「神のかたち ネコのあくび」
「神のかたち ネコのあくび」
千年桜の緑は炎天に燃えているが、その下は、黒く大きな陰が広がっている。
普段は静かなこの社も、夏になるとにわか、人間どもがやかましい。日陰は涼しいが、そろそろ戻らないと、マルがうるさい。丸めたしっぽをちろと舐めるとワタシは大きく伸びをする。ついでにガリと幹に爪を立てて研ぐ。この桜は神木だが、社での格はワタシの方が上だ。
タスタスと草履の音が聞こえてきたと思ったら、明るい緋色の袴が視界に大きく揺れる。頭上から押し殺した声。
「シン様。そのお姿でお出にならぬよう、何度申し上げましたか?」
「これがワタシの姿だ。お前こそ、もう少しわきまえろ」
「存じております。しかしシン様、そのお姿は人の世にいる・・・・」
「それは言うな。不快だ」
スッとのびた白いマルの腕が腹の下に差し込まれる。体が浮き上がる。
「おい、自分で歩けるぞ」
「分かっております。しかし、この方が人の世では自然なのでございます。ご堪忍を」
舌打ちをしてワタシはマルの腕をザラリと舌で一舐めしてやった。マルは笑って指先でワタシの頭を掻く。
「参りましょう。人が来ます」
「あー!見て!あの巫女さん、ネコ!ネコ、持ってるよ!」
響く子供の声。マルの腕にうずめかけた顔を上げてワタシは振り向く。遠い鳥居のほうから人影が幾つか見える。
マルは立ち止まると、ワタシを抱えたまま参詣客に一礼をして、社の裏手へと歩き出した。
拝殿の奥、丸く金色で模様が彫りこまれた鉄扉が閉まったその向こう、奥行きの知れない暗い空間に、無数の長い白布が垂れている。しかし、上を見上げてもどこからこの布が垂れているか、分からない。ワタシはギッと身体に力を入れた。ゴウッと体内で振動がして、毛が光り出す。頭の先の短毛が一気に逆立つと火花が散り、飛び散った。やがて身体から光が抜けて黒くなっていく。(頃合か)ワタシは眼に集まった光を部屋の奥へと放った。大河の始まりの一流れのように光は白く奥へ流れてゆき、やがて行き詰まったのか、左右へ分かれると炎の如く立ち上った。その一瞬、古い無声映画のような白黒の映像が浮かび上がる。花吹雪のように回転しながら落ちていく、戦闘機。しかし、その映像はすぐに消え、闇が戻る。
「またダメか」
「シン様」マルが声をかけてくる。
「マル、言え。ここは何を祀っている?」
「それは、ご容赦下さい。それにシン様もご存知のはずです」
「つまらん」
ワタシはいつものごとく、しっぽの先で一枚ずつ布に触れていく。その度、音もなく布が吸い込まれていく。身体の奥のほうで何かが渦を巻く。最後の一つに触れ終えて、ワタシはその渦が収まるのを待つ。
「おいマル、言っておくが、ワタシの器にも限界はあるぞ。代わりは探しているのか?」
「いいえ。マルはシン様と共に。シン様がここを去る時はわたくしも」
そう言うとマルは、袴をたくしあげ、ワタシの前にしゃがみこんだ。声の調子とは違い、なぜか嬉しそうだ。両手でワタシの頭を挟むと左右にぶんぶん振ってくる。
「シン様。おそばにいさせてください」
マルが、頬を寄せてくる。分かったからやめい。
「あ、シン様。人の世のお姿になられる前に、お一つ」
満足したのか顔を離すと、忠告するように、マルは人差し指を突き出してくる。
「分かっている。8月15日だろう?」
「はい。本日でございます。人が、沢山参られると思いますが、何卒、ご寛容に」
「心配するな」
ワタシは歩き出す。さっき力を使ったから少ししんどいが、まぁ大丈夫だろう。さきほどの布を口から言霊のように細く吐き出して宙に浮かべると、ワタシはそちらへ移った。遥か下の方で、抜け殻になった小さな毛に覆われたものがパタッと倒れ、マルがそれを抱えて辺りを見回している。この姿になると、マルにはワタシが見えないらしい。それも、つまらないことだ。
