ご主人と猫
私に家族ができた。
あの猫との幸せな毎日が、当たり前に続くと思った。
壊したのは、私。
短編・猫とご主人の飼い主からの視点で綴ってみました。
暴力、虐待表現があります。
約束を、した。
それがいつだったのか。
誰となのか。
朧気というには更に曖昧すぎる程の記憶が、心の片隅にしこりを残す。
けれど、ずっと一緒にいる、と確かに私は約束をしたんだ。
あのこに。
ぽかぽかとした柔らかい日差しで、ゆるく風が足元を通り抜けた、これが春という季節なんだと思わせるような日だった。
普段は全くペットショップなんて行かないけれど、偶々残業もなく定時で上がれた帰り道に偶々目についてしまった
春の日和に気分も上がり、真っ直ぐ帰るにはもったいないな、と立ち寄ってみることにした。
私の住むアパートはペット可の物件なのに、私の部屋だけ動物の気配が全くない。
なにせ1人暮らしのOL。
なにかペットを飼ったとしても、昼間の出勤中の面倒や私に何かあっても頼める人がいない。
そして、そこまで犬や猫を好んでいるわけでもない私には、1人暮らしの寂しさを埋めてくれるパートナーにペットという代表的な名詞は浮かばなかった。
見るだけでもいい暇つぶしになるだろうと、ガラスの向こう側にいる小さい生き物を眺めた。
犬は散歩の事を考えると飼えない、の一択になってしまう。
帰る時間は残業がある為にバラバラ。
夜になると散歩なんて怖くて行けたものじゃない。
見た目は可愛いが、大きくなるし。
やっぱり見るだけになるな、と次に猫の方に視線を変えた。
他の猫はこちらに顔を向け、可愛らしい鳴き声を出しているのに、ただ1匹だけはそっぽを向いて丸くなって寝てしまった。
グレーの毛並みの小さな猫。
1匹で丸くなる姿がまるで自分を見ているようで、その猫がひどく気になった。
ガラスの隅に貼り付けてある値札を見ると、ロシアンブルー¥100,000の表示。
そうか、君の命は10万円なのか。
それは安いのか、高いのか命を値段で見たことがないからわからないが、私には酷く滑稽に思えた。
この猫が欲しい。
我に返ると、近くにいた店員に声をかけていた。
ガラスの向こうから今は私の腕の中で、アーモンド型の緑がかった瞳を丸く丸く見開いた猫。
「・・・いつ、連れて帰れますか?」
「さ、出ておいで。今日から君のおうちだよ」
キャリーを開けると、その奥で警戒している猫を見つめた。
猫からみて初めてみる世界はどんなものなのだろう、きっと前人未到、いや前猫未到の地に足を踏み入れた気分なんだろうな。
私はくすり、と小さく笑い、慣れるまでキャリーの扉を開けたままで、新しい住人のご飯を作りにキッチンに向かった。
2,3日もすると、キャリーは必要なくなった。
猫は背の低いナチュラルな素材のTVボードの横に、影になるようにうずくまっている。
私がソファでTVを観ていると、おっかなびっくり、と身体で表すようにその端に座り始めたではないか。
ここで私が動いたら、びっくりしてまた部屋の隅に行ってしまうな・・・。
と、私は動かずにTVに目線は向けたままで、聴覚や気配で猫を存分に感じた。
膝に乗ってくれたのはいつからだろうか。
いつの間にか部屋に慣れ、私に慣れていった猫はごろごろと喉を鳴らして私とソファにいる。
可愛い私の家族。
就職するから、と地方を飛び出して5年後に両親が事故で他界してからというもの。
兄弟もいなかった私は、家族と呼べる者はもうこの猫しかいない。
懐いてくれたと実感した喜びも一入だった。
この猫が気になるので、今まで数合わせで誘われていた合コンも断るようになった。
同僚からは、
「カレシでもできたんじゃないの?」
って聞かれたほどだ。
猫を飼い始めて、多少明るくなった私に彼氏が久々できた。
