承
承
人気のない公園。
「なんでこうなっちゃったんだろうね。お互いに。」
その公園から見える空は時折大きな号砲とともに明るく照らされる。
「さあな。」
背中を合わせながら湿った声で話す二人に誰も気が付くことはない。
でも、俺は後悔していない。
中田慎仁は独りで生きてきた。慎仁は人は一人では生きていけないということを重々承知している。人は一人では生活することはままならないだろう。だが、そういう話ではない。
「おはよう。」
自転車に乗った学生が慎仁にあいさつをする。慎仁もあいさつを返す。しかし、それだけである。その学生は初夏の朝の、日中の灼熱を予感させる奇妙にひんやりとした空気の中を軽々と滑っていく。真冬のソリのように滑走する初夏のソリの行きつく先は別の学生のもとだろう。慎仁はあいさつをする程度の友はいるにしても、会話をしながら登校するほどの仲の人物はいなかった。
昔からそうだった。僕はもうとっくの昔に慣れてしまっていた。もう何も感じられない。
校門がもう見えていた。慎仁は朝の登校時の校門の風景を常に奇妙に感じていた。人が横に5人も並べないであろう程度の入り口にぞろぞろと何百人の少年少女達が吸い込まれていくのだ。その誰もが例外なく同じ服装をし、何の疑問も持たず校門へと自ら入って行く。そして、毎日同じ顔の生徒を見かける。それはその顔触れたちが毎日同じローテーションで日々を過ごしているということの証明であり、また、それを見る慎仁自体がその顔触れたちと同じく毎日一定のスケジュールで行動しているということである。そう考えると慎仁は吐き気がこみ上げてきた。校門も化け物の口のように見えてくる。自分が食われることに気付かず毎日同じ時間帯に自ら口の中に入って行く少年少女。自分が化け物の口の中に自ら入って行くことに少しも気が付くことの無いその無知な姿に慎仁は奇妙な感情が湧き上がってくるのを感じていた。それはもしかしたらどの感情にも当てはまらないものなのかもしれない。少なくとも、言語化できるようなものではなかった。ただ、不快な気分になったことは確かだった。そして、自分もそんな無知な人間たちと同様に化け物の口の中に入って行くのだと思うと、より一層不快にさせられた。
黒い髪、黒い服の集団の中で慎仁はふとオレンジ色の流星を見た気がした。そのオレンジ色は黒い髪と制服で構成された漆黒の空にかかる唯一の光に思えた。
それを見た瞬間、慎仁の心臓は変な鼓動を刻み始めた。普段、心臓の音など気にしない。それは聞こえないからである。しかし、この時慎仁の心臓は飛び出さんばかりに鼓動を刻んでいた。耳に、脳内にドクドクといった音がうるさく響く。心臓は肺を圧迫し、体表まで振動を伝えている。このままでは心臓が飛び出てしまうのではないか、と慎仁は不安になった。慎仁は自分の左胸を思わず抑える。もう耐えられそうになかった。倒れる、とそう思ったとき、校門の端に立つ男性と目が合った。その男性はすでに少年とは言い難い風格の人物だった。ぼんやりと慎仁はその男性を見ていた。頭の中には何もなかった。だから、男性の次の行動に慎仁は驚くことになる。
その男性は突然走り出した。慎仁の方に向かって。
慎仁はその男性から逃げるように駆けだした。おっさん顔の少年が表情を一切変えずに全速力で向かって来る。そんな状況で逃げることをしない方がおかしかった。
もともと慎仁と男との距離は100メートルほどあった。その幅は思った以上に縮まることはなかった。だが、慎仁は途中で走れなくなり、舗装されたひび割れたアスファルトの上に腰を下ろしてしまった。少々陽が照ってきていたせいか、アスファルトは生温かかった。男に追われていたときにはもうすでに心臓の違和感は拭い去られていた。
「な、なんなんですか。知さん。」
追う必要がなくなったため、ゆっくりと歩きながら慎仁のもとに歩き続けていた。慎仁はもう降参であるといった風に脱力して男に話しかけた。
男、人見知は何も言わずに慎仁のもとに歩み寄ってくる。無表情かつキリキリとした美しい歩き方はいけないお仕事をしている人を彷彿させ、慎仁はいつも肝を冷やしている。
知は足を大きく伸ばし肩で荒く息をしている慎仁のそばで仁王立ちをしながら見下ろしている。普段でも少し目立つくらいの高さである知を慎仁が見上げるとより高く感じる。知の頭が丁度太陽と重なり、漆黒荘厳の塔と化す。知は制服のボタンを解き、内ポケットに手を突っ込む。
「う、うそでしょ。知さん。」
慎仁の目の前に、知が内ポケットから取り出したものが付きつけられる。慎仁はその瞬間、目をギュッと閉じていた。
慎仁の目の前に広がっているのは漆黒だった。そこには何もなかった。自分自身の存在さえ認識できない。
君は一体何者だい?
