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ホモ×レズ!  作者: 竹内緋色
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 題名に反して暗い作品です。特に同性愛についてゆるく触れているので、少し注意が必要かと。同性愛についての知識が不足しているので、勉強は必要だなと思いました。

         起


 どうしてこんなことになったのだろう。

「なんで祥吾と巌様じゃダメなのよ!」

「ハァ?別作品同士から引っ張り出すとか邪道だろうが!それもどっちも主人公だし。見る目なさ過ぎだわ。」

 どうしてこんなことになったのだろう。

 でも、後悔はしていない。


 空間。そこには何があるのだろうか。否、何もない。そこには物体と色のない透明な空気が敷き詰められているだけである。

 その空間の中に、一つのテーブルと二脚の木製のチェアがあるだけの空間の中に、私、人見瞳が存在していた。

人見瞳は二脚あるうちの一脚の椅子に座り、食事を採っている。テーブルは大きい。少なくとも、一人で食事をするために買われたものではないだろう。そして、二人で使うにもまだまだ大きすぎる。

人見瞳は遠き日を思い出す。家族四人で過ごしていた日々。それはとても・・・幸せなものとは言えなかった。

人見瞳はスクランブルエッグに箸をつける。食卓にはスクランブルエッグの他に、味噌汁と白飯が整い並びながら人見瞳の胃袋の中に入るのを今か今かと待ちわびている。そして、それらは人見瞳の向かい側にもう一組あった。それらも人見瞳の目の前にある食事と同じように白い湯気を立ち上らせながら人見瞳の食事と同様に食される時をまだかまだかと待ちわびていた。

美味しい。

少し急ぎ気味に食事を口の中に運びながらも人見瞳はそう思っていた。

今日も美味しく作れている。自分の作ったものに対してそう思うのは自画自賛のようで癪だけど。

のらり、くらりといった風な音が耳に入ってくる。重いものが階段を響かせる音だった。

男の人って体重が七十キロほどあるのが平均らしいけど、私たち女とは三十キロも体重が違うのね。あまりそうには見えないけど。

重い足音の主がリビングへのドアを開けて人見瞳のいるリビングへ侵入してくる。

そこに現れたのは一人の男だった。短く刈り込まれた髪に黒い縁のメガネをしている。人見瞳はこの男のメガネ姿を似合っているとは思っていない。どう見ても体育会系といった面に黒い縁のメガネは一向に馴染んでいるとは人見瞳には思えなかった。

男は人見瞳の姿をじっと見ていた。まだ起きたてらしく、脳の処理能力が低下しているのだろう。

少しの間人見瞳をぼうっと眺めていたかと思うと、身体を翻してリビングから出て行く。挨拶もなかった。

人見瞳はそのことに慣れていた。毎日同じことを繰り返しているので、このことがないと少し不安を覚えるほどだった。

男が去った後も、人見瞳の向かい側の席の食事は白い湯気を立てていた。

先ほどよりも湯気が細くなっている。

人見瞳は自分の分の食事を平らげ、キッチンのシンクに置く。その際、キチンと水を盥の中に張っておいて、その中にぽちゃんと沈み込ませる。平らな皿は、盥の底へと滑り込むように沈んでいく。その際、皿の汚れは水の中を浮遊する。人見瞳は綺麗に皿の上を片付けていたので、水の中にはさほど汚れは浮くことはなかった。

あの男の食事が冷めてしまう前に家を出よう。

人見瞳は洗面所へ向かう。そこで朝一番の自分の顔と対面する。とはいえ、人見瞳には自分の顔に対する感想は特にはない。自分の顔に劣等感は抱いていない。かといって、優越感も抱いてはいなかった。自分自身の顔への興味は人見瞳には特にはなかった。

人見瞳は顔を洗う。そして顔をタオルでこすり、顔面中の水気を取る。そして櫛を使い、髪を軽く溶かしておく。髪は着替えた後に結うので、ここで髪をとかすのはさほど重要ではないのだが、櫛が視界に入り込んできたので思わず手に取ってしまったに他ならない。染め上げたライトブラウンの髪を大雑把に解きほぐす。

おおっと。こんなにダラダラしている暇はない。

人見瞳は洗面所から出て階段を駆け上がる。

先ほどリビングから出て行った男は階段を上っていったわけではないようだった。恐らく便所にでも籠っているのだろう。人見瞳の階段を上る音を聞いた途端、水洗便所の流れる猛々しい音がした。これも、人見瞳には常日頃のことであった。

人見瞳は自室に入り、さっと制服に着替える。人見瞳の高校の制服はセーラー服であった。今の時代、セーラー服など時代錯誤にもほどがあると人見瞳は入学してから常に感じていた。人見瞳の住んでいるF市では、人見瞳の通っている高校だけがセーラー服であった。とはいえ人見瞳はその高等学校に進学してから一週間ほどしか経過していないのだが。

人見瞳は今度は丁寧に髪を溶かしながら、自分の姿を鏡に見る。きちんと着こなされたセーラー服にほとんどオレンジに近い髪色は調和しているとは思えなかった。人見瞳は髪を片方の側頭部だけ髪紐で結んだ。そして、胸のスカーフをきちんと正し、ほこりなどついていないに等しい制服をはたいて、身支度を済ませた。

そして人見瞳はぱたぱたと軽い音を響かせながら、廊下を闊歩し、玄関までたどり着くと、茶色い革靴を履いて、後ろを振り向く。玄関の向かいにはリビングへの扉があった。

 あの男、人見知もきちんと私の作った料理を食べているだろう。

 人見瞳はそう思うと、身を翻し、玄関を出て行った。


 この時間、バスにはほとんど人が乗っていない。通学通勤ラッシュはこの後のバスである。それに、通学通勤ラッシュとはいえ言葉ほどのものでもなかった。席が満席になるかならないかの程度だ。人見瞳の乗っているバスも今現在、十分に空いていた。

「ふあぁ。眠いよぅ、瞳ぃ。」

 人気のないバスの一番後ろの席で人見瞳と一人の少女が二人仲良く、肩を寄せながら座っていた。その少女の名を乃木雅という。

「別に雅まで一緒にこのバスに乗ることもないのに。」

 そう言いながら瞳は不思議な感覚に陥っていた。自分と横にいる少女しかいない世界。だが、それはただ錯覚しているだけである。実際にはバスを運転している運転手さんがいる。しかし、瞳にはこのバスの中という閉鎖空間の中には自分と雅しかいないように感じられて、そのことにぼんやりと意識が飽和状態になっている自分がいることに気が付いた。

「だって、瞳、一人でずっと学校にいるんでしょ。そんなの見過ごせるわけないじゃん。」

 雅が瞳の肩に頭を寄せる。瞳の心臓は雅の行為によって鼓動を早めていた。瞳はそのことを雅に悟られないよう前方に目を逸らす。

「私はこんないい友達をもって幸せだよ。」

 少々冗談めかしながら瞳は言った。

「ねぇ、瞳。」

 雅は頭を瞳の肩に摺り寄せて瞳と目を合わせていない。瞳はそんな雅の方を向きながら話を聞いていた。

「なんであんな兄貴のために一本早いバスに乗ってるの?瞳、あの人のこと嫌いなんでしょ。」

 瞳は雅が話している間、ずっと雅の唇に目を奪われていた。リップクリームを塗っているであろう艶やかな唇。少し紅めの色の唇。瞳は雅が口紅を塗っていないことを知っている。もちろん色付きのリップクリームなども使っていない。雅の唇は昔から鮮やかな紅をしていた。

「ねぇ、聞いてる?瞳。」

「え?何?」

 雅の言葉に瞳は我に返る。瞳は思わず雅の魅惑的な唇に心を奪われていた。自分の唇が自然と雅の唇に吸い寄せられている錯覚さえ感じていたほどだった。

「だから、お兄さん嫌いでしょって話。」

「うん。嫌いだよ。」

 瞳の返事は、兄が嫌いなことがごく当たり前のことだというような軽いものだった。太陽は東から昇って西に沈むというくらいごく普通といったふうだった。

「じゃあなんであんなやつのために一本早いバスに乗ってるの?」

「だってあいつ、私と同じバスに乗んないし。この後のバス乗り越したらあいつ遅刻するもん。」

 はぁ、と雅は溜息をつく。

「ほっとけばいいじゃん。嫌いなんでしょ。兄貴が。」

「そりゃ嫌いだけど、あいつ、卒業できなくなっても一緒のバスに乗らないよ。頑固だから。」

 瞳の口からは、それが自然の摂理であるかのようにすらすらと言葉が出てくる。そんな瞳の様子に雅は呆れ始めていた。

「兄貴を先に行かせれば?」

「あいつ、朝ご飯食べないと絶対学校行かないし、私が起こしたらわざと起きないふりするし、そもそも一緒にご飯食べようとしないし。家でだって会話どころか顔さえ見ようとしないし。」

 雅はまたもや呆れていた。瞳の言葉には少しも怒りが含まれていなかったためである。それが当然であるという口調でしかなかったためである。

「別に嫌いなら学校に行こうが行くまいが関係ないじゃん。」

「あ、そっか。それもそうだね。」

「あんたが物凄いお人よしなんだってことはよく分かったわ。」

 そう言って雅は怠そうにより一層瞳の体に体重をかける。瞳は緊張によりより一層身体を強張らせる。

 人見瞳は自分はお人よしでもなんでもないことを知っていた。兄との衝突を避けているのも、それがただ単に面倒くさいからである。兄妹というのはあらゆることで互いに衝突する。一々そこで喧嘩していては両方とも精神をすり減らすだけだから、避けているのだった。そして、そのことで瞳の負担が大きくなるということもなかった。衝突を兄妹ともに避けているうちに自然と互いに負担がないような体制ができてしまっているためである。

「もう高校疲れたよ。」

「まだ入学して一週間しか経ってないでしょ。」

「でも、やっぱ疲れたぁ。」

 人見瞳はこの日常に幸せを感じていた。彼女の友人である乃木雅と二人だけの幸せな時間、空間。バスの運転手さんはこの際考えずに。

 そう。このまま、このままでいいのだ。このまま友人のままで。ずっと隣にいて他愛もない話をしているだけの関係でいいのだ。そう。このまま、このままで・・・

「ほら。学校に着いたよ。」

「ああん。もっとずっとこのままでいたいよう。」

 それは人見瞳も同じだった。乃木雅は冗談で言っているのだろう。でも、人見瞳は、心の底から深くそのことを願っていた。世界中の誰よりも。

 瞳は雅を急かしながらバスを降りる。

「ありがとうございました。」

 瞳はバスの運転手さんにそう言って定期券を見せ、バスから降りる。

「ありがとうございました。」

 少し気の抜けた声で雅も言う。

「瞳は真面目ねぇ。」

 バスを降りた後、雅が瞳に言った。

「え?そう?」

 瞳は驚いたように答えた。

「だって、バスの運転手さんにあいさつするのって学校でするように言われてるからでしょ。」

「うん。だってするように言われてるし。」

「普通は言われてるからってしないものなの。」

「だって、雅もいっつも挨拶してるじゃん。」

「それは瞳が挨拶するから仕方なく。」

「へぇ。そうなんだ。」

 少々腑に落ちないながら瞳は言った。二人で校門をくぐる。

「まぁ、普通は言われてもしないっていうよりかは言われても簡単にできないんだけどね。」

「へ?」

 空に飛ぶ小さな鳥に目を奪われていた瞳は雅の言葉を聞いていなかった。

「いや。なんでもないわよ。」

 雅はすこし間の抜けている瞳に呆れながらも、そんな彼女に救われているとも感じていた。

 二人仲良く並んで校舎へと向かって行く。個性を殺すことを目的とした人間工場へと二人は向かって行った。


 誰もいない教室。人見瞳はそんなものに慣れ始めていた。私は自分の席に座る。人見瞳と同じクラスではない乃木雅は瞳の前の席に座り、瞳と向かい合うようにしている。雅はいつも先に自分のクラスに寄らずに瞳のクラスに来ている。雅のクラスとはそれほど遠くはないのだから、瞳は荷物を置いてくればいいのにと思っているが、雅は大して気にしていない様子であるので瞳はそんなことを忘れてしまった。

