
「チリさん、兄のこと考えてます?」
「へ?はへ?」
図星であったゆえに千里は激しく動揺する。最近、瞳は千里が知のことを考えているとそう指摘してくるのだ。そして、今と同じように悲しそうな顔を瞳はした。
「いやいや、違うって。さっき道の真ん中にお酒の入った瓶が置いてあってさ、なんでこんな場所にあるんだろうって思ってただけだから。」
そう言った千里の顔は寂しさがぬぐい切れていなかった。千里は知のことを思い出していたのだ。知にフラれた時の事を。
『君は俺の何を知っている?』
それは千里は何も知らないだろうとさげすんでいるようにも思える返答であった。その返答を知の目を見ながらしっかりと受け止めた千里は知の顔がいつもと変わらないものであるのを見ていた。そこからは千里をバカにする意図も、怒っているようにも見えなかった。ただ、日常会話をするように突き放されたのだ。千里はそこでくじけてしまった。人見兄妹には触れてはいけない秘密があるのは薄々感じており、そこに目を背けてきた自分自身の弱さを見抜かれたような気がした故であった。
瞳は自分の顔を見ると曇ってしまう千里の笑顔を嘆いていた。それもこれも兄である人見知の仕業である、と兄をより憎むようになっていた。
何はともあれ、千里と瞳の二人は一緒に登校することになった。
「しかし、まあ、瞳はなんでそんな遠いところから自転車で通ってるの?自転車で軽く一時間はかかるよね。」
何気ない話であったつもりが、瞳は硬い表情をし、答えようとしない。今日は地雷を踏みまくっている、と千里は冷や汗を流す。瞳は正直である分、嘘が言えない。それゆえ、言いたくないことを誤魔化す術を持っていなかったのだった。よって、話したくないことは自然と黙ってしまう。もう半年以上の付き合いであるので千里は瞳のそのような性質を十分に心得ていた。
「そういえば、チリさん、今日、傘持ってますよね。天気予報で雨って言ってましたっけ?」
瞳も話題を変えたかったのか、千里が片手に持っている傘を見てそう言った。
「ああ、これ?今日、雨降りそうかなって思って。そっか。天気予報で雨って言ってたのか。天気予報なんてロクに見てなかったからな。瞳は何か傘とか持ってきてる?」
「カッパを。」
「自転車だからね。傘さし運転せずにカッパ着てるなんてエラいね。傘さし運転って違反なのになんでするんだろう。カッパ着てた方が濡れないのにね。あ、でも、自転車に乗ってたらカッパでも濡れる?」
「そうですね。濡れます。」
「大丈夫?風邪とかひいたりしないの?」
「昔からそれほど風邪はひかないんです。それに、少しの風邪でも学校に行きます。」
「あまり無理しちゃダメだよ?女の子なんだから。」
そう言いつつも自分もあまり風邪をひかないし、風邪っぽくても気にせず学校に行ってるな、と千里は思った。それと同時に自分も女の子なのか、ということに少し疑問を持った。男女がどうこうなど今まであまり気にしてはいなかったからである。
「また千里に引っかかったの?瞳ちゃん。」
ふと千里の側面から聞こえる声がある。千里はその声の主の顔を確認することなく言う。
「何よ、その言いがかりは。おはよう。波留。」
波留と呼ばれた少女は低血圧でぼうっとしている表情ながらもおはよう、とあいさつを返す。
「おはようございます。橋本先輩。」
瞳も波留にあいさつをする。
「千里、瞳ちゃんに先輩なんて呼ばせてるの?」
「いや、私の場合は『チリさん』が普通だけど。」
「瞳ちゃん、私のことはお姉さまでいいからね。」
「いや、なんて呼び方をさせてるのよ。」
そう言って千里は頭を掻く。いまいちぼけっとしている表情で話されるとどれくらいの本気度なのか測れない、と千里は少し困っていた。よくもこんな娘を好きになったものだ、と千里は波留の横に並んでいる少年、山田文人を見る。
「ち、千里・・・ふぁう・・・お、は、よ、う・・・ふぁう。」
シスの暗黒教に魂を売ったジェダイの騎士のような口調で山田は言った。紆余曲折あり、波留と付き合う代わりに言語能力を失われたのがこの山田である。
「アンタも大変ね。」
千里は誰にも聞こえない声で密かに山田に同情した。
「そういえば、千里、傘持ってる。」
「やっぱり目立つ?」