街中でぶつかったことが出会いにつながるなんて思わなかったけど、彼は大きな声で「すいません!」と何度も頭を下げて来て。つい笑った私に、彼も眉尻を下げて笑った。
話を始めて、連絡先を教えあって。外でデートを重ねて、当然のように私たちは付き合い始めた。
彼の住むアパートの部屋にも行って、身体も重ねあった。
浮かれていた。
「今度、カレシを連れてくるからね。ひっかいちゃだめよ」
猫は首を傾げて、
「なおぅ」
と一鳴きした。
この猫、たまに人間の言葉がわかるんじゃないかな、と思う時がある。
私が嬉しいときは隣で目を細めてごろごろと喉を鳴らす。
悲しい映画を観て、私が泣いていると顔をざらざらした舌でざりざり舐めてくる。
たぶん、慰めてくれているんだろうが、とにかく痛い。
つい笑ってしまうと、満足したように膝に収まるのだ。
今はもう、この猫は家族として、友として、姉妹としてなくてはならない存在になっていた。
愛おしさを示すように優しく猫の頭を撫でると、猫はもう眠ってしまっていた。
彼は元々、気まぐれなところがあるらしい。
ふとしたことで怒ったり、ころっと機嫌を直して次の瞬間にはTVのバラエティを観ながら笑い始めたりする。
付き合った当初は仕事もまともにしていたみたいだが、会うたびに仕事の恰好も違うので職を転々と変えているようだ。
「仕事・・・今度は続きそう?」
と、つい会った時に聞いてしまった。
「あぁ?」
彼は途端に不機嫌な顔を隠しもせずに、私を睨み付けた。
しまった。言っちゃいけなかった、と思ったときには、左頬に痛みが走っていた。
「・・・そういうこと言っちゃぁだめだよなぁ?俺超気分悪いんだけど」
「ご・・・ごめん、なさい・・・。もう、言わないから」
思えば、それがきっかけだったのだろう。
彼の言動もだんだんと乱暴になり、会うと必ず酒臭い息を吐き、少しでも彼の機嫌を損ねると平手で頬を打たれるようになった。
でも、叩かれた後には、
「ごめんな・・・。俺、お前がいないとダメなんだよ・・・見捨てないでくれよ」
と、必ず私をぎゅっと抱きしめる。
あぁ、ただこの人はかっとなりやすくて、誤解されやすく。私がいないとだめなんだと、大変な思い違いをするようになった。
今思えば、そこで私が間違えなければあの猫も痛い思いをしないで済んだのに。
「おれ、猫アレルギーなんだよね」
私の部屋に来て、開口一番にそう言い放つ彼。
「ごめん・・・。でも・・・この猫は私の、家族・・・だから・・・」
「・・・。ふぅん・・・」
よかった。怒らなかった・・・。
彼に気づかれないように、安堵の息をそっと吐いた。
「ま、いいわ・・・。ベッドには入れるなよ」
「・・・うん・・・」
いつもは、一緒に寝ているが・・・彼が怒ったら、この猫が叩かれてしまうかもしれない。
その不安から、彼の言いなりになって猫を寝室から締め出すことになってしまった。
明日は一緒に寝ようね、ごめんね。
と、思いを込めて猫の頭を撫でた。
ベッドの中で、彼は私に噛みついたり引っ掻いたりしながら乱暴に抱いていく。
いつだったか、そうすることで自分の物だって感じがする、と言いのけた彼の顔は、もう狂い始めていたのかもしれない。
これも私だけに対する甘えなのか、と耐えてしまった。
私だけに素をさらけ出してくれている、とでも思わなければ、私もやっていけなかった。
もう、身体は紫の痣や爪痕や噛み痕で傷だらけになっていた。
唯一、救いだったのは見えるところにはしないこと。
私も生活がある。仕事に行かなくてはいけない。
そう言ったら、渋々ながら了承してくれた。
ある日、あの猫がとうとうやってしまった。
彼にじゃれついたのか、左足のかかとに深い3本線。
じわじわと、赤い血が滲み始めている。
「このクソ猫が!」
あ、だめ。
咄嗟に猫を庇い腕の中に抱え込むと、わき腹にどかっ、と重い音と骨に痛みを感じて、呻いてしまった。