 時間は8時までまだ十分ほど時間がある。この時間にはほとんどの生徒が校内にいない。いるとしても朝練をしている運動部くらいなものである。その運動部の連中もグラウンドか体育館であろうから、校舎内は非常にこぢんまりとしている。この時間には教師さえ半数も登校していない。

 乃木雅はマシンガンのように話題を次々と発している。いわゆるマシンガントークというやつか。そんなことを考えていると、人見瞳の脳内には一つの映像が浮かんでくる。

 そこは崩壊した現代的な建物。そこに筋骨隆々とした男が一人立っている。その男は肩が大きく見えるような服装をし、その服から見える筋肉は汗でてかっている。その男はアーノルド・シュワルツェネッガー。世界最強の男である。その男は手に大きな銃を持っている。それは戦車を破壊するための銃で、銃身が回転することで何発も弾丸を連続で発射できるという代物である。それはガトリングガン、もしくは機関銃と呼ばれるものである。シュワルツェネッガーはその機関銃を辺りの建物に向けてぶっ放している。その光景は、さながら暴力でしかなかった。シュワルツェネッガーの機関銃によって壊される建物は理不尽極まりなかった。子どもたちはシュワルツェネッガーによって破壊されるような理不尽な生活を送っている。

「ねぇ、聞いてる?」

「聞いてない。」

 雅の問いかけに瞳は即座に答える。

「即レスかい。」

 雅は呆れる。しかし、これは彼女たちの間では定型となっているので、双方ともに気にしてはいない。

「どうしたの瞳。疲れてる?」

 雅が心配した顔で瞳の表情を覗く。その際、雅の魅力的な唇がきらりと鋭利な刃物のような冷淡さを持つ。刃物とは冷淡なものである。きらりと光り、刀身はひやりと冷たい。それは人を傷付けるためのものである。暴力というよりかは単純に人を斬るということに特化した能力というべきであろう。しかし、刃物は人を惹きつける。刃物は武器であり、人を斬るためのものであるはずなのに戦う必要のない時は観賞用として扱われていた。人は刃物の持つスリルに惹かれていたのだろう。扱いに一歩間違えば自分が傷付いてしまうのだからそんなものは観賞用として本来はふさわしくない。でも、だからこそなのだ。人はきらりと光る危険性に身を委ねたがるのだから。

「大丈夫。シュワちゃんが大暴れしてただけだから。」

「だったら大丈夫ね。」

 またキラリと紅い唇が光る。

「なにニヤニヤしてるの?」

 自分を見つめて頬を緩ませている人見瞳に向かって雅は言った。

「心配してくれてありがと。」

「なにそれ。」

 雅は少し恥ずかしくなったのか、顔を瞳からそむけてしまう。

「雅可愛いよ。雅可愛い。切り刻んでバラバラにして枕の中に入れて一緒に寝たい。」

「怖い。怖いから。顔も冗談じゃなくなってる。」

 雅は瞳に頬をつつかれながら言った。

「でも、ほんと雅はすごいよ。」

「何が?」

 相変わらず瞳は雅の頬をつつき、雅は瞳に頬をつつかれている。

「だって次々に話題が飛び出してくるんだもん。」

「うーん、それはあんまり私は気に入ってないのよね。女の子としてどうなのかなって。」

「女の子かどうかなんてこの際考えても無駄だよ。だって雅は雅なんだもん。」

「うーん、最後気持ちよくまとめたからいい言葉みたいになってるけど、前半明らかに私を貶してるよね。」

「もーまんたい、もーまんたい。」

「くっ。もてるからって余裕ぶっこきやがって。」

「え?私モテるの?」

 気が付かなかったというふうに瞳は言った。

「え?ううん、私よりかはモテるんじゃない?多分。」

「あ、そう。」

 瞳はあまり興味がないといった風に言った。

「でも、雅はモテると思うよ。ほら。今にも教室の外で男子が雅のこと見てるよ。」

「うそ⁉」

 そう言って雅は物凄い勢いで廊下の方を見る。すると、タッタッタッタという音が廊下から響いた。誰かが廊下を走っているのだ。

「マジで雅を見てたの⁉」

 そんな瞳の心からの驚きと畏怖のこもった言葉は雅には聞こえなかった。雅は廊下で音がするなり即座に廊下へ出ていたからだ。

「こら!廊下走るな!」

 そういえばこういう女の子だった、と瞳は思い出していた。雅は誰かからの好意にとことん気が付かない鈍感さんだったのだ。だからこそ、瞳と雅は一緒に居られる。

「ったく、廊下を走ると危ないっての。誰かにぶつかるより風紀委員に捕縛されても知らないわよ。」

 呆れた、という風に肩をすくめながら雅は瞳のもとに帰ってくる。

 人見瞳は走っていった人物が雅に好意を寄せているかもしれないことを黙っておくことにした。そういうのは人見瞳と乃木雅との平和な日常を壊してしまうことになりかねないから。

「雅は優しいね。」

「褒めても何も出ないわよ。」

「だって、いつも私を気にかけてくれるし。」

「うーん、なんかそういうのとは違う気もするんだけどなぁ。」

「うん?どういうこと?」

「なんというか、私が瞳を助けるのは瞳が危なっかしいからなのよ。アンタこそ誰かを気にかけてて、自分を顧みないから私は心配で心配で。」

「むふふ。ありがと。」

 瞳は心底嬉しそうに頬を綻ばせていた。

「ほんと、瞳はいつも幸せそうね。」

 しかし、雅は知る由もなかった。瞳の笑顔にはほんの少しの寂しさが含まれていることに。

「人見、いるな?」

 図太い男の声。その声に人見瞳は悪寒を感じざるをえなかった。瞳は黙って席から立つ。

「ちょっと生徒指導室まで来い。」

 瞳は黙ってその男についていこうとする。

「瞳。一人で大丈夫?私もついていこうか?」

「大丈夫。」

 雅を見た瞳の表情はいつもと変わらない、笑顔だった。そのことに雅は少し戦慄を感じた。

 生徒指導部の教師に呼ばれるなんて、不安で不安でたまらないはずなのに、どうしていつもと変わらないの?もしかして、いつも笑顔を見せてくれる時も不安で不安でたまらないの?

 そんな思いが雅の心から湧きおこってきていた。しかし、雅は瞳を呼び止めることができなかった。

 瞳が去った後、雅は教室で呆然としていた。自分の無力さに苛まれていた。

 一人、教室に静かに入ってくる人影があった。大人しそうな少女である。雅は異邦人の自分がこの教室にいるべきではないと思い、荷物を持って自分の教室に向かった。ぽつりぽつりと人が現れ始めた廊下を独り歩きながら雅は今すぐにでも廊下を駆けだしたい気分に襲われていた。

 結局私は大切な親友の助けにもなれない。いや、ならなかったんだ。そう。私は瞳のようにはなれない。私を救ってくれた瞳のように地に足をついて何かに立ち向かうことはできない。

 雅は昔のことを思い出していた。


 雅は自分が周りからどんな風に思われているのかよく理解していた。女らしくない、男みたい。そう思われているのは十分に分かっていた。しかし、何故周りの人間が私の性格を、あたかも社会不適合者であるかのように言っているのかだけが雅には分からなかった。自分らしく生きる、などという高等な言葉の意味など理解できなかったが、雅は自分の負担にならないように生活を送っていただけだった。だから、中学生の時、自分がいじめの対象になったことがすぐには信じることができなかった。

 雅は中学時代に多くのことを知った。人の肉体はカタツムリの殻のようなもので、そこに神経はつながっていないのだから、本体には振動が伝わるのみである。しかし、心というのはカタツムリの本体で、それは柔らかく非常に傷付きやすい。そして、醜い。

 私はクラスの中でいつの間にか独りになっていた。いや、きっと昔から独りだった。自分がなんとなく社会とは合い慣れない存在であることを知っていたから、雅は自分から誰かと仲良くなろうとすることはなかった。周りも合い慣れない存在にあえて近づこうとはしないから、自然と孤立していた。しかし、雅にとってはそれでよかった。他人と交わらない方が気楽で、また自然であると感じていたからだ。いじめにあうまではそう思っていた。

 誰も雅に直接悪口を言うものはなかった。しかし、雅は何と言われているのかを把握していた。教室になだれ込む膨大な単語と人々の態度から十分察しえた。あるいはわざとだったのかもしれない。態度が偉そう。男みたい。気取っている。

 雅は自分が間違っているとは微塵も思わなかった。だから、変わらないままの自分で、自然なままの自分であり続けた。しかし、雅は周りに対し抗議をすることもなかった。雅は自分が正しくないとは思わなかった。それと同様に周りの人間も間違っているとは思わなかったのだ。小さな子どもが駄々をこねて言うことを聞かないと誰だって腹が立つ。すると、むきになって、何が何でもその子どもを屈服させ言うことを聞かせたくなる。雅はそういうことなのだと実感していた。雅の親戚には小さい子どもがいて、その子が言うことを聞かない時、思わず手を上げてしまったのだ。そのとき、雅は自分はやり過ぎていたのは分かっていた。謝るべきなのは雅自身十分理解していたのだが、どうしても謝ることはできなかった。雅はこの心情は今でもうまく理解できないでいる。自分が悪いと知っていながら意固地になり正しさを無理にでも貫こうとする。でも、そんなことをすれば、その子は泣いてしまうだろう。

 雅はそんな理不尽は見えない暴力に、思わず涙を流してしまった。

 雅へのいじめは無視だった。これは雅にとってはいじめとは思えないくらいの些細なものだった。雅には教室内ではもともと話す人などいなかった。授業でペアワークをするとき、誰もパートナーになってくれなかった。その時に初めて自分はいじめられているのではないか、と思い始めた。すると、雅は急にクラスメイトの行動が気になるようになっていった。クラスメイトに怯え始めていた。そして、周りの人間は態度の変わった雅に対し、嗜虐心が芽生えてしまった。誰もが進んで雅を無視するようになっていった。だんだんその態度があからさまになっていくにつれて、雅の心もむしばまれていった。カタツムリが殻をなくし、不安で不安でたまらないように見えた。

 ある日の放課後。雅と数人のクラスメイトは掃除当番だった。しかし、掃除当番のクラスメイトは掃除を雅一人に押し付けて帰ろうとした。

 その時、ずっとずっと雅の中で張りつめられていた心の琴線が音を立てた。

 私の何が悪かったの。私は普通に生活しているだけなのに。ただ普通に生きていたいだけなのに。周りの子と同じく普通に生きていたいだけ。それなのに。どうして。どうして私を否定するの。私は人間だ。みんなと同じ人間なんだ。なのに、なんで受け入れてくれないの。私は自由に生きてはいけないの。私は私のままでいてはいけないの。