そういって千里は自分の腕にかかっている傘をそっと持ち上げる。
「うん。誰も傘なんて持ってないから。雨降るの?」
「うーん、どうなんだろ?でも、私はなんか降りそうだなって。」
「こんなにいい天気なのに。」
そう言って波留の指す空は幻想的な光沢を帯びた宝石のように透き通る水色をしていた。薄く筋になっている白い雲が天女の羽衣のようである。千里は小学生の時の修学旅行で作った七宝焼きを密かに思い出していた。
雨が降りそうには見えない。
「そうなんだけどね。なんで雨が降りそう、なんて思ったのかなあ。」
千里は訳が分からない、という風に首を傾げた。
「お疲れ様、銀。」
朝のチャイムが鳴る直前、自分の隣に雪崩れ込むようにして席に着いた少女に千里は言った。
「ありがとう。チリ。でも、本当に疲れるわ。肩凝る。」
小さな子どものような高く可愛げのある声で銀と呼ばれた少女は言った。
「生徒会副会長は大変?」
千里が言葉を投げかけた瞬間、操り人形の糸が切れたように銀は机に突っ伏す。名前の如く机に広がった長い銀色の髪が光り輝く。
「まあ、まだ私立とかよりかはマシだとは思うよ。お金の額が少ないし、優等生ばかりだし。でも、校内の自治を生徒だけでやれってのは無理があるんじゃない?」
愚痴っぽく銀は言った。体が小さく細い体の銀は幼く見え、千里は幼女のようだとほくそ笑む。
「そりゃそうだよね。でも、それができてるってすごいと思うよ?銀は成績だって悪くないじゃん。偉い偉い。」
そう言って千里は銀の頭を撫でてやる。妹ができたみたいだ、と千里は思った。
「そうかな?そうだよね。にゃははは。あんまり誉めるなよ。」
溶けた餅のように顔を綻ばせ銀は言った。心なしか舌足らずになっている。
「それに、銀はこの高校が生徒だけの自治で成り立っているっていうことに誇りを感じてるんでしょ?そして、副会長ってのも気に入ってる。違う?」
「そうじゃのう、そうじゃのう。大好きじゃ。わしゃこの学校が大好きじゃ。」
有頂天になっているのか、銀の口調はおかしくなっているが、千里は大して気に留めない。
「ねえ、銀。」
千里はかねてから気になっていることを話してみようと思った。黒江銀という少女は特異な容姿のせいもあり目立つ少女であった。そのため、表舞台に立つことが多く、また、彼女もそれを持てる者の義務であるかのように引き受けていた。そのため、クラスでリーダーを務めることが多く、統率能力は高かった。生徒会副会長になったのは当然の流れであり、むしろ副会長というポストは黒江銀という小柄な銀髪の少女のために作られていたのではないか、と感じさせるほどに千里も一目置く存在だった。
そんな銀であるから、千里は相談出来た。
「家族のことについて聞くのって、やっぱり、失礼かな?」
「まあ、そうだね。人には色々あるからね。特に普段から見えない部分ってのは気を遣うよね。」
あまり銀は乗り気ではない、と千里は思った。そして、自分は銀の家族について何も知らないことに気が付く。聞いてはいけないことだったのか。確かに、家族のことなどその人を見ているだけでは分からない。今教室で席に着いている生徒の中には特別な家族事情のある者もいるだろう。
「自分の普通が相手の普通だと考えない方がいいと思う。」
黒江銀は浅田千里にそう言った。
親が何を思って自分にこんな名前を付けたのか分からない。中学校の時は今のように優等生ばかりではなく、少しやんちゃな子もいた。私は、いや、私と彼はそんな子にからかわれていた。私はそんな子たちに歯向かっていたが、彼は別段そうではなかった。きっと悲しかっただろう。しかし、そんな素振りを彼は見せなかった。それ故に、私は彼の悲しさがよく分かり、それが私が彼に親近感を持った理由だった。
「おっす。って、いるの慎仁だけかよ。」
第二劇画部の部室にいるのは中田慎仁だけであった。
「雨降ってきやがったな。」
千里は黒くなった空を見上げて言った。
知、そのあとに瞳が部室に来た。二人は何事もなく以前と同じように千里と慎仁に接していた。その二人を、特に知を見ると瞳は告白のことを思い出さずにはいられない。それは知も同じなのではないか、部内の関係を乱さないために平気なふりをしているのではないか、と千里は信じたかった。それは千里の中の淡い期待を喚起させるものであった。部内の関係のために自分の告白を断ったのではないか、と。だが、