そんなことを誰かに聞かれた覚えがあるのを慎仁は思い出していた。
僕は虚無だ。何もない。
そう誰かが答えていた。これは自分に言われた言葉ではないことを慎仁は思い出した。これは昔読んだ小説の会話文だ。慎仁にはその問いが自分に向けられたもののように感じられたのだった。
慎仁はゆっくりと目を開ける。
知が慎仁に何かを向けている。それは少しも物騒なものではなく、ただの教科書だった。
「もしかして、持ってきてくださったんですか?」
慎仁の言葉に知は無言でうなずく。
「あ、ありがとうございます。」
そう言って慎仁は教科書を受け取る。知が持ってきてくれたということは昨日部室に忘れてきたのだろう。
知は背を向けざま、遅れるぞ、とだけ言って去っていった。
ただ、慎仁は無表情のまま全速力で追いかけてこなくても良かったのではないか、と思った。確かに、知に自分のクラスを告げていなかったし、上級生が下級生の教室に入るのだけでも騒動になったりする。そして、今日、知の渡してくれた教科書の教科があったので、非常にありがたかった。だが、
「なんとも人騒がせな。」
慎仁はそうつぶやいて、知の後に続き、校門へと向かった。
教室での慎仁は基本話さない。あいさつ程度のことはするこそあれ、会話などはない。ときたま暇な近くのクラスメイトに声をかけられたりするが、すぐに会話は終わる。それは何故か、と慎仁は問われても分からない。そのようなことに深く考えを巡らせたことはなかったからである。慎仁はそのことになんら不満を抱いてはいなかったし、むしろ面倒ごとがなくて得をしている気分であった。
だが、それも最近は様子が違うようである。
この高校には学食がある。が、それほど利用する生徒はいない。不人気である、というわけではないが、利用する人は少ない。大抵は弁当だからである。
慎仁はうどんをすすっている。学食内には席があり、器を使うものはそこで食べることになっている。しかし、利用者は少ない。大抵はパンを買い、教室で食べるからである。これもきっと学食が悪いというわけではないのだろう、と慎仁は予測する。ただ、弁当勢が教室で食べるので、パンを買って教室で食べるのだろう。
慎仁は一人でうどんをすすっていた。
だが、それは今年の春までのことだった。
今年の春からは少し様子が変わったのである。
「というか、慎仁。アンタ、いっつもうどんよね。」
慎仁の斜め左に座っている少女、千里が言った。
「・・・好きなんだから・・・しょうがないだろ・・・」
慎仁は消え入るような声で呟いた。
「なんて?」
「何でもねえよ。」
そう言うと慎仁は目だけを動かして向かい側に座っている少女をチラッと見る。
染められているとは思えないほどしっかりとしたオレンジ色の髪。その整った顔は表情に乏しいが、決して無表情というわけではない。少なくとも、慎仁の隣に座っている男のように能面のような無表情ではなかった。
「知さんの今日のメニューはなんなんですか?」
千里が慎仁の横の男、人見知に声をかける。
「ゴーヤスパゲッティ。」
恐らく苦いはずのその奇妙なスパゲッティを知は黙々と食べ続けている。
「食堂委員長って誰も見たことがないっていう噂ですよね。」
慎仁の向かいの少女、人見瞳が言う。
「こんな謎の日替わりメニューを毎日考えてる人がどんな人なのか見てみたいよね。」
慎仁は少々ドギマギしながら瞳に言う。だが、その言葉の反面、そのメニューを毎日食べ続ける人間の方が変わっているんじゃないか、という思いを隠しながら言った。
「まあ、でも、そんなメニューを毎日食べている方が中田さんより変わっていると思いますがね。」
ハッキリ言いやがった!
慎仁は内心信じられなかった。いや、本当に信じられないというわけではない。知の行動も不明ではあるのだが、その妹である瞳もまた知と同じくらい不思議な性格の持ち主だった。
「まあ、でも美味しかったらいいんじゃない?」
そんなことにも気にせず千里は言う。きっと千里は瞳の突拍子のない言動に慣れているのだろう。
「いや。いつも不味い。」
じゃあ、なんで毎日食ってるんだよ。というか、食えるんだよ。と、慎仁は思った。周りは何も言わない。一同同じ思いであるようだ。
「結局、夏コミには間に合いそうにないわね。」
会話を切り替えるように千里が言った。
「ええ。どこかの誰かさんが意固地にならなければ可能性はあったんでしょうけど。」
敵意むき出しの棘を持って瞳が言った。それに対し知が答える。
「俺は外道は好まん。」
「だから、なんで千里のほうにのめり込んでるんですか。」
慎仁が困ったように言う。
「まぁいいじゃん。お前も一緒にやればいいじゃねえかよ。」
女の口調とは思えないな、と千里について思いつつ、慎仁はうどんをすすった。
千里の言う通りにすれば、瞳との距離が縮まるだろうか。
そんなことを考えつつ、慎仁は堂々と瞳を見れないでいた。
慎仁には、かつて帰宅部に憧れていた時期があった。慎仁は中学の時代から部活動をやっていたからである。そして、高校に入って、はれて帰宅部となることができた。しかし、慎仁はほんの三日で帰宅部に飽きてしまった。慎仁にはただ帰宅することが退屈でたまらなかった。とはいえ、その頃にはもううすでに入部するには遅いといえた。
かつて空き教室だった場所。そこには非公式で活動する部活動がある。実際には部活とは認められていない。非公認活動集団とでも名乗るべきだろうか。名前さえない。そこにはただ、同人誌を作るという目的だけがあるのだった。そんな集団の中でも慎仁は独りだった。本来は独りではないはずなのだが、実質的に一人になってしまっている。