 今まで雅を襲ったことの無い激しい感情が雅の中で叫びを上げていた。

 雅は泣いていた。俯いた顔からは誰の目からも分かるように涙がぼとぼと流れている。心臓の鼓動が速くなる。呼吸が激しくなり、嗚咽をもらしてしまう。息がしづらい。

 それは屈服の証であった。この瞬間、雅は世界に屈服し、従属することを宿命づけられたのだ。あのままだれも雅を助けようとしなければ、雅は今の雅ではなかっただろう。世界によって、理不尽な暴力によって、自分を自分であると思えない無垢人形となっていただろう。

 掃除当番のクラスメイトたちは知らんふりをして帰ろうとしていた。その顔には笑みさえ浮かんでいた。

 他のクラスメイトたちは少々困惑しているようだが、関わらないように早くその場を立ち去ろうとしていた。

「待ちなさい。」

 そんな声が聞こえる。雅の涙で曇った視界ではその声の主が誰なのか分からなかった。

「なに?人見さん。」

 リーダー格の女子の声がする。その言葉で先ほどの声の主が誰なのか雅には分かった。

 雅は人見瞳とはどんな女子だったのか思い出そうとしていた。しかし、思い出せなかった。名前は知っている。顔も知っている。だが、彼女の特徴を思い出すことができない。ヒトミヒトミなんて変わった名前だな、というくらいにしか意識したことはなかった。それも同じクラスになって3日も経てば忘れていた。それほど印象にない少女だった。誰かの輪に入ることなく、目立つことなく。そう。教室の隅で一人本を読んでいるような少女だった。そう。人見瞳はこんな目立つことをするような子ではなかった。

 人見瞳は乃木雅に押し付けられた箒を雅から奪い取り、掃除当番のクラスメイトに投げつけた。

「なにをするの、人見さん。」

 掃除当番のクラスメイトたちは明らかに不機嫌な様子で、瞳に敵意を見せていた。その光景を見た他のクラスメイトたちは困惑のあまりどうすることもできずに立ち竦むほかなかった。

「それはこっちのセリフだよ。みんなには見えないの?この子が泣いているってことが。分からないの?」

 ふっ、とリーダー格の女子が鼻で笑う。その様子に人見瞳はより一層怒りを募らせたようだった。

「この子がなんで泣いているのか分かる?それは悲しいからよ。心がとっても傷付いているから。すりむいたのよりもずっと、ずっと痛いの。そのくらい人間なら分かるでしょ。共感できるでしょ。じゃあ、なんで知らんふりをできるの?どうして泣いている人を、今にも心が死にかけている人が、助けを求めているのに。これはこの子の最後の救援信号なのに。」

 廊下では他のクラスの生徒が騒いでいるのが聞こえる。それは静まり返った教室との対比により、より一層強調された。

「彼女を悲しませたのは、私を含めてみんなよ。なのにどうして逃げることができるの?」

「なに?自分だけ悪くないって言いたいわけ?」

 リーダー格の女子が言った。でも、その言葉は周囲の誰も影響されることはなかった。

「確かなのは、一人の女の子が泣いていて、それの原因が私たちであることよ。そして、誰も手を差し伸べなかった。」

 異変に気が付いた他のクラスの生徒が報告したのだろう。担任の教師が現れた。それみよがしに、クラスメイトたちは教室から去っていく。

 瞳は言葉を紡ごうとした。意思の強い、いや強過ぎるほどの言葉を再び。しかし、それを止めたのは雅だった。

「どうしたの?」

 担任は雅に聞いてきた。雅が言えそうな状況ではないので瞳が言おうとしたが、雅は瞳の服の袖を引っ張りそれを拒んだ。異様なクラスの雰囲気と雅の状況を見て教師は関わらない方がいいと判断したのだろう。

「そうか。早く帰りなさいね。」

 という言葉だけを残して去っていった。

「良かったの?」

 瞳は雅に聞いた。雅は頭を縦に振る。

「そう。でも大丈夫。これからどんなことがあっても私があなたを守る。」

 そう言って瞳は雅を抱きしめた。

「どうしてあんなことしたの?あなたまで私と同じ目に会っちゃう・・・」

 ようやく瞳は言葉を発することができるまで落ち着いた。

「泣いている人をほっとけるほど私の心が強くなかっただけ。私のことなんか気にしなくていいよ。それよりごめん。私があなたの悲しみに気付いていれば、あなたが泣くことなかったのに。」

「謝らなくていいよ。ありがとう。私はまだ私でいられる。」

 そう言って雅は再び涙を流した。その涙は雅を決して不快にはしなかった。

 その日を境に、いじめはなくなった。きっと誰の心にも罪悪感が芽生えてしまったのだろう。圧倒的な正義を見せつけられた人々は、一生苦しむだろう。この時傷を負わなかったのは人見瞳だけだった。いや、人見瞳はすでに傷を負っていたから乃木雅の苦しみに気が付けたのだろう。そして、瞳はクラスメイトに罪悪感を負わせたことにも傷付いた。


「私はあんな程度で屈しちゃったけど、瞳はきっとあんなんじゃ屈しなかったでしょうね。」

 雅は自分の机に座り、誰にも聞こえぬ小さな声で言った。

「ん?なにこれ?」

 雅が授業の用意をしようと机の中を漁った時、机の中から何かがひらりと落ちていった。

 それは便せんだった。宛先も、差出人の名前もない、綺麗な便箋だった。


人見瞳は個室に連れ込まれた。その名は会議室。職員室の横にある小さな教室である。そして、この場所は重度の校則違反者が行きつく先であるとされていた。

 そんな小さな部屋には折り畳みのできるプラスチック製の机が二つほど並べられていた。そして、その机には椅子が三つ添えられている。二つの椅子は空席で、もう一つの椅子はすでに占領されていた。

「おはよう。人見さん。」

 すでに椅子を占領していた教師、担任の中渓が手慣れた笑顔を見せる。

 人見瞳は教師に名前を呼ばれるのをひどく嫌っていた。教師が人見瞳の名前を呼ぶときは必ず苗字だと分かるからだ。人見瞳は名字で呼ばれることをひどく嫌っていた。

「・・・」

 人見瞳は無言で空いている席に座る。中渓はそんな瞳の態度に慣れている様子で、さして気にしていない。

 人見瞳を連れてきた男性教師も空いている椅子に座る。中溪と瞳は向かい合わせに座っており、その間に男性教師が座っている。

「なんでここに呼ばれたのか、その理由、分かるわよね。」

 中溪が言う。その口調は別段人見瞳を責めているのでもなく、また、人見瞳を受け入れているのでもなかった。人見瞳はそんなはっきりしないところが苦手だった。

「・・・」

 人見瞳は相変わらず黙っている。そんな様子に男性教師は苛立っている。中溪は男性教師の怒りを遮るように、話を繋げる。

「そのことで入学からずっと話し合ってきたものね。」

 男性教師はじれったいというような態度をとっている。それは誰の目から見てもあからさまなのだが、中溪は無視しているようだ。中溪は自分のその態度が男性教師をより苛立たせているのに気が付いていないようだった。瞳には、この男性教師も中溪のことが苦手なのだと分かった。いや、実際には少し違う。苦手というよりはイラつく。瞳は回りくどいのが嫌いなのだった。そして、男性教師も同じらしい。さっさとはっきり言えばいいのに、とじれったくなる。

「人見。お前、髪を染めるのが校則違反だってこと、知ってるよな。」

 中溪の態度に我慢ならなくなったのか、男性教師が口を開いた。

「ええ。知っています。」

 人見瞳はそんな男性教師の態度が少し気持ちが良かった。明らかに自分を責めようとする態度であるのに、それが吹き抜ける風の如く爽快に感じられた。

「じゃあ、なんで従わない。」

「なんで従わなくてはならないんですか?」

 それはただの疑問だった。男性教師を挑発しているのではない。

「たった一人の違反者を見逃せば、より多くの違反者を見逃さなければならないからだ。ルールっていうのは協力ではあるが、その分、欠点のほうがデカい。万人に適応される点では広範囲かつ強制的だ。しかし、その分、誰か特定の個人を優遇すればその他の人間も全員優遇しないといけなくなる。髪を全員が自由に染めるくらいならいい。でもな、人間はそれだけでは収まらないんだよ。うちの高校は規律がきっちりとしている分、解放されたときの反動は大きくなるだろう。そうなると誰も手が付けられなくなってしまう。」

 人見瞳には教師の言っていることは十分に理解できていた。教師はそれが自然の理のように、数学の方程式であるように、無感情に言っていた。それは教師にとって一般論を暗唱しているに過ぎないことを表していた。瞳は教師は胸の奥では少しつっかえるものがあることに気が付きながらもすらすらと言葉を紡いでいることに気が付いていた。

「でも、私は嫌です。」

 人見瞳は自分で自分を強い人間だと思っていなかった。むしろ世界最弱ではないかと考えているほどだった。瞳は自分の中のわだかまりが許せなかった。自分の中の違和感と共生することが嫌いだった。瞳はその違和感を飲み込んで生きていくことが大人になることだと十分に理解できていた。それが出来る人間が強い人間だと思っていた。だから、瞳はこの男性教師を強いと思った。自分の中にわだかまりがあるにも関わらず、おくびにも出さずすらすらと一般論を唱えることができたからだ。

「どうしてそんなに意固地になるんだ。乃木に聞けば、中学の時まで髪は染めてなかったらしいじゃないか。」

 なんとなく、教師の方は落ち着きを戻したようだ。瞳が自分の意見を言おうとしているのに気が付いて、話を聞こうという態勢に入っている。

「・・・」

 しかし、瞳は話さなかった。話せなかったのではなく、話さなかったのだと瞳は思うだろう。しかし、それは話せることではないのだ。人は他人に話せないことがいくらでもある。それは大抵の場合、自分の尊厳、つまりプライドに関わることである。瞳は自分が理由を教師に話せないのを自分が弱いせいだと考えていた。しかし、それは人として当たり前なのである。むしろ、そう考えられることこそが強いと言える。

 そんな瞳の様子に教師は少々苛立ったようだった。彼にとってはとってもじれったいことだからだろう。

 苛立った声で教師は言った。

「髪を染める染めないは確かに個人の勝手だろう。でも、周りのことも考えろよ。人見にも、お前の兄にも迷惑がかかるかもしれないだろう。」

 瞳は立ち上がり、会議室を出て行った。

 その突発的な行動は男性教師と中溪を竦ませた。結局二人は人見瞳を追うタイミングを逃してしまった。

 人見瞳は怒っていた。その表情は憤怒であった。表情が憤怒で満ちていたのではない。その顔自体が憤怒であったのだ。本来、憤怒などというのは概念でしかない。それは状態を表すものではあるが、物質としては存在しない。だが、この時、憤怒という物質は存在した。人見瞳の表情が憤怒であったからだ。

―――所詮一般論だ。周りに迷惑をかけるな?ふざけるな。私のことなんかどうだっていいんだ。社会のことを優先して、それが正しいだなんてバカげている。

 人見瞳の怒りは教師の発した一般論に向けられていた。しかし、人見瞳は気が付いていなかった。本当はそんなことを怒っているのではないことに。自分が無理矢理に怒りの矛先を歪曲してしまっていることに。



「で、ずっと不機嫌なんだ。」

「・・・」

 黄昏時の教室で乃木雅が言う。人見瞳は黙ったままである。

「また髪のことで呼ばれたんでしょ?」

「・・・」

 教室は返る生徒の声がごった返していて騒々しい。だが、この騒々しさが去ってしまうと恐ろしいな、と雅は思った。一度静寂を作ってしまうと話が繋げられないからである。

「こんなにうるさく言われてるのに、なんで髪そのままなの?」

 どうせ返答はないのは雅には分かっていた。

「・・・」

 案の定返事はない。

「お兄さんのこと言われたんだ。」

「違うもん。」

 そう言って瞳は頬を膨らます。雅は瞳が兄について話題にされるとひどく怒るのをよく知っていた。それは兄を称賛するような話題でも、批判するような話題でも、どちらでもない話題でも同じことだった。