「やっぱ違うだろうな。」
千里はそう思わずにはいられなかった。
「あのさ、一つ思ったんだけど、私たちが夏コミ落とした原因ってこれじゃないかって気がするんだよね。」
二つに分かれている集団、千里と知、瞳と慎仁の集まりを見て言った。
「俺はBLなんてやらないぞ。そもそもこの部に入ったってのは部を作るのに部員が必要だったってだけで、こっちは勝手に活動させてもらうってだけのものだったじゃないか。」
慎仁が言った。少し生意気だな、と千里は思ったが、今はそれを言うべき時ではないので黙っておく。仕返しはいつでもできる。
「でもさ、どっちも落としてたら意味ないんじゃない?」
二人の言い争いに人見兄妹はポカンと眺めている。その姿が二人とも非常によく似ていて千里は思わず笑いそうになった。小動物のような表情だったのだ。
「じゃあ、何だったら納得してくれるわけ?」
千里は言った。千里にとってはそもそもBLにこだわる理由はあまりなかった。第二劇画部も千里は共通の趣味を持つ友人が欲しかったという理由で立てたのだった。
「百合。」
「却下。」
千里は即断した。瞳は女性同士の戯れが好きかもしれないが、千里はあまり好みではなかった。それよりなにより、慎仁ごときに譲歩するのが千里の尊大な欺瞞心を傷付けるのだった。
「じゃあ、何がいいって言うんだよ。」
「アンタはBLが嫌なんでしょ?」
「嫌というより生理的に無理。」
そう言って慎仁は知を見つめる。信じられないものを見るような目だった。
「へぇ。それを私の前で言うか。」
蛇睨みというよりも竜のようだ、と千里の恐ろしい顔を見て慎仁は思った。後が怖い。
「で、私は百合が無理。ということは―――」
そう言って千里は知の方を見る。
「第三の選択ということになるな。」
知は言った。この部の中ではこんなお約束ができているのであった。千里と知の息の合った芸に瞳はあまり良い顔をしてはいない。
「つまり―――」
慎仁が知を促す。これもお約束である。
「BLでも、百合でもないところで妥協するほかないということだ。」
「解決してない。」
そして、瞳が水を差す。これもお約束。
「多分、今考えても思いつかないだろうから、各自考えてくるように。以上、解散。」
これもまた、お約束なのであった。
「銀杏ってのは本当に厄介だな。」
瞳との帰り道で千里が言った。銀杏というのはイチョウの実で、皮膚に果肉が触れるとひどく荒れる。そして、その実はとても臭い。実の中に種子があり、それを調理したものが俗に言う銀杏である。千里は銀杏が好きであったが、実の異臭ゆえ、踏み潰したくはなかった。
「確かにそうですね。」
そういう瞳は地面を全く見ずに銀杏を避けて歩いている。どうなっているのか非常に不思議に思ったが、瞳について不思議に思っても仕方がないと千里は割り切っていた。彼女も兄の知と同じくらいミステリアスなのであった。
「チリ先輩。」
「なんだ?」
呼ばれたことに答えつつも千里は集中を切らさぬように銀杏を避けていく。こんな時に自転車があるというのが非常に意地らしかった。
「今日の茶番は何のためだったんですか?」
「え?ああ、あれ?」
瞳ははっきりと物を言う。それは人にとっては無礼に値するものである。千里は気にはしていないものの、時たま彼女がクラスに馴染めているのか心配になる。
「いや、最後くらいみんなで思い出を作っておいた方がいいんじゃないかって思って。」
「それは兄の―――いや、あの忌々しいクソメガネのためですか?」
夏が終わり、秋になり始めた頃から瞳の兄に対する態度が非常に悪くなった。兄妹の間に何かあったのだろうと千里は思っていたが、兄妹間のことにはあまり触れない方がいいと千里は思っていた。
「いや、だって、思い出とかなかったら寂しいじゃない―――」
知さんが卒業してしまうんだし、という言葉を言おうとして、やはり止めておいた。