同じような、でも痛切な慰霊の言葉をワタシはこれまで何万聞いてきたか。耳、心地いいものではないが、それも勤めか。しかしだ、ワタシの姿が、人の世のネコとかいうか弱く、小さな、しかしその割には案外人気のあるらしい、といっても威厳とは無縁でどちらかというとマスコット的な人気のあるらしい、生き物と酷似しているとマルから聞かされたときはショックだった。その後、その生き物を実際に見たが、ワタシには自分の姿を自分で見ることは出来ないので、真に似ているのか、確かめようがない。しかし、傍若無人なそのネコという生き物は、見たとこ、この社を我が物顔で闊歩し、寝たいところで寝、あまつさえ、たまに糞などもし、その振る舞いに思わず、人の世のものに使うことは禁じられている「力」でもって、一薙ぎしてやろうかとも思ったが
「シン様そっくりじゃありませんか」とマルにからからと笑われてからは、その気もなくなった。今は、好きにさせている。
もの思いにふけっていたら、どうもやっかいな人の想いが聞こえてきた。ここは、鎮魂の場であるはずだ。それなのに・・・見ると拝殿所で学生服を着た丸刈り頭が見えた。あいつか。
人間どもは勘違いしているが、神社で発した人の想いはどんなものでも、一度は必ず、その社の主に届くのだ、叶うかは別だが、届けられる。つまりこっちにしてみれば迷惑千万なものを、無条件に渡されることになる。そんなことは極力避けたい。ワタシはマルを呼ぶ。小さく返事があり、マルが奥から出てくる。途端、参詣客から抑えた歓声があがる。
「巫女さんだー!」声に応えるかのように、マルは水引で留めた長い髪を、肩から前に下げて、集まった参詣客に深く黙礼をした。律儀なやつだ。
ワタシは見えない姿でマルのつむじの上に乗っかってやった。気配に気づいたのか、マルが頭を下げたまま、表情を緩ませた。
(そこにいましたか、シン様。御用ですか?)
(マル、厄介ごとだ。ちょっと出るぞ)
(どれほどでお戻りですか?)
(遅くはならん。式でしのげ)
(承知いたしました。人と関わりますか?)
(多少な)
(ならば、マルもお供します)
(案ずるな。手荒なことはしない。お前はここにいろ)
(いいえ。人はたいてい、ネコに話しかけられれば驚きます)
そこで、参詣客に向かってかのように、にっこりとマルは微笑む。
「美人さんだねー」どこぞで声があがる。「写真撮らせてください」。不埒な奴もいる。何が慰霊だ。いい気なもんだ。
(・・・誰がネコだ。マル、お前な、調子に乗ると、しまいにゃ引っかくぞ)
(・・・シン様。わきまえております)
マルは視線をあげると、ワタシがいるあたりへ向けて頷いた。
マルが声をかけると鳥居をくぐって外へ出ようとしていた、さきほどの男は立ち止まった。
「ご参詣、ご苦労様です。毎日暑いですね」
ワタシは思うのだが、巫女にいきなり話しかけられても、普通は驚くだろう。ワタシの読みどおり、男は何やら返事らしきくぐもった声を発したきり黙ってしまった。したたる汗をしきりにぬぐっている。
「どうぞ。よろしければお使い下さい」
マルが差し出した手ぬぐいを固辞すると、男は突然声をかけてきたマルの真意を測るように少し後ずさった。そして、その傍らにいるワタシに向けて、何か、珍妙な狛犬でも見つけてしまったかのごとき、疑わしげな一瞥を寄越した。失敬な奴だ。
「あそこに木陰がありますから。少し、お話をお聞かせ下さい」
マルが千年桜の下のベンチに男を誘う。
「話って…?」
「先ほど、あなたが告げられたことです。この方が、聞いておりました」
そう言って、マルはワタシを見た。馬鹿め。お前がそれを言ってこいつを、ますます混乱させてどうする。
結局借りることにしたのか、男がマルの手ぬぐいで汗を拭う。白地に紺で神紋が染め抜かれた、この社の手ぬぐいだ。
「そうですか。戦争でご尊祖父を・・・」
「はい。その時、祖父には心に決めた方がいたようで。その方がもし、今でもご存命ならばと思い・・・」
それを聞いたマルがベンチの下で寝そべっていたワタシに視線を投げてきた。うとうとしていて半分聞いていなかったが、要は人探しだろう。なぜ人というもの、たかだか数十年の命で死ぬと知っていながら、叶わぬ誰彼に会いたがるのか。限りある命と知るならば、身の程と無常も知れ。
(シン様、)
マルが何か言うより早くワタシは答える。
(面倒は断るぞ)
(探れますか?)
(マル、そんな願い、応えていたらキリがないぞ)
(分かっております。されど、儚い人の命なれば、束の間、夢を見ることは許されませんか?)