慎仁は独りでパソコンに文章を打ち、他のメンバー、千里、人見瞳、そして、人見知は女性向けの顔のいい男性キャラの登場するアニメを割と大きなテレビで見ている。
同人誌。それは自費で出版し、販売された印刷物である。だが、現在では自費出版のマンガを主に指す。慎仁、千里、瞳、知は同人誌を作るために集った仲であった。だが、本来は慎仁と千里では目指していたものが違ったのだ。本来は知が慎仁の味方であるはずなのだが、そんなことは忘れてしまったかのように千里の側についてしまっている。だから、慎仁は独りで作業をしている。とはいえ、慎仁は絵が上手に描けない。だから、パソコンに文章でただ設定を書き込むのみであった。初めのうちは屈辱だった。やりたいことができなかったからである。しかし、次第に慎仁は楽しみを覚えるようになる。今まで独りで過ごしてきてなんの不自由もなかったのだ。慣れてしまっているのだろう。
「先輩、何やってるんですか?」
慎仁が気付かないうちに人見瞳が慎仁のノートパソコンのディスプレイを覗き込んでいた。慎仁は四つん這いになっている瞳の全体像を想像すると、途端に目の前が見えなくなってきた。
「せ、設定を打ち込んでるんだ。」
思わず声が裏返る。
「同人誌のですか?」
「う、うん。」
言葉もつっかえる。慎仁の胸の鼓動ははちきれんばかりに刻まれる。それはとても苦しい。しかし、それが快感でもある。苦しみに快感を感じている自分に対し、慎仁は戸惑っていた。自分は変態ではないのかと。
「こんな感じですかね?」
「へ?」
慎仁の前にかざされた紙には美少女のイラストが書かれていた。
慎仁は感動した。恐らく、この感情を感動と呼ぶのだろう。湧き上がってくる、何とも言えない高揚感。だが、それは余韻も残さず消えていくが、その感情は次々に湧きおこってくるので、高揚感が収まることはない。
「どうしたんですか?」
瞳が心配したように慎仁に問いかける。
「いや、何でもない。」
そう言って慎仁は顔を瞳から背ける。そして、悟られないようにそっと涙をぬぐう。
「もしよかったら、お手伝いさせてもらえませんか?」
「なんで?」
「向こうは兄が何とかすると思いますから。」
そう言って瞳はテレビにかじりついている二人の男女を睨む。知は真剣そのものの無表情で(いつもと変わらないけど)、千里はそんな知に笑顔で話しかけている。千里の顔は今までに見たことないくらい明るい、全てを焦がしつくしてしまいそうな光を発していた。そんな二人を瞳はきつく睨んでいた。まるで、親の仇を見るような目で。
慎仁は四人の間に一つの大きな溝ができてしまったような気がした。それを知ってか知らずか、下校中、千里は元気に話しかけている。
「期末テスト、面倒だよね。瞳は今回何とかなりそう?」
「やってみるまで分からないですが、最善は尽くします。」
瞳はいつもと変わらない感じで言う。
「知さんは?もうすぐ受験ですよね。」
瞳の表情が途端険しくなる。憎しみの表情。それが兄の知だけでなく千里にも向けられていることに慎仁が気付いたとき、慎仁は思わず立ち止まりそうになった。しかし、不審な行動をすれば自分にもその目が向けられるのではないかと怖くなり、慎仁は平然を装う。
「俺は就職だ。テストは毎回本気でやらない。」
こともなげに知は言う。
「え、就職なんですか?」
千里が驚いたように目を大きく開いて言う。だが、慎仁は言葉には出さないまでも、瞳のしている表情の方が千里の何倍も驚いているように見えた。
「ああ。」
知は表情を変えずに言う。だが、慎仁には知がそれ以上の事柄を語りたくは無いように見えた。千里はそんなことにも気付かず、尻に質問を続ける。
「F高校まで来て就職なんですか?」
慎仁たちの高校は平均的な偏差値が高く、九割以上の生徒は大学に進学する。偏差値が高いということはそこそこ入試が難しく、学力の高い生徒が多いということだ。
「うちは親がいないからな。」
ほら言わんこっちゃない、と慎仁は思った。千里の長所は遠慮がないところであり、また、そこが短所となるのであった。
「そ、そうなんですか。」
「じゃあ、また。」
慎仁と千里、人見兄妹が別れる道に来たので、知がそう言った。他三人も別れのあいさつをする。
「で、なんの用なんだ?」
千里との帰り道、慎仁は言った。
「な、何が?」
千里は視線を泳がせながら言う。だが、黙っている慎仁に観念したように言った。
「ちょっと手伝ってほしいことがあるの。」
千里が慎仁の背後に回って帰る時、それは常に何かがある時だった。慎仁は慣れているので、顔さえ向けずに千里に話しかけていた。
「何?」
「実は頼まれたことがあってさ。」
どうせそんなことだろう、と慎仁は予測していた。
夏の余韻は夕刻まで続く。蒸し暑さは収まらない。蝉も飽きずに泣きわめき続けている。もうすぐ夏休みである。
「山田って知ってるよな。」
慎仁は藍色に染まった窓ガラスを見つめていた。そこに映る自分の虚像を穴が空くほど見つめ続けていた。
「あのお調子者だろ?」
ベッドと学習机しかない部屋。慎仁はそんな空間に浮かんでいた。
「アイツさ、実は波留のことが好きみたいで。」
なんて陰気な面だろう、と慎仁は自分を見て思った。藻のように青臭いと自分を侮蔑する。
「ハルって誰?」
慎仁は千里の答えを待つ。
「橋本だよ。同じクラスの。」
「ああ。いつも千里と一緒にいる娘か。」
「うん。」
「それで?」
「だから、二人が仲よくなる方法はなにかないかな、と思って。」
「それで?」
「なんかいい案ない?」
「ない」
慎仁は関わり合いたくないというように即答した。
「そこをなんとかさぁ。慎仁、そういうゲームばっかしてるんでしょ?」