知のためというよりも千里は自分のために画策したのだった。知が卒業するまでにいい思い出を作っておきたいと考えたのだ。今のままのギクシャクした関係で終わるのは嫌だったのだ。失恋したという結果は変わらない。しかし、最後はそのこともいい思い出であったと思えるような終わり方ができたらいい、そんな風に千里は考えたのだった。
「そうですか―――」
いつものように腑に落ちないというような顔をして瞳は言った。瞳の兄に対する執念というのは異常なまでに鋭いと千里は感じていた。どうしてそこまで知にこだわるのか。その理由を少し千里は知りたい気持ちに駆られたが、ぐっとこらえる。
そうしてふと、知と慎仁は一緒に帰ったりするのだろうか、と千里は思いを巡らせた。実際にどうなのかは千里は知らないが、二人が帰っているところを想像すると面白くなってしまった。知に引きずり回される慎仁の光景が浮かんだ。あの二人を見ていると飽きないと千里は常々思っている。
「今、あの汚物のことを考えていましたよね?」
能面のように冷たい表情で瞳は言った。笑顔であればもっと美人なのに、と千里は瞳の顔を見て思った。
「い、いや、全然、これっぽっちも考えてなかったわよ。」
そう言って誤魔化す。この異常なまでの鋭さに千里は瞳が超能力者か何かではないかと本気で疑った。
「さっきから銀杏踏んづけてます。」
ぎゃああ。
千里の絶叫がイチョウの黄色い葉を揺らした。
千里の家庭はごく普通の家庭であった。少なくとも、千里本人は変わった家族であるという認識はない。
千里が家に帰ってきたときにはもう空は黒かった。仕方なく千里は銀杏で汚れた革靴を風呂場へもっていく。そして、風呂場で丁寧に洗浄していると、
「何してるの?」
と千里の母親が話しかけてきた。訝しんでいるというわけではなく、ただ純粋に彼女は疑問を持っただけであった。千里は銀杏を踏んずけたことを正直に言うのは恥ずかしかったので
「ちょっと犬のフンを・・・ね。」
「あ、そう。」
母親は素っ気なく言ったが、千里は銀杏だろうが犬のフンだろうがあまり違いはなく、むしろ犬のフンを踏んずけたと言った方が恥ずかしいのではないかということに気が付き、ひとりでに悶絶していた。その場に母親が居合わせなかったことが唯一の救いであった。その後、やることもないので自室に籠り勉強をしているという体の団欒をしていると、夕飯ができたとの母親からの声が響く。この夕飯ができたというのは夕飯ができそうだから準備しなさいという意味なのである。千里は夕飯の準備をする。主には食器を運び、白ご飯をよそうということをするのである。そうこうしているうちに弟が帰ってきた。弟は部活動で毎日このくらいの時間に帰ってきていた。そして、父親が帰ってきたときにちょうど夕食の支度が完成するのである。父親は時々残業やらで遅くなる時があるが、基本は同じ時間帯に帰ってきて夕食を食べる。そして、テレビを点けながら、時に笑い合い、時に議論を交わす。千里にはそれが幸せであるという感覚はないが、そういうことがない家庭があることを思うと、幸せであることに気が付く。それは、そうでもしない限り気が付かないということであり、そのことこそが、真に幸せである証拠なのである。
千里は湯上り後の濡れた髪をタオルで拭きながら、自室へ戻る。そしてスマートフォンを手に取る。
「ああ、面倒臭い。」
スマートフォンは湯上りの千里の火照った身体から放出される湯気によって曇ってしまう。そのため、画面が正常に作動しないのだ。ただ、それほど急ぐことでもないので、ゆっくりと待っておく。千里はぼんやりと考え事をしていた。知のことでなく、自分の将来についてである。そろそろ教師から進路について考えておくように言われている。だが、将来についてのヴィジョンが千里にはあまりなかった。ありふれた生活しか思い浮かばなかったのである。どこかの会社に就職して、そのうち結婚して―――とりあえず目下は大学への進学だろう。そして、大学に進学した後は適当に就職して―――それがその場しのぎであることは千里にはよく理解できていた。だが、そうするしかないということもまた、痛いほどにわかっていた。夢を見るには今の時代はあまりにも現実的過ぎるのであった。何か得意なことがあれば、それを極めて職に就くことができるかもしれない。画家とかそういう類のものである。しかし、大した才能もないのにそれを目指すのは甚だしい。苦しい生活を強いられるのは必至である。生活にすらならないかもしれない。そして、何かを目指すには―――夢が必要である。千里は夢について考えた。自分はどんな夢を持っているのか。だが、現在夢などというものはない。では、幼いころ何か夢見ていたのだろうか。だが、思い出せない。きっと子どもながらに何かしらの夢を思い描いていたはずであるが―――襲い来る現実と常識に押しつぶされてしまったのだろう。