見上げると、マルは微笑んでいた。ため息が出た。どうもあいつにはペースを狂わされる。わたしは視線を足元から複雑に幹を絡ませながら聳える桜に移した。
(・・・マル)
(はい)
(お前、人の姿になって、どれほどになる?)
(・・・覚えておりません。数百年かと)
(長かったか?)
マルはしばし考えるように首を傾けていたが、やがて声を伝えてきた。
(いえ。シン様とご一緒でしたから)
今度は違う意味でワタシはため息をつくと、マルに伝えた。
(探すなら、この姿では無理だ。布の中だろう。一度戻るぞ)
ワタシは男とマルを置いたまま、その場を離れた。
暗闇の中で布を引き出し、時の流れを探る。白濁に呑まれたまま進む。その中に黒く淀んだ点。あそこか。身体を引き寄せ、頭を突っ込む。ここは・・・どのあたりか。突っ込んだ顔をめぐらすと、レコーダーのように赤く明滅した数字。昭和20年6月20日、か。ドン!と地を砕くような低い轟音が轟き、上空より、まるで空飛ぶスーパーマンのような格好でもんぺ姿の女が降ってきた。地面に叩きつけられて、うめき声をあげている。手の関節を必死に曲げるが土をひっかくだけだ。左胸から溢れる血が服を染めていく。女は必死に手をのばすと、ポケットから何か小さな包みを取り出した。それを確かめると、かすかに笑った気がした。
ワタシは動かなくなった女をしばし眺めたのち、女の手からその包みをくわえると、布から離脱した。
ベンチに戻ろうと拝殿を出ると、何やら楽しげな2人の姿が見えた。この姿の時は、耳がきくのだ。そう、ネコ並みに。マルと男の会話が聞こえる。
「あの、もし、あのー良かったら連絡先とか・・・」
顔を赤らめた男がうつむくようにマルに告げている。
「連絡先?あの、あの、文、のことでしょうか?」
ずっこけそうになる。数百年、人の世にいながらにして、あいつの時代錯誤はなかなか筋金が入っている。それは、いつの時代だ。
「ふみ? あ、あの、手紙ですか? そう、手紙、手紙がいいですよね、書きますから。住所は、ここでいいんですか?ここに来れば、また会えますか?」
「はい・・・」
マルは恥ずかしそうに、袴の裾をぎゅっと掴んでいる。
(「はい」、じゃないだろが)
脱力しきって歩けなくなりそうなところを何とか堪えて、ワタシは強引に2人の話に割り込んだ。
(あ、シン様、あの、あの、これは全然その、違うんですよ)
(どうでもいい。馬鹿め。人の男を惑わしてどうする)
続けて、ワタシは告げた。
(見てきたがな、その男の言う女は、死んでいたぞ)
(そう、ですか。最期は?)
(戦中だな。恐らく、焼夷弾の直撃。昭和20年6月20日の昼ごろの事だ)
マルが神妙な顔でうつむく。長いまつげがかすかに震えていた。
(シン様、ありがとうございます)
押し殺したような声。
(お前が落ち込むな。それからな、例外だが、これを)
ワタシは包みをマルの着物のたもとに移すと
(あとは、お前がやれ)
そう告げて本格的に昼寝の体勢に入った。力を使うと、疲れるのだ。
一刻の後、覚めるといつもの拝殿の中だった。横にマルが座って参詣客の対応をしている。ワタシの気配に気づいたのか、そのまま話しかけてくる。
(シン様。お目覚めですか? 気持ちよさげにお眠りでしたので、お運びしておきました)
(そうか、あの男はどうした?)
(シン様のお言葉を告げました。それから、あの包みも。落胆しておりましたが、でも、最期は納得されたようです。また来るともおっしゃって下さいました)
(それは良かったな。でも、また来るというのは、お前目当てなだけじゃないのか)
からかってやると、ふいにマルは黙って立ち上がった。
(そういういじわるなことを言われる方の、今晩のお供えは、安いカルカンにしておきます)
マルは参拝客に笑顔を向けると一礼し、踵を返す。
(シン様、あとはお願いしますね)
(おい! 言っておくがな、そもそもワタシはネコじゃないぞ!)
(存じております)
外廊下を歩きかけて、ふいにマルは戻ってくると、ついついと指先でワタシを撫でた。
(そのお姿だと、目立ちますよ)
さっそく参拝客から声があがる。
「わー!あんなところにネコがいるよ!」
全く、人間とは騒々しい生き物だ。
おおきくひとつあくびをすると、ワタシはマルのあとを追った(終)
先の大戦で亡くなった全ての人達への鎮魂を込めて。