下準備1
再びローゼリア視点です。
「こちらが承った衣服でございます」
「すまない。暫くお借りする」
食事を終えたレーヴェ達は、大通り沿いにある宿に来ていた。
ローゼリアの記憶が確かなら、街でも指折の有名宿だ。噂では、王侯貴族も滞在したことがあるらしい。
宿は、噂に違わず。木造ながら豪華な造りをしており、従業員もキチンとしたメイド服を着用している。一目見ただけで、質の高さが伺える。
「これに着替えてくれ」
「いいけど、何故?」
突如、服を渡して来て着替えろと云うレーヴェの意図が全く分からないので、問いかける。渡されたのは平服で、今着ているモノと遜色ないように見える。
「今から行くところは、ちょっと特殊でな。今の服だと色々と都合が悪い」
「殆ど変わらないように見える」
「見た目はな。でも質が違う、そいつは平服に見えるが高い糸と染料を使った一級品だ」
その答えに誘われて、手を動かし手触りを確かめるローゼリア。
確かに違う、まるでドレスを触っているかのような手触りだ。手に掛かる服の重量も軽く感じる。見た目は、平服そのものなのに不思議な感じだった。上着を崩して繕いを見ると丁寧に縫われているのが分かる。色も柔らかな水色で、品の良さを感じさせた。
高価な品であることは、間違いないようだ。しかし、デザインをここまで平服に似せる理由が分からない。
「貴族が御忍びで使用する服だ。無駄に素材がいいのは、そのせいだ」
「ひょっとして、それも?」
レーヴェの手に収まっている黒い服を見て問いかける。
「ああ、こっちも似たようなモノだ」
「お着替えは、二階の一等室でどうぞ。靴と鬘も後でお持ちいたします」
「着替えが終わったら、部屋で待機だ。貴重品は宿に預けるか携帯してくれ」
「ん、了解」
「ご案内いたします」
従業員の女性に誘導され二階に上がると落ち着いた装飾が施された部屋に通された。室内は水晶灯の光で明るく照らされており、まるで昼間のような明るさだった。正面にはテラスがあり、広場を一望できる。
(また、無駄使い……)
これほどの部屋となると一泊辺り銀貨1枚はする。食事代のこともそうだが、少々金遣いが荒すぎるように思う。これは自分の為にも、レーヴェの無駄遣いを防ぐ必要がある。
朝に自分が無駄遣いをさせた事を頭の隅に追いやり、レーヴェの財布の管理をすることを心に誓う。
「失礼いたします」
そう言って、ローゼリアの足元に屈み込む使用人。
「何を?」
「足の長を確認させて頂きます」
仕方ないので、されるがままになるとローゼリア。
視線の先では、従業員の女性が手早く足の長を確認していく。随分と手馴れているようで、三十秒も掛からず終了した。部屋といい使用人といい、やはりかなりの高額宿のようだ。
「お着替えの前に、湯浴みはなさいますか?」
「できるの?」
「ハイ、お連れ様より。湯浴みの準備をするように言付かっていましたので、直ぐにご利用できます」
(ムゥ……、やっぱり無駄使い)
使用人の言葉に、眉を潜めるローゼリアだったが、久し振りに湯浴みができるのは、乙女として嬉しいのでありがたく利用させて貰うことにした。
見せる相手がいなくとも乙女にとって日頃の肌の手入れは、最優先事項なのだ。
服に手を掛けると同時にノックの音が部屋に響く。視線を部屋の扉に向けるが、人の気配がしない。
「ヒルベルト?」
推測が正しいであろうことは確信しつつ声を掛ける。
「開けなくていい。要件をだけ話す」
「何?」
「色々と準備があるから暫く部屋で寛いでてくれ。湯浴みができるように頼んで置いたから、軽く汗でも流すといい。半刻(1時間)後に、ロビーに来てくれ。何をしててもいいが、外出は無しで頼む。」
「分かった。」
扉越しに聞こえてくる声に返答すると扉から声が聞こえなくなった。驚くほど静かな移動だ。移動した気配も感じることができなかった。
正直に言えばちょっと悔しい。
実戦経験は浅いが、世間一般から見えれば十分に腕の立つ部類に入る。にも関わらず、レーヴェは呼吸をするように常に自分を上を行っている。
少しくらいこちらが勝てるものがあってもいいだろうに……。
「お召し物はこちらにお願いいたします。湯浴みのお手伝いは必要でしょうか?」
「必要ない。一人でできる」
「分かりました。浴室はそちらの扉の先になります。何か御用の際は、そちらにある水晶に触れて下さい」