「正義の味方でも夢見てたら、伝説の騎士が現れるのかな。」
現実的な夢を見るよりも非現実的な夢を見る方が多いな、と千里は自分自身を嘲笑した。
千里はスマートフォンの画面の湿気をふき取り、電話をかける。
「もしもし。」
『もしもし?』
そのまま、しばし沈黙が続いた。
『何の用だよ。』
慎仁が沈黙を破った。
「あんたこそ何よ。」
『は?』
慎仁は火を見るよりも明らかに困惑していた。
『かけてきたのはそっちだろ。』
確かにそうであるということに千里は少し腹が立った。
「アンタからは何もないの?」
『何もないに決まってるだろ。』
慎仁の溜息が電波越しに聞こえた。千里はなんとなく不機嫌で、慎仁を少し困らせてやろうと思っただけなので、少しやり過ぎたと後悔した。
「分かったわ。もう茶番は終わり。」
はぁ、と再び慎仁は溜息を吐いた。
「今日の会議の内容、どうする?」
『思い出づくりか?』
「うん。」
『どうするって言ってもな・・・どうすればいいんだ?』
「百合でもなくBLでもない何かをするんでしょ?」
『俺としては百合でもBLでもないなら、何でもいいて感じなんだよな。』
あやふやな回答に千里は不満を募らせていく。
「はっきりしろよ。面倒臭い。」
『そういう千里はなにかあるのか?』
「いや、何もないけど。」
『じゃあ、一緒じゃんか。』
「これじゃ先に進まないじゃない。」
『まあ、そうだな。でも、一番の問題はそこじゃないだろ?』
「へ?」
どういうことか思い当たる節のない千里は必至で考える。
『問題はあの兄妹が一緒に行動するか、だろ?』
そうであった。人見兄妹が一緒に何かをしているところを千里は見たことなかった。
「あの二人ってどんな生活してるんだろ?家でもあんなのかな?」
互いに磁石のN極とS極のように交わらない二人がどのように共同生活を送れているのか千里は不思議に思った。
『家に行ったときは普通だったけどな。』
あまり関心のないように慎仁は言った。
『とりあえず、俺たちは何でもいいってことで。あの二人が何かやりたいって言うんなら、それをやればいいんじゃないか?意見がぶつからないことを祈るのみだけど。』
とりあえずまとめられたが、そうじゃない、と千里は思った。そういう話じゃないのだ。
「そうね。」
とりあえず千里はそう言って通話を終了させる。
「バカ。」
ベッドに仰向けになりながらそう呟いた。
勉強と言っても千里は宿題くらいしかしなかった。それは常であるので問題ないが、部活動のことをしているより自分の将来を慮って、勉強に力を入れた方がいいのではないか、と千里は思った。だが、それはやるべきことである。そして、やるべきことが正しいとは限らない。やるべきことは青春を無駄に消費する。青春を過ごせなかったと思う人間が大抵やんちゃをしている人間を青春していて楽しそうだと思うのはそのためである。
悔いのない方を選べ。
まさにその言葉の通りである。人生はたった一度しかない。なら、謳歌して楽しまなければ損である。だから、千里はやりたいことをやろうと思った。だが、それは自分がやるべきだと思った範囲内である。人間、やるべきでないと思ったことをやるのには一度の人生では荷が重すぎる。
ただ、青春の意を解する人間は少ない。その意は「残酷」である。
青春とは何かを千里はずっと考えていた。銀杏を避けながらではあるが、その単純作業が千里の思考を増幅させた。朝が冬と同じくらい寒くなってきていた。
校門という場所はどの生徒も潜らなければならない場所である。むしろ、そこから校内へ入らないと怒られるわけであるが、誰もが通る道、いや、誰もが通らなければならない関門と言えるだろう。
「男は女をどこで分別する?顔か?体つきか?それとも性格か?」