 雅は苦笑いするほかなかった。

「早く帰ろ。」

 頬を膨らませたままで瞳は言った。

「あ、ごめん。ちょっと今日は一緒に帰れない。」

「え、なんで?」

 瞳は駄々をこねるように言った。

「ちょっと呼び出されてるんだよね。」

「誰に?」

「知らない。」

「何それ。」

「いや、私にも分からないんだけどさ、今朝机に果たし状が入っててさ。放課後、中庭で待つ、って書いてあったんだよ。」

「それってラブレターなんじゃないの?」

「まさか。」

 雅はそんなことはあり得ないと本気で思っていた。瞳に言われるまでラブレターである可能性さえ考慮に入れていなかった。

「ふん。いいもん。勝手に変えるもん。」

 そう言って瞳は一人で教室を出て行った。その時の瞳はひどく不安だった。もし本当にラブレターだったらどうしよう。雅は男と付き合うのだろうか。私たちは今のままでいられるのだろうか。

 いや、大丈夫。と瞳は無理矢理にそんな考えを頭から追い出す。雅にラブレターなんてあり得ないし、雅なら男などフッてしまうだろう。それに、雅は決して自分を捨てたりしない。

 そんな確証がどこにもないことを瞳は知っていた。でも、瞳はそれさえも忘れようとしていた。瞳はこのとき、気丈に振舞うので精いっぱいだった。


「あんたか?私を呼びだしたのは。」

 ピクリ、と男は怯えたように身体を硬直させる。男は恐る恐る雅の方へ振り向く。その男はメガネをかけたひ弱そうな男だった。この男は何をしに私を呼んだんだ、と雅は不審に思った。

「お前の狙いはなんだ?私か?それとも瞳か?」

 え、あ、その、と男は何とも言えない言葉を発している。雅はそんなことに気が付かずに話を進める。

「お前の流派はなんだ?波道系か?私としてはそっちの方がありがたい。なにせ武道系はうまく手加減ができないもんでな。」

へ、は、え?男はきょとんとした顔で雅を見ていた。どうも雅の言っていることを理解できないらしい。

 雅は武道の構えのような恰好をとる。風が雅を中心として巻き上がる。

「おい。ふざけてないでお前も早く『気』を出せ。じゃないと死ぬぞ。」

 しかし、男は相変わらずキョトンとしている。

「もしかして、お前、本当に関係ないのか?」

 そういって雅は脱力する。

「一体何の用で私を呼んだんだ。」

「そ、その、乃木雅さん。僕と付き合ってください。」

「え、はい。」

「え。」

「え。」

 唐突に、かつ流れる川の水のようにすらすらと男は雅に告白してしまったので、雅はその流れに流されて何も考えずに了承の言葉を言っていた。簡単に答えをもらえると思っていなかった男は驚いていたし、それ以上に雅は自分があっさりと告白を了承していたことに気が付いて拍子抜けしてしまった。

 二人は互いにしばらくの間、無言で呆然としていた。


「ただいま。」

 電気のついていない夕暮れ時の家に人見瞳の声が響いた。しかし、誰の返事もない。そして、瞳は幼い頃からこの状態に慣れていた。瞳は廊下から順に、進む方向へ向けて電灯を灯していく。暮れかかった太陽から差し込む淡い光だけを頼りに順に明かりをともしていく姿は、傍から見れば非常に奇妙に映っただろう。この世の存在ではないような奇妙な存在に瞳は映っていただろう。だが、その姿を見るものは家には一人もおらず、瞳は自分のそんな異様性に気が付かない。

 瞳はリビングまで足を運ぶと持っていたカバンをソファの上に放り投げた。そして、すぐに身体を翻し、リビングを後にする。と、その前に再び体を翻し、先ほど放り投げたカバンを手に取る。

「おお。危ない、危ない。」

 そう言ってカバンから財布を取り出す。

「全く、サザエさんの呪いだ。」

 そんな少女の軽口にも答えの返す者はいない。それが人見瞳の日常なのだ。


 買い物を終えて、人見瞳は帰路についていた。空はいよいよ藍色を帯びてきていて、夜の訪れを無言で告げていた。

「らいだちゃりおってぃんざもーにんろー。」

 独りとぼとぼと歩いている瞳は陽気に歌っていた。一人で歩いているのもなんだかつまらないので、思わず口から出てしまっていたのだ。人見瞳の手にはバッグが握られていた。それは大きめのバッグで、その中にはたくさんの野菜が詰められていた。瞳はそのバッグを少々重そうに両手で持ちながらぶらぶらと帰っていた。人見瞳の家の周辺にはスーパーはない。八百屋さえない。ではその野菜はどうしたのかというと、農家の人が野菜を持ち合って売買をしているところで買ったのだ。それは里の駅と呼ばれていて、少し大きな青空市場みたいなものだ。その里の駅はごく少数の人々が知る隠れスポットで、無農薬の野菜を比較的安価で売買している。

「ぎゃー、重い。」

 瞳は野菜を毎日里の駅に買いに行っていた。肉は学校の帰りに調達する。その理由としてはやはり安価であるというのがあるだろう。それに、瞳は生まれてこの方、瞳の住んでいる地域の農家さんの野菜しか口にしなかった。バッグの中には形も色もスーパーとは比べ物にならないほど醜い野菜が入っている。虫が食べた後がついているものさえある。だが、瞳はそんな野菜以外口にできなくなっていた。それが瞳にとっての普通の野菜の姿であり、綺麗で形の整ったものは異常だった。スーパーで並んでいる野菜を見ると、瞳は吐き気を催す。どれもこれも同じにしか見えなくて、生きているという感じがしないからだ。

「はれ?」

 そんな瞳の目の先を横切る影がある。それは二人の人間のもので、恐らく男女であろう。その内、女の影は瞳のよく知る人物のものだった。男の方は見たことの無い影だった。二人は仲がよさそうに歩いている。初め、二人は付合っているのかと瞳は焦ったが、それはないと瞳は訂正した。二人の仲が良過ぎたのだ。恋人同士というのは心の距離が少し離れているものである。だからこそ少しでもその心の距離を縮めようと付き合うのだが、真に密接になるためには共同生活を送らなければならない。家族にならなければならない。そうしなければ、互いの本性を窺い知ることができないからだ。

 雅と見知らぬ男の仲は幼なじみか兄妹ような感じであった。あれでは恋愛にもなるまい、と瞳は軽視していた。

 瞳はその二つの影を気にすることなく、男の自分の足元に這い寄ってくる影を憎々しく踏みつけながら帰っていった。


 ただいま、と言いながら瞳は再び家に入る。先ほどとは違い、家は暗くなっていてほとんど何も見えない状況である。人の気配がないのは少しも変わらなかった。

 瞳は何も見えないところを、ごく自然と進んでいく。電灯のスイッチを探そうとすることなく押していく。

「さあて、今日は何を作ろうかしらね。」

 そう言いながらキッチンで夕飯の準備を瞳は始める。誰もいない家では、包丁で野菜を切る音がよく響いた。


 瞳は夕食を食べ終えた後、残りのものにラップをし、冷蔵庫に入れる。あの男はまだまだ帰ってこない。

 すでに清掃されてあった風呂にお湯を張り、ゆっくりと体を癒したのちに瞳は自室にこもる。その後瞳は寝るまで自分の部屋から出ることはない。出るとしてもトイレか喉が渇いたかくらいである。

「宿題めんどいな。」

 などと言いながら瞳はカバンから教科書とノートを取り出す。瞳はチラっと時計を見る。時間は午後八時になっていた。

「ちゃっちゃと終わらせますか。」

 そう言って宿題に取り掛かる。とはいえ宿題はさほどの時間を費やすことはない。多くても一時間以内である。瞳は十一時くらいまでいつも勉強をしている。宿題以外になにをするのかというと、主に明日の授業の予習である。午後十一時に寝ようと思うと復習はしていられない。

 人見瞳は自分が頭がいいとは決して思っていない。それ故に予習をしている。そうしないとついていけないとは思っているが、別段焦っているわけでもない。ただ、なんとなくそうした方がいいのではないかと思っているから勉強しているのだ。瞳には大して希望している進路はなかった。現在の高校は国公立のなかなか偏差値の高い高校で、大抵の生徒が大学へ進学する。とはいえ、瞳は進学を考えてはいなかった。今の経済状況では大学は難しい。自分は他の人とは違い地元で就職なんだろうな、と瞳はクラスメイトの様子を眺めながら思ったことがあった。そして、これが日々を過ごせる最後の時期なのだな、と雅を見ながら少し悲しい気持ちになった。

 そして、その雅は、今日・・・

「ああ、もう。」

 宿題を終えてベッドに寝転がりながら瞳は悪態をついた。

 そして、そのまま気付かぬうちに瞼が閉ざされる。


 日常とは変わらないことに意味がある。人見瞳はいつも通りの朝を迎える。いつものように朝食を二人分作り、いつものように人見瞳の兄は下りてこず、いつものように身支度を済ませる。瞳はふと、自分はいつからこのようなことをしているのだろう、と思った。それはひどく昔からであるような気がした。きっと瞳の知の二人だけの生活は、両親が二人の前から姿を見せなくなってからである。瞳はいつから両親が姿を見せなくなったのか思い出せなかった。両親はいたはずだ。現に二人の兄妹を産み落としているからだ。しかし、それは結果論でしかなくて、瞳には当然であるが両親から生まれ出たという記憶がない。それは確証がないのと同じことである。そうなれば、知と瞳が本当の兄妹であるかも怪しくなる。いや、そもそも自分たちは何者かから産まれたのだろうか。ただ生まれただけなのではないか。

「おいおい。まだ宇宙人(フォーリナー)事件は終わってなかったのかよ。」

 世界のどこかでは、何かが起こったのだろう。人見瞳はそのとある現象の余波に巻き込まれていただけである。そして、その事件と人見瞳は関わらない。

「ま、私らには関係ないんだけどな。」

 瞳の口調はまるで男のようだった。普段の瞳とは全く違う。

 だが、そんな瞳はもうこの世に二度と出てくることはなかった。彼の戦いはもう終わったのだから。


「ひとみぃ~。」

「何?」

 バスに乗ってしばらくの間、瞳と雅は口をきかなかった。瞳は口を閉ざしたままであったし、雅は雅で、どこか呆然としていて会話ができそうになかったのだ。それを、どこか虚ろな雅が口から呼気を出すように瞳に声をかけたのだ。その自然さに思わず瞳も気が緩んでしまう。

「私、彼氏ができた。」

「え?」

 自分の口から出てきた困惑と驚愕の言葉とともに、瞳の脳裏から昨日の映像が引きずり出される。

 蒼く変わった空のもと、二人の男女が並んで歩いていた。それはとっても楽しそうな光景で、幸せそうで、思わず頬が歪んでしまいそうなほど、憎々しくて美しい絵画のような二人。