ローゼリアが、コクリと頷くと従業員の女性は部屋を出ていた。
どこまでも無駄がなく洗練された動きだった。王室に仕える侍女と較べても遜色がない。ひょっとしたら、どこかで侍女として働いていたのでは、ないだろうか。そう思えるほど見事な所作だった。
これから、はじめる宿もこんな感じなのだろうか?だとしたら相当大変そうである。
小さいころから貴族の嗜みとして礼儀作法を叩き込まれた為、ローゼリア自身は仕事を覚えるだけですむが、一般人はそうは行かない。仕事だけでなく礼儀作法も覚えなくてはならない。場合によっては、文字の読み書きもできる必要性があるから、三重苦だ。職業として得るものは大きいが、多くの努力が求められるので人を選ぶ職場となる。ハッキリ云えば、見切り発車で始められるようなモノではない。
そこまで考えたところで、自分の想像がいらぬ心配であることに気付いた。
そもそも酒場としての機能を持たせるのであれば、格式が高いのはプラスに働くどころかマイナスだ。質を上げるということは、それだけ敷居を高くすることに繋がる。つまり客層を裕福層に限定することになる。しかし、裕福な者は酒場なんてものを必要としていない。裕福な者なら、この部屋のような落ち着いた空間で酒を楽しむことを求める。
好んで酒場に行く者もいるが全体から見れば極小数だ。しかもそうした者は、雰囲気を楽しむために行くので、行儀の良い堅苦しい酒場などに興味を持つことなどない。
つまり、宿と酒場の両立を狙った場合、高級嗜好の店は商売として成立させることは難しいのだ。
もちろん期間と金を掛ければ不可能ではないが、礼儀作法より先に、戦闘訓練を義務付けるようなレーヴェにその気があると思えない。
(分からない……)
雇い主であるレーヴェに対するローゼリアの評価だ。
どんな国であれ騎士と言えば憧憬の象徴であり、その立場に立つだけで己の強さの証明となる。少なくとも自分からやめるような者は殆どいない。
それほどまでに、騎士というのは優遇されているのだ。贅沢をしなければ、一人で家族を十分に養える額の給金に加え、血縁者なら王立の学校に通わせより質のいい教育を受けさせることができる。
一般的な感覚を持つものなら絶対にやめたりしない。その時点で豊かな未来が保障されているも同然なのだ。ましてや畑違いの職に手を付ける馬鹿はいない。
やめるだけなら理解できる。軋轢や権力闘争に嫌気が指して自由を求める。元傭兵をやっていたのであれば、非常にわかりやすく納得の行く理由だ。放浪生活をするのも戦いを求める傭兵には珍しいことではない。
だが、そこから先がおかしい。実際に剣を振るったところを見た訳ではないが、相当に強いのは分かる。高額報酬を得られる宛があるのに、それを手放して経営者に鞍替えする理由が分からない。
レーヴェが、何を求めているのか?何を目指しているのか?それが見えてこない。
(まあ、なるようになる)
そこまで考えてローゼリアは、思考を打ち切った。
大事なのはレーヴェが何を目指しているのではなく。レーヴェのやることが、自分の目的にプラスに働くかどうかだ。プラスに働くのであれば協力するし、プラスにならないのであれば協力しないそれだけのことだ。自分に被害が及ばないようであれば、レーヴェが何をしようが関係ない。
そう纏めたところで、ローゼリアは衣服を脱ぎ浴室に歩みを進めた。
浴室に入ると湯気が立ち昇る浴槽が目に入った。浴室に膝を付け、軽く湯に手を付ける。湯気が多く見えたので、少し熱いと予想していたが、どうも杞憂に終わったらしい。
(丁度いい温かさ。それに綺麗な水……)
熱過ぎず入るのに適した絶妙な湯加減で、中に入れた湯も濁りが見えず浴槽の底がハッキリ見えるほど綺麗だった。家にいた頃でも、これほど綺麗な水を使った湯に浸かれた記憶がない。
綺麗な湯に浸かることができるのは、素直に嬉しい。
恐らく女性客の受けを狙って、質の良い魔石を使って浄化しているのだろうが、これを喜ばない女性はいない。この事実だけで、宿の評価が2つほど上がった。
体に染み込んだ汗を残らず洗い流すべく、桶に手を掛けるローゼリア。
その時、視線の端に白い粉が目に入った。塩かと思ったが、どうやら違うようだ。態々、浴室に用意してあることから入浴で使うモノだろうが、初めて目にする物体だった。