「ひどい偏見だな。」
だが、実際、学習机とベッドしかない慎仁の部屋にはそれらが隠されていた。それを見つけることができるのは千里だけである。
「もうすぐ夏休みだろうが。」
慎仁は恋愛シュミレーションゲームを好む割に、現実の恋愛に関しては冷めた目で見ていた。少なくとも、高校生の間に恋愛をしたところで意味はないと考えていた。そもそも自分の生活を自分たちでどうにかできない身分で恋愛やら二人の将来について考えるのは馬鹿々々しい。どっちにしろ大学に進学すればほとんどの場合離れ離れになる。そうなると仲が冷めてしまうのは自明の理だ。
「じゃあ、どうすればいいのさ。」
少しは自分で考えろ、と慎仁は思った。だが、慎仁の頭の中ではすでにシナリオが完成してしまっている。これを言わずにいるのは健康に悪いと慎仁は考えた。
「夏の終わりに夏祭りがあるだろ。それをきっかけに仲良くなればいい。」
「えぇ⁉もっと早くなんとかならない?」
「二人になにか共通するものはあるか?同じ部活だとか、趣味が一緒だとか。」
「いや、ないな。」
なにかバツが悪そうに千里は言った。田中と橋本はあまり合いそうもないと千里自身も感じているのだろう、と慎仁はそこから推測する。
「共通の友達が千里ってだけなら、なにかきっかけが必要だろうが。」
「ふむふむ。」
コイツ、なんも考えてねえな、と慎仁は思ったが、伏せておく。
「夏祭り。女友達同士で一緒に屋台を回っていたら、友人の知り合いの男子と知り合う。そこから二人は仲良くなり、めでたくゴールイン。」
「ぷふふ。」
「何がおかしい。」
携帯電話から漏れてくる笑い声に顔を赤くしながら慎仁は癇癪を起こす。
「だって慎仁がカッコつけてるから。」
「悪かったな。」
虚像が赤い顔をしていることに気が付き、慎仁はなるべく冷静になろうと心掛ける。
慎仁は気が付いていなかったが、その時の慎仁の顔は悪態をついていた藻のような顔とは似ても似つかない表情に変わっていた。
「夏休み中の部活はどうするんだ?」
慎仁は千里に聞いた。
「事前に二人には聞いたけど、来れそうな日に集まればいいんじゃないかなって。全員が都合のいい日を見計らって、その日に集まるんだ。もう夏コミはだめだろうし。」
「俺はなんも聞いてないんだが。」
「アンタ始終暇でしょうが。」
真実なので慎仁は反論できなかったが、少しは話を通してくれたらよかった、と思った。
「まあ、やることないしな。」
知の危惧がそのまま形となった。やることのない部活動は堕落する。現在の活動はとんでもなく為体であった。
「んじゃ、そういうことで。」
千里の活発さを表すように、勢いよく通話が切れた。
窓越しには見えないが、慎仁は夜空に星が輝いているのだろうと予想した。雄大な天の川は自分たちをどう思っているのだろうと考えながら。
夏休み、集まる日になったのは常に知の都合が合う日だった。知は今年三年生であるから、受験勉強で忙しいのだろうと慎仁は思ったが、その考えは間違えであると思いなおした。知は受験をしないと言っていた。だから、勉強をする必要もないのだ。では、なにをしているのか、と慎仁は疑問に思ったが、人は個人的に色々な都合があるから、干渉をしないように心掛けていた。だが、それも慎仁の本心ではなかった。慎仁は怖かったのである。人見兄妹の間にある問題は思った以上に大きそうだと感じていたからだ。
そうした夏休みのとある一日、課題活動棟に向かおうとしていた慎仁は誰かに呼び止められた。
「おい、中田。」
慎仁は返事もせずゆっくりと目だけを動かす。もし別の中田さんなら恥をかくことになるし、そもそも慎仁を呼び止めるような男はいない。
声の先には一人の男がいた。丸刈りにした頭は青く、昭和の悪ガキを思い出させるような丸坊主が慎仁の方を見ている。
「誰?」
慎仁は言った。
「俺だ。山田だ。」
「どの山田さんですか?」
「お前、茶化してるんじゃないだろうな。同じクラスの山田だよ。お調子者でおなじみの山田だよ。」
「ああ。あの山田ね。うまい坊やみたいな頭してどうしたんだ。失恋したのか。」
「してねぇよ。むしろこれからだよ。」
「無謀だと分かっているなら止めておいた方がいいぞ。」
「いや、そうじゃないって。ちょっと気合を入れるために刈ったんだって」
慎仁は深いため息を吐いた。慎仁は山田がこれほどバカであるとは思っていなかったからである。
「お調子者でおなじみの山田さん。そんな頭して告白とかされたらどう思います?誰も相手にしてくれませんよ。」
「なんで俺のモチベーションを下げるようなこと言ってるんだよ。お前も協力してくれるんだろ?」
「は?」
慎仁は耳を疑った。
「夏祭り、よろしく頼むぜ。」
どういうことなのだろう、と慎仁は頭を悩ませる。千里に聞くしかない。山田はどこかに消えた。慎仁は大急ぎで部室に向かう。
「おい、どういうことだよ。」
「まあ、落ち着いて聞き給えよ。」
教室には千里しかいなかった。千里は遠い思い出を睨むように目を細めると、老人が子供に昔話を聞かせるようにゆっくりと話し始めた。
事の始まりは夏休みへの最終試練の前であった。それは何気ないはずの日常の一ページ。
「千里は元気そうねぇ。羨ましい。」
道を行く二人の女子の片方が言った。
「なに?私がまるでバカかのようじゃないか。」
「そう言うわけではないけど。」
そう言って初めに話した女子生徒が周りを見渡す。
「だれも千里ほど元気そうじゃないわね。」
「私だってテスト前だから疲れてるんだぞ、波留。」
千里と呼ばれた少女はふてくされながら言った。
「少しもそうは見えないのだけどね。」
