第20話 後輩と婦警と少年
「っむぎゃー………。結構長引いたなあ……早く帰らねえと………」
猫背になって歩きながら、穂坂迅人は呻くように呟く。
考えてみればあの会議には話し合いの時間よりもずっと黙ってた時間が多かった気がする。じゃあ時間の無駄じゃねーかと思ったりするわけなのだが、過ぎたことはもうどうしようもない。
それよりも彼にとっては考えなければならない事があった。
「何買って帰ろうか、夕飯…………」
様子がおかしい家主の機嫌を取るには、彼女の大好物を買って帰るしかない。ちなみに彼女の好物は海鮮丼だ。
「おい」
「やっぱ海鮮丼かなあ………でもこの間も買ったばかりじゃなかったけか?」
「おーい」
「いやでも海鮮丼もいろいろ種類あるし………」
「………おい」
「スーパー行ってから考えるかな………」
「聞いてるのか? 絶対聞いてるのに無視してるよなおい」
「あー聞こえない聞こえなーい」
「バッチリ聞いてるな!? 聞いてるのにわざと言ってんだな?!」
ちくしょーっ! と心底悔しそうに地団太を踏む学ランの少年を見て、迅人は深いため息を吐いた。
「本当に………いつも通りだな、竹谷」
「いつも通りで悪かったな。なんか文句あんのかよ」
竹谷海翔。東ヶ原中学の在校生、つまりは迅人の後輩だ。
背が低く小柄で痩せ型。少しツリ目気味な大きい目は、じっとりとした視線を投げかけている。
「お前今学年は………ああ、中2か」
「中3だよちくしょお! 留年なんかしてねえよ馬鹿!」
正直な話、迅人は竹谷の学年を見た目で判断していた。
背が低いうえ格好いいよりは可愛らしいと言われる顔。学ランを着ていなければ女子と間違われる、と何度も何度も言って聞かされたことがある。
「絶対160cmいってないよな」
「いったよ! 身体検査受けたら160いってたよ!」
「四捨五入してか?」
「してねーよ! ……してねーよ」
何で二回言った、とは優しさで言わないでおく。
迅人は分かりやす過ぎるまでに迷惑そうな溜め息を吐いて、学ランチビ少年に問いかける。
「それで? 何の用だよ」
「いや、久しぶりに見かけたから声掛けただけ」
「ああそう………」
心底疲れ気味に返す迅人に違和感を覚えたのか、竹谷はあからさまな話題の変換を試みる。
「なあ、最近ウチの奴らが騒がしいんだよ。なんか知らないか?」
「……ああ、寧ろ知りすぎて困っていたところだ」
虚ろな目でとんでもないことを言ってくる迅人に一瞬びっくりしたような顔をする竹谷。だが、納得したとでも言いたげな表情を作るとさらに東ヶ原中学校事情を暴露してくる。
「最近は高校生とかともつるんでるというか下に付いた奴もいて、よく暴れてるらしい。だから歩いてるだけで職質の嵐みたいな感じなんだよ」
「うわ、何それ……って違う! お前の職質はあれだ、小学生みたいなのに不良校の制服を着てるからだ!」
「小学生言うなぁあ! つーかさっきは中二だっただろうが! 俺はれっきとした中三ですぅ!」
ぎゃーっ! と騒ぎたい放題な二人。お前らここが横断歩道ってわかってんのかと言いたい人はいるかもしれない。
と、そこで突然竹谷が電柱の陰に隠れた。早技というか条件反射というか、まあそんな感じで何の前触れもなく急に隠れたのだ。
後輩の奇行に首を傾げる迅人。
「? どした?」
「警官」
端的な発言と先程の話題で、なんとなく事態を察する迅人。
自分も電柱の陰に隠れて、彼にこそこそと耳打ちする。
「(何かやったのか?)」
「(いや、俺は何もしてないけど。他の奴らがどうしてもなあ………)」
「(ふーん………)」
「(だから見つからないうちに帰るわ。それじゃ)」
「(おー、また今度な)」
音もなく退散する後輩の背を見送って電柱の影から出てくる迅人。さあ時間喰ったけど早く帰ろう、なんて考えていたら、いきなり背中を叩かれた。
「やはー。久しぶりに見る背中と思えば迅人君じゃんのー。元気にしてたー?」
「ありゃ、琴音さん?」
三城院琴音。三城院響の妹で警察に勤めている、年齢不詳の名物婦警さんだ。
『生きる手錠』と呼ばれて親しまれて(一部の人たちにとっては恐れられて)いる。
驚くべき俊足の持ち主で、50m6秒台とか噂されてるが、あながち嘘でもないと迅人は思っている。
「思いっきり勤務中みたいですけど、大丈夫なんですか?」
「へーきへーき。おねーさんの仕事は治安維持ですからねー。怪しいことしてる人に質問するのが仕事でもあるんだよ」
「遠回しにひどいこと言ってきますね」
にぱー、と子供のような笑みを浮かべる婦警さんに苦笑いするしかなくなる迅人。
「それじゃあね、おねーさんがいいこと教えてあげるよ。………最近は君のお友達も活躍してるみたいだから、何かしらお礼を言っといた方がいいと思う」
「……………」
「それじゃ、おねーさんはもう行くね。帰り気をつけるんだよー」
とたとたと走り去っていく小さな背中を愕然としながら見送る。
三城院姉妹は何をどこまで知っているのか。どうしても気になってしまう迅人だった。
「っていけね! 早く帰らねーとっ…………!」
と、そこで。異常なまでの殺気を背後に感じた。
間違いない。あの人だ。この凄まじい殺気を放つ人はあの人しかいない。
彼は振り向く。自分の犯したミスを分かっているからこそ、ゆっくりと振り向く。
「はーやーとぉぉぉぉぉぉ…………………」
そこには、空腹に耐えられなくなった天国の門番がいた。
口元にうっすらと笑みを浮かべながら、立っていた。
「い、いや三城院さんちょっと待ってくれこれにはいろいろな事情があって「なあ、迅人」」
見苦しい言い訳を遮り、彼女はただ彼の名を呼んだ。それだけで少年の背が二回りほど小さくなる。
「なあ、迅人。私だって鬼ではない。お前が大変そうだから今夜は待とうと思ったんだ。だからずっと待っていたんだよ。でも、もう限界だ。お前は私に隠し事をするし、帰ってくるのは遅いし私はおなかが減ったんだ。さ、早く帰るぞ。もう一度きっちり時間を守る事の大切さを教えてやる」
戦慄する少年の首根っこを引っ掴みずるずると引きずっていく彼女は、天国の門番というよりも地獄の閻魔大王に見えた。