「そんなクソ猫捨てて来いよ」
「この猫だけは、だめ・・・」
「じゃあ、どっか閉じ込めておけよ。あぁ、痛ぇ」
彼は蹴ったことなど微塵も気にせずに、3本線を気にして自分の唾を指で塗り込めた。
それから彼が来る日は、あの初めて部屋に連れてきた時に使ったキャリーへ猫を入れるようになった。
「狭くてごめんね。でも、また蹴られたら痛いものね」
言い訳だ。本当は部屋を自由に歩き回りたいだろうに。
私が彼を捨てられないから。この猫を手放せないから。
でも、猫は素直にキャリーに入っていく。
一筋、私の頬に水が落ちていった。
「もう大人になったから、狭すぎるね」
猫の顎を撫でつつ、少し笑った。
部屋に初めて来たときは、キャリーのスペースもだいぶ余っていたのに。
もう、足も伸ばせない。
「おい、ビールねぇの?」
彼は部屋に来た途端、ソファに陣取りビールを何本も開けていった。
今日は更に苛立っているようだ。
「あ・・・ごめん・・・それが最後だわ・・・買って、くるね」
小さく返事を返すと、突然彼は手にしていた500mlのビールの空き缶を壁に向かって投げつけた。
かんっ、と中身がない、乾いた音を立てて缶は部屋の隅に転がっていった。
ばちんっ、と頬を叩かれた。
目の前がちかちかする。口に鉄分の味が広がったのを感じて、唇かどこか切ったのだろうとぼんやりとした頭で、他人事のように思った。
どこかで、かりかりと音がする。
あぁ、猫だ。心配してくれてるのかな。
あたし、なにしてるんだろう、と叩かれた頬を抑えながら我に返った気持ちで彼を見つめた。
なんで大事な家族のあの猫を蔑ろにしてまで、この人と一緒にいるんだろう。
そう、思ったらもう我慢はできなかった。
「いい加減にして!!・・・もう付き合いきれない。出て行って!」
猫の事を想ったら、あれだけ彼の暴力が怖かったのに、するりと言葉が口をついて出てきた。
「誰に向かってそんな口きいてんだ!殺すぞ!!」
彼は、私の頭を殴りつけ、衝撃で倒れこんだ身体を蹴り始めた。
あばら骨の内臓の補強も全くの無駄骨だとばかりに、容赦ない力が腹部に何度もぶつけられる。
朦朧としてきた意識の中で、がりがりっ、とさっきよりも強い音でなにかを引っ掻く音が聞こえる。
とうとう、彼は私の首に手をかけ始めた。
「ぐっ・・・ぅ・・・」
苦しい。息ができないのは、こんなに苦しかったんだ。
蹴られた痛みで、既に身体は言うことをきかずに指1本も動かせないでいる。
あぁ、これで死ぬのかな。
あ、でも、閉じ込めてしまったあの猫が、心配だ・・・。
あのキャリーから出られずに、餓死してしまう。
いけない・・・。でも、もう動けない。
生きることに諦めたその時、がりっ、と大きな音がしたな、と思って目をかすかに開けてみると。
猫がキャリーから飛び出て、彼の手首を思い切り噛みつけていた。
猫の前足は彼の手にかかって、爪を食いこませている。
あぁ、私のために怒ってくれている。
涙が後から後から溢れ出してくる。
怒ってくれて、ありがとう。ごめんね、そんな酷いことをさせる飼い主で。
「痛っ・・・痛ぇっ。このっ・・・クソ猫がぁ!」
ガツン、と何かがぶつかる音がした。
「あ・・・・あ、や、やめて・・・。その子は関係、ないじゃないの・・・・」
できる限りの非難を彼に向ける。
猫は口から血を吐いて舌を出したまま、ぴくりともしなくなった。
アーモンドの目はとろりとした眼差しで、遠くを見つめるように視線が定まっていない。
まさか、まさか。
「うるせぇよ!見ろよ、この腕!お前がそう躾けたんだろ!!」
彼がまた私の首を絞め始めた。
首を絞められることよりも。
あの猫が死んでしまうことの方が嫌だった。
だめ、だめよ。貴方は死んじゃだめよ。
まだ1年。たった1年しか生きていないんだよ。