波留という名の少女は小さくそう呟いた。
「おはようさんッ!アサダチサト!」
千里の後頭部に衝撃が走る。
「テメェ!××を××すんぞ、コラァ!」
千里は前方を駆けていく少年を鬼の形相で駆けて行った。
「千里ったら、山田くんと仲がいいのね。」
波留は微笑みながら言った。
千里は砂埃を巻き上げながら山田という少年を追う。校門の近くまで来たとき、見知った少年の顔を見つけた。その顔を見た瞬間、千里は動くのを止めていた。人々が歩く中、その少年は校門の端に立ち、何かを待っていた。そのとき動いていなかったのは千里とその少年だけだと千里は思っていた。
少年が全速力で駆けてくる。表情を一切変えずに向かって来るその姿を千里は凛々しいと感じた。千里は非常に戸惑った。少年は全速力で駆けてくる。しかし、どんな反応をすればいいのか分からない。
そうしているうちに、少年は千里の横をすり抜けるようにして駆けて行った。千里はそのとき自分がどのような顔をしていたのか分からなかった。自分では無表情のつもりだった。しかし、通り抜けていく生徒は皆とても困惑した表情で千里を見ていた。千里は少年が追うものを目で追った。追われている少年も千里のよく知る少年であった。
千里はコーヒーを一口口に含み、香りを十分に堪能してからごくりと飲み干す。喉を流れる熱い液体の流動が堪らないと言った顔をしている。
「まだ全然関係ないよな。」
慎仁は言う。
「まあ、ここから急に急展開が始まるから。」
「急に急展開って日本語おかしくないか?」
「細かいなぁ、慎仁は。」
その日の放課後である。
「で、用ってなんなのさ。」
まだ夕日には早い、少し黄色を帯び始めた日光が人気のない教室を照らす。そんな人気のない場所には二人の人物がいた。
「よう、千里。来てくれたのか。」
気のいい笑顔で一人が言った。
「これは何の真似よ。」
そう言って千里は一枚の紙を突き付ける。
「なにって、手紙だろうが。」
「だから、紛らわしいのよ。」
下駄箱に入っていたそれは、どう見てもラブレターにしか見えない。しかし、今の時代ラブレターなどあり得ないし、千里はその手紙に書かれていた名前を見て、決して恋文ではないことを悟った。
『千里へ、
少し話がある。放課後、誰もいなくなった教室に来てくれ。
山田文人』
「アンタ、名前文人だったのね。似合わないわ。」
心底バカにするように千里は言った。
「すごくウザいが、今日はそれどころじゃないんだ。堪えておく。」
少し真剣な顔をして山田が言ったので、千里は少したじろいでしまった。
「お前、橋本と仲がいいよな。」
「ああ、波留のことね。」
気持ちが悪い雰囲気が漂っているので千里としては少しおちゃらけて空気を一新したかったが、どうもそんなことができる状況ではなさそうだった。
「俺、実は、橋本のことが、その―――好きなんだ。」
「はぁ?アンタ、バカ?」
千里は思わず、心の底から、心底バカにするように言った。なんとも呆れる話であったからである。
「いきなりバカとはなんだ。」
「バカだからに決まってるだろうが。」
そう言って千里は溜息を吐く。
「だってよ、お前、私にこんなことするならさ、波留に手紙出してさ、そんでもってコクればいいだけじゃねえかよ。というか、なんでそうしなかったんだよ。バカ。」
急に口調が荒くなった千里に、今度は山田がたじろいだようだった。
「そんな、お前だったら強いからそのくらいできるだろうけどさ、普通はそんなの出来ねぇんだよ。急に呼び出して、告白なんてしたら気持ち悪いって思われるだろうしさ。」
妙になよなよしながら山田は言った。
「そもそもお前と波留は合わないような気がするけどな。」
なんかめんどくさくなってきたので、諦めさせよう、と千里は考えた。
「それは俺も思ったさ。だから、何回も諦めようとしたんだよ。でも、橋本の顔見るたびにさ、心の底から得体のしれない何かがこみ上げて来て、死ぬほど苦しかったんだよ。お前にも分かるだろう?この気持ち。」
そう言われて、千里は困惑した。春までの千里なら、「分からない」と即答していただろう。しかし、その時の千里にはよく分かった。
ストン、と自分が高いところから落とされる気分を千里は味わった。
ある春になって間もない日、千里はそう思った。
恋に落ちる、って表現は間違っていないんだな。
千里は目の前に現れた人物を見た瞬間、恋に落ちてしまった。
精悍な顔つき。黒い縁のメガネ。どこか世界を悲観したような、寂しげな目。すらっとしていて高い背丈。
その男性の隣で幼なじみが何やら言っているのだが、何も聞いていなかった。
そこで、千里は異変に気が付く。隣にいる後輩、人見瞳の様子がおかしい。その男子の顔を睨んでいる。その表情が千里には憎しみで満ちているように感じられた。そして、その少女の唇は少し震えていた。
幼なじみの男子、中田慎仁も異様な空気に気が付いたらしく、口を閉ざしてしまっていた。
帰り道、後輩の少女に千里は男性について聞いていた。少女は言った。彼は自分の兄であると。
そして、その兄、人見知は部活動に顔を見せるようになった。千里はとにかく気を引こうと、知に話しかけた。知は特に興味が無いように千里の話を聞き流していた。千里は自分には魅力がない事を知っていた。全くもって、女子らしくないのだ。自分でも女子らしくあろうと思ったこともなかったが、自分が自分らしくあろうと思うと、いつの間にか男勝りになってしまっていたのである。そのせいか、クラスでは男子と女子の架け橋のような存在になってしまっている。それは男子が自分を女子として見ていないからであることを千里はよく理解していた。
だから、千里は自分に自信がなかった。