「そ、そうなんだ。」

 溢れ出す衝動に飲み込まれそうになりながらも瞳はやっとのことで言葉を返す。

「いや、なんか昨日コクられてさ。私も流れに流されちゃってオッケイしちゃってたのよ。そんで昨日一緒に帰ってみたらさ、案外ソイツと話すのが面白くてね。」

 瞳にキラキラと生命力を宿した雅が、嬉しそうに瞳に話しかける。瞳は雅が言葉を発するたびに押しつぶされそうな胸をなんとか内側から押しとどめるので精いっぱいだった。

 瞳はこの時ほど雅を憎んだことはなかった。自分の気持ちも知らずに楽しそうに話す。あんな男なんかより、私の方がよっぽど・・・

 バスが止まる。話している途中の雅にかまわず瞳はバスの降り口まで進む。学校に着いたようだった。

「雅。」

 待ってよ、と言おうとした雅を瞳は遮るようにして言った。

「私たち、もう一緒にいない方がいいと思う。」

 雅は瞳の言葉の意味を図りかねていた。自分の惚気話に瞳が怒ってしまったのか。瞳の雰囲気はそんな生半可なものではなかった。そこに雅は覚悟を感じ取っていた。まるで命を絶つ前のような・・・

「待って!」

 その言葉が合図であったかのように瞳はバスから一人駆けだした。雅はその唐突な行動に一人取り残されて、その場から動けないでいた。

 バスの運転手は早く降りてくれないかな、といった表情で雅をミラー越しに見ていた。


 その後、雅は瞳と一緒に登下校することはなかった。いつものバスに瞳は乗らなかった。教室を覗いても、瞳の姿を見ることはなかった。きちんと登校はしているという話であったが、朝も、昼も、放課後も、雅が瞳の教室に来たときには瞳の姿はどこにもなかった。

 一つ後のバスで何度か登校したが、そこに瞳の兄の姿を見た瞬間、このバスには乗っていないと雅は思った。案の定、瞳はどこにも見当たらなかった。

「本当に私はこれで良かったのかな。」

 夕暮れに染まる中、雅は元気なく言った。

「それって、幼なじみの女の子のこと?」

 隣にいる男子は、雅を心配するような心細さで言った。

「うん。これでいいのかなって。

 結局瞳が考えていることを聞き出すことさえ私は出来なかった。そんな勇気が私にはなかった。そして、そんなまま流されていって。私は別に瞳じゃなくてもよかったんだと思う。アンタができてから瞳のことをあんまり考えなくなった。これって、最悪だよね。」

「でも、」

 男子が雅の言葉を否定するように言う。

「それが大人になるってことなんじゃないかな。自分のためだけに生きて、欲望だけの存在になって、心を失って。人はそうしなきゃ生きていけないから。」

「大人なんかになりたくない!大事なものを、失いたくないものを自分から手放すなんて。」

 雅は男の胸に飛びつきながら言った。男の白いワイシャツは濡れて肌が透けて見える。

「世界がそうさせるんだ。僕らは生まれた時からそうなることを宿命づけられてる。これだけはどうしようもないんだ。だから・・・」

 雅は男の話を聞きながら瞳のことを考えていた。瞳はきっと世界にも屈しないだろう。流されていくこともないだろう。大切なものを決して手放さず、強いまま、子どものまま生きていくのだろう、と。弱い私と違って。

 抱き合う二人のそばを数台の車が横切る。しかし、二人は気にも留めない。

 二人だけの国を作り出せるのも、大人にしかできないことである。


 人見瞳は都会を知らない。だから一概にも言えないのだが、人見瞳は思っていた。歩道がないのは田舎の証であると。瞳の通っているF高校はF市の中心部にあり、歩道がある。F市自体は周りの市に比べるといささか潤っていると言える。しかし、瞳の住んでいる辺りは農村で、歩道などというものは一つもない。せめてもの救いといえば、国道が通っていることだが、中心部への道が国道しかないので、歩道のない国道を瞳は自転車で行かねばならなかった。

 大型のトラックが通る度、瞳は肝を冷やす。トラックはすれすれで瞳を横切るため非常に怖いのだ。そして、狭い国道にも関わらず、商業用やら工事用やらのトラックが多く通る。瞳はそのことに不満を持ちながらも、ただひたすらに自転車を漕ぐ。

 中心部に入るまではひたすら上りである。もしも雨が降った時のために雨合羽を買わなければならない、と考えながら、瞳は頂上まで10メートルはあろう坂を立ち漕ぎする。学校まではまだまだ遠い。


 人見瞳は入学してから普通の時間帯に登校したことはなかった。なので、瞳の目の前の光景は彼女に新鮮な風を送り込んでいた。

「クラブの勧誘か。」

 瞳は額に浮かんだ大粒の汗をぬぐいながら、独り言をつぶやいていた。

 数多くの生徒がクラブの名前を書いた紙やら看板やらをもって立っている。瞳はクラブには興味はなかったので、素通りすることに決める。勧誘する生徒も強引に囲い込むということもなく、ただ、こういうクラブがあるということを魅せているだけのようだった。

 ふと、瞳は一人の女子に気が付いた。その女子は玄関の近くで一人ポツンと立っていた。勧誘している人々の中では、その女子だけが異様に目立っていた。それ故に瞳は気が付いたわけであるが。別に見るところもなかったのでその女子をぼんやりと見ながら歩いていると、唐突に女子と目が合う。少し茶色がかった髪に意思の強そうな目つき。しかし、その目つきは人を威圧させるようなものではなく、むしろ信頼感を抱かせるような不思議な目であった。

 瞳は全速で視線を逸らす。瞳と目が合ったときの女子はまるで救われたかのような表情をしていた。これは関わるとよくない、と瞳の直感が告げたのだ。瞳は逸らした視線をもう一度合わせたい欲求に駆られた。しかし、女子の悲しんでいる姿を見るのは忍びなく、そのまま玄関を入って行こうとした。

 玄関を覗いた時だった。瞳は見知った人物が玄関で誰かを探している様子を見かけた。瞳はすぐに近くの茂みに跳んだ。

 瞳のよく知る少女、乃木雅は何か異変を察知して、玄関から急いで出てくる。そして、何かを探すようにキョロキョロと周りを窺っている。

 茂みに隠れた瞳の姿は雅には見えない。

 雅はあきらめたように、玄関へ戻っていこうとすると、雅に駆け寄ってくる人物がいた。短く刈られた髪は人見知のような暑苦しい印象を与えず、清々しい、爽やかな印象を与える。銀縁のメガネはその少年の優しい目つきをより強調する武器と化している。

 瞳はこの人物は昨日の夕方の人影に違いないと思った。昨日は影になっていたのと、二人の姿を直視できなかったので相手の姿をよく見ることができなかったのだ。瞳は奥歯を強く噛みしめる。この男が私から、雅を奪い、雅を普通の世界へと引きずり込み、私を異常という名の異世界へ独り残すのだ。

 雅は少し戸惑ったような素振りを見せたが、そのままその例の男とともに教室へと進んでいった。

「ははぁ。そういうことね。」

「なんであなたまで隠れているんですか?」

 先ほど目が合った女子は瞳と一緒に雅から隠れていた。

「いや、なんとなくノリで。」

「そうですか。」

 そういって瞳は立ち上がる。その際、スカートを手で軽く払う。

「まだついてるぞ。」

 そう言って女子は瞳のスカートの汚れを手で払う。瞳にとっては少し力が強いと感じる強引さだった。

「ありがとうございます。」

 瞳は照れを隠すようにぶっきらぼうに言った。

「それよりもどうだ?うちの部室来ないか?」

 女子が言った。瞳は男のような口調で話す女子に少し驚いていた。しかし、彼女の恰好からその方がしっくりとくると感じたので違和感は水面の波紋のようにすぐに消えていった。

「いえ、クラブ活動とかには興味はないので。」

 瞳はとりあえずこの女子を避けることにした。厄介ごとに巻き込まれないように立ち去ろうとする。しかし、そんな瞳を女子は懲りず引き留める。

「そのまま教室に行っても辛いだけだろ?授業開始ギリギリまで部室にいたらどう?」

 瞳は背後を振り返る。女子は不思議な表情をしていた。いや、それは少しも不思議な表情ではなかった。瞳の想像していた表情とは違っただけであった。瞳は女子が哀れみを持った悲しそうな顔をしていると思った。そして、そんな顔をしているのならすぐに断って帰ろうと思っていた。しかし、女子はそんな顔をしていなかった。女子の顔はいたって普通の表情であった。それは瞳が辛い思いをしようがどうでもいいという態度ではなく、瞳の思いを全て理解したうえでそうすべきであるという―――しかし、そこには強要なんて含まれていない、そんな自然態であった。

 女子はにこりと笑って言った。

「ついてきぃ。」

 瞳の心はとても満たされていた。温かいもので満たされていた。

 瞳は同情されていると感じていた。しかし、それは同情しない同情。君のことは分かっているから何も言わなくていいという、理不尽なまでの優しさ。

 瞳はこう思う自分の心の原因を心得ていた。

 そう、それは―――――

 瞳は女子についていった。


「まあ、10分ほどしか居られないだろうが、ゆっくりしていきたまえ。」

 人見瞳の目前には何もなかった。何もなかったという表現では語弊があるだろう。だが、その部屋には部屋である以外に何もなかった。女子は大胆にもスカートのままで胡坐をかいている。

「あの、二三質問があるのですが・・・先輩。」

 瞳の高校では上履きの色で年次が分かるようになっている。女子は瞳より一つ上の二年生であるらしい。

「ああ、私の名前は千の里と書いてチサトだ。みんなはチリと呼んでいるからそう呼んでくれても構わない。」

 座って瞳に笑顔を見せる千里に瞳は胸を鷲掴みにされた気分だった。

「私はヒトミです。ヒトミヒトミ。」

「ん?なんじゃそりゃ。苗字と名前が一緒なのか。へぇ。」

 千里はバカにするわけではなく、むしろ感心したような口調で言った。

「で、質問なのですが、ここはなんの部活の部室でしょうか。」

「いや、知らない。」

「えっ。」

 瞳は驚きで声を上げてしまった。それは溜息のように静かな嘆息だった。

「多分、廃部になったどっかの部活が使ってた部室なんだろうね。」

「チリ先輩は何の部活をしているんですか?」

「いや、部活はしてないよ。まだ、正式な部活ってわけでもないし、そもそも生徒会が承認しないだろうってのが明白な事柄だからな。」

 瞳は少々混濁してきた。声に出し、千里に確認しながら整理する。

「つまり、ここを使っているのは無断使用であると。で、先輩は正式ではない部活動をここで行っていると。」

「うーん、活動は行ってないな。だって私一人しか一緒に活動する人間ってのがいないから。」

「非公認の集まり?ですか?サークルみたいな?で、先ほど先輩は勧誘?を行っていたんですか?」

「正式に認められてないから、勧誘は行えないんだよな。でも、活動に向いてそうな新入生に声をかけるつもりではいたな。」

「じゃあ、私はその活動とやらに向いていそうだから声をかけたのですか?」

「うーん、ちょっと違うかな。でも、入ってくれるなら、とっても嬉しいな。」

「どんな活動なんですか?」

「BL」

「はい?」

「だから、びーえる。ボーイズラブ。」

 瞬間、頭が真っ白になる。頭から血液がすぅっと引いていく感覚が分かる。冷めていく、感じ。

「いや、入れって強要はしないし、一緒に活動してくれなくても来てくれていいからさ。」

 千里は無理矢理な笑顔で言っている。やっぱり受け入れてくれないか、別に私は普通の人だよ、というような、心を虚飾する無茶苦茶な表情。瞳は千里にこんな顔をしてほしくないと心から思った。

 ――――なら、私は―――――

「そろそろ授業開始5分前だ。帰るか。」

 そう言ってぎこちない笑顔のまま部室を、いや、ただの空き教室を出ようとする。

 瞳もともに教室へ向かうことにした。


 授業中、瞳は今朝のことについてずっと考えていた。明らか上の空といった様子だったが、案外瞳にとっては普通のことだったので、誰も気にしなかった。生徒も教師も髪を明るく染め上げた生徒と関りを持つのを恐れていたし、周囲もなんとなく瞳の知能の高さを感じ取っていたので、気が付いていても言わなかったのだろう。