これから、まだたくさん君とやりたいことがあるんだよ。
あぁ、こんなことになるなら・・・もっと、甘エビ食べさせてやれば、よかった、な・・・。
頸動脈を押さえられているせいで血流が止まり続けているのか、こめかみあたりに圧迫感が強まる一方で。
痛みは、意識と伴って少しずつ霞んでいく。
もう・・・死ぬのかな、私。
ふと、首にかけられた指に入る力が消えた。
「う・・・・うわぁぁあぁぁぁ!!!!」
自分が今までしていたことの重大さが、我に返った彼の精神を容赦なく痛めつけ。
後ずさりをし始めたかと思うと、一目散に玄関へと向かっていった。
バタン、と金属の重い扉が閉まる音がした。
走って逃げたのだろう。
「・・・・み、みぃ・・・・・」
酷く掠れて、なんとか聞こえる位の鳴き声がした。
目を開けなくちゃ。
ごめんね、ごめんね。
また、抱っこして頭、撫でてあげる。
待ってて、今。
今、動くから。
「ぅ・・・・う・・・・」
身体になけなしの力を込めて手を猫に向けると、こぽり、と口から鮮血が流れ出た。
内臓がやられたのかな。でも、もう痛くない。
猫の身体に触れると、ほのかに温かかった。
持ち上げられず、引きずるように猫を抱き寄せる。
「う・・・ごめ、ごめ、ん、ね・・・」
涙がぼろぼろと流れ、鼻筋を通り唇を辿る。
猫が片方の耳をかすかに動かした。
それから猫は動かなくなった。
温かい身体は、ゆっくりと冷めていく。
待って。まだ、待って。
私も行くから。
一緒にいよう。
もし、また会えるなら。
次も必ず君と家族になろう。
隣には穏やかな優しい人がいるといいな。
君のことも可愛がってくれる人。
そう、私が妬いちゃうくらいの、ね。
きっと楽しい毎日になるよ。
あぁ、眠くなってきたなぁ・・・。
生まれてから今まで、私は猫を飼ったことがなかった。
いや、猫に限らず動物を飼ったことがない。
なのに、ペットショップ巡りを趣味にしている。
決まってグレーの猫を見つけると、すぐ様駆け寄りじっと見つめる。
でも、何かが違う。この猫じゃない感じがする、と毎回何故か落胆して趣味の時間を終えるのだ。
こんな変な趣味を持っている私を、俺もずっと一緒に行けばいいじゃないか、と言ってプロポーズした奇特な人は、今は私の夫となり隣で並んで猫を眺めている。
「あっ・・・。この猫!」
一段と小さく、グレーの毛並みがふわふわと生えている猫を見つけ、私はガラスにかじりついた。
「この猫?」
「うん、この子。絶対家に来るべき子よ。仮予約だけでもしていかなくちゃ」
「この子ばかり構って、俺は蔑ろにしないでくれよ」
「飼う前からやきもち妬かないでよ。2人で可愛がればいいじゃないの」
夫に軽く呆れつつ、ガラスに視線を戻す。
「みぃ」
声も思った通り。
小さいけど、しっかり生きてることを主張するような、高く通った声。
私は満面の笑みを猫に向け、後ろを通る店員に気づく。
「あ、店員さんいた。
あの、すいません、この子なんですけど。
いつ、連れて帰れますか?」
今度こそ、一緒にずっといよう。
終
こんにちは、またははじめまして。
英 澪でございます。
次は明るい話云々はどこに飛んだのかしら、と言わないでいただけると助かります(笑)。
今回書いたご主人~は、猫にはわからなかった人間の事情を補足的に伝えてみました。
猫~を読んでいただいた方には、話が繋がってなるほど、と思ってもらえましたかね…。
私の非常に拙い執筆力でそう思っていただけたのなら、私的に大成功です。
ご意見、ご感想お待ちしております。
誤字・脱字、指摘部分がございましてもお待ちしております。
猫~でご感想をいただいて、大変感謝しております。
明日の執筆力の活力源です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。