何度も諦めようとした。でも、知の顔を再び見ると、何かが湧き出るように奇妙な気持ちが溢れてきた。これが恋であることを千里は生まれて初めて知った。
「ふぅ。仕方ないわね。ちょっとだけ恋のキューピッドになってやりますか。」
千里がそう言った瞬間、輝くような顔で山田は千里を見た。
「マジかっ!」
山田は踊り出した。
「さて、どうしようものか。」
千里の言葉は、浮かれていた山田の耳には聞こえることはなかった。
「で、俺に相談することになったわけだな。」
「うん。」
「じゃあ、重要なのはこの先だ。なんで俺まで夏祭りに行くことになった?」
千里は再びコーヒーをすすると、音を立てずにゆっくりとコーヒー皿にカップを置く。
「まあ、そう急かすなよ。ここからが最も重要で、最も混沌としているのだから。」
善は急げ。そのことわざを千里は信条としていた。慎仁に相談した後も、なにか自分にできることがないかと画策していた。例えば、波留との会話の中に山田のことを話題にしてみたり、なるべく波留と山田とを遭遇させようとしてみたりである。
そうしているうち、波留の中で何か意識が変革したようである。
いつものように波留と共に山田の話題で会話していたときである。
「千里、私、応援してるから。」
唐突に波留が言った。
「何のこと?」
千里は心底不思議がって聞いた。
「誤魔化さなくていいよ。千里は山田くんのことが好きなんでしょ?」
その言葉を聞いた瞬間、千里は心臓が飛び出るかと思った。それほどに彼女は驚天動地の心境であった。
「いやいやいや。違うから。断じて違うから。」
「だって、最近山田くんのことばっか話してるじゃん。」
「違うんだって。これは慎仁が―――」
「え⁉そういうことなの⁉」
「どういうことなの⁉」
「山田くんは千里のことが好きで、千里は中田くんのことが好きで、中田くんは山田くんのことが好きで―――」
「いやいやいや、おかしいだろ。」
「いやいやいや、おかしいだろ。」
慎仁は千里の叙述を遮り言った。
「なんで俺が山田のことを好きになってるんだよ。」
「まあ、そこだけはなんとか誤解は解いたんだけどね。」
そう言って千里は続ける。
「まあ、男同士ってのはあり得ないよね。」
必死の説得の末、波留はなんとか山田と慎仁との誤解だけは解いてくれた。しかし、もう千里にはそれ以上の誤解を解く気力は残されていなかった。
「山田は私のことを好きだとは思えないんだけど。」
千里は気力を振り絞り、言葉を紡ぐ。
「私知ってるよ。千里が下駄箱から山田くんからのラブレターを取り出しているのを。」
なるほど、と千里は納得せざるをえなかった。きっと、波留がかたくなに山田と千里のことを誤解しているのはラブレターのせいである。バカな真似するから、と千里は山田を呪った。
千里は波留の肩に両手を載せ、言った。
「夏祭りに行こう。」
「え?」
波留は突然のことに戸惑っているようだったが、千里は無視して言う。
「夏祭りに一緒に行こう。そこで全ては解決する。」
「ということで、夏祭りに行くことになったのだよ。」
千里はそう言って叙述を終える。
「いや、俺が夏祭りに行く理由がいまいちわからないんだけど?」
「あんたもなんか、当事者っぽくなってるから。誤解を解かなきゃヤバいでしょ。」
「いや、俺じゃなくてもいいじゃん。」
「アンタしか頼めるヤツがいないのよ。」
なら仕方ないか、という話にはならない。
「知さんと行けよ。」
「な、なんでよ。」
千里は明らかに動揺していた。
「お前、知さんのこと、好きなんだろ?」
「べ、別に―――」
「もっと素直になれよ。」
慎仁の上から目線の言葉に千里は反感を覚えた。
「アンタはどうなのよ。」
「は?」
「アンタだって、瞳のこと好きなくせに。」
「ち、ちげぇよ。」
「瞳の前であんなにデレデレしてるのに、気付かないとでも思った?」
「お前だってそうだろうが。」
なんとなく、互いにバカらしくなったのか、二人は少しづつ落ち着きを取り戻した。
「で、実際どうなの?」
「好きです。お前は?」
「好きです。」
何とも言えない空気が吹き抜けていた。
「君には二つの選択肢がある。作画崩壊する未来か、作画崩壊しない未来か。」
「この人何言ってるの?」
「俺にも分からない。」
紆余曲折あり、慎仁と山田とそして人見知はともに夏祭りに行くことになった。山田と知との初対面の会話が先ほどの会話であった。
知はそれ以降大してしゃべろうとせず、山田も緊張しているのか話そうとしなかった。慎仁はそんな山田の緊張をほぐすべく、必死に山田に話しかけていたが、山田はあまり聞いていないようだった。
多くの人々の流れに合わせて三人は移動する。その人の歩く速さと同じ速度の流れはゆったりと、小川のように流れていく。屋台の明かりが目を刺さんばかりに輝く。その光に興奮を促されたのか、人々の表情は生気を帯びている。家族と、もしくは恋人友達、それらが楽しく笑い合いながら歩いている。そんな中で慎仁は何故自分はこんなパーティーメンバーで夏祭りを攻略しようとしているのだろう、と悲しくなった。
かつて、慎仁も家族とともに夏祭りに来ていた。それがいつの間にか家族と行かなくなり、友だちと行くことになっていった。そうなると、何故か故郷を懐かしむような、そんな不思議な気分になっていた。
「なぁ、千里たちと合流するのはまだなのか?」
山田が言った。
「ちょっと待ってろ。」
そう言って慎仁は携帯電話のメールを確認する。千里は夏祭りの会場近くに来ると連絡すると言っていた。しかし、メールは来ていない。着信もない。まだ花火が打ちあがる一時間前である。だが、花火が終わってしまうと屋台もすぐ撤収してしまうので一時間前に集合しようと決めていたのだ。