長身でかつ肩幅の少し大きいメガネの生徒、人見知が校門の方を隠れ見ていた。同じく校門を隠れ見ているのは中田慎仁と山田文人も一緒だった。その二人は慎仁と違い目に望遠鏡を当てている。
「顔です。可愛いは正義です。隊長!」
慎仁が興奮した様子で言った。
「下着です。チラリズムこそこの世の全てです。」
地面にひれ伏しながら山田が言った。
「ふん。まだまだだな。」
そう言って知がメガネをクイと上げる。
「女どうこうと言っているうちは童貞を卒業できないぞ!男は漢に惹かれてからが勝負だ!」
「ひええ、隊長の領域まではまだまだ到達できそうにないですぅ。」
どちらかがともなく言った。だが、そんなことはどうでもいい。
「なにやってるんですか?知先輩。」
千里は呆れながら声をかけた。
「校門とは誰しも通るべき道、いや、門であろう?」
「はい。」
「つまりは、だ。絶好の漁域ではないかね?」
真剣そのものなので千里は思わず気圧されていた。
「バカ。」
千里でもなく、バカと呼ばれた3人でもない人物、人見瞳が現れて言った。憎悪むき出しの口調から千里はそれが知一人に向けられているものであると分かった。瞳の表情は変わらない。瞳が現れたことを知った知は無言で校門へ向かって言った。その行為は無言ながらに遊びは終わりだと告げていた。
「もう少し、もう少しなんですよ、隊長!」
「お前らもそろそろ諦めろ。」
山田をガシガシを踏みつけて千里は言った。
「行くぞ。」
そう言って山田に肩を貸した慎仁は顔を千里に向けた。その目が語っているのは「やっぱり難しそうだろ?」という言葉だった。
「ねえ、瞳。」
千里は瞳に兄との確執について聞こうとした。
「何ですか?」
瞳も腹を据えたような声色だった。しかし、千里は切り出すことができなかった。今の関係が決定的につぶれてしまう―――そんな思いが張り巡らされ、千里は言葉を紡ぐことができなかった。知との件があったのでなおさらだった。知への告白の失敗は千里の胸に恐怖としてまだ残っていたのだった。
そんな千里の様子を感じ取ったのか、瞳は言った。
「放課後、二人きりで会えませんか?」
「構わないけど。」
何かを決意した様子だったので千里は少し気圧されていた。普段しゃべらず、わがままも言わない人間が話す言葉は重みが違うと千里は実感した。
「分かりました。では、放課後に誰もいない場所で待っています。」
そうとだけ告げて瞳は校門へ向かって行った。その姿は、兄と同じ門をくぐるのにひどく苦痛を感じているようだった。
大したハプニングもなく進んでいく日常。その象徴的なものとして学校の教室がある。均一な教室の外装に均一の服装をした生徒。そこには個性を極限までにそがれた没個性があり、それゆえに平和が保たれている。だが、進むということ自体が革新という意味であり、そこに平和などありえない。何かを進めるには何かを破壊しなければならないからである。
体育の授業が終わり興奮冷めやらぬ中、まだ授業があることに千里はうんざりしていた時である。
「ねえ、チリ。」
千里に声をかける者がいた。
「なに?」
「チリって中学のとき、ソフトボールしていたんだよね。」
声をかけてきたのはソフトボール部の女子だった。
「うん、そうだけど。」
あまり良い話ではなさそうなので、千里は少し警戒気味に言葉を繰り出す。
「さっきの体育、すごかった。ピッチング、うちのエースに負けてなかった。」
ああ、やはりか、と千里は落胆した。
「今からでもソフトボール部に入らない?」
「ごめん。今別の部に入ってて。」
「そうなの?なんて部?」
「第二劇画部。」
「何してるところなの?」
そう問われると、千里はなかなか答えにくかったのであった。
「ええっと、それは・・・」
「ゆり・・・むぐぅ。」
突然話に入ってきた黒江銀の口をふさぎ、女子に愛想笑いを振りまきながら、銀を教室の外に連れ出す。
「何を言ってるのよ。」
「別に真実を伝えようとしただけではないか。」
「そうだけど・・・」
はあ、とため息をついて黒江銀は言った。
「お前の大切な仲間はそうやって誤魔化さなければならないほど恥ずかしいものか?」
少し怒ったように銀は言った。
「そういうんじゃないけど。」