 瞳は空を見つめる。窓から見える空は、今日だけは大きく俯瞰できた。それはほとんどが青で埋め尽くされた風景だった。空の海に浮いているような、そんな感じ。高いところから見る風景とは少し違うように瞳には感じられた。高いところは墜落するという危険性から知らぬ間に体を強張らせている。しかし、教室は椅子に座っているせいか、とても安定感がある。リラックスして空の広さを感じられるのだ。青々とした空との対比で白い雲がより際立って美しい。しかし、瞳はそんなことを少しも考えてはいなかった。

 瞳の頭には、今朝の千里のことしかなかった。赤みがかった茶色の髪を肩のところで綺麗に切りそろえてあるのが印象的な女子は、腐女子だった。彼女は男同士が愛し合うのを好んでいる。それはひどく自分と似ている。誰にも自分の嗜好を理解されずに日々を過ごしてきたのだろう。だからか、と瞳は納得した。だから、朝目が合ったときにあんな、救われたようなまなざしを投げかけたのだ。そして、同時に空き教室で自分の嗜好を語った時の千里を思い出す。きっと、怖かったはずだ。自分が受け入れられるか分からずに。いや、彼女は半ば諦めているのだろう。自分の嗜好を受け入れてもらえないと。でも、諦められない、といった目もしていた。

 彼女は瞳を避けるだろう。自分の嗜好を周囲にばらされるのではないかと気が気でなくなるからだ。

 それは、嫌だった。

 瞳はもっと千里と過ごしたいと思った。

 でも、BLか・・・

 そうやって何度も何度も千里について悩んでいた。

 気が付くと空は茜色に染まり、授業は終わっていた。瞳の中に授業を受けた記憶はない。

 瞳は雅が来る前に急いで教室から退散した。


「よ。まさか来てくれるとは、な。」

 千里は少々戸惑いながらも温かく迎えてくれる。今はただの空き教室となったそこには人見瞳とさらに二人の人物がいた。一人は千里。もう一人に覚えはない。

「ん?ああ。あのゴミはほっといて差し支えないから。」

「誰がゴミだ。」

教室の隅で独り瞳に背を向けていた男子は言った。

「ま。あれはほっといていいから。どうせ明日にもここから退去願うし。」

「な、勝手に決めんなよ。」

 男子はふと瞳と目が合うとすぐに顔を赤くして顔を逸らす。人見知りなのだろう。

 ヒトミシリ。

 瞳は頭の中に現れたものを追い出す。

「部員が多かった方が部室を占拠するって言い出したのはどっちだったよ。」

 ニタリ、と千里は勝ち誇った笑みを浮かべ言う。

「ま、まだだ。まだそっちだって一人だろう。俺は明日にだって十人くらい集めてやるさ。」

 瞳は、墓穴を掘ったな、と思った。強がって言ったのだろうが、明日にでも千里に泣きつくのは目に見えている。

 そして、ここは正式に部室として使っているのではないのにどちらが部室を占拠するか、という会話はすこぶる不毛だな、と瞳は声に出さず思っていた。

「明日までだな。楽しみにしてるよ。」

 心底嬉しそうな、楽しそうでなく嬉しそうな表情で千里は男子に言った。瞳はそんな千里を少し羨ましく思った。

「お、おうよ。」

 男子はしまった、というような渋い顔をしながらも空元気で答えていた。

「で、あの、ビーエルっていうのは何をすればいいのでしょうか?」

 瞳は恐る恐る言う。

「ああ。ま、今日はそんなこといいの、いいの。それよりも大事なことがあるでしょ?」

「へ?」

 そういうなり千里は瞳の手を引っ張って教室を出て行く。瞳はされるがまま一緒に廊下を駆けていく。


「で、何故ここなんですか?」

 瞳は疑問を口にする。瞳は今朝と同じ玄関の近くの茂みに身を隠していた。

「誰でも玄関を通るからだよ。」

 瞳は千里の意図をいまいち掴めずにいた。これもビーエルの修行なのか、と瞳は勝手に推測した。

 玄関で、生徒たちは言葉を交わしながら出て行く。帰宅部は複数で帰るのかと思いきや、意外と一人で帰る生徒が多かった。瞳はそんなことに気が付かなかった。今まで親友と一緒に帰っていたから。一人で帰る人の気持ちなど考えたこともなかった。独りの生徒をよく観察してみる。彼らは寂しいのだろうか。しかし、彼らはそんな素振りを微塵も見せなかった。それが当然のように悠々と歩みを進めている。そこには気品のようなものさえ感じさせるなにかがあった。

「お、来たぞ。」

 なにが来たのか、と千里の目の先に視点を合わせる。

するとそこには。

そこには。

乃木雅がいた。

そして乃木雅は独りではなかった。

男子がいる。

「なんであんなのがいいんだろうね。メガネかけてひ弱そうで、あれじゃまるで・・・」

「中島敦。」

「ああ。山月記の!」

 千里はチラと瞳を見る。瞳の顔は、平然としていた。ただ、体が少し震えていた。千里は瞳が必死でこらえているのが分かった。それは自分には分からないような、複雑で怪奇な感情。それ故に千里には瞳にかける言葉はなかった。

「追いかけるか?」

「いいです。」

 千里の言葉に瞳はきっぱりと断った。

 雅が一人で出てきたと思ったとき、自分は一体どうしようと思っていただろうか。そんなの考えるまでもない。

 雅が男子、中島敦と出てきたとき、瞳は、瞳は。

「本当にいいのか。後悔しないのか。」

 千里は真剣な目で見てくる。どうしてこの人は私にこんなかまうのだろう、と瞳はぼんやりと思っていた。しかし、意識のほとんどが頭の中を駆け巡る呪いで占められていて、深く考えることができなかった。

 雅が独りで帰ろうとしていた、と思ったとき、瞳は茂みから出て行って、笑顔で一緒に帰ろう、と声をかけるつもりだった。自分の安いプライドなど捨てて。雅が寂しい思いをするくらいなら自分の尊厳など捨ててしまおうと瞳は思っていた。

 しかし、雅は独りではなかった。その隣には中島敦がいた。瞳はその光景を見て悟ったのだ。痛みを感じるほどに分かってしまったのだ。自分は雅にとってもう必要ではないことに。

 瞳はもうどうでもよかった。どうにでもなれ、と自暴自棄になっていた。

 自然と狂気じみた笑いが口からこぼれていた。

 しかし、自分の耳から聞こえてくるのは嗚咽だった。

 瞳は不思議な気持ちだった。悲しくはない。面白くもない。でも、笑っている、はずなのに泣いている。

 瞳は千里の手を握った。千里の不穏な雰囲気を察したのだ。

 案の定、千里は茂みから飛び出そうと思っていた。目の前に泣いている娘がいるのに黙ってなどいられない。そんな矢先、瞳に手を握られて不意を突かれたのだった。

「いいのかよ。」

 と千里は瞳に声をかけようとしたが、瞳の姿を見て、そんなことも忘れてしまっていた。瞳は必死で首を振り、もういい、と訴えかけていた。千里はそれが千里だけに言っているのではなく、瞳も自分自身に言い聞かせているのだと分かっていた。

 瞳の顔は涙で濡れていた。誰の目から見ても美しいとは言えない。でも、千里はそんな瞳が美しいと思ってしまった。


 瞳が落ち着きを取り戻した後、二人は部室には戻らず、そのまま校内へ出てとある喫茶店へ足を運んでいた。

 喫茶店の中は少し暗めであった。バーのような印象を与える。ちょっとした商店街の中にある喫茶店は、初めての人には入りにくいだろう。

「ま、あんなやつ、気にするなって。」

 千里は瞳を励まそうと声をかける。

「もう大丈夫です。」

 そういう瞳の瞳は真っ赤であった。あまり大丈夫そうには見えない。

「おい。おっちゃん。女の子がいるんだ。煙草は止めてくれ。」

 へ?と瞳は突然顔を上げる。

 千里は瞳の背後に声をかけているようだ。

「おお。すまんすまん。」

 瞳が後ろを振り向くと、そこには一人の男性がいた。丈夫な作業服に袖のないジャケットを着ているその姿は、釣りをしているおじさんにしか見えなかった。

「知り合い?」

「ううん。知らないひと。」

 瞳は驚き半分、呆れ半分といった気持だった。よく知らない人に物言いができるなという尊敬とそのことに対する呆れである。

 男性は煙草の火を灰皿に押し付けて消している。

「おじさんって歳には見えないけどね。」

 瞳にはその男性が二十代後半から三十代に見えた。髭を剃ったらもっと若く見えるかもしれない。

「いやぁ、涙目の嬢ちゃん、あんがと。」

 しかし、口調はおっさん臭い。

「それより千里ちゃんよ。早くメニュー決めてくれないか。」

 奥の方から別の男性の声が聞こえる。マスターのようだった。

「そんじゃ、コーヒーとなんか甘いもの二つずつね。」

「なんか甘いものってなんだよ。」

 マスターの冷静な返答が返ってくる。

「だってトーコさん自分の作りたいものしか作らないじゃん。」

「それもそうだ。」

 そう言うとマスターは奥へと進んでいく。きっと厨房があるのだろう。トーコさんとは別の従業員のことのようだ。

 戻ってきたマスターはコーヒーの準備をしている。

「先輩はここの常連さんなんですね。」

 その言葉に千里は目を輝かせる。

「もう一回、もう一回先輩って呼んで。」

「先輩。」

「もう一回。」

「先輩。」

「ベタだなあ。」

「うっさいおっちゃん。」

 背後の男性の言葉に千里は反発する。

「そういや、おっちゃんってどこの人?」

 千里がそういっている最中、男は灰皿の灰を試験管に丁寧に入れていた。

「イタリア。」

「えっ。外国人⁉何で灰なんて集めてるのさ。」

「質問が多いなあ。国籍もイタリア。だったというべきか。まあ、そこらへんの話はお嬢ちゃん達にはまだ早いしね。」

 顔立ちは人を射るような鋭利さを持っているのに、言葉や物腰は柔らかい。

「煙草の灰を集めてどうすんの?」

 うーん、と男は唸っている。男にはどう説明していいのか分からなかった。説明するのに適切な言葉はある。しかし、その言葉は使えない。普通の人々には害しか与えないからである。