『まだか?男子は全員集合済み。』
そう千里にメールを打った。
「橋本さん、浴衣で来るのかな。」
うずうずと山田は言った。
「いや、どうなんだろ。」
そこらへんのことは慎仁は千里から聞いていなかった。
「これだけ時間をかけているってことは絶対浴衣だよ。うおおおおお。やっべ、興奮してきたっぺ。」
これで浴衣でなければ山田はとてつもなく悲しむだろうと思った。あまり友人ほどでもないけど知り合いが落ち込む姿というのを慎仁は見たくない質であった。
ふと、知が自分と山田を見ていることに気が付く。
「どうしたんですか?」
慎仁はだんだん知の無言の会話が聞こえるようになっていた。
「それほど浴衣着てるやついない。」
「うおおおおお。」
慎仁は声を上げ知の言葉をかき消そうとした。
「なに興奮してんの?」
山田は変な人を見るような目で慎仁を見た。先ほどの会話は聞こえていなかったようだ。興奮のためだろう。慎仁は興奮して人の声が聞こえていなかった人間に変人を見るような目に少し憤慨しつつも聞かれていなかったので良かったことにした。
「ま、俺たちも浴衣で来てるから、橋本さんたちも浴衣で来るでしょ。」
能天気に山田は言った。周りを見てみると、確かに浴衣姿の人影は少なかった。だが、それもそうだろうという気が慎仁にはした。歩いている人々は圧倒的に家族連れが多かった。もしくは中年夫婦か。そもそもこの市は少子高齢化が深刻で、若い人間は都会へと流出してしまう。多くが大学に進学してしまうというのもあるのだが。その中で浴衣を着ているとなると小学生くらいの子どもだったりする。
「浴衣ねぇ。」
慎仁は訳もなく呟いた。
「夏祭り、慎仁は瞳ちゃんと二人で周りなさい。私は知さんと周るから。」
「はい?」
慎仁は千里の言葉に素っ頓狂な声を上げた。
「そしてコクっちゃいなよ、ユー。」
「は?」
唐突な言葉に慎仁の情報処理能力は追いついていなかった。何故こうなる。
「当たって砕けろ、だよ。」
「いや、そんなほのかりんのように言われても・・・」
「いいからやれ。」
慎仁は知が自分を見つめているのに気が付いた。屋台のおいしそうな臭いが漂う。
「なんか食わねえか?」
知が食事を欲しているのだと慎仁は思ったのだ。
「何言ってるんだよ。橋本さんが来てから食べるんだよ。」
「でも、いつ来るか分からないしさ。」
慎仁は知の表情を窺う。そこからは何の感情も読み取れない。慎仁には知の感情を表情から読み取るのが困難だった。
(人見さんも同じだけど)
そう思ったことを慎仁は胸の奥底に沈めた。
くううう。
初めは自分の腹が鳴ったのかと慎仁は思った。しかし、自分の腹を見つめている知を見て慎仁は腹を鳴らしたのが知であることを知った。
(何か買って食べた方がいいよな)
慎仁はそう思った。慎仁は先輩であるがゆえに知に気を遣うところがあった。表情が硬いゆえに少し恐怖感を抱いていることも理由ではあるが。
「もうアイツら待ってなくていいじゃん。なんか食おうぜ。」
「もう少しくらい待っててくれてもいいんじゃない?」
「げっ。」
よく聞きなれた声に慎仁は肝を冷やす。
そこは一面のお花畑であった。どこもかしこもすべて色とりどりの花で占められている。そこには空の青と明るい色しかない。
そう慎仁は思った。そう思えるほどに慎仁の目に写った瞳は絶景であった。橙色の髪を後頭部で結び少しカールさせてある。肌は少し化粧をしているのか、唇の色が常より映え、着物の明るい色彩は男の目を釘付けにするにはもってこいの代物であった。
そんな瞳が険しい顔をしている。何故かと視線を気付かれないように追うと、やはり知がいた。兄妹は互いに親の仇であるかのようにして睨みあっている。
「どうですか。知さん。」
はしゃぎ気味で千里は知に聞く。
「何が?」
「浴衣ですよぅ。」
慎仁は急に女性らしくなった千里に吐き気を覚えた。彼の知っていたはずの幼なじみとは全く別の人間に思えたからであった。
「だば、だばだばぴー。」
「?」
奇声を発した山田に橋本は首をかしげる。珍しい虫を見つけた時のような、害があるのかないのかを見極める目で橋本は山田を見ていた。
「や、やあ、瞳さん。き、今日もいい天気ですね。」
「そうだね。」
思わず綺麗ですねと言いそうになったのを慎仁は抑えた。
「ど、どう?夏祭りは?」
「どうって、どういうこと?」
「ええっと・・・」
少々頭を悩ました末、慎仁は言った。
「ほら、昔を思い出さない―――」
親と来たこととか、と言いそうになり、慎仁は言葉を喉の奥に押し込む。知が自分たちには親がいないと言っていたことを思い出したからである。
「いや、別に・・・」
そう言って瞳は遠い目をした。慎仁には瞳が今脳内でどのような風景を浮かべているのか想像できなかった。親と一緒の風景なのか、それとも兄妹だけの夏祭りだったのか。
瞳について何も知らない自分が彼女に告白していいものなのだろうか、と慎仁は迷った。
「ほら、二人とも行くよ。」
千里の元気な声が響き渡った。慎仁と瞳は歩き始めた。
「決して手を離すんじゃないよ。」
射的屋にて、銃を片手に持った山田に千里は言った。橋本、知は射的に夢中のようである。花火が上がる時刻がどんどん迫っていた。花火が上がるまでにすべてを終わらせなければならない。
「じゃばんばじゃばんばぴゅー。」
山田は変な言葉を紡いだが、二人はそれを気にすることのできる精神状態ではなかった。自分たちの未来が決するのだから。