「いや、そうだ。チリが第二劇画部を恥ずかしいと思っていることを他の部員が知ったらどう思う?お前は部員を悲しませることになるんだ。胸を張れ!世界に自分自身を主張してみせろ!」
「ありがとう。銀。」
千里は少し救われた気がした。
「私も厳しいことを言ったな。私が言ったことなどそうそう実現はできまいて。だが、努力はしろ。胸の中に秘めておけ。忘れるな。」
「ほんと、偉そう。」
そう言って千里は笑った。
「別に笑うところじゃないだろ。」
そう言って銀も笑っていた。
「ごめんね。ソフトボール部には入れないんだ。」
教室に戻って女子に言った。そもそも千里がソフトボール部に入らなかったのは千里の趣味が原因だった。別にその趣味で嫌な思いをしたわけではない。ただ、団結が重要視されるソフトボールで仲間に隠し事をしているのが辛かったのだ。
「私は第二劇画部が好きだから。初めて守りたいと思った絆だから。」
昼休み、千里はいつも通りに仲の良い友人に昼食を一緒に食べないかと誘いを受ける。誘いを受けるというよりいつも通りに机を動かし準備を始め、すでに席に着いて弁当の蓋を開けていた。
――なんか違うな――
そう思った千里は友人たちに向かって言った。
「ごめん。私、用事あったんだ?」
笑顔で誤魔化す。すると友人たちは言った。
「なにそのドラマみたいな言葉は。」
「また人見先輩のところ?」
からかっているようであった。知のことが出た時千里は知に会いに行こうと思った。それまでそうしようと微塵も思ってはいなかった。友人との食事を断った時もその後どうするのか決めていなかった。が、今決まった。
「ありがと。」
弁当を片付けて千里は教室を出て行った。
「なんでありがとう?」
友人はもとより会話を聞いていた教室中がポカンとしていた。
食堂に慎仁がいた。その隣に瞳がいる。慎仁の向かい側、つまり瞳の対角線上に知がいる。つまり、空いている席は知の横で瞳の正面であった。
「この3人はこの3人で面白いわね。」
自分がいないときこのメンバーで食べていたのかと思うと、千里は少しいじらしく思った。なので、そのやりどころない感情を慎仁にぶつける。
「慎仁、ちゃっかり瞳の横に座ってるじゃない。」
「な、なんだよ。」
慌てている慎仁など気にせず千里は空いている席に座る。
「珍しいな。千里が食堂に来るなんて。」
慎仁が言った。
「アンタ、またうどん?ってなにそれ?」
うどんの綺麗な汁の上に茶色い衣をまとった何かが浮いていた。楕円形である。
「コロッケうどんだよ。」
「いや、名前を聞いてるんじゃなくて、なんでそんなもの食べてるのよ。」
「俺だっていっつも同じうどんじゃ飽きるんだよ。」
「メニューはうどんだけ数十種類あるらしいです。その中から三種類ランダムで選ばれるそうです。」
瞳が言った。
千里がメニューを見てみると、「コロッケうどん」「ポテチうどん」「おでんうどん」があった。
「なに、このコンビニの定番のようなうどんは。」
なんとなく慎仁が訴えてくるような顔をしていることに千里は気が付いた。それも、俺の気持ちを分かってくれという哀願であった。恐らくうどんの中から一番マシなものを選んだだけなのだろう。だが、千里に言わせれば、うどんから離れればいいだけじゃないかと思うのである。
「で、瞳は何食べてるの?」
「カ×リーメイトのソテーです。」
「横文字で洋風のくせにとんでもないメニューね。」
そんなメニューを頼んだ瞳にも驚きだが、それを何事も無いように受け入れている他二人も驚きであると千里は思った。
「ちなみに聞いておくけど、なんでそれにしたの?」
見た目は焼き目のついた春巻きのようにしか見えないそれを千里は凝視しながら言った。
「新メニューだからです。」
そこで千里は気が付いた。変な料理を注文する方にも問題があるが、そんな料理を出している側にも問題があるのではないかということに。
「知さんはいつものですか?」
そう言って知の食べているものを覗く。それはあからさまに何が起きているのかがよくわかるものだった。どんぶりの上に生クリームがある。それは―――
「その下にあるものは―――」
千里は聞きたくないものの聞かざるを得なかった。
「ああ。白ご飯だ。」