「研究とかかな?」

 男は疑問に疑問で答えたが、千里はそんなことは気にも留めていない様子だった。

「ふーん。研究員とかそんなのか。灰なんて何に使えるのさ。」

 これも男には難しい話だった。専門用語を使ってごまかすことに男は決めた。

「《中和》だね。灰ってのはアルカリ性で酸性のものと合わせると塩になるってのは知ってるよね。つまりそういうこと。」

「はぁ。難しいんだね。」

 男は自分が難しいことを言ったつもりはなかったのだが、上手く誤魔化せたので胸をなでおろした。

「中和してどうするんですか?生き物は弱酸性の中でしかほとんど生きられませんし、煙草の灰では一酸化炭素が含まれているのでむしろ害です。」

 男はひどく焦った。話したのはさきほど話していた女の子の向かいに座っていた女の子である。男には科学的なことはよく分からない。

「《中和》の本質は和らげることにあるんだ。この世のものは大抵酸性だ。俺はそういうものを和らげることができる。何もかもを《中和》して和らげるのさ。」

 千里は話についていけないらしく、紙ナフキンを弄って遊んでいる。ゆえに、違和感に気が付いたのは瞳だけだった。

「そんなことありえない。それはまるで魔法じゃないですか。」

「いや、違う。」

 少し強めの口調で男は否定した。

「俺のは魔法なんてものじゃない。俺のはただのまj」

「はい。アルティメットパフェ、お待ちどう。」

 瞳と男との会話を遮るように女性がパフェを運んできた。真っ赤な赤毛が印象的な綺麗な女性だった。

「この人ね、手品師(マジシャン)だから、騙すのが得意なのよ。危なかったわね。可愛い女の子が弄ばれるところだったわよ。」

 千里はそんな言葉にも耳を貸さずパフェにかぶりついている。男も、もう話すことはないといった素振りをみせる。瞳だけがモヤモヤとしたものを抱いていた。

「ちょいと長居し過ぎたようだな。もうお暇するよ。」

 魔術師(マジシャン)はお代をテーブルに置き、カフェを後にした。

「でも、なんであんなのを好きになってしまったんだ?」

 千里はパフェを頬張りながら、ふと思い出したように言った。

「それは・・・」

 何故自分は雅を好きになってしまったのだろう。ただ、なんとなく話すようになって、一緒に過ごすようになって、それで気が付いたら好きになってしまっていた。でも、どこかに好きになった理由があるはずだ。

「優しかったから、ですかね。」

 雅は温かかった。瞳を常に受け入れてくれた。

「優しいヤツってのは罪作りだからね。」

 まったくそうである、と瞳は思っていた。しかし、瞳には雅を恨むという考えはなかった。それは人として普通なことであるし、雅にとって幸せであろうからだ。

「どう?明日廊下であっても普通にすれちがえそう?」

「それは無理です。」

 瞳はどうあがいても雅と普通にすれ違うことができるとは思えなかった。自信がないとかそういうものではない。ただ、自然とそうなるしかないのではないかという確信であった。

「それもそうだね。当たり前だよ、それは。ほんと、瞳は偉いね。」

「どこがですか?」

 瞳はただひたすらに分からない様子だった。

「自分ができないことをできないって言えたりすることはとってもすごいことだと私は思うんだ。だって、自分の弱いところを自分で分かっていて、それを誰かに知らせてるのと一緒だから。きっと瞳にはどんなにつらいことでも向き合って立ち向かえる強さがあるんだよ。

 私なんて絶対に、できます、って答えるから。」

「そんなことないです。私だって見栄を張ることはあります。」

 だって、全然大丈夫ではないのだから。

「大丈夫だよ。瞳はきっとなんとかなる程度でしか見栄を張らないから。私たちみたいな弱い人間は必要以上に見栄を張っちゃって、余計な仮面を被っちゃうんだよ。」

 千里はコーヒーを啜って、再び会話を続ける。

「だからこそ、心配なんだと思う。瞳のことが。問題に立ち向かい過ぎて自分の痛みに気が付かないかもしれないから。」

 余計なお世話だ、と瞳は思った。けれども、目から涙がこぼれそうになって、それを必死に押しとどめる。

「泣き虫の瞳ちゃんがまた泣き出す前に出ようか。」

「バカ。」

 そのバカは嬉しさのにじみ出るバカだった。

 カラスは能天気にアホーと鳴いていた。


 帰りは普段より遅くなる。だが、なんら心配することはなかった。野菜は瞳以外に買う人間も少ないのか、十分に残っていた。そして、あの男も帰ってきていない。

 瞳はゆっくりのんびりと料理をしながら、ふぅ、とため息をつく。瞳は疲れていた。いつもの日常から外れた特別な出来事。それは人に負荷を与える。

 変わっていく日常。

 しかし、瞳はそのことを嫌だとは思っていなかった。むしろ、今までが異常だったのかもしれないとさえ思っていた。

 変わらなかった日常。

 それは変わらなかったのではない。変えられなかった、いや、変えたくなかったのだ。いつもとは違うことをするのが瞳は怖かったのだった。しかし、きっとそれではだめだったのだ。何も変えられないまま流れに乗っていくのは、生きるということではない。瞳はそう思った。周りに合わせてただただ別人の仮面を被ることは瞳にとっては窮屈過ぎるのだった。瞳はただただ待ち焦がれていた。自分の仮面を外し、本当の自分を解放してくれる存在を。そんな都合のいい王子様を。そのきっかけを千里は与えてくれたのだと瞳は思った。だから、千里についていこうと瞳は誓ったのだった。例え千里がどんな性癖を持とうとも。

 瞳は出来上がった料理を半分ずつ皿に移し、その片方にラップをかける。そして、ラップをかけた方を冷蔵庫に入れる。

 ふと、瞳はどうでもいいことを思い出す。

 サランラップとはサラン夫人が発明したものであると。発明というと少し語弊がある。ただ、食品の保存という活用方法を生み出したのがサラン夫人であっただけである。元々サランラップは銃の弾薬が湿らないように弾薬を包むものだったらしい。それを軍の将校であったサランが家に持ち帰ったところ、その夫人が食品の保存に使えるのではないかと思い使ったのが始まりであるという。

 瞳はこの回想の終わりにこうつける。

 諸説あり、と。

 瞳は風呂に入ろうと思った。



 ゼェ、ハァ。

 瞳は自転車で坂を必死に漕いでいる。

 ふと、瞳の耳にテンポのいい曲が流れる。

 正義のヒーローである老人はオープニングでこう高らかに歌っていた。

 人生は楽あれば苦もあると。

 これはつまり、現時点ではこの楽しさが永遠に続くと思っていても、落とし穴のように急に苦がやってくるということだろう。しかし、瞳はふと思う。人生は楽からしか始まらないのか、と。苦から始まれば楽が来ることはないのか。

 それに触れてはいけない。

 そんな気がしたので瞳は考えることを止める。

 人には決して触れてはいけない領域というものがある。人がヒトであるために。そこにたどり着けば普通の人では身を亡ぼすであろう。人でないものでなければ触れることさえできない。だが、そこに少しでもたどり着けそうになった者がいれば、その者はすでに人でなくなりかけているのだろう。

 瞳のデコに風が吹きかかる。瞳の鮮やかな髪は後方になびく。

 下り坂だ。

 きっと下り坂の後には上り坂があるだろう。しかし、下り坂でついた勢いは、その上り坂を少し楽に登らせてくれる。急な坂ほどより勢いが付く。そして、その急な下り坂を下るためにはその分険しい上り坂を頑張らねばならない。

 人生なんてそんなものだ、と瞳は思った。

 例え人生の最後が上り坂で終わろうが下り坂で終わろうが、きっと本人にはどうでもいいように感じられるはずだ。精いっぱい上って下ってを繰り返したのだからそこに後悔はあるまい。

 瞳は迫ってくる上り坂に対し、登るの嫌だな、と思った。


 授業の間の休み時間、雅と会わないように教室を出てフラフラする。

 昼休み、雅に会わないように部室(仮)へ行く。

 その部室(仮)には千里がいた。昨日の男子生徒はいない。

「おっす。」

 千里は雑にあいさつする。

「こんにちは。」

 瞳はどう返そうか悩んだが、無難に返す。

「どうしたの?昼飯食べに来たの?」

「ええ。そうです。」

 そう言って学習机に腰を下ろしている千里と同様に学習机に腰を下ろす。

「ああ、弁当じゃん。手作り?」

 楽しそうに千里は言った。犬なればしっぽを振って話しかけていることだろう。

「ええ。私が作ってます。」

「へぇ。そういう女の子はモテるんだろうね。」

「そういう理由でもないのですが。」

 瞳が一瞬暗い顔をしているのを千里は見逃さなかった。なので、千里はそれ以上詮索するのは止めておいた。

「アイツ、本当に部員集め頑張ってるっぱいね。」

「アイツって昨日の男子ですか?」

 千里は何か別の話題を話そうと考えたが、まだ瞳との共通の話題はなかった。なので、共通の知り合い?の話題を振った。

「中田慎仁っていうんだけどね。小学校からの知り合い。」

「その中田さんはなんでこの部室にいたんですか?」

「ああ、アイツも私みたいに人を集めようと思ってるみたいでね。」

「何をなさろうとしてるんですか?」

「アイツはユリだね。」

「ユリ?」

「うーんと、女同士の恋愛ってやつ。」

「はぁ。」

 瞳は呆れるでもなく、かといって理解に苦しむという感じではない返事をした。

「千里さんはそれについてどう思ってますか?」

「女同士でってこと?」

「・・・はい。」

 千里は瞳から妙な違和感を感じていた。まるで怒られるのを怖がっているような態度であったからである。

「まあ、男同士が好きって時点で女同士も否定することはできないしね。それに、そういうのは自由なんだと思うんだ。その人が誰かを好きになるっていうのが初めで、その後に自分の性別が襲ってくるっていうかさ・・・ああ、もう。自分でも何言ってるのかわかんないや。」

 少々唸ったあと、千里は明るい笑顔を瞳に向ける。

「自分が好きだって気持ちがこの世界で一番絶対的なものなんじゃないかって私は思うよ。」

 瞳はこの人に出会えてよかった、と心から思った。だからこそ、千里を幸せにしてあげたいと思った。

「千里先輩は今なにを望みますか?」

 瞳は千里の望みを叶えてあげたいと思った。

「そうだね、私を理解してくれる人が欲しいかなって。」

 少し寂し気に言う千里の姿に瞳は胸が狭まるような感覚を得る。

「私、入部します。びーえるについて教えてください。」

 そう言って瞳は千里の手をとる。

「お、おお。そうか。」

 千里は少々戸惑い気味に言った。

 瞳は決心した。千里に寄り添える人間になろうと。友になろうと。そのためには趣味を分かち合えばいい。そうすれば、きっと千里の望みは叶う。自分の望みは叶わなくとも。自分が苦しむのが目に見えていようとも。

 二人は弁当を食べ終わった後、少々ぎこちない、まるで初デートの恋人同士のような会話をし、授業前に解散した。


「まずBLとはなにかについてだな。やおいなんて呼び方もされる。この呼び方は知名度がないから、隠語として使われることもあるから要注意だ。テストに出るぞ。まず、日本でのBLの歴史だな。始まりとしては・・・」