射的を楽しんだ後にはもう花火の会場へと続く列ができ始めていた。慎仁たちは人々の波にもみくちゃにされる。しかし、そんな中、慎仁はその姿を見失うことはなかった。彼が愛した者の姿を。
「瞳さん、こっち。」
「え、ええ?」
慎仁は瞳の手を掴み、人ごみから逸れていく。途中で同じく知の手を引いた千里と慎仁は目が合った。互いに一瞬視線を合わせただけであったが、何を言おうとしているのかが分かった。
『がんばれよ。』
『お前もな。』
慎仁は進みながら、ずっと前を見ていた。後ろには瞳がいる。だが、その姿を慎仁は見ることができなかった。彼にそれほどの勇気はなかった。
「先輩?」
瞳が不安そうな声で慎仁に話しかける。顔もきっと不安な面持ちであることが慎仁にも分かっていた。だが、彼には瞳の顔を見る勇気も、言葉に答える勇気もなかった。
つないだ手が嫌に汗ばんでいる。自分の汗であろうことが慎仁には分かっており、少し恥ずかしい気持ちになった。だんだん露店が少なくなり、やがて人影のない公園に着いた。
公園について一安心した慎仁は手を離した。そして、目の前のベンチに座る。その間も慎仁は瞳を見ることができずにいた。ベンチに座り早まった呼吸を整えるに際し、ようやく瞳を見ることができた。瞳は慎仁が手を離した場所から一歩も動くことはなかった。慎仁は瞳を座りながら下から仰ぎ見るばかりである。
「どうしたんですか。もうすぐ花火始まりますよ。」
いつもと変わらない表情の瞳だったが、慎仁には不機嫌であるように見えた。
「少し人見さんに聞いてほしいことがあるんだ。」
座りながらでいいのだろうか、と慎仁は思ったが、この姿勢でないと話すことができそうもない、と慎仁は考え直した。恐れ多くて慎仁の体は重い腰を上げようとはしなかった。
「僕、中田慎仁は人見瞳さんを愛しています。世界中の誰よりも。」
「で?」
瞳の予想外の返答に慎仁は困り果てた。意味が伝わらなかったのだろうか。
「お付き合いしてほしいです。」
「そう。」
そう言って瞳は慎仁に背を向けて帰っていこうとした。慎仁が慌てて呼び止める。
「返事はどっちなの?イエス?ノー?」
「ノー。」
即答だった。せっかく呼び止めようと立ち上がった慎仁は腰を折られ、地面に両手をついた。
「な、なんで?」
そんなことを訊くのは野暮だと慎仁自身昔から思っていたが、聞きたい気持ちがよく分かった。理由でも聞かないと、気持ちの整理がつかないのだ。理由もなしに断られたと思うのが嫌だったのだ。
「あなたは私の何を知ってるの?」
瞳がそう言ったときヒュルルルと花火の昇る音がした。そして、花開く瞬間のようにバンッと夜空に弾ける。そんな花火を背景に自分を見下ろす瞳を慎仁は美しい一輪の花であると感じた。何発も花火は大きな音を立てて花を咲かせる。
一輪の花はそっと慎仁の前から姿を消した。
慎仁はその花が夜空の大輪の花々と同化してしまわないかという不安に駆られた。しかし、慎仁には一輪の花を呼び止めることができなかった。なぜなら、彼はその花のことをよくは知らないのだから。
「こんなところにいたんだ。」
しばらくして水っぽい声が聞こえた。慎仁は顔をそっと上げる。そこには案の定千里がいた。目じりが赤くなっている。
「なんでこうなっちゃったんだろうね。お互いに。」
その公園から見える空は時折大きな号砲とともに明るく照らされる。
「さあな。」
背中を合わせながら湿った声で話す二人に誰も気が付くことはない。
「お前は俺のことを何も知らないだろう、って言われちゃった。」
「・・・俺もだよ。」
「あの二人って、やっぱり似てたんだね。さすが兄妹。」
「そうだな。」
空は白い靄がかかったようになっている。もう花開く音は聞こえない。
「後悔してるか?チリ。」
「アンタは?」
「してない・・・と思う。」
「じゃあ、私もしてない。」
「なんだよ、それ。」
千里はそれほどきれいではなくなった空を仰ぎながら言った。
「久々にチリって言ってくれたね。」
笑顔を見せようにも、充血した目で見つめられてはうれしくもない。
「それがどうしたんだよ。」
「私たち、付合おっか。」
何気ないように千里は言った。
「フラれたもの同士でさ。」
「そういうのはよ、その涙をどうにかしてから言えよ。諦めきれないってのがバレバレだぞ。」
「そうだよね」
千里は浴衣の袖で涙をぬぐって笑った。慎仁は、ここにも花が一つ咲いた、と感じた。遅咲きの花だった。
夏が過ぎ、もうすぐ夏が来る。しかし、まだ残暑というやつなのだろう。秋にはまだまだ遠い。だが、吹き抜ける風からはかすかに秋の臭いがした。
「おっす。今日も元気かね?」
慎仁は肩を叩かれる。そして、慎仁の肩を叩いた本人は風の如く去っていく。
「失恋なんて嘘みたいだな。」
夏のように去っていく千里の後ろ姿を見ながら慎仁は言った。
「ガラガラピー。」
教室にて慎仁に話しかける?者がいた。
「おはよう。」
慎仁は山田に言った。隣には高橋もいる。山田と橋本は夏祭りを機に交際を始めた。
高橋の前で始終変な言葉を吐いていたせいか、山田は橋本の中で謎の言葉を発する人間という地位を獲得し、普通に話せる状態となっても、山田は話せなくなっていたのだった。教師に当てられてもそれを貫き通したのには慎仁も少し感心した。その後、教師に呼び出されたのは言うまでもない。
めでたしめでたし、とはいかないようだ。
放課後、部室へと向かう廊下を歩く。日も暮れるのがだんだんと早くなっている。慎仁は部室の扉の前で止まった。そして、戸を開く。
「お疲れ様です。」
「お疲れ。」
部室に来ていた千里、知、そして瞳はそれぞれ思い思いの挨拶をする。
日常はそんなことでは潰れなかった。
俺は、中田慎仁はこんな日常がずっと続くのだと思っていた。