千里は卒倒しそうであった。なんなのだ、これは。
「なんでしたっけ、それ。日替わりメニューでしたっけ。」
「ああ。そうだ。今日は4年ぶりの生クリーム丼ぶりだ。」
そのまま千里は黙ってしまった。何かに打ちのめされたようだったと後日人々は語った。
「お前は何を考えてる?」
「なんでもいいでしょ?」
「お前はただ単に反発しているだけだ。」
「今更兄貴面?」
「お互いに幸せになれないのは分かっているだろう?」
「いやなのよ。」
「は?」
「なんかよく分からないけど嫌なのよ。」
「今の関係を潰すつもりか?」
「きっとこのままじゃダメだから。ずっと、ずっとこのままじゃ嫌なの。こんな気持ちのまま一生過ごすなんて嫌。だから―――」
千里は西日差す校舎の壁に背をつけて、グラウンドを眺めていた。ソフトボール部の活気のいい声が響いている。千里はソフトボールに未練があるというわけではなかった。今の千里は逃げたい気持ちでいっぱいだった。この後起こることについて千里はいいことではないと感じていた。だが、それでも足を動かさず逃げない自分に呆れていた。立ち向かうわけでもなく逃げるわけでもなく、ただ流されそうになるのを必死で立っているだけの状態。それは人から言わせれば立ち向かっているということになるのだろう。
瞳から落ち合う場所を指定はされなかった。なのでこんなところに千里はいる。それは逃げたとも言えるわけだが、なんとなく確信があった。
「チリ先輩。」
瞳が立っていた。風でたなびく橙色の髪が同じ色の西日によって輝いて見えた。千里は瞳が探しに来るであろうことを確信していたのであった。それは千里が探させたのかもしれないが、初めから瞳も探すつもりであったのではないかと千里は思った。
「ねえ、瞳。」
話を始めたのは千里だった。
「今みたいな昼と夜との境目の時間をなんて言うか知ってる?」
千里は瞳に問いかけたにもかかわらず、それを拒むかのように、瞳に話をさせないように続ける。
「黄昏時とか逢魔が時とか言うらしいんだけどね。」
なぜかふいに千里は泣きたくなってしまった。その理由が分からず、困惑してしまって涙が引いていってしまった。
「マジックアワーとも言うんだってさ。魔法の時間。魔法のように素晴らしくて儚い―――」
そう、私たちの過ごしてきた時間のように―――短くて。
「チリ先輩。」
瞳が再び千里に言った。その瞳を千里は見た。どこまでも真っ直ぐすぎる瞳だった。罪を犯した人間はその瞳で見つめられただけで罪の意識で潰れてしまいかねない―――千里が恐ろしいと感じた瞳だった。
千里は覚悟を決めた。
「私はあなたのことが―――チリ先輩のことが好きです。」
衝撃的な一言であった。千里は冗談で誤魔化すことができなかった。そして、それをしてはいけないことをよく分かっていた。だから、何も言うことができなかった。
その時、千里は自分がどんな顔をしているのかが分からなかった。だが、この後の瞳の行動から大体の予想はついた。
瞳は逃げ出した。千里は追いかけようと体を動かしたが、一歩踏み出すことができなかった。前も見えていないようにフラフラと、それでも必死に走っていく瞳を見ているだけであった。ひどく呼吸を乱し痙攣しているように見える瞳がだんだん小さくなっていくことに安堵を覚えていた。
「恐らく妹は第二劇画部へ足を運ぶことはないだろう。」
「いたんですね、知さん。」
長身の知の瞳は眼鏡で隠されて覗くことはできなかった。
「私も足を運ぶことはないだろう。」
「知さん。私はどうすればいいんですか?」
涙ながらに千里は言った。だが、もうその場に知はいなかった。
「ねえ、私はどうすれば良かったんだと思う?」
慎仁と二人だけの部室で私は言った。あの日以来、人見兄妹は姿を見せなくなった。
「・・・」
慎仁は何も言わない。私はそれが一番ありがたく、そのことを慎仁は知っていた。だから、彼は何も言わない。
窓の外から見える木々は冬支度のために葉を落としてしまっていた。
「じきに冬が来るよ。」
私はそれだけを言った。
私は自分が一番傷付いたと思っていた。しかし、真に傷付いていて、打ちのめされていたのは私ではなかったことを私たちは嫌というほど思い知らされることになる。