「ふうぇい!やっほぅ!」

 千里によるびーえる講義を瞳が受けている最中、陽気な声とともに部室へ入ってくる者があった。

「新入部員獲得したぜい。どうだ!見直したか!」

 胸を剃り返してふんぞり返っている男子の名を瞳は忘れた。

「うるさい、黙れ、この与太郎が。」

「さぁさ、新入部員の紹介です。」

 千里の批判をするりと躱し、男子は言った。

 そして、部室へとその新入部員?とやらが入ってくる。

 瞬間、時間が凍る。

 その人物と瞳は一切動かない。瞼を一寸とも動かすこともなく、呼吸時の胸の動きもない。両者とも呼吸さえしていなかった。

「え、え?どうしたんだよ。え?え?」

 男子は妙なテンションで言っている。

 しかし、二人は視線を互いの瞳に向けたまま、逸らそうともしない。


瞳は自転車に乗り、少しずつ漕ぎながら千里と下校していた。

「早く帰りたいんだったら、帰っていいよ。」

 千里は瞳に言ったが、瞳はそうしたくなかった。なるべく長く千里と一緒にいたかった。

「ううん。大丈夫。」

「そう。」

 そんな些細なことも気にしないと思っていた千里が今日はやけに感傷的なことに瞳は少々疑問に思った。

「あの先輩と瞳はどういう関係?」

 あまり気乗りしないような口調で千里は言った。

 先輩というのは今日中田慎仁が連れてきた男だろう。瞳はそう思ったので答えた。

「あの男は私の兄です。」

「ああ、お兄さんね。って、お兄さん⁉」

 千里はテレビの中の人のようなリアクションをとる。

「髪の毛の色、全然違うじゃない。」

「それは・・・」

「あ、いい。分かったから。」

 何が分かったのだろう、と瞳は訝しむ。瞳がいまいち乗り気でないことに気を使ったのだろう。もしくは、本当に分かっているのか。

「人生って大変ね。その、なに、仮にお兄さんとしておきましょうか。そのお兄さんがユリ好きと知って、瞳はどう思う?」

「軽蔑しますね。」

「そ、そう。」

 瞳のあまりにも直線的な嫌悪に千里は虚を突かれたようであった。

「慎仁のやつ、瞳のお兄さんをどうやって誘ったんだろうね。」

「興味ないです。」

「そ、そう。」

 瞳は千里には兄妹がいないのではないかと思った。恐らく一人っ子。兄妹の仲の悪さを心得ていないらしい。

「じゃあ、私、こっちだから。」

 そう言って別れることにする。

「最近物騒だから、変な人に襲われないようにするんだぞぉ!」

 千里は大声で言う。

「自転車の速さで走れる変態はいないと思いますが。」

 瞳は冷静に言った。

「それがそうでもないんだよな。」

 苦笑いをしながら千里は言った。


「人見さん、なんでそっちに行ってるんですか!」

 ヒトミと言われて瞳は少し体をビクッとさせる。しかし、瞳は自分のことを言われているのではないのを知っているので、無視をする。

 人見瞳の兄、人見知は何故か瞳と千里の活動、BL活動の方に参加していた。今現在、人見知は千里と瞳と共に千里秘蔵のBL本を読んでいた。

 知は一向に動じる気配はない。慎仁は諦めたらしく、瞳たちとは反対側の壁で一人寂しくマンガを読んでいる。恐らく女性同士が愛し合う内容のものだろう。

「しっかし、テレビが欲しいな。」

 千里は床で大の字に寝っ転がりながら言った。

「何故テレビが必要なのですか?」

 瞳が言う。知は独り黙々とBL本を読んでいる。その表情はあまりにも感情ば乏しかったので、二人には知がどういう思いでBL本を読んでいるのかが分からなかった。

「この同人誌の元になったアニメを鑑賞しないと。」

「同人誌ってなんですか?」

 瞳の問いに千里は戸惑う。千里ではどうも語彙力不足らしい。

「それはな―――」

「個人がアニメなどのキャラクターを参考にしてカップリングを作ったものを自費で出版したものだ。」

「カップリングってなんですか?」

 慎仁が同人誌について説明しようとしていたところに、突然知が口を開き説明をした。一同呆然とする。瞳は知に話すのではなく千里にカップリングの説明を求めた。

「どの男性キャラ同士でカップルを作るかということだ。基本は一対一だが、場合によっては複数の場合もある。好みにもよるだろうが、一般的には一対一が好まれ、それがスタンダードであると言える。基本的にカップリングと言われるとその一対一を指す。」

 知が答える。

「して、ええっと・・・」

「千里です。」

「千里さん。あなたたちは一体何を目標に活動していくのですか?」

 知が聖職者のような丁寧な口調で千里に問う。

「ええっと・・・そうっすね・・・?」

 千里は何も考えていなかったらしく、ひどく困惑している。

「黙ってよ。」

 瞳がポツリと呟く。それだけであるのに教室の空気が急変する。

「黙ってよ。アンタに関係ないでしょ。私に関わらないで。アンタは向こうで遊んでればいいでしょう。こっちに来ないで。」

 知は表情を少しも変えずに慎仁の方へと向かって行った。

 その後、一人も話す者はいなかった。

 ただ上の階から騒がしい声が聞こえてくるばかりであった。


 次の日は休日だった。瞳は休日は朝食を一人分しか作らない。兄の知は休日の朝は起きてこないためである。瞳は普段よりも簡単に朝食を済ませてテレビを点ける。テレビでは物騒な事件を流していた。男根刈りだそうだ。つまり、男性器を刃物で取り除くという事件が起きているそうだ。そのような話題も時たま教室から、波にさらわれて漂着した漂流物のように瞳の耳に入ってきていた。あくまで噂話なので尾ひれがついているのだろう。犯人は大きな鎌を持った死神だとも、全身をフリルで着飾った魔法少女だとも言われている。被害者はショックのあまり記憶が混同しており、警察も犯人の探しようがないのだとか。その手の犯行は当然人気のないところで行われるので目撃者もない。

 だが、瞳には関係のないことだった。それは身近に起きているが瞳は女性である。瞳の脳裏に兄の姿がよぎる。瞳はバツが悪そうな顔をする。休日の午前は特に面白いテレビ番組はない。なぜこういう暇な時に限って面白い番組をやらないのか、と瞳は疑問に思う。きっとそこには何かしらの理由もあるのだろうが、瞳は考えるのも面倒なので、そのままテレビを消す。

 瞳の家の周囲は農村である。つまり、畑と田んぼと森しかない。その森も杉などの針葉樹を植樹したものなので、花粉症にはつらい。瞳は花粉症ではなかった。もしかしたら花粉症だったかもしれないが、耐性がついてしまっているだろう、と瞳は思った。そんなところであるから、当然娯楽などはない。市街地に行けば多少は娯楽はあるだろうが、そのために一時間以上を費やすのも瞳には億劫だった。

 田舎の人間にはやることはない。となると自然に勉強をするほかにやることがなくなる。瞳は勉強をしようと二階へ上がろうとした時であった。玄関の呼び鈴が鳴り響く。時間は10時。その時間帯は何者かの訪問があるだろうと瞳は寝間着から着替えを済ませていた。

 最初、瞳は電気代か水道代の集金かと思ったが、いつもと時期が違う。となると、新聞である。瞳はおずおずと玄関の扉をゆっくり開ける。

「おっす!」

 目の前には見知った顔がいた。

 瞳は扉を閉める。

「おいおいおい。急に来てしまって驚いたとは思うが、閉めなくてもいいだろう。」

 少し赤みを帯びたショートカットの二年生、千里は言った。

「すいません。閉めるつもりはなかったのですが、なんとなく閉めたくなったので。」

「なんだそりゃ。」

 千里は少し呆れた顔をしているが、笑っていた。朝から活発だな、と瞳は羨ましく思った。

「ちょっと遊びに来たんだけどお邪魔していい?」

 千里は笑顔で言う。そんな輝かしい笑顔を見せられてしまっては断るにも断れない。

「ついでに、ネズミもいる。」

「誰がネズミだ。」

 慎仁もいた。瞳は千里にばかり注目していたので気が付かなかった。そもそも興味もない。

「ゴキブリにされないだけマシだと思え。」

「どっちにしても嫌だよ。」

 千里は慎仁をからかっている。小学校からの知り合いというのは伊達ではないらしい。そんな二人のじゃれあっている姿を見て、瞳は嫉妬した。

 立ち話もなんなので、瞳は二人をリビングに通す。掃除機をかけるのを忘れていたな、と瞳は少し恥ずかしくなった。

 リビングのソファに千里は大胆に腰を下ろす。見方によれば遠慮がなく、無作法に見えるが、瞳は千里らしいと思い、微笑ましくなった。慎仁は肩身が狭そうにしながら座っている。無理矢理千里に連れてこられたのだろうことが簡単に予想出来て、また瞳は微笑ましくなった。

「で、今日来たのはだな―――」

 瞳はどうやって家に来れたのか不思議に思った。なので聞いてみる。

「どうやってここまで来れたんですか?住所とかを教えた覚えはないですけど。」

 その瞳の言葉に過剰な反応を示したのは慎仁だった。ひっ、という声を漏らしたり、汗をかいたり、体がビクッと反応したり、目が泳いだり。挙動不審だった。

 千里もバツが悪そうな顔をしている。どう説明すればいいのかこまっているようにも見えなくはない。

 と、そんな時、リビングに入ってくる者があった。

「俺が教えた。」

 瞳は家で何年かぶりにその男に会ったかのような気分になった。少なくとも、声は何年間も聞いてはいない。

「千里さんがミーティングしたいって言うから、うちに来ないかって誘ったんだ。」

 全く表情を崩さない男、瞳の兄は欠伸をする。瞳はその時に崩れた知の表情をUFOを見たかのような、現実であるとは信じられない目で見ていた。

「どういうこと?」

「連絡先くらい交換しておけ。」

 生まれて初めての兄妹の会話であった。と、瞳は思った。兄と会話した記憶が瞳にはない。そして、兄の上から目線の言葉、それも少し人をバカにしたような言葉に瞳は腹を立てる。

「そだなー。瞳、連絡先交換しようぜー。」

 少しの安堵の混じった嬉しさの満ちた表情をしながら千里は瞳に言った。その千里の表情の中の感謝が自分ではないものに向けられているのを知って、瞳は非常に腹立たしくなる。ヒステリーを起こしてしまいそうになっていた。慎仁は目立たないように心掛けている。その顔には未だ緊張が見て取れる。

 瞳は千里と連絡先を交換する。そして、慎仁とも行おうとする。慎仁は自分と交換するとは思ってもみなかったのか、非常にドギマギしている。

 知の連絡先を知らないが、瞳は放っておく。

「で、だ。昨日知さんに聞かれて思った。確かになにか目標が欲しいなって。だから、同人誌を作ろう!」

 そう千里は高らかに宣言した。

「俺も巻き込むんじゃねえよ。」

 慎仁は少し強気になって言った。慎仁は千里に対してしか強気になれないらしい。

「問答無用!人見ブラザーズもそれでいいよね。」

「ああ。」

「はい。」

 なぜ、私よりも早く返事するんだと瞳は怒る。もうそれは怒りとしか言えない感情だった。

「な、一緒にやろうぜ。」

「仕方がない。付き合ってやるか。」

 千里の言葉に慎仁は上から目線で答える。千里も少々はムッとした表情になるが、楽しそうである。その場所にたどり着けないことに気が付き、瞳は残念に思う。しかし、瞳はそう簡単に諦められる性格ではない。

 そうして、同人誌を作ることになった。

「あ、瞳。部室にテレビ置いてもらえることになったから、一緒にアニメ見ようぜ。」

 この人のこんな楽しそうな笑顔を見ることができるのは瞳にとって最高の幸福だった。幸せの意味を初めて理解したような、そんな気持ちになる。

 だから、瞳はBLについて勉強せねばならない、と思った。

千里の笑顔を自分以外に奪われないように。瞳は睨んでそう思った。


それから一か月以上経ったとある放課後のことである。

「なんで祥吾と巌様じゃダメなのよ!」

「ハァ?別作品同士から引っ張り出すとか邪道だろうが!それもどっちも主人公だし。見る目なさ過ぎだわ。」

 瞳の出した同人誌についての企画に、知が突如として意見をしたのだった。

「いや、なんでそっちの方に意見してるんですか。こっちを手伝ってくださいよ。」

 慎仁が言った。慎仁は千里らとは別で同人誌を作るつもりらしい。

「特にソフトで行くのなら、より親密感を出さなければならないんだ。よって却下だ。」

「それもそうだな。」

 知の言葉に千里は同調する。

「じゃあ、どうしろって言うのよ。」

 瞳の言葉に場は静まり返る。誰も大したアイディアを持ってはいないのだ。

 そしてだらだらと時間だけが過ぎていく。

 だが、こんなこともなければ兄妹で会話することもなかっただろう。

 だから、私は、人見瞳は後悔していない。


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