少しだけ摘まんで見ると、水滴と混ざりあいヌルヌルとした感触が生まれた。ヌルヌルとした感触驚いたが、不快な感触ではない。
「……もしかして、石鹸?」
予想が正しいとなれば、とんでもないないほどの高級品だ。確か、少し水に濡らして洗うだけで、驚くほど肌が白くなると言われている代物だ。手の平に乗せる程度の量だけで、銀貨数枚分の価値があると聞いたことがある。
『御用はなんでしょう?』
浴室の端に鎮座していた水晶球に触れると水晶から女性の言葉が発せられた。先ほど、応対した従業員の女性の声だった。
「浴室に用意してある白い粉は、石鹸?」
『その通りでございます。手の平に乗せ、少量の湯と混ぜてお使い下さい。湯の量は、混ぜて良く泡立つ程度が適量です。肌を擦る場合は、湿らせた布をお使いになられることをお勧めいたします。一度にすべて使われるのではなく数回に分けて肌を磨かれると効果的です。浴室に入る際は、泡を湯で流してから入るのが一般的となっています。』
なるほど。基本的には、普通に肌の手入れをするのと同じなのか。難しい決まりごとがないのは楽でいい。だが、使い方を聞きたい訳ではない。
「使い方は分かった。料金は?」
『既に、お連れ様より頂いております。気兼ねなくお使い下さい』
「……分かった。ありがとう」
『失礼いたします』
宿の料金が幾らになるのか聞きたくなったが、恐ろしい額が耳に入りそうだったので聞くのをやめた。家にいた頃ならともかく、スッカリ庶民の感覚が染みついた今の自分が耳にしたら叫び声を上げかねない。レーヴェに無駄遣いをするなと言ってやりたいが、恩恵を受けているのは自分なので小言は言わないようにしておく。
すでに料金が支払われているので、遠慮なく石鹸を使うことにする。
言われた通り湿らせた布に、粉を落とし少し擦ると白い泡が立つ。少し湯を誑し、更に擦り合わせると先ほどよりたくさんの泡が出てきた。それを数回繰り返すと泡が溢れる程出るようになったので、手の先から丁寧に布で擦って行く。
全身を擦り終え湯で流すと、泥が混ざったような色をした湯が、泡と共に床を流れて行くのが見て取れた。こんなにたくさんの汚れが、出るとは信じられなかったが、これが石鹸の効果なのだろう。
今度は、泡を使って髪を洗って見ることにした。手のひらに泡を取り、丁寧に髪へ馴染ませていく。髪の全てに泡を馴染ませると湯で少しずつ泡を洗い流した。
洗い流した湯の色は、先ほどよりも綺麗だったがやはりどこか不浄の色が混ざっていた。
それを見て、ローゼリアのプライドが刺激される。
(……これは、喧嘩を売られてる?)
生まれて初めて自らの体に敵意を持った瞬間だった。
放浪生活をしていても、綺麗好きと自称するローゼリア肌や髪の手入れを怠ったことは殆どない。昨日だって、時間を掛けて髪や肌の手入れをしたのだ。にも拘わらず、これほどの汚れが体から出るということは、自分の体に喧嘩を売られていることに他ならない。
「残らず洗い流す!」
素早く石鹸の残量を計算し、肌を磨く回数を計算する。髪に使うことも考えるとあと、二回が限界だ。とてもじゃないが足りない。追加料金を払って補充することも視野に入れつつ、可能な限り消費を抑え泡を大切に使う。
心なしか、布の滑りが先ほどよりも良いように感じられた。三週目になると更に滑りが良くなったように感じ、四周目には、疑いようもない程に肌の滑りが良くなった。滑りが良くなったおかげで、更にもう一回、体を磨くことができ、髪も四回ほど手入れすることができた。
髪の方も回数を重ねるごとに泡の通りが良くなり、最後の方では少し指を動かすだけで泡が量産されるようになった。
髪をすく指の感触が良くなったことで、ローゼリアは己の勝利を確信した。
達成感に満ち溢れた状態で、湯船にゆっくりと浸かると至福のような心地良さを感じることができた。少しだけ湯が|温くなってしまっていたが、勝利の後では些細な問題だった。
至福の時間を楽しむローゼリアは、気付いていなかった。
己の体との勝負に夢中になり過ぎて、とおの昔に約束の時間をまわっていることに……。
ローゼリアが、ロビーに姿を見せたのは、約束の時間を、半刻以上回ってからだった。
石鹸の起源は、紀元前三千年だそうです。結構、昔からあるみたいですね。日本に入って来たのは、明治時代。医薬品として伝わったようです。体を洗うものとして一般に浸透したのは、近年のことのようです。